第2510日目 〈『ザ・ライジング』第4章 30/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスを降りて千本公園に突き当たる路地へ折れた途端、それまで低い唸り声をあげながら嬲るように吹いていた風が、ぱったりとやんだ。あまりに唐突だったので思わずその場に立ちすくんでしまった。いい知れぬ恐怖が足許から湧き起こり、脳天めがけて駆けあがってゆく。身震いがした。なにか嫌な予感がする。そんな思いを希美に抱かせる一因は、路地の街灯が一つも点いていないことにあった。三本ある街灯のガラスがすべて割られ、その破片が路面に散乱している。電球も砕けていた。路地に面した家の明かりのお陰で、辛うじて暗闇の状態ではなかったものの、一抹の不安を抱かせるにはその薄暗がりだけでもう十分だった。路地の脇に青いライトバンが一台、停まっている。中には誰もいないらしく、車内灯もテールランプも点いていない。エンジンの音も聞こえなかった。しかし、と希美は考えた。誰が街灯を壊したのだろう。こんな住宅街の、しかもバス通りに接して人目につきやすい路地の街灯を?
 ――逃げるのよ。自分の内なる《声》が警告した。逃げる? 家はここから目と鼻の先なのに? それなのにぐるりと遠回りをしろというのか。普段ならともかく、今日はとてもかったるくて仕方がない。足は鉛のように重くて、全身は疲れに満たされている。早く帰って休みたい。一刻も早くあの人に連絡を取り、優しく抱かれて眠りたい。彼に抱かれてその愛にくるまれることは、きっと浄化の儀式を意味するだろう。
 でも、さっきだって――逃げ遅れこそしたものの、《声》は正しかった。他の誰でもない自分自身の声だったけれど、あの《声》はやがて来る悲惨な出来事を事前に察知して、警告してくれた。そう、《声》は正しかった。なら、いまだってそうじゃない? 危険を回避できるなら、例え遠回りになろうとも――例え足を引きずってでも、身の安全を計った方がいいんじゃない? 
 ……とはいえ、知らぬ間に足は動いていた。いま来た道を逆戻りするのではなく、普段と同じように、家に向かって。一歩、一歩、緩慢に、だけど、確かに。いつもの家路をたどっている。
 駄目だってば。いますぐ引き返しなさい!!《声》を意識のずうっと遠くに聞きながら、希美はまるで操られでもするように、路地を歩いていった。
 目の前に立つ男に気づいたのは、二本目を過ぎて砕けたガラスの破片を避け、三本目の街灯まであと一メートル足らず、というときだった。その男はデニムのジャンバーにブルージーンズ、髪を短く刈っていた。眼差しはとてもおだやかだが、実際になにを腹の底で企んでいるのかはわかりかねる。希美がその男に気を取られている間、ライトバンの陰からもう二人が現れた。髪をオールバックにした細面の男と、金色に染めた髪を肩まで垂らしてミラーグラスをかけた男だった。三人は立ちすくんだままの希美を取り囲んだ。ずっとそこに潜んで待ち伏せていたのだ、と希美は思った。そう、まるでスティーヴン・キングの小説に出て来る、狂犬病にかかったセント・バーナードのように。
 「深町希美さんだね?」□

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