第2522日目 〈『ザ・ライジング』第4章 42/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 そうか、美緒ちゃんか。もう赤塚さんを恐れる必要はないけれど、この日記帳を託すに美緒は適役のように思われる。彩織でもなく藤葉でもなく、希美が美緒を選んだのはある意味で懸命な処置かもしれない。きっと、と希美は考えた。彩織がこれを受け取ったら誰も止められないまま暴走し、関係者に掴みかかってゆくかもしれない。藤葉はもう少し冷静でいられるだろうが、やはり彩織と同じ行動を起こすだろう。藤葉の場合、部室での一件を希美自身から聞いているだけに、普段よりも血が頭にのぼるのは早いと考えられる。ならば、日記帳を送る相手に美緒を選ぶのは、いちばんの安全策であり、穏健な処置かもしれない。もうあまり順序だって物事を考えられなくなってきているのを実感しながら、希美は日記帳を送る相手を美緒に決めた。
 油性のサインペンで美緒の住所を丁寧な字で表書きし、楽譜を送るときに使うビニール袋へ日記帳を入れて封をした。適当に八〇円切手を四枚貼って、裏には「深町希美」とだけ書き。
 椅子から立ちあがって数歩歩くと、両の足がくの字に曲がり、そのまま床へ膝をついた。燃えるような痛みが足の付け根から爪先めがけて疾駆してゆく。高熱を出したときに似て、関節という関節が万力で締めつけられ、鋭い悲鳴をあげている。立とうとしても、次の瞬間には力が抜けて前屈みに倒れこんでしまう。ベッドの端に掌をついてなんとかバランスを保ちながら、そのまま腰をおろした。体のあちらこちらが火照り、疲れがのしかかってくる。
 さあ、おいで。泥を口いっぱいに頬張って発音のはっきりしない澱んだ声が、耳許でそう囁きかけてきた。頬を冷たいものが撫でてゆく。そこからは、いたわるような感情が伝わってくる。お前が思っているほど、死というものは怖いものじゃないよ。そうさな、むしろあたたかくて優しいものだ。時に苦痛を伴って死んでくる者もあるが、連中はタイミングを誤っただけでね。もっとも、我々は誰にでも死を奨励しているわけではない。本当にそれを望む者にのみ切符を渡す。当然のことじゃないかね? そう、お前は我々によって選ばれたのだよ。さあ、おいで……。不吉な笑い声をもらしながら、黒い衣の男がいった。
 やおらパジャマを脱いでフード付きのパーカーとジーンズに着替えると、封筒を携えて蝋燭を消し、居間に行って仏壇に合掌して、両親の写真を額から出して胸に押し抱き、ジーンズのポケットに折りたたんで仕舞うと、玄関へ足を向けた。真里が壁に掛けてくれたコートへ袖を通し、写真をポケットにしまった。スニーカーを履いて傘を持つと、鍵をはずして外へ出た。防犯ライトがポーチとその周辺を煌々と照らしている。
 さっきより収まったとはいえ、まだ雨降りやまず雷の轟く音が聞こえる夜更けの街に、希美はさまよい出た。背後で人の声がした。振り返ってみると、NTTの工事車両が電柱に横付けされ、作業用クレーンが伸びて男が二人、電話線の修復にあたっていた。
 ふうん、電話線、切れちゃったんだ、と起伏のない声で呟くと、希美は千本浜公園に向かって歩き始めた。□

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