第2501日目 〈『ザ・ライジング』第4章 21/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 初めてあなたに紹介されたとき……確かあれって健康診断かなにかの書類持って職員室に行ったときだったと思うけど、すぐに私はぴんと来たわ。ああ、私を救ってくれるのはこの人だ、って。底無し沼のように感じるただれて乱れた生活から、この人だったら救い出してくれる、って、そう確信したわけよ。――正直にいうとね、一目惚れだった。この年で一目惚れなんて十代の女の子みたいな事故に出喰わすなんて、思いもよらなかった。信じられなかったね、自分にまだそんなピュアな感情が残ってた、ってことに。まあ、ちょっぴり感動もしたけれど。
 あの日から私の心にはあなたが住むようになった。さすがに寝ても覚めても、というわけじゃなかったけど、あなたを見るといつも心がときめいた。朝に会ったりすると、もうその日一日がバラ色だったわよ。話す機会はほとんどなかったけど、いまでもあなたと交わした会話は覚えている。
 あなたに抱かれているところを想像して、家だろうが保健室だろうが自慰に耽ったことも、いまはいい思い出。どうあがいてもあなたとは結ばれないのかな、と考えたりすると落ち着かなくなって、上野を呼び出して気晴らしをしたことだって何度もある。その最中でもあなたの顔は私から離れてゆかなかった。いま目の前にいるのが上野じゃなく、あなた、白井さんだったらどんなにいいだろう、といつも考えてた。
 深町さんと付き合い始めた、と知ったのも、やっぱりあの噂好きな連中からだった。「ねえ、先生、知ってたあ!? 例の実習生だった白井先生、うちのクラスの深町さんと付き合い始めたんだって。マジ意外だよねえ」ですと。あれは、深町さんのご両親が亡くなる前だったかな。それはあなたの方が詳しいはずだけど。それはともかく、嫉妬したね。当然だわ。この夜の女王のアリアってそのときの、ううん、いまでも抱いている私のジェラシーを、よく代弁してくれていると思う。
 高二の小娘に愛しい男を盗まれたわけだからさ、私の嫉妬と憎悪がどれだけ深いか、あなたにはわかるのかな。あんななんの色気もなくて、男好みの体をしているわけでもない青臭い小娘が、あなたの愛を独占してのほほんと生きているのを見るのが、とてつもなく腹立たしかった。口惜しくて口惜しくて歯ぎしりしたり、地団駄踏んだり、なんて、そんな程度じゃなかったんだからね。
 はっきりいおうか、この際だから。二人まとめて殺してやろうか、って今回の計画の発端を思いついたのも、そんなときだったのよ。学園祭の時分じゃなかったかしら。初めのうちは殺すなんてことはいくらなんでも出来ないから、せいぜい深町さんを痛めつけようかな、って考えていた程度。でもね、昨日、深町さんと横浜に行ったでしょ。あんた、駅で彼女を優しく抱いてあげたわよね? それを見た瞬間よ、深町さんじゃなく、あんたを地獄に送ってやろうと決めたのは。あなたが自分のせいで殺されたと思い知らせるのが、あのガキにはいちばんの痛手になるでしょうし、一生かかっても癒せない傷をあの子は抱えて生きることになるんだわ。ふん、いい気味だわよ。
 私? ええ、ブタ箱にぶちこまれるのは覚悟の上よ。好きなオペラを聴けなくなるのと男漁りができなくなるのが残念だけど、まあ、刑務所にいたって何年かすれば出てこられるからね。別になんとも思っていないよ。そうそう、男はムショの中にもたくさんいるしね。それはともかくとして。
 さて、あんまり待たせちゃ可哀想ね。そろそろ行ってあげようか。
 池本はモーツァルトを流したまま、車から降りた。片手には、さっき工具箱から出したレンチを持って。それをコートのポケットに忍ばせて。□

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第2500日目 〈『ザ・ライジング』第4章 20/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスの車内アナウンスが、次は早川口、と告げた。無意識に降車スイッチへ手が伸びたが、一足早く誰かがボタンを押した。車内に甲高いブザー音が響く。ちょっとだけ口惜しい。彼は役に立たなかった腕を降ろした。やがてバスは、諸白小路の交差点を過ぎた。バスのスピードが徐々に落ちてゆき、ややあって停留所へ静かに停まった。
 降車扉が開いて、白井が最初に降りた。若いOL風の女性が二人と、革ジャンを着た初老の男性が続いて降りた。四人がそれぞれの方向へ散ってゆく。きっと、もう二度と会うことはないし、関わり合うことだってあり得ない四人が。そう考えると、人と人の出会いや結びつきというのはふしぎだな、人智で推し量れないなにかがそこには働いているのかもしれない、と白井はふと考えた。希美ちゃんと僕の出逢いだって、きっとこれはただの偶然じゃないのだろう、とも。
 バスは車の流れが途切れたところへ割りこむようにして発車していった。

 途中の自動販売機で缶コーヒーを買って道を折れ、住宅街に入った。ここから三分も歩けばアパートだった。帰ったら……希美ちゃんに電話しようかな、今日は部活がある、っていってたけど、夕方には終わるともいっていた。もう帰ってるだろう……まさか食事を作りに来てくれてる、なんてことは……ないよな。うん。まだ十七歳の女の子にそんな出費をさせちゃいけないよな。簡単に夕飯を摂ってからでもいいや。明日のこともあるし、とにかく電話しなきゃ。
 心の底から湧きあがってきた幸福感に、白井は我知らず軽やかな足取りで歩いてゆく。見覚えのあるアウディが天神社の前に――ちょうど昨夜と同じ場所に停められているのを発見したのは、その矢先だった。

 夜の女王のアリアが車内に鳴り響いていた。地獄の復讐が私の心臓の中で煮えたぎっている、死と絶望とが私をめぐって燃え立つ! ……池本玲子はアウディから五メートルばかり離れたところで、執した男が棒を飲んだように呆然と突っ立っているのを見て、思わず口許をほころばせた。
 考えていることが手に取るようにわかる、っていうのは傍から見ているととても面白いものよね。あなたが深町さんに惚れていたのは、くすっ、生徒ならみんな知ってたわよ。保健室の常連達がいつでもあなたの情報は提供してくれたわ。こっちが頼んだわけでもないのに、噂ばかりよくぺらぺら喋っていって、私は首尾よくあなたに関する情報をふんだんに手に入れることができた。深町さんのことだってそう。彼女と同じクラスの噂好きの連中がね、こんな話をしていってくれたのよ。「ねえねえ、先生、知ってる? 実習生の白井先生ね、私達と同じクラスの深町さんにホの字なんだよ。古典の授業の時なんかもう意識しちゃってるの、バレバレでさあ。みんな教科書で口隠して笑いをこらえるのに必死なんだよねえ。それに深町さんも顔真っ赤にしながら反応しててさ、なんだか猿芝居見てる、って感じ」とね。□

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第2499日目 〈『ザ・ライジング』第4章 19/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野を送り出すと池本はすぐに身支度を整え、教職員用の駐車場がある地下まで一気に階段を駆けおりた。車は片手で数える程度の数しか停まっていない。彼女のアウディは出入り口から十メートルぐらい離れたところの、柱の影に駐車してあった。この学校に赴任してからずっと、そこが池本の駐車場所として割り当てられている。勢いこんでシートに腰を落とすと息つく間もなくエンジンをスタートさせ、タイヤの摩擦する音を響かせて、駐車場を出て行った。
 学園から一キロほど北上したところに、東名高速道路の沼津インターがある。いま、池本は通行券を受け取って、高速に入ったところだった。時間と時期のせいか、東京方面へ向かう車は少ない。トラックがところどころで列をなし、観光バスがまばらに点在し、その間を普通車が間隔を開けて走っていた。
 車を購入する際に、それまで付いていた標準装備のものをはずして、新しく付けたセパレート式のカーオーディオに指を伸ばす。前後のボードに埋めこまれたスピーカーから、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』序曲が流れてきた。ほの暗く陰鬱な旋律だった。陵辱と殺人の宴にはなんとふさわしいことであったか。池本の口許に笑みが広がった。あの恋人達の短い春の終わりにはぴったりの曲じゃないか、そう池本は口の中で呟いた。
 あと一時間もあれば、彼のアパートに着けるだろう。時計を見ると、針は五時を指していた。大丈夫だ。探偵社を使って調べさせたこの一ヶ月のスケジュールは、深町希美と会う日、及び大学へ行く日を別にすれば、ほぼ同じような毎日だった。藤沢の学習塾のバイトが終わるのが、確か五時。塾を出るのが五時半過ぎ。それから一時間半ぐらいで彼は帰ってくる。駅前で買い物をする日もあったが、今日、月曜日は特売があるわけでもないらしく、どこへも寄らずに帰ることが多かった。いずれにせよ、自分の方が早く到着するのは間違いない。早めについて、最後の心の準備をしておくのはいいことだ。
 〈大井松田IC 30Km〉左手に見える緑色した表示板に白抜き文字で書かれているのに目をやった池本は、再び微笑した。大井松田で降りたら国道二五五号線に入ってひたすら南下、小田原城からさして離れていないところでぶつかった国道一号線を、今度は静岡方面へたどってゆけば、一キロ走るか走らないかというぐらいで白井の住むアパートだった。
 もうすぐよ、白井さん。池本は口の中で呟いた。もうすぐ私達のショータイムの始まりよ。

 白井は小田原駅の改札をくぐってから、駅前のデパート地下で夕飯の買い物をしてゆくか少し悩んだが、一昨日近所のスーパーであれやこれや買いこんだ食料品のあるのを思い出し、そのままバスロータリーへと歩を進めた。ちょうど自分が乗るバスが、乗車場所に停まっていた。バスの中は、帰宅する人々でだいぶ混んでいた。白井は一渡り車内を眺め渡してみたが、坐れそうもないので、降車口に近いところで吊革に摑まった。彼が乗りこんで一分ばかりして、バスは扉を閉めて鈍いエンジン音を立てながら、ロータリーをあとにした。
 結局のところ、昨夜はあまりものうれしさと興奮に寝つけず、本を読んでいても目は冴えてゆく一方で、手淫に耽ってもますます希美の笑顔はより鮮明となり、冷蔵庫から泡盛を持ち出して三杯、四杯と盃――コップだったが――を重ね、空が白みだした午前五時過ぎになってようやく眠りに落ちていった。
 バスに揺られて窓の外をゆっくりと後ろへ流れてゆく風景を眺めながら、ぼんやりと白井は希美のことを考えていた。見るもの聞くもののほとんどすべてが、なぜか希美を想起させる。自分と希美が共に歩いて買い物をしたり、なにを話すでもなく並んで歩く光景が、街角のあちらこちらで見られた。それはいつの間にか、二人が子供を中にして買い物をする姿に取って変わった。絵に描いたような平凡な家族だが、それは世界の誰よりも幸福な家族の姿でもあった。
 いつの日か、と白井は考えた。いつの日か、希美ちゃんと結婚したら、旬日経ぬうちにあんな家庭を築くことになるんだろうな、と。彼はいろいろ想像をめぐらせてみた。婚約したことではるかに現実的となった自分達の将来。学校での授業が終わって家に帰れば、希美が、お帰りなさい、と出迎えて手料理でその日一日の疲れを癒してくれる。休日の昼間は海辺を散歩し、砂浜に坐りこんで沈む夕陽を眺めたり、時には箱根や伊豆まで足を伸ばして、食事したり温泉に入ったり。夜には……まあ、愛の交歓と子作りに励む。ううむ、と白井は唸った(隣に立っていた買い物帰りの主婦に訝しげな目を向けられたが、彼はつとめてそれを無視した)。希美ちゃん、僕と同じ年齢になるころには、いったい何人の子供の母親になっているんだろうな。はあ……養っていけるのかな、とすこぶる疑問も湧いてきた。仕事、がんばるしかないな、という結論しか彼には出せなかった。□

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第2498日目 〈『ザ・ライジング』第4章 18/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 彼は既に限界に達してきたのを知った。痙攣と収縮を繰り返す希美の膣が、上野の怒張を絶頂へ導いてゆく。そしてそれは時を経ずしてやってきた。上野は思いきり腰を打ちつけて、自分のものを吐き出した。
 肩で息をしながら、希美を見た。顔を背けて目蓋を固く閉じていた。罪悪感や達成された征服欲、最後の一線だけは譲らず守ってきた尊厳を失った哀しみ。エトセトラ、エトセトラ。混乱した感情が上野に襲いかかってきた。
 希美の目から涙が一筋、頬を伝って流れ落ちてゆく。それを見た上野は小さな声で一言、「ごめん」と呟いて、希美から離れてふらつく足で立ちあがった。すっかり怒張は萎えていた。
 彼は焦点の定まらない目で、赤塚を見て、こちらへ来るよう手招いた。
 「あの人が、終わったら俺達二人で飲むように、って置いていってくれた酒があるんだ。一緒にどうだ」
 ヴィデオ・カメラの停止ボタンを押し、目から話した赤塚が、床で身動き一つしない希美を蔑んだ目で見おろし、ついで上野を見て頷いた。「そういうことなら、喜んで」
 「準備室にあるよ。さすがにここで飲むのはやばいからな」
 そういうと上野は踵を返し、音楽準備室に歩いていった。赤塚がそれに続いた、希美には目を向けることもなく。
 ――上野は扉を閉めると、後ろから赤塚の髪を摑んだ。こちらへ向かせて力の限り、大きく振り回した。机に載っていた楽譜や雑誌がこぼれ落ち、譜面台が倒れた。鈍い音が幾つも部屋に響いた。部屋の空気がほんのわずかであったけれども、ゆらいだような気がした。赤塚が必死の形相で抵抗する。上野は自分をひっかこうとする彼女の手をなぎ払い、首に手をかけた。
 あばよ、馬鹿者、と上野はいった。
 赤塚の顔が恐怖にゆがんだのが視界の端で認められたが、そちらをちゃんと見るつもりはなかった。彼は首に掛けた手に力をこめ、彼女の首を勢いに任せてねじった。ぼきん、という音が、はっきりと彼の耳に届いた。その途端、赤塚理恵は糸の切れた操り人形の如く床に崩れ落ちた。
 部屋に静寂が戻ってきた。空気が歌っている。ここであったことを清めるような歌に聞こえた。
 床に転がるヴィデオ・カメラを拾いあげ、少し迷ったあとで鞄の中にしまった。彼は服を着て自分の荷物をまとめると、赤塚の遺体を担いで、音楽室の方からそっと廊下へ出た。未だ倒れたままであろう希美の姿を見たくなかった。もしかすると、もう起きあがっているかも知れない。希美にだけはいまの姿を、そして肩に担いだ荷物を見られたくはなかった。
 人目につかないよう廊下の壁際をそろそろと歩き、希美が使うであろう階段と向かい合うもう一つの、職員室に近い方の階段をゆっくりと降りた。
 六階から五階へ。彼はその場で立ち止まると、あたりを見まわした。誰もいない。誰の気配もない。彼は赤塚を降ろすと、後頭部を床にあてがい、階段から落ちたように見せかけた。自分がやったのかどうか、誰がやったのか、という問題ではなかった。要は深町から少しでも離れたところでこいつが見つかればいいだけのことだ、と上野は独りごちた。
 深町、と彼は呟いた。もうお前を脅かす者はいないよ、よかったな。
 講師控え室へ戻ろうとして、上野は足を停めた。反対側の階段を一段飛ばしで、木之下藤葉が六階目指してあがってゆく。お前にはいい友だちがいるな、とそれを眺めながら、上野は呟いた。彼は溜め息をつくと、階段を降り始めた。□

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第2497日目 〈『ザ・ライジング』第4章 17/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――かなえ!
 上野は少女の顔が一瞬ゆがんで、代わってそこに恋人の顔が重なったのを認め、名前を叫んだ。それが聞こえたかのように大河内が口を開いた。が、なんといっているのかまでは聞こえない。ただ、表情や口の開き方から察して、快活な気分でいるときの彼女ではない、とわかった。割と顔に出るタイプだからな、あいつは。そう上野は口の中で呟いた。これに近い顔を見たことはある。付き合い始めて一ヶ月半が経ったころ、彼女の誕生日を祝おうとしたときだった。たまたま生理だったのを知らずに、酔った勢いも手伝って彼は嫌がる恋人を、有無をいわせずホテルに連れこんで、一方的な快楽に耽ったことがある。
 いま、目の前で大河内が見せる表情は、その後で泣くのをこらえながら言葉少なになじったときのそれに、よく似ていた。おそらくそのときの罪悪感がいま甦って、状況の酷似したいまこのとき、深町の顔にだぶって見えているんだろう、と上野は意識の片隅で考えた。深町もその気力さえあったなら、思いっきり俺に罵声を浴びせたいんだろうな。
 つむっていた目を開くと、希美と視線が合った。相変わらず無表情で、唇を横一文字に固く引き結び、感情の読み取れない眼差しで、上野を見つめている。ずっと見ていると、魂が吸いこまれてしまうような気がした。
 下唇を噛んで、小さく頭を振った。違うよ、深町。俺は好きでやってるんじゃない。かなえとの未来を守りたいだけなんだ。そう口に出せればどれだけいいだろうか、と彼は思ったが、実行に移すだけの、ほんのわずかの勇気はなかった。
 顔をあげれば、赤塚がいる。その存在自体はまったく驚異でない。彼女が手にするヴィデオ・カメラだって、いまの上野には脅迫の材料となりはしない。にもかかわらず彼が恐れたのは、赤塚がこの暴行が終わったあとで希美にどんな屈辱を与えるかわからない点だった。
 そのときだ、上野の頭に、たった一つの冴えた(と思える)やり方が浮かんだのは。罪滅ぼしのように映るかもしれないが、いま自分が犯している少女を救うためには、もうこれしかない、と上野は心の中で頷いた。今日は、もう学内にはほとんど人は残っていないはずだ。少なくとも、こいつの身を心配する奴は。池本もいまごろは東名高速で車を走らせていることだろう。
 上野の心を透かし見たような顔で、希美が(いや、大河内かなえの顔だったろうか)細く唇を開いた。そんなこと、しちゃ駄目だよ。
 上野は再び頭を振った。もう決めたんだ。深町、お前だけでも守りたい。それに――。上野はそれ以上続けられなかった。やがて希美の婚約者の身に降りかかるであろう災難を、自分の口から知らせるのは抵抗があった。それは警告にもならないだろう。それに、どのみち、いま彼女がそれを知ったからとて防ぐことはできやしない。□

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第2496日目 〈『ザ・ライジング』第4章 16/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 抗うつもりであげた悲鳴にも似た声が、教師の唇でふさがれた。そのときのやわらかな感触が上野の、性欲という名の炎に油を注いだらしく、ボタンをはずす手を止めると、彼はブラウスの前をはだけさせた。床にボタンが散らばっていった。ブラウスの間から、希美の胸が半分ばかり見え隠れした。ブラジャーはやはり半分ほど、上にずれていた。上野が舌舐めずりして震える手でブラウスの前を広げた。希美はその様を正視できず、目をつむって顔をそらした。
 「すまん、深町。――わかってるよ。こんな状況でなくとも、俺とお前が恋人みたくなれるわけじゃない、ってことはね。ああ、そうさ、どれだけどん底に叩き落とされても、俺はあいつのことを愛してるもんな。お前を歯牙にかけることは、やっぱり抵抗があるよ。お前の気持ちだってよくわかってる。愛している相手に大切な処女は捧げたいよな。でもな、お前をこうしなきゃ、俺だって救われないんだよ」
 そういう上野の声が震えているのに希美は気がついた。そりゃあ先生には先生の悩みとか不安とかがあるのはわかるけど、そこから解放されるために私を犠牲にすることないじゃない。そういおうとしてみても、舌が動いてくれなかった。
 上野の手がスカートを払いのけ、ショーツに触れた。こんもりとした土手を撫でさすろうとして、彼の動きが止まった。どうして上野が触るのをやめたのか、希美にはその理由はわかっていた。途端、上野が希美を見やった。口許には下卑た笑みが貼りついていた。
 「もうずいぶんと濡れてるじゃないか。――いやらしいお汁でびちょびちょだぞ。どうなってるんだ。期待してるのか? それとも、愛しい恋人のことを考えてたら、いつの間にかこんなに濡れてきちまったのか?」
 涙を目蓋に溜めながら、希美は頭を振った。違うもん……そりゃ確かに正樹さんのことは考えてたけど、そんなのさっきだもん……あんたにされて濡れるわけないじゃない。
 「違うのか。そうか、なら確かめてみようかな」
 そう上野が言い終わるやいなや、希美のショーツは荒々しく脱がされた。やわらかそうな恥毛は薄く、その下にはまだ初々しい桜色をした秘肉が割れ目を覗かせている。
 股間に上野が顔を埋めた。穢らわしい気分はより大きくなっていった。かさつく指に恥毛が絡み、割れ目をなぞってゆき、秘肉を押し広げられ、濡れそぼった希美の膣に指が侵入した。中の襞という襞が痙攣し、壺は再びじっとりとした潤いを加えている。割れ目の頂にあって包皮から顔を出した突起に指が触れた。彼の息がそこにかかり、舌がそれを転がした。不覚にも、希美の口から(初めて)喘ぎ声がもれた。それは理性よりも本能が勝った瞬間でもあった。陵辱者が顔をあげて、にたにたと笑っているのが察せられた。その口のまわりは、希美の膣内からしとどにあふれてくる透明な愛液にまみれている。
 「気持ちよくなってきたようだな。こんなになってきているじゃないか」
 そういって上野がまた膣に指を、今度は二本。自分の中で異質なものが蠢いているのが感じられる。ゆっくりと円を描くように動いている。それはしばしの後に去った。上野が、ほら、といいながら、希美にそれを見るよう促した。指の間にねばっこい糸が幾条もあった。嗚咽をもらしながら、希美は顔を背けた。
 「体は正直だよ、深町」と上野が溜め息をつきながらいった。「悪いが、もう入れさせてもらうよ」
 希美は上野を見あげた。そういう彼の目の際に涙が溜まっているのが見て取れた。
 割れ目が広げられ、上野の怒張がためらいがちに挿入されてきた。それを希美はもうなんの感慨もなく迎え入れた。うつろな眼差しで、自分の上で遮二無二暴れる上野を、ただじっと見つめているばかりだった。
 刹那、希美の脳裏に母の顔が、ついで父の顔が浮かんだ。それがどんな表情で自分を見ているのかはわからない。涙でひどくぼんやりとかすんでいて、そこまで見ることはできなかった。なんとなく、哀しげな表情でいるのかな、と思う程度だ。親友達の顔も、浮かんでは消えてゆく。いまとなってはとても遠くに感じられる存在のように思えた。最後に白井の姿が立ち現れたが、それは瞬く間に散り散りとなって消えていった。
 いまになってようやく、涙が滂沱とあふれてきた。悔しさや恐怖に混じって、自分に対して抱いた情けなさもがこもった涙だった。
 扉がそっと開き、部室の中に誰かが入ってきた。自分と同じ色の上履きを履いている。見るともなしにその生徒を見あげた。思った通りの人物だったことに、むしろ安心を覚えた。
 赤塚理恵がヴィデオ・カメラをまわしながら、レンズを自分と上野に向けている。上野がそれに気づいているかどうか、それはわからない。だが、彼女がいることを、彼は不思議に思わないだろう。先生をそそのかしたのが何人いるのか知らないけれど、その中の一人が赤塚理恵であることは間違いない。
 そうか、上野先生、この人に弱みを握られたかなにかして、いいなりになるしかなかったんだね。でも、……実行しなくたっていいじゃない! 私の処女、返してよ。
 はあ、と希美は溜め息をついた。
 パパ……、ママ……、なんで助けてくれなかったの? 約束してくれたじゃない……。
 正樹さん……、ごめんなさい。約束、破っちゃった。こんなことになるなら、安手のロマンス小説のヒロイン気取りで貞操を守ったりしないで、欲情したとき素直に抱かれてればよかった……。嗚呼、変に操を立てた結果がこれか。
 ぐったりした体を部室の床に横たえながら、上野が自分の中で果て、赤塚が視界から消えるのを、希美はずうっと待った。それはとてつもなく長い時間に感じられた。□

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第2495日目 〈『ザ・ライジング』第4章 15/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「でもな、俺がお前のことが好きだったっていうのは本当さ。レイプみたくなっちまってすまんが、こんなチャンスを作ってくれた奴らには感謝してるんだ」と上野がいった。こみあげてくる笑いを抑えられないような口調だった。「あの教育実習生と付き合ってるのは聞いてるよ。でも、お前を傷物にすれば俺の人生は安泰なんだ。深町、頼む、俺と彼女を助けてくれ」
 希美は上野の言葉を聞き流しながら、身をよじらせて彼から逃れようとした。すると上野はやおら立ちあがって希美の手首を掴み、有無をいわせず、整然と並べられた椅子の間を縫って、椅子と向かい合うように置かれた指揮台の前まで引きずっていった。途中で希美の指は何脚もの椅子の足に触れたが、摑む間もなく離れていった。
 いつもなら決して見ることのない角度から部室を眺めているうち、希美の両眼にとめどなく涙があふれてきた。なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。なんで、よりによって私なのよ……?
 上野が手を離した。希美は肩で息をついていた。逃げ出そうとする気力は残っているらしく、ときどき腕と足が匍匐前進するみたく交互に投げ出されるが、それだけの体力が残っていないようだ。ほんの数十センチ、現在位置から移動しただけだった。希美の傍らにしゃがみこんだ上野が、希美の上半身を起こさせ、制服の上から乳房をもみし抱いた。
 希美の耳たぶに舌が這わされてゆく。ねっとりとした感触が怖気をいや増させた。何度も自分の胸を揉む上野の手をふりほどこうとしたが、そのたびになぎ払われ、より強くまさぐられるばかりだった。
 上着のボタンをすばやい手つきではずされてゆき、脱がされるのにも抵抗を試みたが、自分より圧倒的に力が勝る大人の男に勝てようはずはなかった。それでもなんとか上野の手をふりほどき(一瞬ながら自分の掌で自分の乳房に触れることとなった。気がつかないうちにブラジャーがずらされていたのに希美は唖然とした)、絨毯をひっかいて前のめりの格好で、未だ固く閉ざされた扉へ向かって走り出そうとした。が、数歩のところで足首を摑まれ、そのまま前につんのめって、顎と頬をしたたかにぶつけた。
 乱れた息でおそるおそる後ろを見やると、上野が仁王立ちして、顔には好色な笑みを浮かべて希美を見おろしていた。怒張が反り返っているのも見えた。上野の視線が、一ヶ所に固定されている。希美はその先を追った。転んだ拍子にスカートがまくれ、いまはライムグリーンのショーツが露わになっていた。小振りながら形のいい希美の尻を目の前にして、上野の怒張がぴくりと反応した。角度はさらに増したように見える。
 希美の視界いっぱいに上野の姿が映った。陵辱者は言葉と裏腹に、自分を嬲り者にすることを楽しみにしているようだ。逃げようとしても、目の前で迫ってくる怒張の不気味さに気圧されて、足がすくんで動けない。やがて、相手の息が首筋にはっきりと感じられるぐらい、顧問代理は自分に迫ってきた。幾ばくもなく、手足をはがいじめされて、身動きできなくなってしまうだろう。そうなったら、あとは慰み者になるよりなく、逃げることなぞ夢物語になってしまう。
 希美はわずかの力を頼みに上野の脛を蹴飛ばし、身をよじらせて彼の下から脱出すると、一目散に扉へ駆け寄った。が、後ろから伸びてきた腕に手首と脇腹を押さえられてしまった。彼女の体はさっきいたあたりに放り投げられた。後頭部と背中に痛みが走り、顔をしかめた。しびれにも似た痛みだった。
 希美は身動きすることもできないまま、涙のために視界がぼやけた目で迫り来る上野をみていた。のしかかってくるのを払いのける体力ももうなかった。いまはただ、されるがまま。上野がベストのボタンを手慣れた仕草ではずしてゆき、リボンのホックを取り、ブラウスを脱がせにかかった。ときどき、自分の名前が呼ばれているが、返事するつもりもなかった。
 「おとなしくしていれば、あっという間に終わっちゃうよ」と上野の声が、遠くの方から聞こえてくる。□

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第2494日目 〈『ザ・ライジング』第4章 14/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野はなにも着ていなかった。どちらかというと筋肉質で、腹の肉の弛みもなく引き締まった体だった。もし彼を教師としてのみ知る者がいたら、おそらく六割の確率で体育の教師と答えるだろうし、そうでなくても体育系の部活の顧問でもしているのではないか、と推測するであろう。休みの日は地元の野球チームやサッカー・チームで汗を流しているのでは、と詮索されても、なんらおかしくはない。だが、そんな事実は欠片もない。さりながら、健康的な体の持ち主とはいってもいい。しかし、いまの彼は死者のようだ。
 それよりもなによりも希美の視線を否応なく引き寄せるのは、彼の股間にあって鎌首をもたげ、天を仰ぐぐらいの勢いで隆々と勃起している怒張であった。生唾を呑みこんで、希美は短な呻き声をもらした。男の人のものってあんなに大きいの? それじゃあ、正樹さんのも……いやだあ(この状況に及んでなお、希美は婚約者の顔を目の前の上野の体と合成して頬を染めていられる、ある意味で冷めた、一歩離れたところからこの場を観察しているもう一人の自分がいることに気がついて、愕然とした)。あんなに大きいの、入るわけないじゃない……。
 いやいや、いまはそんなことを考えている場合ではない。
 逃げなさいっ! 再び《声》がした。一気に現実へ引き戻された。だが、かといってこの状況に変化が生じるわけではない。相変わらず表情の窺えない眼差しで自分を見つめる上野が、ニカッと歯を見せて笑んだ。それをきっかけに足から力が抜けてゆき、へなへなと力なく臙脂色をした安手の絨毯に坐りこんだ。
 太腿までまくれたスカートを目にした上野の瞳が、ようやく光を宿した。だが、その光とてゆめ生気に彩られたものではなかった。のろのろと腰をあげ、よろめきながら近づいてくる上野を、希美は見あげていることしかできなかった。歩くたびに、怒張が――血管を浮かびあがらせてカリの張ったどす黒い怒張が、根本から小さく揺れている。先端の鈴口からカウパー汁がとめどなくあふれ、ぬらぬらと猥褻な輝きを放って濡れている。
 逃げようにも体が硬直して、身動きができなかった。夢だわね、これって。きっと悪い夢でも見ているんだ。こんな悪夢めいた光景、現実であるものか。希美は固く目をつむって、どうかこれが夢でありますように、夢なら早く覚めますように、と願った。しかし、どう祈ってもこれが夢でないのはわかっている。
 それが証拠に上野は希美のすぐ前にしゃがみこんで、力一杯に彼女の肩を摑んだ。小さな悲鳴が希美の口からもれたが、力を緩めさせるだけの効果はなかった。もうこれ以上の大きな声は出せそうもない。この場の行き着く先をぼんやりと想像しながら、希美は自分の方へ向けられた、物欲しそうに小刻みに上下してなおも汁を噴き出している亀頭を凝視していた。もう逃げられない。上野先生――いや、もう先生でなんかあるものか!――に犯されてしまうんだ。こんな初体験があっていいわけがない。私の処女は正樹さんだけのものだ。
 黒いストッキングをはいた希美の左脚を、上野がねっとりとした手つきで撫でさすっている。ああ、もう私は逃げられない。誰か、誰か助けてよ……ふーちゃん、助けて……。
 「なあ、深町。俺はね、ずっと前からお前のことが好きだったよ。けれど、俺には結婚を考えている相手がいるから、ずっと黙っていた」と、抑揚のない声で上野がいった。「こんな形で告白なんかしたくなかった。でもな、これはあいつらに脅されて仕方なくやってるんだ。本心じゃないんだ、こんなことするのは。信じてくれよ、な?」
 じゃあ、いやらしい手つきで脚を触っているのは、いったいなんなのよ。意識の遠くでそう答える声があった。
 それに、あいつら、っていったい誰よ?□

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第2493日目 〈『ザ・ライジング』第4章 13/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美は開けた扉を後ろ手に閉め、その場に立ち尽くした。誰もいなかった。部室はまさしくもぬけの殻。練習が終わって片附けられた小一時間前と同じ状態を保っている。自分を除けば命ある者の姿は、ここにはない。だが、気配はかすかに感じられる。香水の残り香のように、空気中をほのかに漂っている。おまけに、言い知れぬ不穏な気配までが。いや、そんな生易しいものではない。部屋の隅の方から凶々しさと邪悪な匂いが、希美の方へ見えない手を伸ばして忍び寄ってくる。
 誰かいるのはわかっている。誰がいるかもわかっている。だって私はその人に呼び出されたんだもの。が、一緒に呼ばれたはずの面々の姿も見えない。隠れるところなんてどこにもない。ただ一ヶ所、楽器や楽譜を保管している音楽準備室以外は、どこにも。そこの扉も今は閉ざされている。だのに、人の気配はもはや否定のしようがないほど濃く、あたりをうごめいている。
 途端、希美の背中を冷たいものが走り抜けていった。
 逃げるのよっ!! 自分の内なる《声》がすぐ耳許で響いた。息を大きく呑みこみ、踵を返して扉を開こうとした。しかし、扉は開かない。二、三センチの隙間が生まれてわずかに傾くものの、希美一人が通れるぐらいの空間は作られなかった。向こう側から誰かがつっかい棒でも渡しているようだった。どれだけ力をこめてみても、扉は頑として動く様子がない。教室のように両開きの扉だったら、どうにかしてここから脱出できるのに。二枚のうちどちらか一枚を動かすためのレールが、必ず内側にある。内側にある扉ならば、外から閉じこめるのは無理な話だろう。けれど、部室の扉は片側にしかなく、しかもレールは外にある。誰かを閉じこめようと思えばわけのない造作だった。
 希美は額に浮かんだ脂汗を拭うこともなく、扉の磨りガラスにぼんやりと移る影の主に向かって叫んだ。その者が自分を閉じこめているのは、もはや明白な事実だった。けれども、彼女にはどれだけ考えてみても、自分がこうした仕打ちを受けなくてはならない理由が思い当たらなかった。
 「ねえ、ここを開けてよ! そこにいるんでしょ!? 聞こえてるの? 誰か、ここを開けてえええっ!!」
 そのとき背後で、がたん、と扉の開く音がした。希美の動きが止まる。たちまち全身から力が抜けていった。ゆっくりと血の気が引いてゆく。さっき感じた不穏な空気の主が、足音もなく徐々に忍び寄ってきた。くすくすと笑い声が耳に届いた。総毛立たせるほど不気味な笑い声だった。机と机の間を、一歩一歩確かめるような足取りで希美の方へやってくる。殺意こそ感じられないものの、危害を加える準備を整えた何者かが、ゆっくりと道をやってくる。
 「無駄だよ。やめておけ」
 聞き馴染んだ声が、足音がやむと同時に話しかけてきた。二人では会いたくないと思っていた人物の声だった。
 怯えた表情を隠そうともせず、希美はそちらを振り向いた。恐怖と恐慌が一時に襲いかかり、全身が総毛立った。まるで素肌にセーターを着たときのようなチクチクした感覚が思い出された。心拍数は上昇し、心臓が激しく鐘を打つ。とはいっても、昨日白井と一緒にいたとき感じたようなものでは、まったくなかった。危機に直面したときにだけ感じる類のそれだった。
 呼吸の乱れたままで後ろを見やると、椅子にどっかり腰をおろした上野の姿が目に飛びこんできた。希美を見る彼の瞳からは輝きも色も失われ、水の流れがすっかり堰き止められたように澱んでいた。じっと見ていると、こちらの心をかき乱されるような気がした。が、まるで吸い寄せられて離れられなくなってしまったかの如く、希美は上野から視線をはずすことができなかった。彼女は背中を扉にぴったりとつけ、お腹の前で両手を固く結んだ。ぎこちなく首を横に左右に振り、口をぱくぱく開いては閉じた。悲鳴をあげるにも気が動転して、それどころではなかったのである。□

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第2492日目 〈『ザ・ライジング』第4章 12/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野は椅子に浅く坐っていた。椅子のパイプに手首を縛られ、足首も同じように縛られている。脱がされた服と下着が床に散乱している。開かれた足の間に池本がひざまずいて、無心に上野の怒張をほおばっていた。赤塚から連絡があったが、終わるとまた同じ行為にいそしみ始めた。
 脱力しきった眼差しで、上野は池本を見おろした。視線を感じたか、池本は妖艶としかいいようのない眼差しと笑みで奴隷を見あげた。
 上野にしてみればこの時間は苦悶の時間だった。向かい合った椅子にまたがって池本が自慰に耽る姿を見せつけられ、これ以上ないぐらい充血してそそり立った怒張を持て余しているところに、池本の巧みな唇の奉仕が始まった。爆発しそうになると、それを察知した彼女が怒張の根本を強く握りしめ、精液の噴出を防いだ。
 爆発させるなら、深町さんの中になさい。
 ああ、なんと殺生な。そう上野は思った。もう何度となく彼は絶頂に達しかけている。
 血管の浮いた怒張から唇を離すと、彼女は奴隷の足首に巻いたストッキングをほどいた。上野の脇腹に手を添えて、満足げな溜め息をついて立ち上がる。唇の端からこぼれ落ちそうな白濁色の精液を拭わぬまま(口紅の色がにじんでいたが、それが逆に上野を興奮させた)、<夜の女王>が手首のストッキングをほどいてゆくのを彼は見守った。
 「さあ、もうすぐお楽しみの“正餐”の到着よ。――誰が服を着ろなんていったの?」
 トランクスに手を伸ばして履こうとするのを見咎める池本の口調が、やけに冷酷で鋭利に響いた。彼は、でも、といいかけたが、池本が掌をこちらへ向けて喋るのを制したので、そのまま押し黙った。
 「裸のままの方がやりやすいわよ」
 そう池本がいった。だが、上野はそれに頷くより早く、再び甘美な手触りが自分の股間を撫で、それによってしなびかけた怒張が元気を取り戻してゆくのを感じていた。
 彼が池本に、陵辱の儀式の前の最後の誓約をしているときだった。
 「失礼しまあす。上野先生、いらっしゃいますかあ?」扉を開く音に続いて、希美の舌っ足らずな声が部室の方から聞こえてきた。
 上野は思わず天井を仰いだ。もう後戻りはできなくなってしまった。やるより他にない。彼の肩に池本の掌が置かれた。上野は悲嘆の色を浮かべた眼差しで、たわわな乳房を曝す支配者へ向けた。女王がじっと上野を見つめている。そして、微笑した。
 希美の声――それはまさしく正餐の到着を意味し、ショータイムの始まりを高らかに宣言する鐘の響きでもあった。□

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第2491日目 〈『ザ・ライジング』第4章 11/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 部室へ行く希美を薄ら寒い笑みで見送ると、赤塚はすぐに自分の教室へ向かった。いますぐにでも笑い転げたくなるのを、なけなしの理性でどうにか抑えながら。なによりもそんなことをしたら、却って希美に警戒を促すようなものだ。そんなことをしたら、せっかくの素敵な計画が水の泡になってしまう。いや、それ以上に池本からどんな目に遭わされるか、知れたものではなかった。それだけは断じて避けなくては。赤塚は池本から折檻される様を想像して、思わず身震いした。
 廊下側から数えて二列目の、ちょうど真ん中が赤塚理恵の席だった。そこまでゆっくり歩いてゆく途中、同じ列の前から数えて二番目の席が目についた。目もくれず、机に横蹴りを喰らわせた。机が斜めに滑り、椅子とぶつかった。その反動で床に椅子が、盛大な音を立てて倒れた。
 赤塚は高揚した気分になるのを禁じ得なかった。そこの席の主は、クラスでいちばん自分を嫌っている生徒会役員だ。休み時間になると赤塚の席には誰も集まってこず、その席にばかりクラスメイトが集まってくる。それが彼女は気に入らなかった。
 ふん、やっとのことで入学金も工面して授業料だって分割で支払っているくせに。寄付金だっていつもたったの一口。貧乏人の分際でなに偉そうにしてんのよ! 事実、こうしたことを以前に一度、その席の主と意見が合わず自分の考えを押しつけようとしていたとき、赤塚はいったことがあった。
 それがきっかけとなって赤塚はほぼ村八分の状態になり、職員会議では赤塚に訓告を出して然るべき処置をすべきか否かで意見が分かれた。なんといっても、赤塚はこの学園の理事長の孫なのだ。誰もが訓告を出すべきとは思ったが、いざ、その役を担おうと志願する者はいなかった。結局表だってはなんの注意もなかったけれど、それは理事長の秘書を通して理事長と、血縁である池本玲子に伝えられた。本人へは赤塚家の夕食会の折り、親族の前で憤りを露わにした祖父から告げられた。そのときの憤懣やるかたない思いを甦らせながら、赤塚ははっきりと呟いた。深町の次はお前を嬲り者にしてやるからな!
 自分の席まで来ると、机の横のフックにかけていたサブバッグを手にし、中から小さな巾着袋を取りだした。紐をゆるめてそこから赤塚が出したのは、光沢を抑えた銀色の、ハンディ・サイズのデジタル・ヴィデオ・カメラ(DVC)だった。電源を入れ、バッテリーを確かめる。うん、大丈夫。ばっちり充電されている。
 レンズを窓に向け、画面を覗きこんだ。色調も特に問題はない。倍率をあげると、窓に筋を引く細かな水滴の、一粒一粒が見て取れた。
 「破滅させてやるわ、深町希美。私よりいい思いをするとどうなるか、思い知らせてやるわ」と赤塚はいった。地獄の底から響いてくるような不気味な声だった。
 DVCの電源を切って、巾着袋に戻す。この証拠映像を見せられたら彼氏はどう思うだろうね。見限って玲子叔母さまとくっついてくれればいい。そうして、私はこの映像をネタにお前を屈服させ、召使い同様に扱わせてもらう。それに飽きたら、テープと一緒にお前をAV制作会社に売って、飢えた男どもの慰み者にするのもいいかな。いずれにせよ――
 「ショータイムの始まりよ」
 赤塚は携帯電話を上着のポケットから取り出すと、音楽準備室で上野に“前菜”を与えている池本へ連絡した。
 ショータイムはもうすぐ始まろうとしている。□

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第2490日目 〈『ザ・ライジング』第4章 10/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野先生に呼ばれたから部室に行ってくるね。待っててちょーだいな。
 藤葉宛にそうメールを打って送信すると、希美は携帯電話をポケットに押しこんだ。
階段を一段一段のぼるたび、濡れたショーツが肌へ触れてくる。羞恥と嫌悪の混ざり合った感情が、そのたびに希美を蝕む。露骨に顔をしかめることこそなかったものの、替えのショーツを持っていない以上、どうやら家に帰るまでは我慢しなくてはなさそうだった。まあ幸いなのは、と階段に目を落としながら希美は思った。楽器の掃除が終わったあと、トイレに行って生理用ナプキンをショーツの内側にあて、一抹の気持ち悪さから解放されたということだろうか。もっともいまはそのナプキンもずれてきてしまったらしく、自分の愛液を染みこませたショーツの一部が、再び肌に触れるようになってきていた。
 もう少しで階段も終わる。あと十段を残すばかり。五階と六階の間の踊り場に到着して残りの階段を見あげた。唇をやわらかく引き結んで、彼女は再び階段をのぼり始めた。グレーのチェック模様で彩られたスカートが、希美の動きに合わせてはためいている。ここが駅やデパートといった公衆の面前なら、手や鞄でお尻を隠しもするのだが、ここは学校で、しかも女子校だ。おまけに今日は祝日で、吹奏楽部と水泳部の関係者を除けばいったい何人が学内にいるというのか。森沢美緒のいる陸上部も、今日は珍しく練習がないときている。そんな状況下で誰がスカートの中を覗きこむというのか。
 明日はクリスマス・イヴだなあ。今年は希美の家で、〈旅の仲間〉がお泊まりの予定だった。一人になって初めて迎えるクリスマス。けど、一時的にであれ、淋しさは紛れるだろう。そして明後日は正樹さんと過ごす。あ、指輪してくの忘れないようにしなきゃ。誕生日まであと半年あるけれど……それまで我慢できるのかな……。さっき練習中に見た白昼夢を思い出し、希美の顔は耳たぶまで赤く染まり、心臓は早鐘のように激しく、狂ったように打ち鳴らされて、どこまでも響いた。また少しショーツが濡れた。気がついてみればブラジャーの下で乳首も固くなっている。
 最後の一段をのぼり終えてエレベーターホールに立ち、あたりを見回してみる。雨が窓を打つ音がしきりに、しかし、静かに聞こえる。ぐるりとめぐらせた視線が、柱の影になって半分しか見えない部室の扉へ吸い寄せられた。途端、希美の心に、教室で感じた不安と恐怖が綯い交ぜになった感情と、黒い衣を着た男の姿がのしかかってきた。唾を呑みこむ音が予想外にはっきりと聞こえて、一瞬どきりとした。
 希美は覚悟を決めたように小さく、ゆっくりと頷いて、部室へと足を向けた。□

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第2489日目 〈『ザ・ライジング』第4章 9/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 赤塚理恵がそこにいた。眉間に二条の筋が刻まれている。澱んで生気のない表情だった。不快ささえ催させられる。まるで飢えた野獣だ。あの眉間の皺がなかったらなあ、と希美は思った。もう少し表情も和らいで、人に好かれもするだろうに。だが、それがきっと無理な相談だろうことは、誰もが知っている。血縁者である理事長や池本先生さえ。赤塚がしなを作って媚びを売る様を想像するのは、限りなく不可能なことだった。よしんばそれができたとしても、背筋を寒気に襲われてその光景を拭い去るのは至難の業となるだろう。まあ、それはそれとしても、いま教室には自分一人しかいない。用事があるにしてもそれが自分にであることは明白だった。無視するわけにはいかないだろう。こうしてこのタイミングで来たからは、部活絡みであるのは間違いない。
 「どうかしたの、赤塚さん?」イヤフォンをはずして、希美は訊いた。
 赤塚はまるでいま初めてそこに希美がいるのに気がついた様子で(誰が見てもあまりに下手すぎる演技だった)、目を大きく見開き、貧相な顔つきをさらにゆがめさせた。本人としては精一杯の努力をしてほほえんでいるつもりだったようだが、却ってそれは見る者を恐怖させた。かつて日本中の子供達を恐怖のどん底に叩きこんだ、テレビ局も大まじめに特集を組んだという口裂け女のようだった。もちろん、希美はその時代を知る者ではなかったが、都市伝説と化していまも生き続ける口裂け女の想像図は、雑誌やテレヴィで幾度となく目にし、両親からも二度ばかり聞いていた(その晩は、泊まりに来ていた彩織と一緒に真夏の寝苦しい夜にもかかわらず、固く抱き合って一つ布団の中で過ごした)。いま眼前に立つ赤塚の姿は、その想像図に瓜二つとしか他にいいようがない。
 「よかったあ。深町さん、まだいてくれた」と赤塚はいった。幾分顔が和らいだ感じがした。声にも心底からの安堵が窺える。
 きょとんとした表情で希美は訊いた。「え、どうかした? 部活のこと?」
 「うん」と赤塚は首を縦に振った。「上野先生がね、なんだか話があるんだって。これから部長と副部長を呼びに行かなきゃいけないんだ。あと、マネージャーも。嫌ンなっちゃうよ。私はあんたの使いっ走りじゃない、っての」
 私に? 左の人差し指を自分に向けて、希美は目でそう問うた。即座に赤塚が頷いた。小首を傾げて希美は、話っていったいなんだろうな、たぶん特別演奏会のことだろうけれど……、とつらつら考えた。だが、ここで考えていても仕方がないや、と思い直し、腰をあげた。
 「そう。じゃあ、行かなきゃね。あ、先生、どこにいるって?」
 「部室。講師控え室はなんだかふさがっているんだってさ」と赤塚はいった。
 やだな、部室でか。もうすぐふーちゃん、戻ってくるかもしれないのに……。いいや、メールを送っておこう。でもなあ、と希美は独りごちた。最近先生は私の方を、よく見ているような気がする。なんていうか、いやらしい目で見られているような気が、確かにする。あんまり部活と授業以外では会いたくないけれど、呼び出された以上は仕方がない、行かなくては。それに、自分の他にも呼び出されている人がいるなら安全だろう。
 なぜだか不安が絶え間なく襲いかかってくる。その源が赤塚か上野のいずれかであろうことは、おぼろげながらも察せられた。でも、この不安はいったいなにを私に知らせようとしているのだろう。そこまでわかっていながら、危険を承知で火の中へ飛びこむのは自殺行為に思えた。しかし、自分と直接に関わる人からの呼び出しとあっては、無視するわけにもいかなかった。あ~あ、明日は楽しみにしているクリスマス・イヴだっていうのになあ。内心でそう愚痴りながら、希美は席を離れた。
 「赤塚さんはどうするの?」廊下の壁に背中をつけて立っている赤塚に、そう希美は訊いてみた。「先生、赤塚さんにも話があるって?」
 「まさか!」両掌を希美の方へ見せてひらひら振ってみせながら、赤塚理恵が小さく笑ってそういった。「メンバーがメンバーじゃない。私のようなダメダメ部員はお呼びじゃないよ。さっきだって叱られちゃったしね」
 「叱られた?」
 「ううん、なんでもない。下手なのは本当だし。――さ、早く行った方がいいよ。なんだか先生、このあと用事があるらしいから。あ、私も早く呼びに行かなくちゃ」
 じゃあね、と手を振って赤塚は踵を返し、小走りに立ち去った。
 希美はその後ろ姿を見送ると扉を閉め、六階にある部室へと足を向けた。
 もしそのとき、階段を昇りながらでもいまいた廊下を見ていたならば、きっと希美はそれが罠だということを察知していただろう。赤塚が小さく振り返り振り返りしながらこちらを見、薄気味悪い笑みを浮かべていたからだ。
 雨はだんだん激しく降りつけてきていた。□

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第2488日目 〈『ザ・ライジング』第4章 8/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 そう思って、指の腹で目を拭おうとしたときだった。黒い影が視界の端に現れた。最初は、目にゴミでも入ったかな、という程度しか考えなかったが、その影は徐々にこちらへ近づいてくる。泥を口いっぱいにほおばったようなくぐもった声が聞こえた。だが、それがなんといっているかまではわからない。その声の背後で潮騒の音が耳をついた。わかっていることといえば、なにかが自分に襲いかかってこようとしていることだった。それは密かに爪を研ぎ、牙をむき出しにしてして獲物を狙う野獣の如く、その好機を虎視眈々と窺っている。希美は扉に目を向けた。その向こうからとてつもなく邪悪な目がこちらを見返している。じっと見つめていると、血走った眼球が扉に重なって映るような、そんな恐怖とも不安ともつかないイメージが浮かんだ。なにかが道をやってくる。死者の街道を通って、重い足取りで衣の裾を引きずる影が、少しずつこちらへやってくる。その正体がなんなのか、希美にはもちろんわからなかったけれど、自分に悪意を抱く者であることだけはわかった。
 言い知れぬ不安ばかりが募っていった。心の中に黒い雲が果てしなく広がってゆく。希美は思わず身震いした。そのとき、背にした窓を打つ音がした。短い悲鳴をあげて椅子から腰を浮かし、外の世界を振り返り見た。希美の心の中と呼応したかのように、空には暗雲が何層にも渡って垂れこめていた。薄ら闇の世界が外に広がっている。希美はしばしそこに立ちつくしたまま、外の光景に目を奪われていた。窓に無数の雨粒がくっついている。それは風に嬲られて縦横に筋を残し、外の世界をひずませていた。天気予報では雨は降らない、っていってたのにな……ロッカーに置き傘があるから濡れる心配はないからいいけど。だが、一度生まれた不安はそう簡単に消えてくれそうもない。どうすればほんの一刻でもこの不安とお別れできるんだろう……
 ……一時の気休めかもしれないけれど、と希美は考えて、サブバッグの中の楽譜や教則本、筆記用具を引っかき回した。程なくして目的のものを探し当てた。MDプレーヤーとイヤフォン。中に入っているのはハーモニーエンジェルスでもタンポポでも椎名へきるでもなく、東京スカパラダイスオーケストラでもTOKIOでも桜庭裕一郎でもなかった。昨日、横浜のタワーレコードでずっと聴いてみたかったCDを見つけて早速に購い、楽譜を開きながらダビングしたものだった。レイフ・ヴォーン・ウィリアムスの《テューバ協奏曲》で、演奏は世界初演した面々だった。イヤフォンを耳に当て、プレーヤーの再生ボタンを押そうとした、まさしくその瞬間だった。
 教室の後ろの扉が、ガラリと開いた。あ、ふーちゃんかな。希美は顔をあげた。強い光を真正面から浴びたように目を細め、そちらを見やる。その人物は教室に入ってくるそぶりもなく、両手で開かれた扉を摑んで、とば口に立ったままでいる。彼女は確かに希美を見ている。八景島と最前いまここで見た黒い衣を纏った男の姿が、彼女に重なった。しかし、彼女からよりも、かすんで見える黒い衣の男からの方が、得体の知れぬ恐怖ははるかに強く感じられる。とはいえ、当面の不安の元凶はとば口に立つ、同じ部活の仲間だった。希美は自分の顔に、わずかながらも失望の影が浮かぶのを感じていた。ふーちゃんかと思ったのになあ……。□

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第2487日目 〈『ザ・ライジング』第4章 7/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ふーちゃん、もう練習終わってるかな。今日はちゃちゃっとやるだけだから、と笑顔でいっていた藤葉を思い浮かべながら、希美は教室の扉を開いた。
 誰もいない。が、藤葉は既に水泳部の練習を終え、いったんは教室に戻ってきていたようだった。競泳用の水着やゴーグル、バスタオルやらをまとめてぶちこんである水泳部特注のバッグが、机の上に無造作に置かれている。学校が休みの日に練習があるときは、藤葉はいつもそのバッグ一つで通ってくる。身軽な姿が、希美にはいつもまぶしく映った。鞄と学校指定のサブバッグに加えて、いつもテューバケースを抱えて登下校する希美は、そんな藤葉に憧れにも似た眼差しを送ってしまいたくなる。楽器さえなければなあ、と思わないでもなかったが、彼女にとってそれはある面に於いて、いちばん大切なものだった。彩織にせよ藤葉にせよ美緒にせよ、行き帰りが希美と一緒になるときは、鞄やサブバッグを持ってあげたりはあったが、テューバケースを持ってあげようか、と申し出たことはただの一度もなかった。それが希美にとってどれだけ大切で、執着を示しているものであるのか、よくわかっているからだ。いまではテューバケース(と楽器本体)の重さにもすっかり馴れ、それを持ち歩くことに抵抗はなくなった。逆にケースを持たないでいるときの方が、彼女は違和感を感じて不安に陥るほどだった。――しかし、着崩した制服にバッグだけで足取り軽く闊歩する藤葉を見ていると、羨望の溜め息がもれてしまうのだけは、どうしても禁じ得なかった。
 希美は横向きに、引いた椅子へ腰をおろした。足の間にテューバケースを静かに置いた。壁に背中をくっつけて教室を眺め渡す。いつもなら三十四人のかしましくもかまびすしいお喋り声に埋まり、ともすればやや常軌を逸するやかましさに頭痛を催させる教室なのに、こうして休みの日に一人でここに坐り、じっとしているとなんだか別の世界にさまよいこんでしまったような気がしてならない。それまでじっと身を隠して好機を狙っていた邪な者達がゆっくり頭をもたげ、息を潜め、気づかれぬように忍び足で希美の背後に近づいてくるような錯覚さえしてくる。普段馴染んだ教室が、あたかも死の匂いが充満し、鼻をふさいでも逃れ得ぬ場所に変貌したようだった。それは必然として、彼女をして死臭漂う病院を連想させた。思わず眉をしかめ、吐き気を感じた。
 病院と縁のないままに逝った両親は、テロ集団のしかけた爆弾が作動して火を噴いたとき、果たしてなにをしていたのだろう、と希美は考えた。その瞬間、いったいなにを思ったのだろう……。地獄さながらの“グラウンド・ゼロ”で、私を生み育ててくれた二人は苦しまずに済んだのだろうか。
 死者は歌うか? 死者は愛するか?
 生きてこの世にある限り、人は誰もその答えを知ろうとしない。けれども、希美にはおぼろげながらわかっている。死者同士が愛し合うかはともかく、死者も生きとし生けるものを愛する。それはきっと事実に違いない。それ故に死者は想いを残す生者の前に姿を現す。彼岸と此岸の境界線を越えて結びつく想いこそ、おそらくは真実の愛というのかもしれない。……希美はつらつらそんなことを考えながら、ひっそりとした教室のあちらこちらを見渡した。
 たぶん、ふーちゃんは部誌の提出やらなにやらで職員室へ行っているんだろうな。刹那、藤葉の席を見据え、視線を床に落とした。テューバケースを凝視しているうち、だんだん視界がうつろになってきた。涙が出ているわけでもないのにな。□

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第2486日目 〈『ザ・ライジング』第4章 6/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 手を差し伸べて立ちあがらせながら、ふと彼は、自分が希美を犯したあと、赤塚理恵はいったいどうするつもりなのだろう、と疑問に感じた。さっきの保健室での会話から推測するに、池本玲子は警察に捕まることを覚悟しているだろう。俺はどうなるんだろう。もしそうなった場合、俺のことを池本はいうだろうか? 希美を犯ったあと、自分の身に警察の手が伸びることなんて、少しでも考えてみたことがあっただろうか。とうに思い至っていなくてはならない事実に、上野は愕然とした。池本と雖も捕まったあとまで、上野の身を案ずることなんて出来やしないだろう。
 解放されてあとに困ることがあったらすぐいいなさい、私が必ず君達を助けてあげるわ。先日の戯れの折り、池本がそう囁くのを聞いて、そんな羽目にはならないさ、と口の中で呟いたのをよく覚えている。刑務所の檻の中からでも、頼めば助けてくれるのかい、先生?
 どこまでも逃げてやる、そう上野は呟いた。かなえを連れて地の果てまで逃避行を続けてみせる。だが、といまの考えを彼は否定した。俺の犯行だとばれるだろうか――深町をレイプしたのが俺だと、いったい誰が知るというのだろう? 白井とやらが殺されるのと、深町が犯されたのを、果たして誰が同じ目的の下になされた犯行だと考えたりするというのか。――偶然さ。たまたま同じ日に起こってしまった、突然の出来事。
 そう、池本が学内での一件を喋らず、目の前にいるお嬢ちゃんが怖くなって他人にいわなければ、それで済むこと。知る者はいない。我々三人と深町希美を除いては。
 教室を出る前に、上野は赤塚へ訊ねてみた。「赤塚はどうするんだ。その……深町を俺にレイプさせたあとは? しらばっくれるのか? それとも、逃げるのか?」
 「逃げたりなんかしないわ。私は理事長の孫よ。この特権を活かしてとことんしらばっくれてやる」と彼女が答えた。「誰にも私の邪魔はさせない」
 せせら笑う顔に不安と恐怖の影が射していると思ったのは、上野の気のせいだっただろうか。しかしながら、それを見て、上野は確信した。この小娘は自分に手が及んだら、いのいちばんに俺を吊しあげる気だ、と。彼は溜め息をついて、首を横に振った。だがな、自分の思うとおりに事が運ぶと思ったら、おい、似非女王様よ、とんだお門違いってものだぞ。この件に関していえばな、俺は自分が従うべき相手は心得ている。あんたじゃない。池本玲子こそが俺の命運を握る女だ。お前なんぞ添え物に過ぎないのさ。
 「そうか、まあ、うまくやってくれよな」そう上野はいうと、赤塚に背中を向けて空き教室から出て行った。赤塚が眉毛を掻く手を止めて舌打ちしたのを、彼は聞き逃さなかった。もう少ししたら深町を呼びに行くからな、ちゃんと準備しておけよ、と居丈高な声が聞こえた。
 上野はふいに足を停めた。廊下の窓ガラス越しに、いまいる六階から五階の廊下が望めた。テューバ・ケースを持った希美が歩いている。一人だった。すまん、自分を守るためなんだ、犠牲になってくれ……。□

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第2485日目 〈『ザ・ライジング』第4章 5/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野は隣にいた赤塚が立ち止まったのに気づいた。キョロキョロあたりを見まわしている。やおら彼は手近の空き教室に引っ張りこまれた。自分を見あげる赤塚の瞳に、池本と同じ狂喜じみた色が宿っていた。
 知らずに身震いしたのが、どうやら赤塚の気に入らなかったらしい。掌に力をこめ、圧迫するように喉へ押しつけた。飢えたハイエナに似た卑しい顔が、よりゆがんで見えた。上唇がめくれて、歯茎がむき出しになっている。濃い眉毛が逆立って山姥のような形相に磨きがかかった。
 ――すると俺はさしずめ、山道をとぼとぼ歩いて、売り物の魚や牛を山姥に提供するだけでなく、最後には自分の身さえ危うくする農夫、というあたりか。くくく、と上野は腹の中でこっそり笑ってみせた。赤塚よ、いまのお前ってホント、山姥にそっくりだぜ。時間を少しやるからさ、鏡を覗いてきてみろ。
 「いいね、先生。逃げたり裏切ったりはさせないよ。もしそんな馬鹿げたことしてごらん。あいつにとどめを刺すために雇った連中に、お前と大河内をバラさせてやるからな」
 赤塚は上野を睨視しながらそういった。だが、上野は最後の部分しか聞いていなかった。喉を潰されかけて息が満足にできなくなってきた頭の片隅で、自分と希美がお互いに恋人もなくフリーの立場だったら、きっとあの子に心は傾いていただろうな、折を見て告白すらしていたかもしれないぞ、と考えていたからだ。大河内の名前が出てようやく彼は我に返り、自分を窒息死させようとしているのではないか、と疑わしげな視線で赤塚を見返した。自然と目が細くなるのがわかる。それにひるんだのか、胸ぐらを摑んでいた赤塚の手が離れた。
 よかった。これで満足に呼吸できるぞ。
 上野は喉をさすってから、目の前でしきりに手の甲をこすり合わせる赤塚を見た。赤塚が後ずさった。目は口ほどにものをいう。そんなことわざがふさわしい状況だった。上野に対してある種の恐怖感を抱いているのは明らかだった。所詮は砂上の楼閣にあぐらをかく似非女王様だな。そこいらへんがお前と玲子叔母さまの大きな違いだ。
 上野は一歩詰め寄って、赤塚に顔を近づけて、にやりと笑ってみせた。
 「安心しな、お嬢ちゃん。お望み通りのことをやってやるよ。目をそらしたりしないで、ちゃんと見ているんだぜ。それとな、かなえに手を出すのは結構だ。しかし、お前の命もないものと思えよ。どれだけ逃げたって、俺は地の果てまでお前を追いかけるからな」
 それを耳にして、赤塚がしりもちをついた。だらしなく足が開かれ、口があんぐりと開かれていた。情けない格好だな、赤塚。お祖父ちゃんが見たら泣いちまうぜ?□

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第2484日目 〈『ザ・ライジング』第4章 4/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 年末恒例になっている特別演奏会、今年のメインは、パウル・ヒンデミットの《交響曲変ロ調》だった。吹奏楽史上もっともスタイリッシュな交響曲である。やがてやってくる大フーガはこの曲のクライマックスだ。アンサンブルが崩壊しないようにまわりの音に耳を傾ける一方で、自分の持つテクニックを最大限に駆使しなくては様にならない。みんながぶうたれたのも当然だよね、とテューバを構えながら希美は思った。とはいえ、希美はこの曲を気に入っていた。技巧的にはさして困難でもなく、音楽する歓びがあちこちに散りばめられている。最初の取っつきにくさを克服してしまえば、ヒンデミットほど音楽の愉悦を教えてくれる作曲家は、まずいない。楽譜を見るにつけ、作曲家がノリノリでこの曲を書いたことは容易に窺える。さすが、音楽家のために作品を書き続けた人だけある。
 だけど――とテューバを抱え直し、マウスピースを唇にあてて音を出す準備をしながら、希美は眉根を潜めた。今日の上野先生、なんだか変だよ。指揮棒を振り間違えるなんて滅多にない先生が、今日に限って打点を誤ったり、“入り”のサインを出し忘れたりしている。初めての曲ならともかく、《交響曲変ロ調》は先月から手掛けており、もう仕上げの時期にさしかかっている。前回が特に中断もなく熱気あふれる演奏をし得ただけに、今日の上野の様子には部員の誰もがとまどい、演奏への集中をさえぎられてしまっている。この分じゃ、テューバの出番が来る前に空中分解しているだろうなあ。
 だが、空中分解はしなかった。テューバが入る二小節前で、上野が指揮棒を降ろしたからだった。徐々にそれまで音を出していた楽器の響きが消えてゆく。やがて音楽室を気まずい沈黙が包みこんだ。みんなが怪訝な表情で隣の部員と顔を見合わせたり、上野を眺めている。小声で囁きあう者も、中にはいた。
 希美もテューバを抱えたまま、開いた脚の間に生まれたスカートの窪みに置き、力を抜いた。無意識に、ロータリー式のキーを押したり離したりしていた。ふと気づくと視線は左手の薬指に注がれている。昨夜、白井から贈られ、はめてもらった指輪のあったあたりだ。なくしたりしたら大変、と家に置いてきた指輪。途端、希美は自分の顔がにやけてくるのを感じ、ハンカチで口許をおおってうつむいた。
 昨日一日の出来事は、すべて夢ではなかった。抱きしめられたのもキスもプロポーズも。なにもかも一切合財。なかなか寝つけず自慰に耽ったことも。指揮台でしきりに楽譜を指で叩いている上野をぼんやりと見ながら、希美は白井に抱かれている自分を、初体験に臨む自分を、愛されて“少女”から“女”へ変わる儀式に臨む自分を想像し、いつの間にやら全身を熱く火照らせていた。――正樹さん、愛してる。希美は自分の上に覆いかぶさってきた彼の首に腕を絡めて抱きしめた。彼の腕が腰にまわり、希美の上半身は宙に浮かぶ格好となった。長い黒髪が揺れる。白井は希美の乳房と乳房の谷間へ顔を埋め、口づけた。希美、希美、……。
 「――深町さん。深町さん」
 肩を揺さぶられていた。うつろな眼差しでそちらを見た。同じテューバ担当の一年生が心配そうに希美を見ている。「平気ですか? 気分が悪そう……」
 「あ、ごめん。平気だから、心配しないで。ちょっとだけ、ぼおっ、としちゃった」希美は苦笑して答えた。「でも、平気ですか、って上野先生に訊きたいよね」
 二人して譜面をにらめっこしている上野を見やって、気がつかれないようにうつむいてくすくす笑った。希美はそのとき、ショーツの下の部分がじっとりと濡れているのに気がついた。
 でも、どれぐらい時間が経ったんだろう。正樹さんとのこと、想像していたら時間なんてわからなくなっちゃった。腕時計の文字盤を見ると、針は三時になるかならないかの時刻を指している。一分も経っていないのか……それ以上経っているように感じたんだけどな。でもその間、上野先生はずっとああしているわけ? あらあら、まあ。
 「ごめん。――今日はどうも体調が良くないようなんだ。朝から元気づけに牛丼の大盛りをお代わりしたのがまずかったらしい」と笑いを取りながら、上野はいった。「もうここまでにしよう。だいぶ出来あがってきてるよ。あと一、二回の通し稽古で十分だろう。次は、えーと……二十六日だね。本番直前の練習になるからがんばろうな。それじゃ、解散にしよう」
 上野はそういうと、譜面台に広げていた総譜を閉じ、色鉛筆を筆箱にしまった。部員達のざわめきが部室に広まってゆく。楽器を分解して掃除する者がいる一方、メトロノームや空いた譜面台といった備品を、部室と音楽室をつないでいる音楽準備室に片附け始めた。ほとんどの生徒の楽器は個人所有なのでそこには置かれないし、原則的にそれを禁じている。万一に備えてと個人練習の奨励からだ。テューバやユーフォニアム、コントラバスといった大きな楽器については例外を認めているが、希美はよほどのことがあっても自分のテューバは持ち帰っていた。練習云々よりも、それが両親が買ってくれた思い出の楽器でもあるからだった。
 ウォーターポッドに溜まった水分を専用のハンカチで拭っているときだった。希美は誰かのねめつけるような視線が、肌に突き刺さるのを感じた。顔をあげて周囲を見渡してみる。誰もこちらを見ている者はいないし、慌てて視線をそらした風な者もいなかった。赤塚理恵が上野になにか相談するような表情で部室を出てゆくのを、クラリネット・パートの一年生達がこそこそ囁きながら見送っているのが、希美のいるところから見えた。
 気のせいかな。希美は再びテューバの掃除に精を出し始めた。□

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第2483日目 〈『ザ・ライジング』第4章 3/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野宏一は足をよろめかせながら保健室を出た。蔑むような笑みを湛えた赤塚理恵がそれに続く。彼等の背後で、扉が音もなく閉められた。
 池本玲子はようやく静かになった保健室を見渡した。これから約三時間、自由に過ごすことができる。おそらくそれは自分に残された、最後のやすらぎの時間だろう、と池本は思った。ミニ・コンポの再生ボタンを押してスピーカーから流れてきたのは、リヒャルト・ワーグナー最後のオペラ、舞台神聖祝典劇《パルジファル》。第一幕前奏曲の厳かな響きが部屋に満ちてゆく。幾重にも重ねられた薄い紗のベールを一枚ずつ剥いでゆくような気分にさせられた。と同時に先ほどまで行われていた、猥雑な計画の残り香が浄化されてゆくような思いも感じられた。
 彼女はくるりと体の向きを変え、視線を正面のベッドに据えた。上野は意外なまでに従順だった。念書を手に入れて安心したせいだろう、と池本は勝手な想像をめぐらせた。あながちそれが間違っているとは思えなかった。鍵の掛かった保健室で彼等は最後の打ち合わせをしていた。なにもいわずに頷くだけの上野が逆に不安だった。それを口にした池本に上野は答えた、もうすぐすべてが終わりになるからさ、とだけ。
 もうすぐすべては終わる。そう、確かに。深町希美は暴行され、白井正樹は私が息の根を止める。そうなれば上野は晴れて池本から解放され、大河内かなえと幸福な日々を送る。私は……十中八九、捕まるだろうな。でも、いいや。白井を誰かに渡すぐらいなら、この手で殺してやる方がいい。それで捕まるなら本望だ。理恵ちゃん? さあて、あいつはいったいなにを得るというのだろう。仮に深町が消えたとしても、姪がハーモニーエンジェルスの一員になれようはずはあるまい。それに、この姪がどんな末路を辿ろうと、私の知ったじゃあない。
 まあ、上野や姪の行く末がどうなろうとも、白井正樹と深町希美は多かれ少なかれ、血を流すことになる。片方はおそらく致死量の。もう片方は、女になった証の血。昨夜の一件で、もはや白井を殺めることに抵抗はない。赤塚にしても周囲から冷笑を浴び、蔑まされる原因となった同じ部活の仲間を陵辱させることに、罪悪感なんて抱いていないだろう。
 吹奏楽部の練習が終わったら深町を犯る、と彼は誓った。練習が終わったら姪が連絡をくれることになっている。そうしたら私は音楽準備室に移動して、上野の欲望を高める手伝いをする。その間に姪が深町さんを呼びに行く。なに、簡単なことではないか。
 天皇誕生日で学園は休校、登校してくるのも吹奏楽部と水泳部の生徒と顧問ぐらいと知って、池本は今日を計画の実行日と定めていた。今日学園に来ている教職員の数なんて高がしれている。上野を除けば吹奏楽部の練習室/部室のある六階に来るような暇人もあるまい。生徒に至ってはなおさらだ。そうして、陵辱劇は始まる。その現場に立ち会うことはできないけれど、あとで理恵ちゃんの撮った証拠映像で楽しめばいい(でも、果たして楽しむ時間が私に残されているだろうか?)。もちろん、それをネタに後日、上野を脅迫するつもりなんてさらさらない。その程度の誠実さは持ち合わせているつもりだ。……。けれどあの同情の余地なき姪っ子は……失敗したかもしれないな、理恵ちゃんを始末する手筈を考えなかったのは。誤算であった。でもまぁ、なんとかなるだろう。一人ではなにも実行出来ない腰抜けだ。
 池本は机のいちばん上の、鍵の掛かった引き出しを開いた。中からタバコと白井の写真を取り出して、じっと眺めた。やがて彼女は写真を二つに引き裂き、灰皿の上にくべてライターで火をつけた。火種はいつしかめらめらと燃えあがってゆく。それを見つめる池本の顔に笑みが広がった。見る者の背筋を凍らせるような笑みだった。瞳に炎のゆらめく様が映っている。
 灰皿の炎で火をつけたタバコをゆっくり吸い、紫煙をくゆらせた。池本はそれを眺めながら、留置場に入ってもまわりには飢えた男どもがたくさんいるんだから、セックスする相手には不足しないよね、きっと、とぼんやりそんなことを考えていた。吸い終わると彼女は、手紙を二通書いて時間を過ごした。□

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第2482日目 〈『ザ・ライジング』第4章 2/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 だが、と上野は考えた。いつのまにか右手の親指の爪を噛んでいるのにも気がつかなかった。深町を(池本の希望通りに)レイプしたあと、いったいどの面さげて彼女に会えばいいというのか。来年になっても部活で顔を合わせる機会はいくらだってある。産休で休んでいる音楽教師が退職したら、ほぼ確実にその後任は俺に声がかかるだろう。そうなったら……いやでも来年度はずっと、授業や部活以外でも深町の顔を見なくてはならない。まかり間違って担任にでもなっちまったらどうするんだ、と上野は舌打ちした。そうしてすぐに思い直した――いや、担任になるなんてことはないな、だって高校三年のクラスを新任が受け持つなんて言語道断だろうよ。
 上野は頭を振って雑念を追い払い、池本の言葉一つ一つに集中しようとした。白井正樹の名前が耳に入った。いったい彼女はなぜそうまで白井に執着するのだろう、と彼は改めて訝った。池本の整った横顔をそれと盗み見ながら、綺麗な顔して怖いことを考える女だな、といまさらに思う。上野が希美を犯している最中に(赤塚をその監視役にして)、彼女は白井を殺しに行こうとしている。誰の目にも明らかなことだった。いったいその男、気位高き女王陛下になにをしたんだ……。白井は深町希美の恋人だと聞いている。大河内からそれを聞いたのが、もうずいぶん昔のことのように思えた。おおかた池本が強引に白井へ迫り、こっぴどく断られたのだろう、と推測した。これまで男を従わせることに快楽を感じ、自分に従うのが当然と信じてきた女王には、白井の拒絶は予想外だったのかもしれない。プライドがずたずたに切り裂かれて打ちしおれ、すさまじい怨念を抱くようになったのだろうことは、容易に想像がつく。
 上野は心の中で快哉を叫んだ。ありがとうよ、白井さん、あんたのお陰で俺はもうすぐこの女から解放される、そのためにあんたの大切な女を傷物にしなくちゃならないが、まあ、勘弁してくれよな。俺にだって自分の人生があるんだ。
 ややあって打ち合わせが終わり、踵を返そうとした上野は池本に呼びとめられた。赤塚から少し離れたところに手招きされ、そっと耳許に囁かれた。「深町さんを犯るのに、しなびてちゃ話にならないわよね。確実に君のペニスが元気になるように、私が前菜になってあげるわ。練習が終わった後、深町さんが来るまで、ね?」
 彼は頷いて池本の見送りを受けた。興奮で足がよろめいてしまった。出ると案の定、赤塚がいまなにを話していたのか、と詰め寄ってきた。無視しようかとも考えたが、心のどこかでもう一人の自分が、それは得策ではない、と囁いた。彼はその声に従った。
 「彼女がね、練習が終わって深町が来るまでの間、俺の息子をべちょべちょにかわいがってくれる、って約束してくれたのさ」と上野は無表情にいってやった。赤塚はなにもいわずにうつむいた。そのまま彼等は黙りこくったまま、階段をのぼっていった。□

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第2481日目 〈『ザ・ライジング』第4章 1/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 赤塚理恵は計画の変更を告げられた。上野共々保健室にやって来てすぐのことだった。何度訊いても叔母は首を横に振るばかりで、詳しいことはなに一つとして喋ろうとしなかった。ただ、「深町さんについては打ち合わせた通りよ。変更はないから安心なさい」というだけ。
 そうすると……白井という人についてなにか変更があったんだ、と赤塚は考えた。教育実習に来た男の顔を思い出そうとしてもできなかった。特に接触があったわけでないし、その時分は風邪をこじらせて学校を休んでいた記憶がある。思い出せ、といわれても、なかなか無茶な相談だ。
 白井のことはすべて私がやるから、あんた達はあの子を犯ることだけ考えなさい。そう池本玲子はいって、打ち合わせを締めくくった。
 叔母を横目で見やりながら赤塚は、相手が自分の手を血で染める覚悟なのを知った。顔からは表情が消えていた。それでいて瞳には邪悪で冷酷な意思が宿っている。殺人は容易だ。けれど、その後はいったいどうするつもりなのだろう。それに叔母さま、なんで深町さんを嬲るだけのために白井まで手に掛けようとするのかしら? 痴情のもつれ、っていう奴かな。叔母さまならあり得る、と赤塚は思った。警察に捕まるのなんて見越した上の計画だろう。だけど、私は絶対に捕まらない。理事長の孫という立場を存分に利用して、深町さんの一件はすべて上野先生にひっかぶさってもらう。心の中で笑いながら、彼女は上野と池本を交互に見た。
 保健室を出て階段を二階まで昇ったところで、赤塚は上野と別れた。「練習が終わったら最後の打ち合わせね。がんばろう、先生」といい残して。

 打ち合わせの内容は半分以上が右から左に素通りしていった。要するに部活が終わったら深町を呼び出して、犯っちまえばいいわけだ。たぶん、あの子は経験ないよ、と池本がいっている。なるほど、と上野は心の中で満足げな笑みを浮かべた。なるほど、初物を味わえる、ってことか。生娘を相手にするのは初めてだけど、さて、ちゃんと挿れられるのかな……。
 ――そこまで考えて、上野は呆然とした。いまのいままで、深町希美を歯牙に掛けるのは池本から解放されて、大河内との安楽な日々を取り戻すための手段だったはずだ。なのにこの瞬間、彼は少女との性交を楽しみにしている自分に気がついた。恋人とはまた違った感触を楽しめるのが、待ち遠しくてたまらない。それはいうなれば、生涯に幾度も口にできぬであろう珍味にも似ている。そうしてそれは、大河内との生活を取り戻してからはけっして味わえぬであろう征服欲を刺激させた。
 池本が淡々と計画の内容を確かめてゆく。二人にいっているというよりも、自分自身に確かめているような口調だった。大丈夫さ、俺は自分のやるべきことは承知している。よほどそういってやりたい衝動に駆られたが、こらえることが懸命だというのはいわずと知れたことだった。そんなことをいってみろ、と上野は口の中で呟いた。せっかくご親切に書いてくれた念書は無効になってしまうかもしれない。計画が終わるまで、じっと我慢していなくては。□

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第2480日目 〈長倉書店版岡本綺堂著『修禅寺物語』について。〉 [日々の思い・独り言]

 新しい作家の本を手にするのは意思が必要で、戦前戦中精々が戦後間もなくの頃の作家の本には喜んで飛びついてしまう傾向が、どうやらわたくしにはあるらしく。……先達てのエッセイのなかで、年末は或る本の感想を書くのに手間取って読むつもりでいた現代作家の小説を読むことができなかった、と書いた。
 最初に述べた「新しい作家の本」というのが読まずに年を越してしまった現代作家の小説なわけだけれど、こちらは今日になってようやっとページを開いて読み始めたところである。本当なら一昨日あたりから読む予定でいたのだが、何の気なしに書架から取り出した作家の本へ夢中になって今日の明け方まで読み耽ったことから、やっと現代作家の小説に手を着けた次第。
 偶々年末の大掃除のとき、あちこちに散っていた岡本綺堂の本を発掘、一ヶ所にまとめたことから上述のような出来事が出来したわけだけれど、わたくしが読んでいたのは《半七捕物帳》や《三浦老人昔話》、《青蛙堂鬼談》など綺堂の代名詞的シリーズではない。小説/戯曲「修禅寺物語」を柱にして綺堂が書き残して文庫化された戯曲とエッセイを読んでいたのだ。
 綺堂の、ノン・シリーズでの代表作といえばこの「修禅寺物語」が夙に有名だけれど、戯曲と小説、そうして「修禅寺物語」にまつわるエッセイだけで構成された文庫が、長倉書店という出版社から1997(平成9)年に刊行されている。この長倉書店というのが伊豆修善寺に住所を置く会社ゆえ斯様な企画ということなのだろうが、伊豆で育ったわたくしにとってこれ程綺堂本のなかで鍾愛おく能わぬものはない。
 自分が育った地のすぐ近郊にこのような謂われを伝える場所がある。その謂われを基にして好きな作家が今日なお名作の誉れをほしいままにしている作品を残した。そうしてそれにまつわる作品を一本にまとめた文庫が所縁の地で出版されて、近郊で育ったわたくしの手許にある。これらを一種の巡り合わせと考えることに、いったいなんの不都合や雑言を叩かれる余地があろうや?
 ──実は、想いの深さ、強さもあって、本稿にてこれの感想を認める気は微塵もない。当初からその予定であった。付言すれば、読み終えて間もないことからまだ感想というべきものをまとめられないでいる(これがいちばん大きな理由かも)。為、これの感想は後日として、ひとつだけ、──
 今回の大掃除でわたくしが発掘した長倉書店発行の『修禅寺物語』だが、「修禅寺物語」に加えて、今度は戯曲ばかり4編(「佐々木高綱」、「尾栗栖の長兵衛」、「俳諧師」、「新宿夜話)と戸板康二の解説、坂東三津五郎と円地文子のエッセイ、「代表作品解題」や「年譜」などを併載したものが存在して、架蔵している。1967(昭和42)年8月初版発行、1985(昭和55)年重版発行(月の記載なし)の旺文社文庫版なのだが、解せぬことに本書には長倉書店の社名が印刷されたカバーが掛かっている。「旺文社」の文字はどこにもない。
 古書店での購入だからどこかの段階でカバーと本体が掛け変わってしまったのだろう、と考えるのが普通なのだが、実物を瞥見する限りではそうした理由でもないらしい。というのも、カバーは長倉書店、本体は旺文社文庫なのだが、双方に記載されたISBNコードは一緒なのだ。これはいったいどうしたことなのだろう。インターネットで調べてみると、わたくしが所持する長倉書店の社名が入ったカバーを持つ文庫の確認はできない。代わりに、同じデザインのカバーで旺文社の社名が入ったものは幾らでも見附かるのだが……。果たしてこのようなことがあり得ようや?◆

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第2479日目 〈ずっと以前にお披露目した小説の原稿を発見したこと。〉 [日々の思い・独り言]

 東日本大震災の起こる直前のことです。当時、わたくしはとても無謀なことを本ブログにて実施いたしました。古くからの読者諸兄はご記憶にあるかもしれないけれど、プロット不完全、結末不明、未完結の短編──リストラされた会社員と喫茶店のメイドのお話を、約1週間にわたって連載したのです。
 どうしてこのようなものを書こうと思い至ったのか、記録がないので皆目不明なのですが、毎日続きを書くことで精神的に追いこまれたものの、未発掘の遺跡か化石を自分一人の手で丹念に掘り起こして地中に埋もれた姿を明らかにしてゆくことの愉しさ、面白さを同時に味わったような覚えはあります。思えばあの頃は「毎日更新」という義務に最も忠実でした……。
 どうしてこんな以前の話題を持ち出したかといえば、過日(必要に迫られて)行っていた部屋の掃除の際、引き出しからこの短編を印刷した紙がクリアファイルに入って出てきたのです。お披露目直後から手直しをしてきっと再公開する、と息巻き、また宣言していた通り、印刷された紙には随所に赤ペンが入っています。
 否、朱筆が入っている、とはちと控えめな表現かも。実質的に改稿という方が正しいか。お披露目当時の文章は半分ぐらい訂正されてまったく新しい展開になっている箇所もあるし、そもそもきちんと固まっていなかった設定を練り直してそれに基づいた文章が赤ペンで書かれている。そんな意味では殆ど面目を一新した作品に仕上がっている──と胸を張っていいたいのですが、申し訳ない、その作業は中途で放り出されております。聖書読書に専念していったのか、自分を取り巻く環境に変化があったのか、それとも単に飽きて引き出しに仕舞いこんだのか……たしかなことはわたくしも覚えておりません。
 瑕疵だらけの短編だけれど、これは個人的にも思い入れのある作品。勿論、まだ改稿途中だから完成した暁には、投げ出してシュレッダーに掛けたくなる程の愚作と判断を下しているかもしれません。それでも、すくなくとも現時点では大事に保護して慈しみ、行く末を見守ってやりたい小説なのであります。
 そろそろ勘の良い読者諸兄は察しているかもしれない。今日のこの文章自体が件の短編──「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」──の改稿が終わってお披露目されるときに備えた、いわば橋頭堡の役割を果たしていることを。もっとも、改稿版のお披露目がいつになるのか、作者たるわたくしにもさっぱりわからないのですが。えへ。
 正直なところを告白すれば、現在連載中の長編小説『ザ・ライジング』が完結した後、如何な手段を用いて本ブログの延命措置を謀ってゆくべきか、今後の主たる柱をどのようなものにすれば良いか、未だ決めかねている部分があります。そんななかでこの短編のお披露目が果たす役割は、延命措置の一手段以外のなにものでもないかもしれない。が、かりに繋ぎ役に過ぎないとしても胸を張って、自分の名前で発表するに恥じるところのない作品に仕上げられれば本望であります。
 さて、それでは改稿の続きに取り掛かろう。その前に、朱筆部分の解読しなくっちゃ、だな。◆

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第2478日目 〈2016年下半期の読書記録。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年後半はちょっとした身体上の<アクシデント>に見舞われて、精神的に不安定な日々を過ごし、また職業上も流転を体験した。そんな最中で<読書>という行為、趣味は、率直に申して窮極の治癒でした。昨夏から大晦日までの読書実績が前半を(すくなくとも数だけは)上回った大きな要因に、この、わが身を襲ってすべてを狂わせてくれた<アクシデント>があったことは疑うべくもありません。
 ──年が明けて間もない日、昨年後半に読んだ本を記憶と記録にある限りで引っ張り出して床に並べたところ、その量に思わず膝を抱えてしゃがみこみ、うむむ、と唸ってしまいました。
 以下は床に並べたあと棚やら段ボール箱へ戻す前に写真に撮り、そこから著者名と書名を書き起こしたリストですが、なんでしょうね、このまとまりのなさは。
 前回同様、ちょっと恥ずかしいけれど2016年下半期の読書記録をお披露目してみよう、と思います。なお、リスト記載の著者名・書名は順不同であります。
 それでは、──

 米澤穂信:『クドリャフカの順番』(再/承前)
       『遠まわりする雛』(再)
       『ふたりの距離の概算』(再)
       『さよなら妖精』
       『追想五断章』
       『リカーシブル』
       『王とサーカス』
       『真実の10メートル手前』
       『さよなら妖精』新版

 恩田陸:『私の家では何も起こらない』(旧版)

 森見登美彦:『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』

 門井慶喜:『家康、江戸を建てる』

 松浦寿輝:『BB/PP』

 高原映理:『不機嫌な姫とブルックナー団』

 室生犀星:『性に眼覚める頃』復刻版
      『蜜のあはれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』

 鯨統一郎:『努力しないで作家になる方法』

 尾崎一雄:『単線の駅』

 花房観音:『京都 恋地獄』

 宮部みゆき:『淋しい狩人』
       『あやし』

 加藤シゲアキ:『ピンクとグレー』
        『閃光スクランブル』(中途まで読んで後に抛ち処分)

 新海誠:『秒速5センチメートル』

 名取佐和子:『金曜日の本屋さん』

 久生十蘭:『墓地展望亭・ハムレット』
      『久生十蘭短編集』

 ジョージ・W・ブッシュ:『決断のとき』(上下 伏見威蕃・訳)

 太田省一:『中居正広という生き方』

 河野淳:『「聞こえ」に不安を感じたら…… 補聴器の使いこなし方』

 天沢ヒロ:『まとめてみた 耳鼻咽喉科』

 内田百閒:『第一阿房列車』

 稲田美織:『水と森の聖地 伊勢神宮』

 池波正太郎:『江戸切絵図散歩』

 直木孝次郎:『法隆寺の里』

 太田信隆:『新・法隆寺物語』

 村松友祝:『金沢の不思議』

 鷲田小彌太:『定年と読書』

 村上春樹:『職業としての小説家』(再)

 宮脇俊三:『時刻表2万キロ』
      『わたしの途中下車人生』
      『鉄道旅行のたのしみ』

 小泉凡:『怪談四代記 八雲のいたずら』

 横溝正史:『獄門島』

 小林信彦・編:『横溝正史読本』

 江戸川乱歩:『江戸川乱歩傑作選』
       『江戸川乱歩名作選』
       『孤島の鬼』
       『算盤が恋を語る話』
       『人でなしの恋』
       『黒蜥蜴』
       『パノラマ島奇譚』

 久世光彦:『一九三四年冬──乱歩』

 谷川流:『涼宮ハルヒの憂鬱』(再)
     『涼宮ハルヒの溜息』(再)
     『涼宮ハルヒの退屈』(再)
     『涼宮ハルヒの消失』(再)
     『涼宮ハルヒの暴走』(再)
     『涼宮ハルヒの動揺』(再)
     『涼宮ハルヒの憤慨』(再)
     『涼宮ハルヒの分裂』(再)
     『涼宮ハルヒの驚愕』(上下)(再)
     『涼宮ハルヒの秘密』(再)
     『涼宮ハルヒの観測』(再)
     ザ・スニーカー100号記念アンソロジー『BLUE』所収「涼宮ハルヒ劇場」

 レイモンド・カーヴァー:『カーヴァーズ・ダズン』(村上春樹・訳)(再)

 ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン:『古書店めぐりは夫婦で』(浅倉久志・訳)

 シャーリー・ジャクスン:『くじ』(深町眞理子・訳)

 ロード・ダンセイニ:『二壜の調味料』(小林晋・訳)

 クリフォード・シマック:『中継ステーション』(山田順子・訳)

 キジ・ジョンスン:『霧に橋を架ける』(橋本輝幸・訳)

 インドロ・モンタネッリ:『ローマの歴史』(藤沢道郎・訳)(再)

 エルンスト・H・ゴンブリッチ:『若い読者のための世界史』(上下 中山典夫・訳)(再)

 村川堅太郎・長谷川博隆・高橋秀:『ギリシア・ローマの盛衰』(再)

 青野太潮:『パウロ 十字架の使徒』

 渡部昇一:『実践・快老生活』
      『人生の出発点は低いほどいい』

 大瀧啓裕:『翻訳家の蔵書』(現)

──以上、記載終わり。偏った内容で申し訳ありません。
 抜け落ちているものもあるかもしれませんが、概ね上記の通りではなかったでしょうか。また、ご覧いただければおわかりのように、ここにマンガは取り挙げておりません。理由は特に述べる程のことではない、単に床へ並べなかった、というだけであります。
 本来ならば上記にはあと1人の小説家、1冊の小説が加わるはずでしたが、久世光彦の小説の感想に四苦八苦していたら、いつの間にか年を越していた。それだけのお話であります。
 さて、今年はどれだけの本を読み、そのなかでどんな本と出会えるかな。楽しみ。◆

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第2477日目 〈新しい連作エッセイをはじめるよ、というお知らせ(勿論、不定期だけど)。〉 [日々の思い・独り言]

 生田耕作先生はかつて「昭和初期の異色読み物作家の初版本を一山」、「いちおう珍本・奇書に類する紙屑本の山」を東京から訪ねてきた新婚早々の古書店主に売り払ったそうである。但し、江戸川乱歩と夢野久作だけは「こっそりわきに取りのけて」。奢灞都館から先生没後の1999年3月に刊行された『鏡花本今昔』所収の表題作に載るエピソードである(P24)。
 先生も少年探偵団が活躍する物語に胸躍らせ、アップクチキリキアッパッパーな世界に陶然とし、怪奇と淫蕩の綺譚に傾倒したのかしらん、と想像すると微笑ましく、また、うれしい、の一言に尽きるのだけれど、タイトルをご覧いただければおわかりなように、本稿はそれにまつわるエトセトラを綴るようなところではない。
 古書店へ処分するにあたりこっそり脇へ取り除けた思い出のある本が、ジャンルこそ違えわたくしにもあるのだ、というお話をしたいのである。もうちょっと正しくいえば、今後そんな本について語る場を設けるべく、序文というか露払いのような文章を、今日は書き綴ってお披露目しておきたいのだ。
 本ブログでは殆ど話題に上らないけれど、わたくしだってこれまでに沢山のマンガを読んできた。マニア諸氏に較べれば平均的な作品ばかりで、しかも何度か読み返したらばさっさと古書店行きにしてきたものだから、わが書架に残っているマンガはそれ程多くない。が、別のいい方をすれば、残されたマンガはわたくしにとって<ベスト・オブ・ベスト>なものばかり、ということでもある。だがしかし、ここに昨年買ったものは含まれない。それらはまだまだ淘汰の途中であるからだ。
 昨年には長く書架にあって処分されることはなかろう、と思うてきた『バクマン。』全巻と『ONE PIECE』(LOG全巻)を段ボール箱に詰めて、集荷に来たトラックの去ってゆく様子を見送った。あれだけ読み耽ったのに、処分したことに幾許かの感傷の気持ちは、実はまったく湧き起こらなかった……。
 わたくしの場合マンガを購入する、とはイコール、遠からず処分されることを意味するのだけれど、前述の生田先生のように、こっそり脇へ取り除けて傍らに、大事に取っておきたい鍾愛の作品だってあるのだ。それらのマンガを指して、<みくらさんさんか的オールタイム・ベスト・コミック>というてよい。単純に「好き」の一言では片附けられぬ因果が、きっとその作品とわたくしの間に存在しているのだろうね。
 おそらく<オールタイム・ベスト>に選ばれるマンガであることの特徴の1つとして、処分しても遅かれ早かれ買い直す行為を繰り返し、何度目かに買い直した時点で「どれだけボロボロになっても、ずっと手放すことなく手許に置き続けるぞ」と誓いを立てさせるぐらいの魅力を宿した作品であること、が挙げられるのではないか。すくなくともわたくしには復刻版が出たのを機に買い直して、それからは処分の対象外となり続けている作品がある。否、この場合は特定の作品というのではなく、特定の漫画家の著作、という方がより正確だな。
 その漫画家の名を、小山田いく、という。小学生の頃、兄から『少年チャンピオン』誌を借りて、当時連載中であった氏の代表作『すくらっぷブック』に夢中になった。使い途の限られたお小遣いでコミックスを買い溜めゆき、やがて氏の他の作品へも手を出すようになった。その後いったい何度、全巻が揃った小山田いく作品のコミックスを売り飛ばすことになっただろうか──。
 さっき述べた復刻版がブッキングから発売されたのは今世紀になってからだが(<小山田いく選書>)、『すくらっぷブック』に留まらず『ぶるうぴーたー』や『ウッドノート』、『気まぐれ乗車券』、『衆楽苑』、『魑魅』、『五百羅漢』など買いこんで、お久しぶりな作品は懐かしく、初めての作品は新鮮な気持ちで読み耽ったっけ。このようにして手に入れた氏の滋味あふれる作品群を、わたくしはもう二度と手放したりしない。そう誓おう。
 ──既に申しあげたように、今後折に触れて<みくらさんさんか的オールタイム・ベスト・コミック>を本ブログにて取り挙げてゆく。昨年3月に第3回をお披露目して以来一度も公にされていない「YouTubeで懐かしの洋楽を試聴しよう!」同様、不定期掲載とはなるけれど、どうぞ読者諸兄にはご愛顧・ご愛読・ご支持いただければ、しあわせなのであります。◆

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第2476日目 〈久世光彦『一九三四年冬──乱歩』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 著名な探偵小説作家の失踪というと、まずはアガサ・クリスティが思い浮かぶ。揣摩憶測様々囁かれたけれど、真相は藪のなか。自伝にもはっきりしたことは記されなかった。一方、日本の場合は誰がいるかな、と見渡してみれば、われらが江戸川乱歩がそこにいる。かれはたびたび姿をくらませたが、クリスティと異なって行方不明の間はどこでなにをしていたのか、そもなぜ失踪してみたのか、そのあたり細大漏らさず自身の手で書き留めている。書き留めているのだけれども、第三者の想像が入りこむ余地は残されていた。そこへ着目して夢うつつの綯い交ぜになった、乱歩を主人公とするに相応しい浪漫的な物語を仕立ててみせたのが、久世光彦『一九三四年冬──乱歩』である。
 1934(昭和9)年冬、江戸川乱歩は連載中の小説『悪霊』を放り出して、初めてではない失踪をした。小説の行く末に暗雲が立ちこめるや持ち前の厭世癖が頭をもたげてきて、それに抗うことなく最低限の荷物をトランクに詰めて自宅からさして離れていない麻布坂上のホテルに身を寄せた。ホテルの名は<張ホテル>、その地に実在した長期滞在客向けのホテルだ。ちなみにそこから然程離れていない麻布市兵衛町には<偏奇館主人>こと永井荷風が住まっており、本書第三章では乱歩が荷風と思しき人物をホテルの窓から目撃するシーンがある。
 序にいうと、『断腸亭日乗』に拠ればその翌年即ち昭和10年、その偏奇館へ、後に破門を喰らう平井呈一が足繁く通い始める。その平井は戦後、乱歩と組んで東京創元社を根城にして数多の怪奇小説、幻想文学の傑作、隠れたる名作を江湖へ供することになるのだが、これはまた別のお話。歴史にを持ちこむならば、もしこのたびの乱歩の失踪が昭和10年であったならば<張ホテル>界隈で平井とニアミスしていたかもしれない。久世の小説にも、窓から目撃した荷風の傍らに平井の姿を見出す場面があったかもしれない。──まぁ、それはさておき。  このホテルの客となり、202号室に落ち着いた乱歩は、美貌の中国人青年、ボーイの翁華栄やティファニー商会東京駐在員の妻リー夫人と専ら関わりながら、やがて幾つもの不可解な出来事に遭い、翻弄されることになる。大概の出来事はすぐに謎解きされるのだけれど、隣の201号室には未だ怪しい点があって──誰がこの空室に出入りして、乱歩の部屋を覗き、或いは物音を立てたり悩ましげな声をあげるのか──、乱歩、翁華栄、リー夫人の3人はそれぞれの推理を披露こそすれ真相は不明なまま。かれらは、では今夜改めて自分たちの考えを持ち寄り201号室の謎を解き明かしましょう、と約束するも本書はそこにまで話が進むことなく幕を閉じる。あたかもこの物語に於いて201号室の謎解きはあくまで添え物で、主軸は乱歩がこのホテルで書き始めた短編「梔子姫」の創作日録である、とでもいいたげに。  その「梔子姫」は久世光彦の創作である。しかし、実際一読いただくしかないのだけれど、その背徳的で妖艶、デカダンの気配を濃厚に塗りこめた「梔子姫」は、たしかに乱歩が好んで書きそうな物語である。  中国は福建省の町から日本の娼館へ売られてきた梔子姫は、3歳の頃から「一日一合、梔子の花弁を浮かべた酢を欠かさず飲まされ」(P87)、日夜飲み続けることで「体内の骨という骨が次第に撓みはじめ、娘の体は三年で真後ろに反り返って頭が床につくようになり、五年で首がほぼ百八十度振り向くことができ、七年経つと体中の関節を自在に外せるまでに」(同)なった、という。また7歳の時に蒼い水銀を嚥まされて声を失った。まさしく、「男の邪な悦楽のため造られた体」(同)となったのだ。作中作の語り手は友人に誘われていった私娼窟で彼女に出会い、愛し合い、海が見たいてふ彼女を連れての逃亡を決意する──。  梔子姫と語り手のまぐわう場面はむろんあるのだけれど、それがとってもエロティックで、美しいのだ。でもそちらの方へ筆が走ることは当然無く、全体を支配するトーンは極めて切なげである。たとえばこんな描写──、  「最初の夜こそ梔子姫は私の思うがままに白い体を委せているだけでしたが、二度目に訪ねた一週間後の満月の夜、押せば押したで熱く滑る海綿体のようにどこまでも潜りこみ、引いたら引いたで一分の隙もなくこっちの皮膚に吸い付いて、放っておけばそのまま私のなかにしみこんできそうな肌に驚いた私が、夢中になってその脚を折り曲げ、腕を捩り、胴を畳んでいるうちに、梔子姫が差し渡し一尺五寸ばかりの絖光る球形の塊になって深紅の夜具の上に転がっているのを目にしたとき、私は悪い夢を見ているのだと思いました。」(P140)  或いは、──  「崩れこんで布団に坐り、震える手で梔子姫の塊を押してみました。裏側の何処か下の方で小さな吐息がこぼれます。そのままゆっくり転がすと、私の顔の前にそれまで向こう側に隠れていた球面が現れ、そこに梔子姫の小さな顔と殆ど隣接して薄杏色の、女のもう一つの貌が見えたとき、私はあまりの怪異に思わず失禁してしまいました。気が遠くなるような長い、長い失禁でした。」(P141)  ……できれば本書を一度読了したら、最初に戻って「梔子姫」のパートだけを読み返してみるとよい。語り手と梔子姫の間に交わされた歓びと、2人が共有した哀しみと、絶望の向こう側に見出した久遠の平安を、初読のときにもまして感じ入ることだろう。  かつて著者は単行本刊行時のインタヴューのなかで「梔子姫」について訊かれた際、本編と同時進行で書き進めていた、と答えている。「梔子姫」ありきではなく、あくまで張ホテルに滞在する乱歩と同じ状況で筆を進めていったのだ。となれば、本編の随所に見受けられる執筆にあたっての乱歩の悩みやら喜びやら悶えやらはそのまま、久世光彦のそれであった、というてよいのやもしれぬ。むろん、ラスト近くで提示される2種類の結末案についてもだ。やはりそんな意味でも本書は創作日記の側面を持った<乱歩奇譚>である、といえるだろう。  また、本書はエドガー・アラン・ポオを巡るエッセイとしての、『The Tragedy of Y』の著者バーナビー・ロスの正体を推理するゲームとしての一面をも内包していることを、蛇足かもしれないが触れておく。  本書『一九三四年冬──乱歩』は江戸川乱歩の著作を典拠としたことで、またかれの著作へ存分に耽溺することで生まれた、久世光彦的クリティカル・ノヴェルである。いみじくも著者は第二章で斯く記す、「憐愍が愛情に変わるなら、愛情は模倣に変わるものらしい」(P115)と。この思いを実作へ昇華させたのが本書である、とは、過ぎた発言ではないだろう。  本書は1993(平成5)年12月に集英社から単行本が出た後、1997(平成9)年2月に新潮文庫に加えられた。解説は井上ひさし。現在は創元推理文庫から戸川安宣の解説、著者と親交あった俳優、翁華栄の書き下ろしエッセイを付して2013(平成25)年1月、発売されたものがある。わたくしが読書と感想の執筆に用いたのは新潮文庫版、よってページ数もそちらへ準拠する。◆

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第2475日目 〈報告と展望;エラリー・クイーンを買いこみました。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年末よりこの方、脳裏から離れず居坐っていた懸案事項=ずっと書きあぐねていたエッセイの第一稿を、ようやく書き終えました。これから推敲などいろいろありますが、一応は形になって完成した文章がノートにある事実に安堵しております。
 だから、というわけなのかもしれません。久世光彦『一九三四年冬──乱歩』の感想が書き終わったその足で、ふらふら向かったのが本屋さんで、棚の前に陣取ってからはエラリー・クイーンの作品を探していたのは。というのも、久世の小説ではバーナビー・ロス著『Yの悲劇』を巡る乱歩と探偵小説マニアな人妻の談義が物語の一角を占めており、感想を認めるため何度か読み返しているうちにクイーンの小説に興味が湧いたからなのです。
 然様、わたくしはこれまでクイーンの小説をただの一作も読んだことがなかった(と記憶する)。ロジカルな作風であることが事前にわかっていたので、どうも頭の中身が論理的にできていない自分には縁遠い作家のように思うていましたから。
 でも、文庫化された青崎有吾『体育館の殺人』と『水族館の殺人』をきっかけにクイーンを読んでみようかな、と倩考え始めた。それから数ヶ月、遂にこの期に及んで久世光彦『一九三四年冬──乱歩』が背中を押した(ダメ押し、とも)のでありました。感想文を書いていたスターバックスの近くにある古書店にてロス名義で発表された『Xの悲劇』、『Yの悲劇』と『Zの悲劇』、そうして国名シリーズの1作目『ローマ帽子の謎』を買いこみ、新刊書店で『レーン最後の事件』と北村薫『ニッポン硬貨の謎』を購入。本稿を書くまでちょこちょこ摘まみ読みしていた……。
 昨年は江戸川乱歩と横溝正史を振り出しにして、自分の関心は再び推理小説へ向かいました。何年もの潜伏期間を経て甦った<熱>に浮かされるまま、森下雨村や夢野久作といった戦前作家から綾辻行人や歌野晶午など現在活躍する作家の作品まで買い漁って、いまそれらは例の未読の文庫の山のなかにあって待機中である。その過程でクイーンが待機読書のリストに加わったことは、大袈裟かもしれないが一種の僥倖といえましょうか。たぶん、クイーンを皮切りに久しくその動向をチェックすることすらしていなかった海外ミステリにまでその関心は向けられ、未読の作家、かつては読んだけれどもう一度読みたい作家を選んで買い漁ることになるのでしょうね。……んんん、この未読の文庫の山が消えてなくなる日は、果たして本当に来るのかなぁ。<読者への挑戦状>と洒落てせっせと読書に励むしかないね……。good grief.
 とまれ、今年2017年は国内外のミステリ小説への帰還の年、と位置附けましょう。乱歩に感謝、久世に感謝、クイーンに感謝。◆

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第2474日目 〈夢野久作短編集の相次ぐ登場を喜ぶ。〉 [日々の思い・独り言]

 通い馴れた書店の文庫売り場にて夢野久作『ドグラ・マグラ』を手にしたのは、当時熱中していたクトゥルー神話の重要アイテムたる数々の魔道書を連想させるものがあったからだ。<読む者は皆精神に異常を来す書物>──まるで『ネクロノミコン』かなにかのようではないか! それからどれだけ時間が経ったのか、行きつけの古本屋で『ドグラ・マグラ』上下巻のセットを300円程度で見附けて買いこみ読みはしたけれど、なんだか精神に異常を来すなんて嘘っぱちだなぁ、なんて的外れの感想を抱くが精々で、以後本棚の奥深くへしまいこんでしまったことである。
 話は前後するが、夢野久作の小説を読んだのは、実は『ドグラ・マグラ』が初めてではない。椎名誠・編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫)に収められた「悪魔祈祷書」がそもそもの馴れ初め。『ドグラ・マグラ』なんていう妖しげな響きのタイトルを持つ小説の存在を知ったのは、そこに掲げられていた作者案内だったろうか。この「悪魔祈祷書」には妙な迫力と魅力がありましてね、件のアンソロジーのなかでいちばん読み返すことの多かった作品ではなかったかしら。それが夢野久作の代表的短編の1つであるとは、そのときは露とも知らず、<夢野久作>というちょっとふしぎな名前ばかりがくっきりと記憶にこびり付いた。
 薄々お察しいただけようか、その後わたくしが夢野久作の著作へ触れること、ただの一度もないままなく今日へ至っているのを。よその大学生協で現代教養文庫版傑作集全5巻を幾十度も目にして何度かは手に取ってぱらぱら目操っていたというのに。ちくま文庫版全集は華麗に見過ごしてもいつの間にやら刊行点数の減った角川文庫の作品集は意識に上すこと多々で、「いつかそのうち読む機会が訪れるのだろうか?」と疑問符を浮かべつつ、いつも視界の隅でチェックは怠らずにきたというのに。──どうしたわけか、わたくしが夢野久作の小説に親しむことがないまま今年2016(平成28)年の秋を迎えている。
 然様、いまこの時期になって風向きは変わったのである。もちょっと正しくいえば、その兆しが訪れたのは盛夏の時分だ。創元推理文庫から『少女地獄 夢野久作傑作集』が出た。『日本探偵小説全集』が新刊書店の棚に見掛けること稀になってきた現状に鑑みて、これを解体して何冊かの傑作集に編み直そう、とでもいうのか。さすれば近い将来『ドグラ・マグラ』も上下2巻本で新たに刊行されるというフラグか、この『少女地獄』の出版は?
 とはいえ、ちかごろ購書については結構腰が重くなっていた頃の発売だったのが災いして(?)、すぐにレジへ運ぶことはなかった。振り返ってみれば、まだ夢野久作の重要性をそれ程認識していなかったのだろうね。わたくしに夢野久作認識を強く迫ったのは、10月末に刊行された『死後の恋 夢野久作選』(新潮文庫)であった。別に<没後80周年>てふ帯の惹句に煽られたわけではないが、こちらは発売日から約1週間遅れただけで購入した──先の創元推理文庫版傑作集と一緒にね。
 新潮文庫では今回の『死後の恋』を端緒に傑作選全3巻の実現を想定している由。現代教養文庫から出ていた全5巻の傑作集がかつて果たしていた夢野久作入門の役割を、今回の新潮文庫版傑作集が代わって務めるという目論見があるそうだ。ならば現役文庫で2冊の短編集を持つ角川文庫は入門用に適さないのか、なんて疑問の声があがるかもしれないけれど、もはや古典の地位を占めたにも等しい作家であるならば、複数の会社から読めるようになる(=購入にあたっての選択肢が広がる≦懐具合によって選ぶことができる>全国の能う限り多くの書店の棚に置かれるようになる)のは喜ばしい出来事なのだから、あまりその点に執着するのはやめよう。それに、各社の文庫が採用する底本が異なれば細かな部分の印象も変わってくるだろうし、収録作や註釈、解説などという点で各文庫で違う楽しみ方も自ずと生じよう。いまのわれらにできるのは、この新潮文庫版傑作集の無事の完結を祈って『死後の恋』が1冊でも多く売れるよう、購書運動を展開することぐらいだろう。
 ところで新潮文庫版の編者は同文庫『江戸川乱歩名作選』も担当した日下三蔵である。実は日下はこれに先立つこと18年前、即ち2006(平成10)年に角川ホラー文庫から『あやかしの鼓 夢野久作怪奇幻想傑作選』を編纂している。趣旨は新潮文庫版と同じく夢野久作入門としてであるが、レーベルの意向を汲んで怪奇幻想風味の漂う作品を専らセレクトした、と特に記しているのは一種のリップサービスか。だって夢野久作の作品は要素の濃淡こそあれ、怪奇幻想風味漂うものが専らなのだから。
 備忘も兼ねて創元推理文庫(創)、新潮文庫(新)、角川ホラー文庫(角)それぞれに収録される短編を以下に掲げておく。実は『あやかしの鼓』には続巻『人間腸詰』があるけれど、こちらは未架蔵ゆえ以下に収録作を並べることは控えさせていただく。
 死後の恋:創、新、角
 瓶詰の地獄(瓶詰地獄):創、新、角
 氷の涯:創
 少女地獄:創
 悪魔祈祷書:新、角
 人の顔:新
 支那米の袋:新、角
 白菊:新、角
 いなか、の、じけん:新、角
 怪夢:新、角
 あやかしの鼓:新、角
 所感:新
 難破小僧:角
 幽霊と推進機:角
 新潮文庫と角川ホラー文庫についていえば、さすがに編者が同じだとラインアップも似るようだが、それは致仕方あるまい。新潮文庫版がつつがなく全3巻で完結したら、創元推理文庫や角川ホラー文庫2冊に収められた短編群に加えて、珍品名品の類をも取り揃えられるだろうことは必至である(なお、「所感」はデビュー作「あやかしの鼓」が「新青年」誌の小説公募にて2等入選を果たした際の作者コメント)。更に多角的で厚みのある夢野久作選集をわれらは手にすることとなるに相違ない。
 しかし、今年はいったいなんという年であろう。こうまで小説ばかり(というのも語弊はあるが)読み暮らし、嗜好するジャンルが変化したのをはっきり実感した年が過去にあったか定かでない。精々ホラー小説に開眼した1986(昭和61)年と日本古典文学の泥沼に嵌まった1990(平成2)年が特記に値する程度だ。今年に即していえば、探偵小説の面白さを知ったことが挙げられる。これまでわたくしは近代、その黎明期から戦前/戦中へ至るまでの探偵小説を頗る付きで冷遇してきたように思う。そこへ江戸川乱歩が登場して考え直すことを迫られ、横溝正史『獄門島』や森下雨村『白骨の処女』(河出文庫)を読み、今回トドメを刺すかのように夢野久作が出現した。それも、没後80年に併せたと雖もれっきとした新刊で! とまれ、これでずっと意識の下で引っ掛かっていた居心地の悪さは解消され、どうしたわけか抱いていた後ろめたさから解放された気分だ。
 新しく開拓されたこのジャンルの愛好作家に夢野久作が加わったこと、微妙に収録作が異なる各文庫でかれの小説を愉しむことができることに、わたくしはいまささやかながらも幸せを感じている。……まぁもっとも、いつ頃から読み始められるか現時点ではわかりかねるけれどね。
 さて、それでは電脳空間をほっつき歩いて、角川ホラー文庫『人間腸詰』と現代教養文庫版傑作集全5巻を探すとしようか。刊行が開始され始めた国書刊行会版全集は……もうちょっと先延ばしにしようと思う。◆

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第2473日目 〈江戸川乱歩『黒蜥蜴』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 1冊読み終わる頃になるとまたぞろ次に読みたくなる作品を見附けてしまい、なかなか新しい作家へ移るタイミングを摑み損ねてしまっている──これを乱歩中毒の一症例と捉えずしてどうするか。長編『黒蜥蜴』と『盲獣』と『幽霊塔』はそうやって買いこみ、書架に溜まり、読む気でいた作品であったが、ちと事情があって乱歩読書は『黒蜥蜴』で一旦中断して残りの2作は何ヶ月後かに改めて読むことに決めたところだ。そんなわけで今回の『黒蜥蜴』感想を以て、ここしばらく続いていた乱歩絡みのエッセイはひとまずピリオドを打つことにする。
 『日ノ出』誌昭和9年1月号から12月号まで連載された『黒蜥蜴』は当時作者の思惑とは反対に読者の拍手喝采を浴びた由。本格探偵物で評価されたがっていた乱歩にとって、仕方なく筆を執った通俗スリラーが評判を取ったことはどれだけ複雑な思いを抱かせたことか。それを推理するにわたくしは力不足だけれど、読者の好評と書肆の商売っ気がその後の乱歩をして通俗スリラーの筆を執らせ続け、かつ江戸川乱歩の名を不朽のものとなさしめた要因となったことは間違いないだろう。本作がその転換点にあったのか定かでないが、わたくしのようなミーハーには実にありがたい限りである。発表当時、『黒蜥蜴』を熱狂して迎えた読者たちよ、あなた方に神様の微笑みを。
 さて、では『黒蜥蜴』。本作は三島由紀夫の戯曲、美輪明宏の舞台が江湖に知られ、却って天知茂の<美女>シリーズの一、『悪魔のような美女』の原作であることの方が知られていないけれど、これまで乱歩の長編をなにも読んだことがない方がいて、その方がどれか1作ハズレのない作品を教えてほしい、と訊ねられたら、躊躇なくこの『黒蜥蜴』をオススメしたい。事実、わたくしは『孤島の鬼』以上に夢中になり、ハラハラドキドキを味わい、ページを繰る手を抑えるに強い意志を必要とし、読む度毎に残りページが少なくなってゆくのに淋しさを募らせ、そうしてなんというても明智小五郎と黒蜥蜴こと緑川夫人の丁々発止の頭脳戦と淡いロマンスの行く末に身悶えしたのだった。
 読者諸兄は既にご存知と思うが、わたくしは乱歩の全作品を読み果せたものではない。とはいえ、この緑川夫人──黒衣婦人──女賊──黒蜥蜴は乱歩が描いた数ある女性のうち、最も魅力的かつ蠱惑的、そうして最も妖艶にして才色兼備なヒロインだったのではあるまいか。かの名探偵明智小五郎とタメを張る明晰なる頭脳、豊かなる肉体美と類い稀なる美貌、一朝一夕ではけっして身に付けられぬ人心掌握の術、或る意味で明智を籠絡することのできた、かれの心に<自分>という存在を深く刻ませることのできたほぼ唯一無二のヒロインこそが、黒蜥蜴こと緑川夫人だったのではあるまいか。明智との淡いロマンスも、互いに同類と認め合うたがゆえ、必然的に生まれた宿命的なそれであったことだろう。2人のロマンスこそが本作を乱歩長編のうちでも特異かつ不朽の作となさしめているのだが、三島由紀夫は後年この点を前面に打ち出して戯曲『黒蜥蜴』を執筆したのだった。
 最後、感想の筆を擱くに際して『黒蜥蜴』の粗筋を創元推理文庫の裏表紙から転写する。粗筋をまとめる能力の劣るがゆえの行為を、どうか関係者各位よ、寛容の気持ちを以て諒とされよ。「社交界の花形にして暗黒街の女王、左の腕に黒蜥蜴の刺青をしているところから、その名も〈黒蜥蜴〉と呼ばれる美貌の女賊が、大阪の大富豪、岩瀬家が所蔵する日本一のダイヤ『エジプトの星』を狙って、大胆不敵な挑戦状を叩きつけてきた。妖艶な女怪盗と名探偵明智小五郎との頭脳戦は、いつしか立場の違いを越えた淡く切ない感情へと発展していく。あまりにも著名な長編推理。」
 ──冒頭で述べたように本稿を以てこれまで断続的に綴られ、本ブログにてお目に掛けてきた乱歩の小説の感想は一旦終わる。番外的に久世光彦『一九三四年冬──乱歩』(新潮文庫)の感想を近日ここで公にすることになるけれど、読書そのものを中断した『盲獣』や、本稿初稿を書きあげたその足で寄った古書店にて購入した『魔術師』や『影男』などを読んでの感想は後日、おそらく来年度となろうが執筆してお披露目させていただく。これは横溝正史や夢野久作についても同様である。それではごきげんよう、親愛なる読者諸兄。◆

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第2472日目 〈江戸川乱歩『人でなしの恋』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 創元推理文庫版短編集の最後を飾る本書『人でなしの恋』は、いみじくも解説を担当した新保博久によって「マイナー作品集」(P236)と位置附けられた1冊である。それに引きずられての印象ではないが、収録作の過半について、別にこれは読まずに済ましてもまるで後悔しないだろうなあ、と思わせられるのだった。このなかで必読というてよい作品があるとすれば、精々「踊る一寸法師」ぐらいか。独断ながらがこれのみがいわゆる一流の域に属す短編であって、他はいずれも一・五流、もしくは二流以下の作物に思える。むろん、『算盤が恋を語る話』の感想でも書いたように名作や傑作とされる作品を陰で支える短編が本書にも収められていることに変わりはないが、率直に申しあげれば『人でなしの恋』には『算盤が恋を語る話』よりも見劣りする短編が並べられている風に感じられてならぬ。それが証拠に……個人的なそれでしかないけれど……一編読了しては中断して他の乱歩作品へ手を伸ばし、を何度も繰り返して、なかなか『人でなしの恋』1冊を集中して読むことがかなわなかった。わたくしはこれを本書に収められた短編群の大味ぶり、魅力の欠乏などに起因する出来事と(一方的ながら)考えている。
 本書収録作のうち再読となったのは前述の「踊る一寸法師」と表題作「人でなしの恋」、そうして「接吻」である。「踊る一寸法師」の評価は上がり、「人でなしの恋」は反対に下がった。「接吻」については読後感にまったく変化なし。「踊る一寸法師」の評価──読んだあとの印象が良くなったのは、作品が持っているグロテスクとファナティックをはっきりと認識したからだ。一寸法師こと禄さんをタネに軽業師たちは騒ぎ、たらい回しに嬲る。美人玉乗りのお花が歌でも1曲、ならば踊りを1つ、となかば強いる。一寸法師は酒樽のなかへ沈められ、あがってはお花を材料に箱へ閉じこめ剣を何本も刺す、という今日のわれらにもマジックショーでお馴染みの芸当を披露する。この辺が本作のカタストロフィで、一寸法師の内に積もり積もったルサンチマン(怨みつらみ)の爆発は読み手を心胆寒からしめることは必至、一方で一寸法師の憤怒の熱にあてられて心のなかで拍手喝采を送りもするのだ。そうしてクライマックス、丘の上で月を背にして踊る、丸いスイカのようなものを手にした一寸法師のぶきみなシルエット……この一場面へ至るまでの畳み掛けは他の乱歩短編に同種のものはチト見出せないように思う。
 「踊る一寸法師」とは逆に「人でなしの恋」の評価を下げたのは、実に簡単な理由である。前回は語り手の夫の心情や行動について見過ごすことができたのに、今回はそれができなくなってしまったのだ。自分のなかに巣喰っている或る種の嗜好と、本編語り手の亡き夫門野氏のそれがぴたりと重なり、一旦気附いたらもうそこから目をそらすことはできなくなってしまったのである。思えば門野氏と「押し絵と旅する男」の語り手の兄、この文章の綴り手の三者は同類だ。羞恥心から詳らかに語ることはしないが──嗚呼、わたくしのアルウェン、わたくしのファナ・ラキシス! もはや生涯添い遂げる者の終ぞなかりせば……。
 以上はいずれも再読した短編についてであるが、今回初読となった作品のなかでは「疑惑」と「灰神楽」、「モノグラム」が良かった。乱歩お得意の勘違いもの「モノグラム」。友人を殺して完全犯罪を企むもその弟にすべてを見破られる「灰神楽」。自宅の庭で殺害された父、下手人は誰か、家族のなかに犯人がいるのか……家族皆がそれぞれ疑心暗鬼に囚われて家庭崩壊劇の側面を持つ、前編が被害者の次男とその友人の会話で進められる「疑惑」。どれもこれもこの1冊のなかにあっては頗る面白く読んだ。正直なところ、この3編に甲乙は付け難い。いずれも一流の、言葉を換えれば代表的短編の域には達しないまでも、偏愛の想いを抱かせるにはじゅうぶんな魅力を孕んだ短編であるといえるだろう。
 以前にも書いていることだが、乱歩は全短編の殆どすべてを戦前に執筆しており、それらは概ね創元推理文庫にて読むことができる由。精選された新潮文庫版短編集2冊だけでは満足できない読者は、こちらへ来て『算盤が恋を語る話』と『人でなしの恋』をお読みなさい。これはわたくしが辿った道である。そうして既読の新潮文庫版短編集と『算盤が恋を語る話』と『人でなしの恋』に含まれていない作品を読みたくなったらば、短編ならば『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩』と『D坂の殺人事件』を繙けばいいし、長編に興味が湧いたなら大人向けならそのまま創元推理文庫のシリーズから、子供向け(つまりわたくしがここでいうのは<怪人二十面相>シリーズなのだが)ならポプラ社文庫の収録作へ、関心の向くまま読み漁ればよい。勿論、光文社文庫版全集へ突き進むことに咎め立てはしない。お好きなように。
 ──本書のあとわたくしは長編『黒蜥蜴』を読み、『盲獣』を途中で読み止めた代わりに久世光彦『一九三四年冬──乱歩』(新潮文庫版)を読んだ。『黒蜥蜴』と久世光彦は既に読み終わっている。やがてこれらの感想を認めてここにお披露目する機会もあるだろう。そのあとはしばし、乱歩、封印。◆

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