第3068日目 〈渡部昇一『日本の歴史 第1巻 古代篇』を読みました。〉【改稿】 [日々の思い・独り言]

 渡部昇一が著した数ある日本史のうち、古代史を扱った単著は存外に少ない。本書の他は以前ここで取りあげた『日本史から見た日本人 古代編』(祥伝社 1989/05)と、『日本史の神髄 「古代・貴族社会篇」 頼山陽の『日本楽府』を読む』(PHP 1990/05)を数える程度だ。
 渡部古代史を読んでいて面白く思い、また益するところあるのは、戦前と戦後の教育や史観の際の実感である。それは殊に神話の扱い方、初期の天皇の事績への触れ方に顕著だ。
 戦前の日本では国生み神話を筆頭に天孫降臨や日本武尊の挿話を学校で習い、神武天皇は当然実在の人物としてその勇猛と和歌の数々を習って、記紀に記される神話を自分たちのルーツとして学んでいた。皇国史観に基づいたイデオロギー教育と斬って棄てることはできない。『古事記』と『日本書紀』に描かれた歴史を現実の出来事として考えないと、歴史を把握するのは難しく、また現代までつづく数々の事象を説明・解釈もできなくなってしまうからだ。
 が、戦後は一転、皇国史観による日本史教育・研究は一掃された。神話や初期の天皇の事績はなかったことにされ、東京裁判が誘導した自虐史観がそれにとって代わり、レフトな日本史教育・研究が幅を効かせてゆくようになる。それと歩を一にするが如く台頭してきたのが、信憑性の置きどころがないシナの史書へ全面依拠した<邪馬台国論争>である。
 正直なところ、わたくしはこの論争にまったく関心がない。北九州にあろうと近畿にあろうとどちらでも構わず、卑弥呼がどれだけの権限や職能を持った人物なのか、わかったところで長い研究史にひとまずのピリオドが打たれるだけだ。これまでわたくし自身が把握してきた歴史の捉え方、歴史の見え方に何程の影響をもたらすというのか。歴史認識に修正を迫られるなぞ、まず以てあるまい。鎌倉幕府の成立年次が、習ったよりも7年早まっている方がよっぽど重要ですよ。
 この<邪馬台国論争>に触れながら戦前・戦後の歴史観の差を、渡部氏は斯く述べる、──
 「(東洋史学者の岡田英弘から聞いた話では)シナの史書には日本を始め周辺の蛮族の国の実情を記す意図などまるでない。シナの皇帝と周辺の国がどんな関係にあったかを書くことが重要なのである」(P103)としたうえで続けて曰く、──
 「(従って晋の正史『三国志』の一部の通称である)『魏志倭人伝』をいくらいじくりまわしたところで、日本の古代がわかるわけがない。ただ、北九州あたりが魏と交渉があったことがわかり、女王が鬼道に使え、夫はなく、弟が国の統治を助けたなどという記述から、古代シャーマニズムを考える参考にあるぐらいであろう。『魏志倭人伝』を逐語的に読み、文字通りに信ずるぐらいなら、『日本書紀』をまるごと信じてもおかしくはない。このあたりが戦前の歴史観と戦後のそれとの大きな違いである」(P105)
──と。
 日本と西洋の比較、その視点の斬新さが渡部史書の特徴だが、それは本書でも健在。とりわけ「成る程」と頷かされてしまうのが、天皇の特殊性である。若き時に留学したドイツで著者は、「そういえば君の国には戦争前に<天皇>という人がいたが、いまはどうなっているんだい?」と訊かれたそうだ。戦前戦中そうして戦後と替わること無く位に就いておられますよ、と答えると居合わせた人々は絶句したそうだが、それに続けて曰く、──
 「トロイ戦争のときのギリシア軍の総大将であったミケーネ王、アガメムノンは、人間の世の時代の王ですが、アガメムノンの系図をたどると、その祖父の祖父あたりがゼウスの神になります。もしもゼウスの血を引くアガメムノン直系の王家が現代もギリシアに続いているとすれば、それは神武天皇の直系である日本の天皇家と同じことになります」(P15)と。
 このたとえはけだし卓見である。また逆をいえば、それだけ天皇という存在、神話に根ざしていちども皇統の途切れなかった<万世一系>を全世界規模で見れば唯一の、同時に信じがたい稀有なる存在といえるわけだ。しかもそれは文献や遺跡・遺物によって傍証できるのだから、もはや何をか況んや、だろう。
 ──『日本史から見た日本人 古代編』が昭和48(1973)年11月に産業能率大学出版部から刊行されて『日本の歴史 第1巻 古代篇』が平成23(2011)年2月にワックから出版されるまで、実に38年の隔たりがある。『古代編』でも取り扱われた事柄が本書でも頻出するのは、致し方のないところだ。
 が、これは否定的意味合いでいうのではない。著者の歴史観がそのむかしより考え抜かれて揺るぎなきそれとして確立し、その根本に修正を迫られる学説や見解に出会うことがなかった、ということなのだから。
 わたくしはそこに、歴史を見る目・捉える心・それについての考え方といった一々に著者の揺るぎなき史観というものを感じるのだ。『日本史から見た日本人 古代編』は成立事情もあって(ぶっちゃけていえば)読んでいて「くどい」と思うことしばしばだったけれど、本書では内容も文章もすっきりまとめられていて──著者のいいたいこと、伝えたいことが蒸留されて記されている。ゆえに読みやすく、わかりやすく、自分のなかにスッと入ってくる。
 なお、本「古代篇」に限った話ではなくシリーズを通していえることだが、一部に於いて内容ではなく文章全体が『日本史から見た日本人』から移植された部分が散見される。丸々移植されている箇所もあれば、いちぶ文章表現を換えて斯く為された箇所もある。非難ではなく指摘であることを申し述べて、擱筆しよう。◆

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