第2546日目 〈『ザ・ライジング』第5章 6/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美、と自分を呼ぶ声がして、彼女は目を開けた。透明度の高い闇が四囲に垂れこめていた。ようやくいま、自分が海の中にいて、浮力を失って沈んでいるのだ、と察知するのと、急に息苦しくなって手足をばたつかせてもがき、唇から大きさの様々な水泡が無数にこぼれ出てゆき視界がふさがれたのは、ほぼ同時のことだった。浮かぼうと必死にもがいても、そう簡単に海面に出られそうもない。誰かが足首を摑んで死の淵へ引きずりこもうとしているのではないか、とそんな悪夢めいた想像さえ生まれた。しかし、希美に足許を見やる勇気はなかった。ようやく露わとなった生への執着がそれを拒んだからだ。真夜中の荒れる海の中とはいえ、目の前で踊る水泡の行く先が海面であり、その上に空気があることは否定のしようがない事実だった。まだ死んだわけじゃない――。希美は口の中でそう呟いた。いま私がいるのはあの世じゃない。生きとし生けるものが蠢いて、与えられた命を精一杯に全うしようとあがいているこの世なのだ。私は生きたい。ううん、生きるんだ。こんな死に方をして、パパやママや正樹さんに逢いたくない。それに、私にはまだ生きてやるべきことがあるはずだ。
 ――どこへ行くんだい?
 あの黒い衣の男の声が頭の中に響いた。残響の著しい、鼓膜が張り裂けんばかりの怒声だった。そこには怒りという以上のすさまじい邪気が感じられる。野獣が本能のままに轟かせたような警告は、却って希美に生への執着を強く抱かせるだけだった。
 あんたのいいなりにはならない!
 希美はあらん限りに叫んだ。私、もっと生きたいの……。またみんなに会いたい。彩織にもふーちゃんにも美緒ちゃんにも……そしていつものように四人で同じ時間を過ごしたい。真里ちゃんとだって、警察へ一緒に行く、って約束したんだもん。まだ死にたくないよ……。パパ、ママ、お願い、助けて。正樹さん……。
 だが、意識はまたしても遠ざかりつつある。閉じられた目蓋の裏に、大学生だった頃の深町徹と松本恵美の姿が、再び現れた。今度は声もはっきり聞き取れる。やがて生まれてくることになる子供の名前とその謂われを母が口にしたのを聞いたとき、希美は、自分がどれだけ両親からたっぷりと愛情を注がれ、大切に(それこそ掌中の珠と)育てられてきたかを思い知らされ、涙した。そしてさっき、自分を呼んだ声が他ならぬ母の声であったことに気がついた。女の子だったら、「のぞみ」っていう名前にしたいな。字は「希望」の「希」に「美しい」。謂われ? いつでもどんなときでも希望と美しい心を失くさない子に育ってほしい、っていう意味よ。そう松本恵美はいっていた。ママ……。
 希美のまわりから色が、音が、光が、すうっと消えてゆこうとしている。そのとき、彼女の体がゆっくりと、海面へ浮かびあがり始めた。□

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