第2553日目 〈『ザ・ライジング』第5章 13/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 美緒の自宅に彩織から電話がかかってきたのは四〇分ほど前のことだった。トールキンの『シルマリルの物語』を斜め読みして、この前の日曜日に購ってそのまま棚にさしてあるスティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』でも読もうかな、と背表紙を眺めながらつらつら考えていた矢先。フランネル生地のパジャマの上にカーディガンを重ね着してベッドへ横になり、時折やってくる眠気をどうにかこらえていた矢先。居間に置いてあるファクス兼用の電話が、静寂のしじまを破ってけたたましく鳴り響いた。こんな時間に誰だろう。そう思う間もなく、電話は三回の呼び出し音で切れた。帰宅してすぐに風呂に入ってあがったばかりの父が取ったのだ。彩織から電話だと知らされて、形容しがたい恐怖が襲ってくるのを感じた。美緒は急ぎ足で居間に向かい、保留ボタンが押された電話の前に立った。電子音で構成されたモーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》第一楽章が聴こえる。受話器を手にして耳へあてがうと、「もしもし?」という一言も終わらぬうちに彩織が、取り乱してうわずった声で叫んだ。「ののが死んじゃう。美緒ちゃん、早く来てえっ!」
 そしていま、美緒は父の運転するシーマの後部座席にいる。どうかしたのか、と心配して娘の顔を覗きこんだ父は、涙をこぼしながら大切な友だちが危ない目に遭っている、とだけ聞くと、それ以上なにも訊かずに黙って車を出してくれた。雨は小降りになっている。沼津市街に向かう県道三八〇号線を行く車は一台きり。後続車も対向車の姿も見えない。彩織ちゃんのマンションの前を通る道だ、と市境を越えたところで気づいた。もう希美ちゃんに会えたかしら? その疑問に答える声はなかった。闇を車のヘッドライトが鋭利に切り裂く。光の輪の中で銀色の糸しずくが輝いていた。
 希美ちゃん、死のうとしている、ってどういうこと? 白井先生の事件がやっぱり原因なの? 母と妹の三人で夕飯を摂りながら観ていたNHKのニュースで、白井正樹が殺されたと知ったときは、同姓同名の他人だと思っていた。親友の恋人の下の名前まで一々覚えているわけでもなかった。被害者が小田原に住む聖テンプル大学の四年生で、加害者が沼津にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医某となれば、美緒でなくともようやく事件を身近に感じ正常な判断ができるようになるというものだ。白井正樹って、まさか白井先生? (これ、あんたの学校の先生? 母が焼き魚の切り身の一片をつまんだ箸を宙に浮かせたまま、長女の顔を見ながら訊いた。あらまあ、という表情だった。突然のことでどう反応していいのかわからなかったのは、美緒も妹も同じだったのだが)希美ちゃん! 美緒は藤葉に電話してみる、といって中坐し、自分の部屋へ駆け戻った。扉を開けるのと、ベッドの上に放ってあった携帯電話が鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。ふーちゃん? まさしくその通り。藤葉も同じニュースを観ていてびっくりし、電話をかけてきたのである。とにもかくにも希美が心配だ、という結論になり、二人して親友の自宅に電話をしてみることにした。そのときにはまだ希美は帰っておらず(近所であの三人の男達に車の中で犯されている頃だった)、数時間後には電話さえ通じなくなっていた。希美が自宅の電話ケーブルを抜いていたのである。携帯電話も電源が切ってあるのか、何度かけてみても同じアナウンスが流れた。彩織からも電話がかかってきた。しかし、内容が特に更新されているわけでもなかった。白井の死が希美にどれだけ影響を与えるのか、と美緒は考えてみたけれど、経験もなく、読書によって培われた想像力だけではそこまで思いを巡らせるのはなかなか難しいことだった。ご両親に続いて未来の旦那様までこんな形で失ってしまうなんて……と美緒は思った。私は希美ちゃんになにができるだろう? ああ、私が希美ちゃんを守ってあげたい。私の大切な、愛しいひと……。
 美緒は広げていた掌を固く握りしめた。視線は窓の外へ向けられている。街はもう眠りに就いている。世界から人間が締め出される束の間の時間。だが、この瞬間にも一つの命が消えようとしている。希美ちゃん、生きていて……。涙が拳にした手の甲へ落ちた。
 希美ちゃんの家にいちばん近いのは、ふーちゃんだ。お願い、ふーちゃんだけでも間に合って……。
 車は県道三八〇号線を八幡町の信号で左に折れ、千本浜の方へ向かって走ってゆく。□

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