第2574日目 〈綾辻行人『迷路館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 <館>シリーズ第3作、『迷路館の殺人』(講談社文庫)を春雨そぼ降る今日、4月1日夕刻に読了。この月日に因んだ作為ではなく、あくまで偶然の一致に過ぎぬ。もっとも読み始めた当座はなんとなく、4月1日に読み終えられたらいいな、ぐらいには考えた覚えもあるけれど。どうせなら4月1日に読み始めて4月3日午前に読み終わる方が、この作品の場合は最上だったのかもしれないけれど、現実的には到底不可能事なので却下しよう。
 舞台は地下に建造されたギリシア神話さながらの迷宮を擁す<迷路館>である。建築主が中村青司、館の主人が推理小説界の大御所、宮垣杳太郎、その還暦祝いに招かれた4人の作家と1人の評論家、編集者とその妻(妊娠中)。そうして訪問客のひとりとしてひょっこり登場した名探偵、島田潔。この四者が集うたおよそ建築基準法を無視した迷路館。役者は揃い、舞台は整った。これで何事かが起こらなくては嘘だ。斯くして(すべての読者が望むように)館の薄闇のなかで血まみれの見立て殺人の幕が切って落とされる……。
 前作『水車館の殺人』が全体的にはオーソドックスな作劇であったのから一転、本作は最後の最後まで「謎」、「謎、「謎」のオンパレードで、終始著者の魔法に翻弄されっぱなしであった。一旦は真相解明となったものの、最後の章でもう一つ、作品を最初から読み直すことが推奨されるようなドンデン返しが待ち構えていようとは、思いもよらなんだ。もうわたくしのような未熟な読者は、「マジっすか!?」「やられた!」と天を仰いで叫ぶより他ないのである。地団駄を踏む? うん、まぁそういうてもよいかもな。巻の中葉で館のからくりがわかり、真犯人にもおよそ見当が付き、ワープロに残された文書の真相にも気附けた──それはだいたいに於いて当たっていたのだが、まさかそれを簡単に飛び越えた事実が用意されているとはなぁ。文庫の裏表紙に「徹底的な遊び心」とあるが、それを極限まで突きつめれば斯くも周到かつ大胆な伏線の張り巡らされた、読んで仰天、読み返して仰天な推理小説ができあがるのだ。綾辻行人、凄まじき。
 ──告白すれば『迷路館の殺人』を読むつもりはまったくなかったのである。当初は『十角館の殺人』だけで<館>シリーズは済ませるはずだったのに、その面白さと謎解きの妙、中村青司が建てた館の魅力に取り憑かれて『水車館の殺人』に手を伸ばし、その最中にこれも面白そうだな、と『時計館の殺人』と『暗黒館の殺人』を購い、第2作の読書も途中まで来るとさすがにそこから一気に第5作へ飛ぶのも気が引けて、間を埋めるようにして第3作の本作と第4作の『人形館の殺人』を買ってきたのである。そうして本作を読んでいる途中には、もうこうなったら<館>シリーズを全部読んでしまえ、と思い立ってしまったのであった……即ちそれは、<未読小説(文庫に限る)読破マラソン>のコースが大きく変更されたことを意味する。どんなに早くても、6月中旬あたりまでは綾辻行人の華麗なるマジックとロジックにどっぷりと浸かっていることは必至だ。
 かつて著者は島田荘司『【改訂完全版】斜め屋敷の犯罪』の初刊(講談社ノベルス)の巻末余白に「島田荘司のファンになります」なる文言を記した由。それに倣えばわたくしは本稿にて、『迷路館の殺人』がダメ押しになって綾辻行人のファンになります、と公言しておこう。◆

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第2573日目 〈綾辻行人『水車館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「横溝正史風の本格探偵小説をイメージ」して執筆したというだけに、本作『水車館の殺人』はアクロバティックな前作『十角館の殺人』とは打って変わり、端正にして古典的そうしてオーソドックスな作風を漂わせる本格ミステリである。
 岡山県の、人里離れた場所にシリーズ第2の館、水車館は建つ。中村青司の設計で11年前──というから1975年のことだ──に建てられた。館の造営に併せて水路をそのすぐ脇を通るよう引きこみ、三連の水車で以て館内の電力をまかなう。主は実業家の藤沼紀一、いまは妻の由里絵と執事の倉本庄司が暮らし、通いの家政婦が別にいる。一方でこの館は紀一の父にして不世出の幻想画家、藤沼一成の作品のほぼ全点を収蔵してもいた(未公開の大作一点を含む)。水車館以外の場所で一成の絵画を鑑賞することはできず、為に年に一日だけ、世間の喧しい連衆を鎮める目的で特定の数人を招待して開放している。1984年には美術商と大学教授、外科院長、菩提寺の住職の4人を。作中に於いて<現在>となる1985年には住職を除いた3人を。
 が、現在パートの1985年は思わぬ闖入者が現れて水車館の客となった。然り、『十角館の殺人』で探偵的役回りを務めた島田潔である。斯くして物語は動き始め、1年前に起きた殺人事件と失踪事件の真相へ徐々に迫ってゆくこととなる。島田による関係者への事情聴取と並行するようにして──嗚呼、今年もまた新たな殺人事件がここを舞台に発生するのであった! 同時進行するは或る人物がひた隠す秘密が暴かれる瞬間へのカウント・ダウン。なお、1985年のパートには数ヶ月前によんどころない事情を抱えて水車館を訪れた一成の弟子、正木慎吾が館の住人(居候、か)としており、由里絵にピアノの手ほどきをしている。
 三人称で語られる過去パートと紀一の一人称で語られる現在パートが一章毎に、交互に綴られてゆくことで、両年の事件が立体的に立ちあがり、全貌と関係が白日の下に曝される。1985年と1986年の出来事が一つの動機、一つの真相へと収束してゆくあたりの描写は「圧巻」の一言だ。読者はおよそ一人の例外もなくページを繰る手をその間止めることができず、きっと最後の一行、最後の一字へ辿り着くまでの時間をもどかしくも幸福に感じることだろう。そうして、物語の魔法に搦め捕られて心をたゆたわせる法悦をたっぷりと味わわせてくれることだろう。むかし観た映画のパンフレットに「愛ゆえの凶行か?」なんてコピーが躍っていたけれど、『水車館の殺人』の動機と真相はまさしくその文言こそが相応しい。
 敢えていうなら冒頭での一成のモノローグ──「何も変わっていない。──第三者の目にはそう映るであろうものが、しかしいかに大きな変化を内在しているのかを、私は知っている」(P25)──この何気ない述懐が鍵となる言葉であるのを指摘しておきたい。作品全体、その仕掛けの要となる一文だ。読み返した際にこの一文にぶつかって嗟嘆、天を仰いだわたくしである。
 筆を擱く前に、どうしてもこれだけは。まさか綾辻行人の小説を読んでキャラ萌えすることになろうとは、思いもせなんだ。お相手は幽閉の美少女、水車館の奥方、藤沼由里絵その人である。単に館の住人の一人として事件に遭遇するのではなく、実はこの女性こそがキー・マンなのだが、わたくしにはそんなのどうでもいいお話で(失礼!)、ではどこに萌えたかといえば、なんというてもその幸薄く、触れれば砕け散るガラス細工のようなか細さ、その居ずまいの儚さがたまらないのだ。具体的な描写はないと雖も──おお、彼女が毛布にくるまって雷鳴におののく姿のか弱さと艶やかさよ……!◆

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第2572日目2/2 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 本稿は読書中の小説に関する備忘というか、メモのようなものである。ジャンルがミステリゆえに「もしかしたら……」と思うた事柄はかりにそれが誤りであったとしても、書き留めておくのが最善であろう。
 読書が終わったあとにこれを読み返したら、わたくしは赤面して、それこそ穴があったら入りたい心境に陥り、同時に本稿を破棄したい衝動に駆られるかもしれない。或いは読了済みの方が本ブログをお読みになったら、なんだこの的外れな推測は、と腹を抱えて大笑いもしくは嘲笑の的にされるやもしれぬ。
 が、それはそれでいっこうに構わぬではないか。正解を導き出すだけがミステリ小説を読む愉しみではあるまい。
 ──と、あらかじめ詭弁を弄しておいたところで、では、本題。

 『暗黒館の殺人』は綾辻行人によるゴシック小説でもある。そも人里離れた場所に一軒だけぽつねんと建つ、まわりの人々の訪問を拒むかのような趣の館が舞台で、そこに住むなにやら曰くありげな人々と外部から(必然か偶然かは置いておくとして)やって来た者が登場し、後者が(意図的にか否応なくかは別として)館とそこの住人の秘密の最奥=核心、心臓へ迫ってゆく──。それがかつてヨーロッパの読書界を席巻し、現在に至るまで細々と命脈を保つゴシック小説の定石である。
 海外の幻想文学に魅せられた当初から、退屈極まりない、とまで腐される(揶揄される)ゴシック小説を好んできた。<館>シリーズ、就中『暗黒館の殺人』に触れて郷愁というか懐かしさを覚えたのは、そんなところに由来するのだろう、と自分では分析している。
 19世紀末、正統ゴシック小説の到達点と呼んでよい長編小説がイギリスで生まれ、瞬く間にヨーロッパのみならず新大陸アメリカにまで波及した。ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』がそれだ。
 なお、これの読書には、小説としての面白さや雰囲気を第一とするなら平井呈一訳の創元推理文庫版、小説を読む醍醐味の一切を犠牲としてでも正確さのみを追求した、ただの英文和訳で構わぬならば新妻昭彦と丹治愛共訳の水声社版をお奨めする。この水声社版がお奨めできるのはひとえに完訳である点と精細な註釈のある点。それ以外にお奨めできるポイントは、ない。
 話が横道に逸れたけれど、ここで『吸血鬼ドラキュラ』を唐突に持ち出したのはゆめ奇を衒っての話ではない。
 浦登玄児、その文庫版を読み進めるにつれて、本作がますますゴシック小説に相応しい闇を纏ってゆくのと同時に、『吸血鬼ドラキュラ』或いは吸血鬼小説全般を意識したモティーフが次第次第に目に付くようになってきたからだ。暗黒館の当主一族の姓が、ドラキュラ伯爵のモデルとなった実在のルーマニア王ヴラド・ツェペシュを思わせる「浦登」。初代当主の妻ダリアの出身国が、吸血鬼小説と浅からぬ縁を持つイタリア。これだけでもじゅうぶんに、ねぇ……連想するな、という方が無理な話である。
 わたくしがかの一族を吸血鬼もしくはそれの変形種と思うに至ったのは、むろん読書中の現時点では憶測でしかないし、読み終わってみれば失笑するより他ないかもしれないけれど、第2巻P179を読んでいたときだった。語り手「中也」に向かって館の住人のひとり、語り手を暗黒館に招いた浦登玄児がいった一言、──君ももうわれわれの仲間なんだよ。仲間とは? 第1巻のクライマックス、年に一度の浦登家の秘儀、<ダリアの宴>。一族の者のみがその日に執り行われるこの宴に、語り手は特別に参加を求められ、<肉>と呼ばれるものを食す羽目になった。その翌る日からだ、かれが一族の関係者と見做され、前述の如く仲間と称されるようになったのは。
 こう思うのだ、宴に列席して肉を食したことで語り手は、吸血鬼とそれに血を吸われた者、言い換えれば支配者と被支配者に等しい関係性を持ったのではあるまいか、と。うぅん、なんていえばいいかな。宴に列席して肉を食したことで語り手「中也」は浦登一族の秘密を共有し、一族に縁故ある者として認識された──言葉を変えれば、一族の秘密という底無しの闇に囚われ、取りこまれた。そんな風にわたくしは思うのだ。
 かてて加えて、館は常に闇の色と血の色に包みこまれ、外光は色附きの磨りガラス窓や閉ざされた鎧戸の隙間から洩れてくるぐらいが精々なのだ(おまけに外は嵐/台風で昼でも太陽の日差しが届かぬ状況である)。
 「百目木峠の向こうの浦登様のお屋敷」には近附くな、あすこには良くないものが棲みついているから。館にいちばん近い集落I**村では昔からそう囁かれて、守られてきた(村の少年、市朗はその禁を破ったがために恐ろしい目に遭うわけだが)。
 浦登家と縁戚にあって館に泊まりこんでいた自称芸術家の首藤伊佐夫は自分の芸術の目的は「神と悪魔の不在の証明」にある、と語り手に話して聞かせた。そうして語り手「中也」はキリスト者である。
 これらを以て件の一族をアンチ・キリストたる吸血鬼もしくはその変形種と憶測するのは、けっして無理な話ではあるまい? そういえばキリスト者に己の血(本作では肉)を呑ませて汚れた者(魂)に堕として自分の陣営に引きずりこむ、という図式はスティーヴン・キング『呪われた町』にも見られた。
 シャム双生児姉妹が語り手に話す、初代玄遙と玄児は「特別」で、彼女たちの父浦登柳士郎は「失敗」(なのかもしれない)、そうして成功した者はまだいない。この文脈でゆけば、吸血鬼と人間が交配した結果、館を離れて人間と同じく陽光の下でも生活できる者を「成功」と呼び、そうでない者(生者でも死者でもない、そんな曖昧な状態にあって惑っている者、と捉えられる)を「失敗」と呼んでいるのか。「特別」とは特定条件下でありさえすれば暗黒館を離れて活動することも可能な存在、か。
 また、このシャム双生児姉妹──美鳥と美魚が「中也」に求婚して、困惑するかれを救うように玄児が登場する一連の場面は、『吸血鬼ドラキュラ』にてドラキュラ城に泊まるジョナサン・ハーカーを誘惑する3人の女吸血鬼と伯爵が現れてそれを追い払う場面に重なってくる。
 言い足せば、暗黒館の中庭の、一位の植えこみに四方を囲まれた<惑いの檻>と呼ばれる墓所は、いってみれば初期キリスト教会/帝政ローマの時代、その帝都の地下に建設された共同墓所(方コンペ)と同じなのだろう(中庭ではないけれどドラキュラ城にも同種の墓所が存在しており、そこにドラキュラ伯爵やハーカーを誘惑した女吸血鬼たちが眠っている)。そのローマはイタリアの首都、イタリアは玄遙の妻ダリアの故国だ。地下墓所に安置される棺には吸血鬼が眠っている。「檻」とは不死なる吸血鬼たちを閉じこめておく、その魂が彷徨い出ぬよう封印している場所の形容なのだろう。──嗚呼、まさしく定番の図式ではないか。もっとも、この連想、この図式さえも著者があらかじめ想定していたミス・ディレクションの類であったなら、喝采せよ、わたくしはミステリ小説の好き読者であることが証明されたに過ぎぬ。深読みしすぎ、穿ちすぎ、騙されやすい、エトセトラエトセトラ。
 序でに邪推すれば、昔玄児が十角塔に幽閉されていたとき、食事の差し入れなど面倒の一切を見てくれていた諸居静は「中也」の実母なのではあるまいか。彼女がその後館を出てゆく際連れていったわが子とは他ならぬ「中也」ではなかったか。為に東京でかれを見附けた玄児は白山の自宅に、訳あってのことだが住まわせ、暗黒館に誘ったのではないのか。
 ああ、さて。
 以上は『暗黒館の殺人』第2巻P288まで読み進めた、2017(平成29)年5月10日午前時点での所感(推理? 否、憶測だね、やっぱり)である。思うたこと、考えたことを綴ってみたのだ。全巻を読了してみれば、吸血鬼云々の話は完全なる的外れかもしれない。そのときはそのとき。この時点でわたくしはこう考えました、でも実際のところはどうなんでしょうね、というに過ぎぬのだから。が、この『暗黒館の殺人』が著者が現代風にアレンジしたゴシック小説である、という意見を引っ込めるつもりの微塵もないことはお伝えしておきたい。

 これは中間報告もとい備忘である。『暗黒館の殺人』の感想は全4巻を読み終えたら改めて、ゆっくりと筆を執るつもりだ。◆

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第2572日目1/2 〈綾辻行人『十角館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』(講談社文庫)はアガサ・クリスティの名作『そして誰もいなくなった』へのオマージュである。ゆえにクリスティを読んでおれば自ずとこちらの犯人もトリックも見破れるようになっている──わけがない。そんな底の浅い推理小説が果たして発表から30年を経たいまでも読み継がれているだろうか。否。そんな安易な小説が推理小説界に<新本格>を芽吹かせ、新たな一大ムーブメントを築く端緒となり得たであろうか。否。
 『十角館の殺人』、それは記念碑的作品である。大分県の沖合に浮かぶ孤島、青島。そこは1年前に忌まわしい事件の舞台となった島である。そこに残る館を訪れた推理小説研究会の男女を見舞う連続殺人。島の外にあって1年前の事件を探る名探偵、島田潔と、その助手を務める江南孝明(かれも1年前まで推理小説研究会に籍を置いていた)。やがて白日の下に明らかとなった事件の全容は実に意外なものであった……。と書けば、よくある「お話」で『十角館の殺人』もそこから大きく踏み外すこともないのだが、本作が大いに異色なのはトリックの意外性、叙述の妙、計算され尽くした構成に起因する。
 本稿でのネタバレは避けたいので詳述は控えるが、発表当時の衝撃たるや賛否両論、毀誉褒貶相半ばしたというのも成程、そうであろうな、と深く首肯させられる。もっとも、犯人の動機附けに唐突の感を否めないのは、何度読み返しても払拭できぬ唯一目立つ瑕疵だけれど。
 新装改訂版でその衝撃を最大級に演出するページ組みがされた、終盤の“あの一言”。これこそ後に続く<館>シリーズで手を変え品を変えて読者を幻惑せしめる<大どんでん返し>の出発点にもなり、また30年後まで影響を保ち続けるものなのは、わたくし如きが指摘するまでもあるまい。
 すべては思いこみを逆手に取った手腕なのだ。探偵役とワトスン役、かれらが直接訊ねて聞きこみを行う人々以外は全員その島にいるはずだ、という思いこみ。そうしてあだ名についての、それ。考えてみれば本名に起因するあだ名をサークル内で与えられているのは、島の外にあってワトスン役を演じている江南孝明だけなのだ……。
 が、わたくしは推理小説の実に素直かつ模範的な読者だから、ページを繰ったところにたった一行印刷された“あの一言”に、「えっ!?」と声にならぬ叫び声をあげて前のページを逐一読み返してしまった。そうして唸った。こちらの思いこみを裏附ける既述は、目を皿のようにしたってどこにも書いていない。心地よい騙しのテクニックに唸り、脱帽した次第である。
 ──その酩酊に千鳥足気分でいたら先へ進むことをすっかり忘れ、気附けば降りる駅まであとわずか。このまま帰宅しても今日読み終えることは、まず以てあるまい。脳天にハンマーを喰らったような衝撃、即ち終盤の“あの一言”にこの印象も薄れてしまうことだろう。斯様な懸念から、自宅から最寄り駅までの間にあるファミレスに寄り道して残りのページに耽溺し、興奮と満足のうち巻を閉じるに至ったのだった。読了のみを目的としてファミレスに入る──こんな経験は顧みても昨秋、乱歩の『孤島の鬼』以来である。
 綾辻行人、凄まじき。文庫の扉へ読了日と一緒に記したその言葉に、偽りはない。
 咨、だけどこんなに夢中になって読み耽った小説は久しぶりだ。お陰で長い通勤時間を退屈することなく過ごし、頗る密度の高い読書生活を満喫できたよ。それは──幸運なことに──『十角館の殺人』読了から1ヶ月以上が経ったいまでも続く<綾辻行人祭り>が証明している。更に幸運なことに、その<祭り>はまだしばらく終わる気配を見せないのである。◆

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第2571日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 寄り道を切りあげて本道へ戻ったわたくしの前にあったのは、湊かなえ『告白』(双葉文庫)である。新人賞を受賞した第1章は雑誌で読んでいたけれど、書籍化された全編を読むのはこれが初めてなのであった。機会はありながら読まないで過ごしてきたのが不思議といえば不思議だが、詭弁を弄することをお許しいただけば、これまで現代日本のミステリ小説に殆ど関心が向かなかったのだから、まぁ、仕方ないといえば仕方ないよね。先日もお話ししたように、20世紀最後の10年の中葉あたりで国産ミステリを読むことを殆どやめてしまったのだが、その当時まだ湊かなえはデビューしていなかったものね。読んでいなくなって当然だったのだ。以上、詭弁終わり。
 閑話休題。『告白』のこと──読んでいる間中、ずっとゾクゾクしていた。体の芯から湧き起こってくる震えが止まらなかった。読書しているわたくしのなかにあった、この小説に対するなにかしらの気持ちに言葉を与えるなら、「スッゲー!」の一言。冷静に分析することもできない程の興奮の渦中に、読書中も読了後もずっとあったわたくしはこの一言以外に発する言葉をいま以て持てないでいる。情けない話だが、本当のことなのである。それは読書中に自分のなかで生まれる様々な感情、一瞬乃至は刹那の思い、そんなあれやこれやをすべて一切合財内包した先に存在するのが、「スッゲー!」という頭の悪そうな言葉なのだ。陳腐な台詞にもそれなりの魂があることをお知りいただければ幸甚、幸甚。
 日本とか外国とかの別なくミステリ小説を斯くも息を詰めて、まなじりを決して読むなんて久しぶりのことだったから、なおのこと興奮の度合いは大きかったんだろうね。読後の余韻もじゅうぶんに満足のゆくもので。いやぁ、それにしても(と、遠い目をする)『告白』のラストは衝撃的だったなぁ。ここまでダメ押しをされたら脱帽するより他にないではないか。
 『告白』のような興奮を求めて第2作の『少女』(双葉文庫)と短編集『望郷』(文春文庫)を読んだが、顧みて「ゆるい」小説だったてふ印象が拭えない。『少女』は、こちらを『告白』よりも先に読んでいたら必ずやそちら以上にびっくり仰天したことだろう。『少女』も救いがなく、八方塞がりで、<イヤミス>としか言い様のない小説であったから。
 登場人物たちは、誰彼の台詞のなかでしか登場しない者も含めて、皆が皆、なにかしらの形でつながりを持っている。縦横無尽に散りばめられた手掛かりを組み合わせることで初めて読者の前に提示される、裏の、というか真の人物相関図を目の当たりにするとき、読者は目を丸くしたり、唖然としたり、短い悲鳴をあげるのではないか。
 『少女』を「ゆるい」と思うた原因は作品それ自体に瑕疵があって目立つゆえのことでは断じてなく、単に『告白』の後に続けて読んだがための不幸に起因するのだろう。わたくしはそう分析している。
 もう一方の『望郷』だが、理由はどうあれ、収められた6つの短編にわたくしの琴線が触れることはなかった。精々が「海の星」という作品に漂う<男の哀感>にしみじみさせられたことぐらいか。そういえば、これと表裏一体を為すような「夢の国」も忘れがたい作品だった。地方の小さな街の閉塞感とそこで生活する人々の姿が巧みに描かれていたからだ。
 昨秋からの流れで、年が明けてからもミステリ小説ばかりを専ら読んできた。その反動ではないが、気分転換のように文庫化された又吉直樹『火花』(文春文庫)を読んだ。読んでいる最中に例のプレミアム・フライデーがあり、村上春樹の最新小説『騎士団長殺し』が発売された。行きつけのクラブのお気に入りのお嬢さんを同伴した。そうして、読み終えた直後にNHKでドラマの放送が始まった。『火花』については『暗黒女子』同様、かつて本ブログにて拙い感想文をお披露目している。
 このあとに乾くるみ『蒼林堂古書店へようこそ』(徳間文庫)と『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)を読んでいるが、これらの作品について本稿で述べることは控えさせていただきたい。箸にも棒にも引っ掛からないから、という不遜な理由ではなく、どうにかして感想文を認めよう、と機会ある毎に四苦八苦して取り組んでいるからである。あがいてもあがいても結局一本の原稿として披露するに及ばないと判断したときは……その際はその際である、2作まとめて一度にお披露目してしまおう。要するにこの段落は時間稼ぎの言い逃れに他ならない。
 乾くるみを2作で切りあげた後は、手塚治虫・著/三上延・編『ビブリア古書堂セレクトブック ブラック・ジャック編』(角川文庫)と中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読んだ。後者については既に感想文を仕上げてあるので、やがて読者諸兄の目に触れることだろう。
 さて、その『初恋芸人』から一週間。元同僚に奨められて購入したものの数ヶ月放置し、ようやっと手にすることのできたのが、綾辻行人『十角館の殺人』(新装改訂版/講談社文庫)である。本稿を認めている現時点で第12章「八日目」を読んでいる最中なのだが、帰りの電車のなかでまず間違いなく読み終わると思う。
 これは実に面白い小説だ。こんなにドキドキさせられるミステリ小説が書かれていたのか、と己の不明を恥じ、また喜びに湧いている。当初は『深泥丘奇談』正・続(角川文庫)のみのつもりだったのが、『十角館の殺人』を奨められたことですっかりハマり、恒例の寄り道<この作家の他の作品も読んでみよう>シリーズが始まった。今回が他と違うのは、1作、2作でその寄り道に満足することはなく、今後数ヶ月は継続されるだろう、ということ。それが証拠に今日、『水車館の殺人』と『時計館の殺人』(いずれも新装改訂版/講談社文庫)、『霧越邸殺人事件』と『眼球奇談』(共に角川文庫)を、それぞれ新刊書店と古本屋で買ってきたところである。おそらく今後しばらくの間はこのシリーズが適用される作家は現れないだろう。
 ここまで書いてきて思い出したのだが、綾辻行人の作品に接するのは今回が初めてではない。佐々木倫子と組んだ『月館の殺人』(小学館)もしくは『Another』(角川スニーカー文庫)、いずれかが初めて接した綾辻作品であった──。
 以上、これまでの3ヶ月で読んだ、何冊かの小説について倩思うところをだらしなく綴ってきた。残りの9ヶ月でどれだけ読めるか、どんな物語がわたくしを待ってくれているのか、それを考えるとワクワクしてくる。第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンは「本がなければ生きられない」“I cannot live without books.”というたそうである。マイケル・ジャクソンは「僕は読書が大好きだ。もっと多くの人に本を読むようアドバイスしたい。本の中には、まったく新しい世界が広がっているんだよ。旅行に行く余裕がなくても、本を読めば心の中で旅することができる。本の世界では、何でも見たいものをみて、どこでも行きたいところに行ける」“I love to read. I wish I could advise more people to read. There’s a whole new world in books. If you can’t afford to travel, you travel mentally through reading. You can see anything and go any place you want to in reading.”というた由。まさしく。
 小説を読むこと。それは逃げこむことであり、守ることであり、再生であり、治癒であり、回復である。他になにが? いまのわたくしの場合、それはミステリ小説である。これ以上に最適な逃避と守備、治癒と回復のためのフィクションが果たしてあるのか、寡聞にして自分はそれを知らない。◆

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第2570日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉1/2 [日々の思い・独り言]

 これからお読みいただく小文は、今年2017年の3月18日に第一稿が書かれた。いま頃になってお披露目する理由については、最後(2/2)までお読みいただいた上で、そうして来週の更新を併せてご覧いただけば自ずと明らかになろう。
 申し添えれば、書かれた場所は神田淡路町のスターバックスである。そこは『ラブライブ!』の主人公、高坂穂乃果の実家のモデルとなった老舗甘味処に程近い店舗でもあるのだが、けっして聖地巡礼の途中で、或いは終えたあとに立ち寄って書かれたものでないことをご承知おきいただきたい。なお件の甘味処は池波正太郎のエッセイにも何度となく登場する店でもある。
 さて、本稿はちょっと長いので分割することにした。今日と明日、2日続けてのお披露目となるが、ゴールデン・ウィーク特別企画というわけではない。そんな考えはまったく持っていない。
 ならば、どうして? んんん──「なんとなく」、「そんな気分だから」、というのがいちばん正解に近いかな。呵々。
 では、始めよう。アゴーンを。

 今年読んだ本について、書く。「について」というても当たり障りのないコメントの域を出るものではないこと、賢明なる読者諸兄ならば先刻ご承知のことであろう。
 いや、それにしても時間の過ぎるのは早い。なんだか正月気分の抜けないまま気附いたら年度末を迎えていた、そんな感慨である。
 私事で恥ずかしいけれど、年が改まってからの1.5ヶ月、異動先がまったく見附からず退職を視野に入れざるを得ない、のっぴきならぬ状況に追いこまれていた頃にようやく新天地を得られて安堵し、片道約1.5時間弱の通勤と雖もそれなりに忙しく、やり甲斐と達成感と充実感で満たされる仕事ができている。感謝の一言。そうしていまは、転属から1.5ヶ月を経て繁忙期に突入、いまはひたすら一所懸命仕事を覚え、朝から晩までひたすらパソコンに向かって作業して、がっつり残業代を稼いでいるのである。
 正直なところ、通勤時間の長さも相俟ってなかなか文章を書くための時間を割けず、またそのための場所を見附けることもできないのが悩みの種だけれど、これに関しては繁忙期が終わって心身共に余裕が生じるまで解決策を見出すことはできなさそう。へとへとになって帰宅したらあと少しで日付が変わる、という時間だもの。
 小説『ザ・ライジング』を書いていた頃も現在とほぼ同じエリアで働いていたが、時間の制約は当時の方が厳しかったにもかかわらず(開店前から閉店後まで、約14時間ぐらいは労働していたなぁ。当然サービス残業である)、ずっと上手に時間をやり繰りして執筆に耽っていた覚えがある。やはり仕事が終わったらさっさと、寄り道しないで帰宅して、早くに就寝して朝型に切り替えるのが<たった一つの冴えたやり方>なのかしらん。
 さて、マクラはここまで。今年になって読んだ本(専ら小説)のお話である。だいじょうぶ、忘れていない。
 読書好きなお嬢さんとのLINEのログを遡ることで、いつ、誰の、なんという本を読んでいたかは判明する。またそこに記録された本を発掘して扉ページを開けば読了日も書いてあるので、おおよそについては読んだ順番も特定できる。そも2017年が始まってまだ3ヶ月である。順番はともかくなにを読んだかは概ね記憶しておるし、書架を検めればLINEに頼らずともその点は明らかとなる。幸いなことにそこまでわが記憶力は減退していないのだ。サンキー・サイ。
 では、始めよう。アゴーンを。
 2017年になって最初に読んだのは、斎木香津『凍花』(双葉文庫)であった。これは中居正広がラジオで紹介していたのを聞いて意識の片隅に引っ掛かっていたのを数日後、本屋で見掛けて立ち読みしてみたところ、最後まで読んでみたくなったのでレジへ運んだもの。
 読み進むにつれて気持ちのすれ違う姉妹の哀しさに心がざわついて、いたたまれない気持ちに陥ったことである。なんだかね、兄弟間にある理解不足、意思疎通の不全など、いろいろ考えさせられてさ……。本人以外の誰も相手の真情或いは心情を汲むことのできないやりきれなさに、打ちのめされるしかなかったのである。加害者として逮捕されて黙秘を貫く長女の傍に、凶行以前からいられてあげたなら……という中居の発言が読了後の自分の心に染みこんできて、深く首肯してしまうたね。
 事の序に申せば、本書同様に中居がメディアで紹介して気になり、後日購入したものに歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)があるが、まだ1ページも読めていない。後述する<綾辻祭り>が一段落したあとでないと、通勤の読書のお伴にすることはできないのだ。
 『凍花』に続いて手にしたのは、映画が来月4月1日公開予定な、一方で作品それ自体よりも別の一件で話題になっている気がしないでもない、秋吉理香子『暗黒女子』(双葉文庫)だった。独立した感想文を書いて既に本ブログにてお披露目済みなので、検めての発言は控える。繰り返しを恐れず敢えて述べることがあるとすれば、最後の章に於ける戦慄とおぞましさと気持ち悪さは他に類を求められること極めて稀にして、読後2ヶ月を経過しようとしている今日なおその思いにまるで変化のないことの一点だけだ。記憶に残る、イヤミスの極北というてよいだろう。
 この人の他の小説も読んでみたい。読後感が良ければそんな気持ちが起きるのは至極当たり前な流れだろう。斯くしてデビュー作を含む短編集『雪の花』(小学館文庫)を手にしたのだが……映像化もされたという表題作(これがデビュー作である)は廃村となった雪に閉ざされる故郷で自殺しようと決めた夫婦の物語で、いつわが身に降りかかるか知れぬシチュエーションなだけに、必要以上に感情移入して読み耽った。夫婦を取り巻く環境への憤りと決断を余儀なくされたかれらへの共感が、わたくしをしてこの短編への思い入れをより深くしたのだ。最後の最後に希望の兆しが見えたところで幕となるのが、殊に印象的であった。が、「雪の花」を除く他の3編は……読むのをやめよう、と思うたのは二度や三度のことではない。この段落の〆に但し書きを付けるなら、『雪の花』はミステリ小説集ではない、ということか。□(第2571日目に続く)

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