第2545日目 〈『ザ・ライジング』第5章 5/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 海の大きく優しい掌に抱かれた深町希美は、まどろみながらうたかたの夢を見ていた。それはまだ自分が生まれるずっと以前の光景だった。若かりし日の両親の姿、まだ結婚する前の深町徹と松本恵美の、仲むつまじき黄昏刻の一景。時折話しに聞いていただけの昔を、なぜこうもまざまざと眼前にできるのだろう、と意識の遠くで訝しんだが、それはそれとしても、自分が知らない両親の独身時代をこうやって垣間見るのは後ろめたさよりも好奇心が先に立つのは、致し方のないことだ。
 彼等は横浜にある聖テンプル大学の中庭にある銀杏の古樹が枝を張る下のベンチにならんで腰掛けていた。葉が黄色く染まっている。父は膝の上に広げたノートとにらめっこしていた。その隣でぼんやりと、母が澄み渡った空を見あげている。そして、溜め息が彼女の口からもれた。深町徹はそれに気づいたか、口を恋人のそばへ寄せてなにごとかを囁いた。心配げな顔をしている。松本恵美はほほえみながら首を左右に振った。将来の夫の肩に頭をそっともたれさせ、目を瞑って短い単語を二つ、口にした。父が笑みを返すのを見たとき、希美は、昔からパパの笑う顔って優しかったんだな、と思った。
 パパ、本当にママのことを愛しているんだね。二人が派手な喧嘩をする場面を、ついぞ希美は目にすることがなかった。ささいなことで口論にはなっても、すぐに仲直りしていた。ママが頬をふくらませてすねているとパパが寄ってきて、髪の毛を撫でながらごめんねといってみたり、逆にパパが口喧嘩に負けて和室や寝室でふて寝をしていると頃合いを見計らったママがやって来て、声をかけながら腕や胸に掌を這わせ最後は頬か唇にキスをして、互いにそれで解決。そういえばあの二人、よくキスをしていたな、と希美は思い出した。物心ついてからいったい何千回、その現場を目撃してきただろう。中学生の時分(二年生だったかな?)、娘の前でそんなにいちゃいちゃしないでよ、と声を荒げて数日間、父とも母とも最低限の会話しか交わさなかった頃があったけど、それが一過性の暴風のように深町家を通過するとすべては再び以前のままとなった。もっともそれ以来、両親は更に大っぴらに、唇のコミュニケーションを娘の前でするようになったのだが。
 もう少し寄ってみたら、二人がなにを話しているのか、聞こえるかもしれない。だけど、どうやったら近づけるのかな。頭の中でそう念じればいいのかしら。試してみようかな、と思った矢先、希美は視界が激しくぶれるのを感じた。無意識に腕を広げてバランスを保とうとする。ふわり、と宙に浮くような感覚だった。そして次の瞬間、希美は両親のすぐ目の前に立っていた。気配を察したのか、深町徹は顔をあげて正面を、ついで周囲を見渡したが、誰もいないのがわかると小首を傾げ、うつむいて視線を元に戻した。
 びっくりしたあ……姿が見えるのかと思っちゃった。希美は少し膝を屈めて、二人がなにか喋らないかと期待したが、それは空振りに終わった。だが、音のまったくなかったさっきにくらべて、希美の周囲には、音のある世界が戻ってきている。風の音、葉がさざめく音、中庭の向こうにある(“メモリアル・カラヤン・シアター”と呼ばれることが専らな)コンサート・ホールの階段で金管楽器が音階をさらっているのが聞こえる。その楽器がテューバであるのは考えるまでもなかった。
 懐かしいテューバの音色……テューバ! パパとママが買ってくれた大切な楽器! あのテューバを置いて死ぬなんて!
 そう物欲が強いわけでもなく、物事に執着するわけでもない希美だったが、両親から贈られて苦楽を共にしてきた楽器についてとなれば話は別である。父が住宅ローンの返済で毎月大変なのにそれでもお金を工面してくれ、母が知り合いの楽器商に頼んで娘に合うものを、と二人して骨を折って私のために買ってくれた宝物。いってみればあのテューバは希美の分身であると共に両親を偲ぶ遺愛の品でもあった。□

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