第2547日目 〈『ザ・ライジング』第5章 7/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 雷はもはや遠くへ去ったらしかった。眼球をあちらこちらへさまよわせてみても、空に稲妻の走る光景は映らなかった。海は落ち着きを取り戻していた。うねる波も荒々しい轟きも、ここにはない。自分の体に打ち寄せて砕ける波のさざめく小さな音と、大気に宿る深閑とした静寂の音だけが聞こえる。自分がいちばん愛している海が戻ってきた。母のように優しく父のように懐の深い海に、いま、私はそっと抱かれている。幸せだった。生きとし生けるものすべての故郷である海。その面にぷかりと浮かんで、十二月の凍てついて冴えきった空を見あげているうち、希美の両頬につっと涙が一条ずつ、跡を残して伝わっていった。私……生きてもう一度大地を踏みしめられるのかしら?
 知らず知らずの間に物心ついたときからの記憶が(そのほとんどが希美自身も忘れていた記憶だった)、瞬きをする間もないぐらいの速さで、脳裏を横切っては消えてゆきを繰り返し始めた。走馬燈、っていう奴なのかな、これって。だとしたら私、もう死んじゃうの? ……答える声はなかった。警告を発してくれたあの内なる《声》も。父の声も母の声も。婚約者の声も、あの黒い衣の男の声さえも。
 記憶の断片が一枚、また一枚と切り替わってゆく。映画の観客と同じ視点で、これまでの自分の生活の一コマを眺めてるのは、実に奇妙な気分だった。まるで自分が自分でないような、そんなお尻がむずむずしてくる感じだ。そんな居心地の悪さと共に面映ゆさを覚えるのも、また否定しようのない事実だった。
 そうこうしているうちに、とても懐かしい気分に満たされる記憶の一コマと遭遇し、希美は思わず「あっ……」と声をあげた。それは庭に面した小さな濡れ縁で、母にすり寄って坐っている自分の姿だった。これ……小学生のときじゃないかな。たぶん、四年生の夏。彩織と喧嘩したときだったよね。
 ……だって彩織が他の子とばっかり遊んでいるのに我慢できなかったんだもん。そう記憶の中の希美がいった。母、深町恵美はなにもいわずに、ただ愛娘の黒髪をそっと撫でていた。ずっと口を聞いてくれないんだよ。小学四年生の希美が口を尖らせた。こら、と母がたしなめる。せっかくの美人が台無しよ。ほほえみながらいう母の口許に皺が寄るのを、十七歳の希美は見逃さなかった。あんまりママって皺の目立たない人だったな。目尻の小皺は覚えているけれど、目につくようなものはあんまりなかったような気がする――皺が目立たない体質だったのかもしれない。見馴れてしまっていたからはっきり思い出せないのかも。それとも、化粧が上手だったのか……。のんちゃん、と怒りの調子の含まれた声が耳許でしたのは、気のせいだったろうか。希美は少し自分の周囲を見渡してみたが、母の姿はどこにもなく、気配も感じられなかった。空耳かな、と考えて、彼女は重くなってきた目蓋を閉じた。そうして最前浮かんだ記憶の一コマの世界へ立ち戻ろうとした。□

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