第2521日目 〈『ザ・ライジング』第4章 41/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 なかなか言葉の訪れる様子はなかった。が、しばらくしてためらいがちに、シャープペンを持つ手が動き始めた。

天皇誕生日なのに昼から部活。いやんなっちゃう。だけど駅でバスを待っていると、ふーちゃんとばったり! ふーちゃんも水泳部の練習があるらしい。部長になるといろいろあってねえ、なんてため息をついてたけど、とても充実した顔をしていた。ちょっとうらやましい。私もなにかやればよかったかな。教室でちょっとおしゃべりして別れる。部活。

 ここまで一息に書いて手を休めた。文章を書き馴れない者にはこれだけ書くのも重労働かもしれないが、何年も日記を書いていると〈文章を書く〉という行為に抵抗はなくなり、苦痛が愉悦へ変わる瞬間もまま経験するが、こなれた調子で筆先から言葉があふれてくるまでには至っていない。小説家を夢見た正樹さんや、どうやら隠れて物語を書いている節のある美緒ちゃんなら、そんなこともないんだろうけど。そう希美は口の中で呟いた。

パート練習。Tp,Euph,Hrと合わせる。Aさんだけどうしてもずれる。音も濁っている。仕方ない? 上野先生の指揮でヒンデミットのSym,3rd,4th movの合奏。先生体調優れないからか指揮棒鈍り、4th mov途中で練習終わり。そのまま解散。Hrの中井さん(1-1)とおしゃべりして教室に戻り、ふーちゃんを待つ。

 天井を見あげて目蓋を閉じた。上野が練習に集中できず、何度も指揮棒を振り間違えた理由も、いまなら納得できる。その後で私を……レイプするという〈仕事〉があったからだ。そういえば先生、赤塚さんと一緒に部室を出て行ったな。ふうん、なるほど。あれは相談だったわけか。
 さて、次は本日のハイライトね。詳細に書くつもりはないが省くつもりはない。これを書かずして〈今日の日記〉を書くことに、いったいなんの意味があるだろうか。希美は頁の上に視線を落とした。

赤塚理恵(2-2)から「上野先生が部室で待ってる」と伝言あり、部室へ。これは嘘だった。これは罠だった。部室で先生に襲われて……処女を失う。

 つっ、と涙が筋を残して頬を伝い、頁の上に落ちると、そこだけ少し盛りあがってまわりに皺が走った。下唇を強く噛んでいると、上の歯が滑って傷をつけた。じわじわと血の味が口の中へ広がっていった。左手の甲で涙を拭い、怒りの宿った瞳で帳面を見、書き付けた。

ばかやろう!!!!!
私の処女は正樹さんだけのものだったのに。

 途端、涙がどっとあふれてきた。まるで堰を切ったようにほとばしり出て、拭う暇もない勢いで。

――ふーちゃんが来てくれて、ブラウスのボタンを直してくれたりした。駅、港行きのバス停で別れる。

 その一行を書き付けるとシャープペンから手を離し、立ちあがってベッドに倒れこんだ。指の先がMDラジカセのリモコンに触れた。何気なく再生ボタンを押すと、タンポポの《乙女パスタに感動》が流れてきた。
 ……時間が流れて居間の時計が十二時の鐘を打ち、ややあってCDが終わった。数分の虚無に似た時間が過ぎてゆく。再び机の前に坐り、シャープペンを持って日記帳に向かった。

公園に突き当たる路地で三人組の男に車に押しこまれ、また暴行される。赤塚さんの指金だったらしい。何度もなぶられて解放されて車はその場を去った。通りかかった真里ちゃんにカイホウされて入浴。食事。
何度も無言電話あり。私が出ると、上野先生だった。「すまなかった」とだけいって切れる。電話線抜く。
雷。電気ダメ。TVのニュースで正樹さん殺されたのを知る。犯人は池本先生(保健室)。小田原、彼のアパート近くの天神社にて。

 そこでもう一度シャープペンを置き、冒頭から何度も読み返してみた。誤字に気がつき、あ、と小声で呟いてその部分を消しゴムで訂正した。
 もう書くべきことは尽きたようだ。これでいい、と希美は頷いた。
 でも、これが生涯最後の日記になるのなら、せめてあと二、三行、メッセージめいた文章を書き残しておきたい。うーん、なにがいいだろう……。

死者が私を手招いている。

 え、なに、これ? 希美はその一文を、目を剥いて見つめた。私、こんなの書いてない。消しゴムで、どれだけ力をこめてこすってみても、マジックで書いたようにそれは消えなかった。薄まりもしない。黒く塗りつぶそうとしても弾かれるばかりだ。結局、希美はその一文を放置することに決めた。
 その後に本来書こうとしていた文章を書き加えた。
彩織、美緒ちゃん、ふーちゃん、いままでありがとう。みんなのことは忘れない。大好きだよ!
 気取って英語で一言、同じことを加えようとしたが、英語の得意な彩織に文法や単語の綴りを、あの世で再会したときに指摘されるのは癪だったので、考えた末にそれは省くことにした。書きたいことはあるかもしれないが、これ以上時間が経つと、決意が変わってしまうかもしれない。もうなにも考えたくないし、なにも考える必要はない。それにさっきから気のせいかもしれないが、自分の背後のずっと遠くの方から、黒い衣の男が誘う声が聞こえる。
 希美は日記帳を閉じると、B5の封筒を引き出しから一枚取り、住所録を繰って、これの送り先を考えた。
 誰にしよう。誰がいいかな。〈旅の仲間〉の三人だろうな、やっぱり。
 ふと、一人の名前と住所に目が止まった。

森沢美緒 駿東郡長泉町下土狩……□

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