第2507日目 〈『ザ・ライジング』第4章 27/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 徐々に薄れてゆく意識の中で白井正樹は、希美と自分の結婚式の場にいた。これは夢かな。でも、なんて幸せな夢だろう。なんだか心がぽかぽかしてくるな。だがその一方で彼は、いま目にしているこの光景が本来あったはずの、そして、もう決して実現しない未来であるのを、よく承知していた。
 向かい合って立つ希美は純白の、肩がむき出しになったウェディングドレスを纏っている。お腹の前で重ね合わせた両手にはブーケを持ち。
 しばしの間、彼は美しく着飾った希美に見惚れ、棒を呑んだようにその場に立ち尽くしていた。まるで天使だ……いや、女神様かな。とまれ白井には目の前の妻が、この世に降り立った天上界の存在としか映らなかった。
 ひそやかな笑い声が参列者の後ろから起こり、会場全体へさざめきのように広まっていった。
 (正樹さん?)
 ふしぎそうな顔で希美が下から覗きこんだ。
 (あなた?)
 希美……。彼は手を伸ばして彼女の肩に触れた。そこへ彼女の掌が重ねられた。いつもと同じくぬくもりに満ち、心をやすらかにさせる〈力〉が感じられた。
 死んでも……僕は君を愛しているからね。
 瞳を涙に潤ませながらも彼女はにっこりとほほえみ、ゆっくりと頷いた。ありがとう。つられて口許をほころばせた白井は、いまさらのように参列者の顔ぶれを見渡した。
 深町徹と恵美があたたかな眼差しで、娘夫婦の門出を見守っている。が、二人が浮かべる表情は対照的で、白井にはそれがすこぶる面白かった。恵美はようやく肩の荷がおりた、というような安堵とやすらぎの表情で、徹は自分の許から一人娘が離れていってしまう淋しさを隠そうともしない表情で。まあ、でもいいではないか。白井正樹は義父の申し出を快く承けて婿養子になってくれたのだから。それを聞いたときは恵美も希美も、開いた口がふさがらなかったのだが。
 彩織と美緒、藤葉ら〈旅の仲間〉が夢見がちに、うっとりとした様子で〈ののと先生〉を見つめている。おそらく未来の自分とまだ見ぬ夫の姿を、そこへ重ね合わせているのだろう。彼女達の後ろには希美の友人達が、楽器を構えてたたずんでいる……らしいが、薄靄がかかっていてよくわからなかった。
 そのまま視線を動かすと、銀行員時代に不倫とはいえ、愛し合った女性の姿がかいま見えたが、それはすぐに消えて見えなくなってしまった。
 新郎側の席の最前列には、ここ何年も会っていなかった両親と兄が坐っている。それを目にした途端、やりきれぬ思いと後悔が、心の底から浮かびあがってきた。
 親孝行も仲直りも、なにもできなかったな……。実の家族にさえ小さな未練を残して、僕は死んでいくのか。
 兄さん……なぜあんなに毛嫌いしてしまったのか、自分でもよくわからないんだ。あんなに可愛がってもらって気まで遣わせてしまったのに、僕はそれを理解することができなかった。ごめんね。
 母さん……ささいなことがきっかけでよく口喧嘩したけれど、悪気なんてこれっぽっちもなかった。泣かせるようなことばかりしてごめんね。でも、大好きだよ。僕を産んでくれてありがとう。
 父さん……小さいときからずっと迷惑ばかりかけてしまったよね。いつどんなときでも僕の考えを理解してくれた。誰よりも尊敬している。僕は、父さんのような父親になりたかった。
 ――みんな、紹介するよ。白井は希美の手を取って優しく握り、両親と兄の方へ振り向かせた。この女性が、僕の奥さんです。ほら、希美、僕の両親と兄だよ。
 希美が口を開いて、なにやらいっている。が、はっきりとそれを聞き取ることは、もはや白井には不可能だった。
 目の前が霞み、意識が消えかかってゆく。
 愛しているよ、希美。死して後も君への愛と隷属を誓おう。真実の愛に終わりはない。
 白井正樹は息絶えた。□

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