第2511日目 〈『ザ・ライジング』第4章 31/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ブルージーンズの男が優しげな声で訊いてきた。人を従わせる威力のある、深い響きの声だった。だが、希美にはそれがまるで別世界から聞こえてくる声のように感じられた。口の中がからからに乾いてしまっていた希美は、こわごわと上目遣いで男を見やり、こくんと頷いた。男は
 「そうか、よかった。人違いだったらどうしようか、と心配だったんだ」と唇の端をあげた。他の二人の口から笑い声がもれた。ヘドロに似た臭気が刹那、鼻をかすめたのは気のせいだったろうか。「俺達はね、頼まれたのだよ。君の知り合い――いや、親愛なる友人から」
 親愛なる友人? いったい誰が、なんのために、この三人を? 逃げるのよっ! 再び《声》が、今度は耳のすぐそばで聞こえた。希美が半歩、右足を後ろに滑らせたとき、細面の男が彼女の腕を取って背中へねじあげた。鞄が手から離れ、路地に倒れた。希美は声ならぬ悲鳴をあげたが、ミラーグラスの男の掌で無造作にふさがれた。ついでミラーグラスの男が、希美の膝の後ろを軽く蹴った。彼女の体は崩れ落ち、テューバケースが鈍い音を立てて路地に落ちた。
 喉の奥に重くて苦いものがこみあげてくるのを感じながら、希美はテューバケースへ手を伸ばした。ブルージーンズの男が膝を曲げてケースを、片手で軽々と持ちあげた。それを追う希美の視線が、男のそれと正面からぶつかった。ケースの表面に付いた細かな砂粒を払い落としながら、
 「これは俺が持って行ってあげよう。大丈夫、壊したり傷つけたりはしないよ。亡くなったご両親に買っていただいた大切な、思い出深い楽器なんだよね? 安心したまえ。俺は契約を守る男だ。それに俺はサックスを吹くんだよ、アルトだがね。君にとって楽器がどれだけ大切か、それぐらいはわかっている」
 ブルージーンズの男は希美の鞄も拾いあげて、同じように表面を払った。そうしてから彼女の体の自由を奪っている二人に、愉快でたまらない、という調子でいった。「さあ、そのお嬢さんを車に乗せるんだ。我々もメインディッシュを味わうとしよう。初物でないのが残念だがな」
 希美は腹の底から大声で悲鳴をあげようと口を開けたが、ブルージーンズの男の腕が力一杯に押しあてられ、思わずむせかえった。何度も口を動かして空気を吸おうとしたが、わずかな隙間が出来るたびにブルージーンズの男が腕を押しつけてくる。そのときの唇の動きは、却って卑猥な想像を男達にさせたようだ。彼等がいやらしい忍び笑いをもらした。
 希美の歯がブルージーンズの男の腕に触れた。希美は男を見据え、思い切りその肌に歯を立てた。自分のどこにこんな力があったのか、と不思議に思えるほどの勢いだった。鋭く尖った八重歯(「希美ちゃんのトレードマークだよね、その八重歯って」と森沢美緒がいつぞや言っていた台詞が脳裏をすうっ、と横切った)が男の肌にめりこんでゆく。ややあって、口の中にどろりとした液体が流れこんできた。――血だった。しかし男はにやにや笑っているばかりで、痛みは感じていない様子だった。男は希美の額を軽く押しやって腕を放した。歯の突き刺さっていた箇所が赤黒くにじんでいる。希美の口から離す際に出来た歯の後が、引き裂いたような筋を残しているのが、薄暗い中でもはっきりと見られた。
 「やれやれ、たくましいお嬢さんだな。気に入ったよ」
 そういって希美の頬を掌でそっと包み、撫でさすった。かさかさした鮫肌で、ささくれがすべらかな頬に白い引っ掻き傷を幾つも残した。これまでに感じたことのない寒気が全身を貫いていった。希美はいま自分が抱いている恐怖に屈するより他、この状況から逃れる術はない、そう悟った。然り、抵抗は無意味だ。
 「あの小娘、この子にずいぶんと恨みを持ているらしいな」とミラーグラスの男がいった。ブルージーンズの男はなんの表情も見せずに頷いた。話の内容よりもその顔の方が、よほどおぞましく感じられた。
 「だけど、写真以上の上玉だな。こりゃあ美味そうだ」細面の男がいった。
 ミラーグラスの男は「そうがっつくな」とそれを諫めた。
 「さあ、乗せろ。誰かに見られないうちにな」
 ブルージーンズの男がそういうと、希美は、男達にされるがままとなって、ライトバンに押しこまれた。最後に希美の鞄とテューバケースを持ったブルージーンズの男が乗りこんできた。後ろのドアが、静かに閉まった。男達は獣となって、獲物に襲いかかった。□

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