第2513日目 〈『ザ・ライジング』第4章 33/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 おそるおそる希美は顔をあげた。「真里ちゃん?」
 東京の大学へ進んでいまはそこの大学院に籍を置いている、幼な馴染みの若菜真里が立っていた。心配と不安と疑問が入り混じった眼差しで、こちらを見ている。
 「そうだよ。どうしたのさ、こんなところでうずくまって?」真里が希美のすぐ脇にしゃがんだ。妹同然に育ってきた希美の顔を見やっている。「なにか、あった?」
 そう訊いてはみたが、真里には希美の身になにがあったのか、察しはついていた。自分にも同じ経験があったから。学部時代の唯一、思い出すことを拒否したい記憶だった。まったく面識のない他学部の、四年生が相手だった。校舎の地下室に丸二日監禁されて暴行の限りを尽くされて解放された翌々日、真里はその四年生を殺害した。ただの一度も警察に疑われず、これから先、一生捜査の目を向けられることがなかった真里のこの挿話は、いつかどこかで語る機会もあるだろう。閑話休題。
 希美はうつむいたまま、唇を噛みしめた。あまりに強く噛んだせいで、所々で唇が切れて血が滲んでいる。そうしてそのまま、真里の胸に顔を埋めた。真里の掌が希美の肩に置かれた。
 「のの、立てる?」
 真里が訊いた。相手が頷くのを見て、真里は希美の脇から背中に片手を廻し、もう片方で腕を掴むと、そっと彼女を立たせた。ちょっと膝ががくがく震えよろめいたが、真里が手を出して助けようとするより一瞬早く、希美は電柱に手を伸ばして自分の体を支えた。その様子を見て、真里は安心したような溜め息をもらした。
 真里は自分の荷物を肩から提げ、希美の鞄を片手に持つと、幼馴染みの腰に手をやって、ゆっくりと歩きながらその場を離れた。希美の家までの約十メートルが、真里にはひどく遠く感じられた。何気なく時計に目をやると、針は十時三十九分を指していた。

 低い唸り声をあげる浴室乾燥機。宙に漂う湯気。あたたかなお湯。それらにくるまれ、幸せを感じてぼんやり過ごす時間。大好きなお風呂。落ち着く、というよりも、至福なる言葉が似合ういま。なにものにも代え難い、安息の時間……いつもなら。
 蛇口から水滴が一粒、音を立てて落ちた。ぽっちゃん、という音に顔をあげた。水面にごく小さなさざ波が円を描いて広がってゆく。それはしかし、希美の体にたどり着くことなく消えてしまった。その代わりなのか、希美はふうっ、と息を吹きかけた。同心円が四方へ伸びてゆく。その様をみて、少女は笑んだ。それは諦念と悲哀とが、複雑に混ざった笑みだった。
 希美は溜め息をついた。すべてが今日一日の出来事とは、どう頭をひねってみても信じられなかった。単に処女でなくなっただけなら、理性はそれを現実として受け容れるだろう。殊に婚約者が相手ならば。だが、目の前に突きつけられた現実は、希美の期待と想像を裏切ってあまりあるものだ。信頼していた――わけではないが、その技術や熱意、知識に尊敬の念ぐらいは抱いていた顧問代理の上野に(事情はどうあれ)レイプされ、まるでダメ押しのように見知らぬ三人の男達に嬲り者にされた。たった一日で四人に強姦された女が、いったいこの世に何人いるというのか。
 ゆらめく恥毛をそっと撫で、お腹の方へ手を滑らせた。子宮の奥深くに精液のこびりついている感覚は、まだ残っている。膣には怒張が挟まったままのような違和感が、残って消えなかった。歩くたび、股間に鈍い痛みが走る。処女でなくなるとは、こういうことか。……いったんは止まった涙が、またとめどなくあふれてきた。
 「のの? お湯加減はどう?」
 真里の声で我に返り、手の甲で涙を払った。振り向いたガラス扉に真里のシルエットが浮かんでいる。ぼおっ、と影法師みたいだ。□

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