第2525日目 〈『ザ・ライジング』第4章 45/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 さあ、おいで。あの黒い衣の男の声が脳裏に響いた。ためらってはいけない。こちらにはお前が望む世界があるのだから。お前が会いたがっている人たちがいるのだから。さあ、おいで。有無をいわさぬ調子の声である。しかし、四囲を見渡してみても、黒い衣の男の姿は視界に入ってこない。こちらで暮らそう、とみんなが待ってくれているよ。
 希美は知らず知らずのうちに頷き、よろよろと立ちあがった。そして、おぼつかない足取りで海へ入っていった。くるぶしが波に洗われた。少しずつ浅瀬から沖へ移動してゆくにつれ、くるぶしからふくらはぎへ、膝へ、腿へ、腰へと海面は高くなってゆく。襲いかかってくる高波に希美の体はよろめき、頭から水をかぶった。そのたびにむせて、喉の奥で塩辛い吐き気を催したが、浜辺へ引き返す気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。
 そう、その調子だ。いいぞ、そのまま歩いておいで。怖がらなくていい。――不気味なせせら笑いが声に被さって聞こえてくる。
 (のの! 行っちゃダメや!)
 彩織の声が他の二人の声を圧して、一際はっきりと耳へ届いた。
 (ずっと一緒って約束したやんか。独りぼっちになるなんてイヤや!)
 (彩織ちゃんのいう通りじゃない?)
 落ち着いた調子の母の声が、耳許でそっと囁かれた。――ママ?
 そのとき、これまでよりも一段と高い波が、希美に襲いかかってきた。見あげるような、津波かと間違うぐらいの大きな波だ。黒い壁がぐんぐんと勢いを増して隆起してくる。巨人が血管の浮き出たたくましい腕で持ちあげているのではないか、そんな想像さえ生まれた。音ももはや塊となって耳の奥まで轟いてくる。波はスローモーションで描かれる映画の一場面のように、ゆっくりと希美に向かって倒れかかってきた。彼女には目を見開いて、恐怖に満ちた瞳でそれを見つめることしかできなかった。
 波の重さに耐えかねて、希美は海の中に倒れた。その拍子に髪が根本から逆立ち、水の中で広がるのが視界の端に移った。それはどことなく水中花のように見えた。無意識に、口を開いて呼吸しようかとも思ったが、海水が容赦なく口腔に押し込められてくるだけだった。手足をばたつかせてみても水を掻くばかりで、なかなか浮くことができない。海岸に向かう波、沖へ帰る波、それぞれの水圧もあるのだろう。が、いまの希美にそんなのは関係なかった。海岸からさほど離れたとも思えないのに、体は底へ底へと引きずりこまれてゆくような気がする。錯覚かなあ? ああ、もう本当に駄目なのかも……死んじゃう……。
 目の奥で熱いものが浮かんだ。これまでの思い出が、時間も空間も無視して断片的な映像となって駆けめぐってゆく。
 さよなら……。
 刹那、ハーモニーエンジェルスのオーディションへ一緒に応募した盟友の顔が、脳裏を過ぎった。
 ――彩織!
 それを契機としたように、意識が徐々に遠ざかり始めた。希美の体は自ら抗うことをやめ、静かに海の底へ沈んでいった。□

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。