第3193日目 〈箱根関を越えた男、借金の取り立てに遭う。〉【改訂版】 [近世怪談翻訳帖]

 今日はちょっと趣向を変えて、むかしばなしをします。むかしばなしというても勿論、わたくしのではない。ずっと前の時代、江戸時代初めの頃に出版された『善悪報ばなし』という本から、「箱根にて死したる者に逢ふこと」という1話を、いまの言葉に訳してみました。

 寛永年間から元禄年間、3代家光・4代家綱・5代吉宗の御代。1人の男が若狭から武蔵国へ向かっていた。いまかれは(旧)東海道を、箱根関をぶじに越え、一の難所と言われる樫木坂へさしかかっている。
 道のかたわらが燃えていた。畳4畳か5畳ぐらいの広さで、燃え盛っている。なにごとか、と足を止めると、炎のなかに黒い影が1つ、うごめいていた。
 うわっ、マジか〜、と男は思った。なにやら嫌な予感がする。この世のものならざることは一目瞭然、そうしたものとかかわり持つ者にろくな最期はない。為、かかわるのは止めておこう、とも考えたのである。若狭の男は黒い影については観なかったことにして、その場を立ち去った。
 すこし行くと、後ろから名前を呼ばれた。振り返っても人の姿はない。あるのは黒い影のみである。しつこいな、と男は思った。はやく山を降りて、小田原の旅籠に休もう、とも思った。
 歩き出した男を、ふたたび黒い影が呼び止めた。
 溜め息ひとつ、男はして、黒い影に問うた。あんた、誰? なんの用?
 ──おれ、急いでるんだけど。そんな含みを持たせていったのだが、さて、目の前の魑魅魍魎の仲間らしき輩に通じているかどうか──
 すると、黒い影がいった。むかしお前とかかわりあった者で、名前を越前の次郎作という。(若狭の男はわずかに眉をしかめた) 自己紹介に続けて次郎作とやらの曰く、知っているだろうが俺は3年前に死んだ。しかし心残りが1つ、この世にあってこうして出てきた。お前に貸した銭100文(現在のレートで、2,500円前後?)のことだ。ここで会えたのはラッキーである。さ、いまここで100文、返してくれ。
 ──なにがラッキーだ。こっちにゃアン・ラッキーだよ。若狭の男はそう独り言ちた。最後の関所を越えたとはいえ、まだまだ旅は長い。渡してもいいが、この先必要なときに必要な額が工面できないってことにもなりかねない。そいつはちょっと困る。いまここで返せ? ごめん、ムリ。
 若狭の男は瞬時にそれだけを考えて結論を下すと、黒い影の督促には耳も貸さず、その場を歩み去った。
 が、ふしぎなことに一町(約109メートル)ばかし行ったところで、一歩も歩けなくなってしまった。疲れたのではない。その場に突っ立って、前にも後ろにも動けなくなってしまったのである。どれだけ力んでみても、履いていた草わらじの裏は地面にぴったり貼りついて、離れてくれそうにない。
 いったいどうしたことか、と小首を傾げているところへやって来たのが、例の黒い影である。またお前かよ、と若狭の男は思ったが、いまはそいつに構っている暇がない。どうしたら、また歩けるようになるのか、それが問題だ……。
 試行錯誤している男へ、あのさ、と黒い影が話しかける。
 あのさ、無視ってどうかと思うぞ? 無視は褒められたことじゃないが、借金の踏み倒しはもっと褒められたことじゃあない。幾らこっちが死んだ身とはいえな。100文返さないなら、この場で取り殺すけど、それでもいいか?
 越前の、3年前に死んだという男はそういって、若狭の男の前に立ち塞がり、借金精算か取り殺されるかの二者択一を迫った。
 咨、どちらに転んでもロクなことではない。そう若狭の男は内心、溜め息を吐いた。まだ旅は長い。道中のみならず、向こうへ着いたあとも、どれだけのお金が必要になるか、てんでわからない。とはいえ、100文のために命を失うのもなぁ。返さなかったら、命はない、と黒い影はいった……。
 はあ、と若狭の男は何度目かの溜め息を吐いた。所詮は命あっての物ダネってか。
 ふと前を見ると、黒い影と目が合った(ような気がした)。気のせいか、いまの独り言を聞いて、そうそう、と頷いているようだった。男は早道(財布)をさぐり、100文を摑むと次郎作と名乗った黒い影に手渡した。触れたとき、温かいとも冷たいとも感じなかった。
 黒い影はしばらく勘定して額面通りあるのを確かめると、道中気をつけてな、というや、すうっ、と消えてしまった。と、途端に若狭の男の足は軽くなり、ちゃんと歩けるようになったのである。
 んんん、倩思うにだな。この世でお金や物を借りても返すアテがないとかそのつもりがないとかの場合、「すまんね、来世で返すからサ」とでもいっておくのもアリなのかしらん。要するに、この世に於いてその貸し借りは帳消し、チャラになるってこと? なんだかなぁ、だよね。
 妖しのモノに借金返済を迫られるこの話は、つまりこの手合いのそれでもあるのだ。このハナシは、一片の偽りもなし、と、天地神妙に誓って語られた──。(おわり)

 『善悪報ばなし』は元禄年間に成立、板行。編著者は不明です。「箱根にて死したる者に逢ふこと」は巻4の7に載り、今回の翻訳の底本には『江戸怪談集 上』(高田衛・校注 岩波文庫 1989/01)を用いました。文庫の底本には『近世怪異小説』(吉田幸一・編 古典文庫 1955/09)が用いられている由。
 借金の取り立てに来る幽霊、受け取ったらパッと、潔く消えてくれる。なんだか元禄以後の草双紙にさもありそうなお話であります。西鶴らの小説に出て来る幽霊は大概腰砕けだけれど、ここに見た幽霊らしきものも人間臭くて、キップも良くて、なんだかとっても好ましい存在に映ります。
 現在では旧東海道も整備されたりしており、旅行会社では旧東海道を歩く、なんていうツアーが大盛況の様子でありますが、この話の舞台になった樫木坂は今日でも歩いてみるとなかなかの難所で、むかしの人はよくこんな所を往来したたなぁ、と、他に路がないとはいえほとほと感心したくなる程にキツイ場所でありました。これからこのあたりを歩いてみようと思われている方々、どうか履き慣れたスニーカーと汚れても構わないズボンを用意して、歩いてください。傷や怪我の手当てもできるよう準備されていた方がよろしいか、と存じます。
 燃え盛る炎のなかから黒い影が現れて、目的の人に呼び掛ける場面では、旧約聖書「出エジプト記」に載るモーセ召命の場面を思い出してしまいました。かたや借金返済の要求、かたやイスラエルの民を連れてエジプトを脱出し、<乳と蜜の流れる地>カナンへ連れ出せ(出3)。まるでスケールも目的も違いますが、なんだかこの落差が面白いな、と。
 ──わたくしは以前から、近世期の怪談を自分で訳して、本ブログにお披露目したいと思い思いしてきました(いつだったか、ここでそんな希望があることを書いたことがあります)。これからもときどき、こうして江戸時代の怪談(こわい話、ぶきみな話、ふしぎな話、へんな話、など)を、物の本をつれづれに漁ってお届けしてゆきますので、その節はどうぞよろしく……。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。