第2552日目 〈『ザ・ライジング』第5章 12/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 さあ、立ちあがろう。内なる《声》が囁いた。哀しみはしまって新しい一日に足を踏み出そう。ブルース・スプリングスティーンが“9/11”の十ヶ月後にリリースしたアルバム『ザ・ライジング』に、まるでキーワードのように埋めこまれて立ち現れるフレーズだ。さあ、立ちあがろう。先月、十一月中旬に白井が貸してくれた三枚のCDの中にザ・ボスのこの一枚があった(他にヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの『プランB』とタワー・オブ・パワーのライヴCDがあった)。歌詞カードに何気なく目を通してゆくうちに、そこで語られる人々の想いが、バリ島の爆弾テロ事件で両親を失った希美の想いにぴったり重なり、ブルースからのメッセージがまるで自分に向けられたメッセージに思えてきた。彼女はアルバムをMDにダビングしたが、どうしても自分用に欲しくなって二週間後に通学路の途中にあるツタヤで注文して購ったほどだった。さあ、立ちあがろう。ブルース・スプリングスティーンが語りかける。そうだ、死んでたまるものか。私は生きて生涯を全うしてみせる。さあ、立ちあがろう。さあ、立ちあがろう。さあ、……。
 ゆっくりと足をばたつかせた。短い時間とはいえ伸ばしっぱなしだったので、すぐには思うように動いてくれそうにない。やがて交互に水しぶきを高くあげられるぐらい、、強く水を蹴られるようになった。問題だった体力もどうにか波打ち際へたどり着くまでは持ちそうな気がする。なんとか自力で泳いで帰れそうだ。さあ、帰ろう……陸の上には大好きな人々が待っている。
 そう考えて大きく息を吸い、クロールの姿勢になろうとしたときだった。突然足首が痛いぐらいに強く握られた。希美は思わず息を呑んで声をあげ、後ろを見やった。あの黒い衣の男がいた。相変わらず頭巾を目深にかぶり、表情はさっぱりわからない。赤く輝く眼が二つ、闇を切り裂いてしっかりと見てとれる。視線があって、希美はまるで射すくめられるような恐怖に襲われた。希美に抵抗する気配がないと感じたのか、黒い衣の男がにたりと不気味に笑むと、海中に身を沈めると同時に手に力をこめて、希美の体を道連れに引きずりこんだ。まるで錘をくくりつけられたような気がした。希美の体はただの一秒も休むことなくひたすら海中へ落ちこんでゆく。希美の口から水泡が幾百、幾千となく海面めざして立ちのぼっていった。
 いやだ、まだ死にたくない! 意識が朦朧としてゆく中で希美は叫んだ。
 助けて! 美緒ちゃん! ふーちゃん! 真里ちゃん! 彩織! お願い、ここに来て!!□

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