第2519日目 〈『ザ・ライジング』第4章 39/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 涙が涸れるぐらい泣くとはよくいわれる言葉だが、いったいだどれだけ涙を流せば涸れるのだろう。涙腺が刺激を受けて自動的に涙は目からあふれてゆくわけだが、ショックを与えずともある程度の時間が経てば自ずと涙は止まる。が、実際にはその後しばらくはしゃくりあげるなどして〈泣いている〉時間は続く。
 居間の床に横たわったままの希美にしても、さっきのニュースを聞いて三〇分ぐらい声をあげて泣き伏し、涙の海を床に作っていた。時間の経過と共にそれは次第にやんでゆき、居間は隈無く家中を覆う闇をぼんやりと見つめながら、ふわりと現れてはすうっ、と消えてゆくような思いが、乱れる心を訪れて交錯した。
 正樹さんは死んじゃった。殺されちゃった。私の愛した男性はもうこの世にいない。逢うこともできないまま、私はこれから生きてゆかなきゃならない。……ねえ、彩織、私ね、正樹さんと婚約したんだよ。これもあのとき、彩織がそばにいて告白する勇気を与えてくれたから。……あ、そうだ、美緒ちゃん。パーティーで出す料理で足りない材料があるの(欲しい材料、っていった方がいいかな)。美緒ちゃんのお母さんが作ったバラのジャムなんだけれど、余ってたら分けてもらえないかな。あれ、上野先生ってどんな顔してたかな。よく思い出せないや。でも先生、私をレイプしているとき、泣いていた。結婚相手のことでも考えていたのかな。〈あいつら〉って池本先生と赤塚さんのことなんでしょ。可哀想に、先生も私と同じで被害者なんだね。……ふーちゃん、あのとき一緒にいてくれてありがとう。高校に入って初めての友だちがふーちゃんだったね。その後で美緒ちゃんが加わって〈旅の仲間〉が結成されたんだよね。……パパ、パパが生きている間に正樹さんを紹介したかったな。ママは写真だけ見せてたから知っていたけれど。……ああ、正樹さん、あなたがいたからこれまで生きてこられたのに……。
 うつろな眼差しで闇を見あげる希美の心に小さな傷が生じた。白井正樹は死んだ。その事実が体中に、まるで水を張ったコップに一滴の墨汁を垂らしたように、マーブル模様を描いて滲み、じわじわと浸透していった。まだ冷静とは言い難い心理状態が事実を徐々に受け容れてゆくにつれ、ほんの少しずつだが確実に傷口は広げられていった。そうっと慎重に、息を殺して入念に。針の先ほどの、ほとんどそれと見分けられないぐらいに小さな穴が、やがてぱっくりと口を開けた。心という部屋の天井に開けられた穴を見あげると、その向こう側には深い闇が広がっていた。星の瞬きもなんの光もなく、幾重にも塗り重ねられた黒い空間が覗いているだけだ。希美は感情のない人形になった気分でその闇を見あげていた。あたかも白井の死が、彼女からすべての感情を奪ったかのようだった。
 そのとき、闇のはるか彼方から、表面がほのかに艶がかった楕円形の物体が、音もなく落下してきた。それは空っぽになってしまっていた希美の心のやわらかな土壌に着地し、そのままめりこんだ。やがて、彼女の心の中で一つの言葉が様々な情調を伴って生まれた。〈死〉という言葉だった。蒔かれた種子は芽吹いて頭をもたげると、天をめざしてゆっくり成長していった。意識の遠くからさざ波に似た音を立てて、忘れかけていた思考能力が戻ってきた。□

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