第2518日目 〈『ザ・ライジング』第4章 38/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 サンダルを脱ごうとしたとき、ふとなにかの気配――誰かがいるという気配を感じた。私の知っている誰かじゃない。そう考えた途端、全身を冷たいものが走り抜けた。今日の悪夢めいた光景が目の前に浮かんでくる。もうやめてよ、これ以上私をどうしようというの。そんなに私が欲しかったら、正樹さんを殺してからアタックしてきなさいよ。でも、代償は大きいからね。それだけ覚悟しておきなさい。憎悪のこもった眼差しで顔をあげた。
 廊下の先に、丈の長い黒いローブを頭からかぶった者が、こちらをじっと見つめている。周囲には七色に輝いてそれぞれにグラデーションを描く光の玉が浮かんで、それらは円を描いてその者の周りを回っていた。ローブを鼻のあたりまで引きさげているので表情までは読み取れない。が、辛うじて見られる口許の皺の数や深さ、瑞々しさを遠の昔に失って干涸らびた唇から推理するに、ずいぶんな年寄りと思われた。あれ、と希美は記憶をたぐり寄せた。昨日、横浜で会った人だよね。八景島のアクアチューブで私をじっと見ていた、黒い衣の男。
 その者は廊下を滑るように移動してきた。視線は感じられるが、その瞳までは見えない。首許には緑色に輝く石をはめこんだ銀縁のブローチが飾られている。やがて、黒い衣の男は希美から視線をはずして、居間の方を指さした。指は透き通るぐらいに白くて鉤状に屈曲し、鋭く尖って長く伸びた爪があった。指の肉にも深い皺が縦横に刻みこまれ、それはなんとか骨に付着しているという程度だった。ローブは袖のところからやわらかな曲線を描いて切れ目がなく、そのまま足許まで続いている。希美も黒い衣の男の動きにつられたように、居間へ顔を向けた。
 ブレーカーが落ちたままの居間に、一点の明かりが戻っていた。続いて、テレヴィの音声が聞こえる。驚きのあまり息を呑み、サンダルを脱ぎ捨てて居間に駆けこんだ。真っ暗であるはずのブラウン管が明るくなって、アナウンサーが淡々とした口調でローカル・ニュースを伝えている。
 「な、なんで……」
 テーブルに掌をつき、画面から黒い衣の男に目を戻した。だが、そこにはもう誰もいなかった。慌てて廊下へ戻り、あちらこちらを見て回ったが、いまこの家にいるのは自分一人だけという事実を、再確認したに過ぎなかった。
 変なの……。そう思いながらテレヴィを消そうと電源ボタンに手を伸ばしたときだった。画面の中のアナウンサーは季節外れの暴風雨と落雷に注意を促した後、これまでなんとか自制を保ってきた希美の心を完全に打ち砕くニュースを伝え始めた。
 「本日午後六時半頃、神奈川県小田原市に住む大学四年生が殺害されました。被害者は小田原市在住の白井正樹さん、二十九歳、横浜市にある聖テンプル大学の学生です。犯人は静岡県沼津市にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医、池本玲子、二十六歳。白井さんは塾でのアルバイトの帰り、下宿近くの神社の境内で池本容疑者に頭部を何カ所かひどく殴られ、ほぼ即死だったということです。所轄の小田原警察署では――」
 「いやああああああっ!!」
 希美は鋭く叫びながら両耳をふさぎ、その場に崩れ落ちた。目蓋を固く閉じ、幾度も幾度も頭を振った。「そんなの、そんなの信じないっ! 正樹さん……あなた……正樹さん……嘘でしょ……正樹さん……」
 震える指でテレヴィの電源を切った。再び闇が帰ってきた。その闇の中で希美はしとどに涙を流しながら、婚約者の名前を繰り返し、繰り返し呟いた。□

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。