第2520日目 〈『ザ・ライジング』第4章 40/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 この時初めて、希美は自分自身に訪れる死について考えをめぐらせた。もっともそれは十七歳の少女のこと、ひどく漠然としたものではあったが。父も母も将来の夫も、突然の死によってこの世を去った。この予期せぬ事態について、彼等はいったいなにを思っただろう。希美は夏休みの読書感想文の宿題で読まされたドイツ人作家、ハンス・カロッサの小説を思い出した。若き日の死への憧憬。ずたずたにされた心へ挨拶もなしに訪れ、土足であがりこんできた死の影を前にして、ようやく、小説の主人公達がふとした拍子に抱えこみ、掌で転がすようにしてもてあそんだ、まだ見ぬ世界への憧れが理解できた。現実を肯定して、困難があればそれを乗り越えてゆく強さを自分は持っている。希美は今日のこの瞬間まで信じていたが、どうやらそれは間違っていたらしい。きっと克服すべき困難に出会ったことがなかったから、そうした過信ともいえる考えを持っていたのではないだろうか。自殺という行為が弱い魂の表現であるのは疑いない。でもさ、人間ってみんな弱い存在じゃないのかな。
 〈死〉が私を手招いている。おいでおいで、と。パパとママと正樹さんが呼んでいる。そっちには友だちがいるから未練もあるだろうけれど、こっちの世界にはお前を愛している者がお前の来るのを待っている。そう、死者も愛するんだよ、希美。――そんな風にいって、私を呼んでいる?
 さあ、こっちへおいで。その決意ができたのなら。さっき廊下にいた黒い衣の男が、希美をじっと見つめて手招きしている。
 希美はおもむろに上体を起こした。相変わらず家の中は暗く、立って電気のスイッチを押しても明かりがつく様子はない。試しに洗面所へ行って配電盤のレバーを、背伸びして押しあげてみたが、結果は変わらなかった。何度か足をもつれさせ、壁に肩や肘をしたたかにぶつけながら台所へ歩を進めた。食器棚の下の引き出しに、蝋燭があったはずだ。そう、それはそこにあった。三本まとめて摑むと横長の平皿を一枚手にして、居間に戻った。仏壇にマッチがある。一本の蝋燭に火を灯し、蝋を数滴皿へ垂らして他の二本を立て、それらに火を移してから、最後に最初の一本を立てた。簡単な燭台が完成した。小さな空気の揺れが炎を静かにゆらめかせ、わずかな煙をくゆらせた。あたたかな雰囲気の明かりが、室内をぼんやりと照らした。だが、それとて希美の心から死の影を追い払うことはできなかった。
 あ、そうだ、日記書かなきゃ。そう希美は独りごちた。如何なる非常事態に直面しようとも、人間は本能的に日常生活を営もうとするらしい。明日、警察に行くことはもうないだろうけれど、今日、自分の身になにがあったのか、警察の人々、〈旅の仲間〉へ伝えることはできる。おそらく部室で陵辱場面を撮影していた赤塚理恵も、おそらくはこの世にいないのだろう。さっきの上野のいい方を思い返してみると、何度考えてみても、結論はそうとしか出ない。でも、間違っていたって関係ない。書いた日記をこの家に置いておくのはためらいがある。誰かに送っておくのが懸命というものだ。
 部屋に入ると、机の前に坐って一番上の引き出しから、緑色の表紙の日記帳を取り出した。置いた蝋燭の炎がゆらめき、帳面に影が踊った。彼女はゆっくりと頁を開き、掌で綴じ目を下から上に滑らせると、いつも使っている軸の太いシャープペンを握った。
十二月二十三日(月)天気;晴れ→風雨/雷
 そして最初の言葉が浮かんでくるのを待った。□

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