第2573日目 〈綾辻行人『水車館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「横溝正史風の本格探偵小説をイメージ」して執筆したというだけに、本作『水車館の殺人』はアクロバティックな前作『十角館の殺人』とは打って変わり、端正にして古典的そうしてオーソドックスな作風を漂わせる本格ミステリである。
 岡山県の、人里離れた場所にシリーズ第2の館、水車館は建つ。中村青司の設計で11年前──というから1975年のことだ──に建てられた。館の造営に併せて水路をそのすぐ脇を通るよう引きこみ、三連の水車で以て館内の電力をまかなう。主は実業家の藤沼紀一、いまは妻の由里絵と執事の倉本庄司が暮らし、通いの家政婦が別にいる。一方でこの館は紀一の父にして不世出の幻想画家、藤沼一成の作品のほぼ全点を収蔵してもいた(未公開の大作一点を含む)。水車館以外の場所で一成の絵画を鑑賞することはできず、為に年に一日だけ、世間の喧しい連衆を鎮める目的で特定の数人を招待して開放している。1984年には美術商と大学教授、外科院長、菩提寺の住職の4人を。作中に於いて<現在>となる1985年には住職を除いた3人を。
 が、現在パートの1985年は思わぬ闖入者が現れて水車館の客となった。然り、『十角館の殺人』で探偵的役回りを務めた島田潔である。斯くして物語は動き始め、1年前に起きた殺人事件と失踪事件の真相へ徐々に迫ってゆくこととなる。島田による関係者への事情聴取と並行するようにして──嗚呼、今年もまた新たな殺人事件がここを舞台に発生するのであった! 同時進行するは或る人物がひた隠す秘密が暴かれる瞬間へのカウント・ダウン。なお、1985年のパートには数ヶ月前によんどころない事情を抱えて水車館を訪れた一成の弟子、正木慎吾が館の住人(居候、か)としており、由里絵にピアノの手ほどきをしている。
 三人称で語られる過去パートと紀一の一人称で語られる現在パートが一章毎に、交互に綴られてゆくことで、両年の事件が立体的に立ちあがり、全貌と関係が白日の下に曝される。1985年と1986年の出来事が一つの動機、一つの真相へと収束してゆくあたりの描写は「圧巻」の一言だ。読者はおよそ一人の例外もなくページを繰る手をその間止めることができず、きっと最後の一行、最後の一字へ辿り着くまでの時間をもどかしくも幸福に感じることだろう。そうして、物語の魔法に搦め捕られて心をたゆたわせる法悦をたっぷりと味わわせてくれることだろう。むかし観た映画のパンフレットに「愛ゆえの凶行か?」なんてコピーが躍っていたけれど、『水車館の殺人』の動機と真相はまさしくその文言こそが相応しい。
 敢えていうなら冒頭での一成のモノローグ──「何も変わっていない。──第三者の目にはそう映るであろうものが、しかしいかに大きな変化を内在しているのかを、私は知っている」(P25)──この何気ない述懐が鍵となる言葉であるのを指摘しておきたい。作品全体、その仕掛けの要となる一文だ。読み返した際にこの一文にぶつかって嗟嘆、天を仰いだわたくしである。
 筆を擱く前に、どうしてもこれだけは。まさか綾辻行人の小説を読んでキャラ萌えすることになろうとは、思いもせなんだ。お相手は幽閉の美少女、水車館の奥方、藤沼由里絵その人である。単に館の住人の一人として事件に遭遇するのではなく、実はこの女性こそがキー・マンなのだが、わたくしにはそんなのどうでもいいお話で(失礼!)、ではどこに萌えたかといえば、なんというてもその幸薄く、触れれば砕け散るガラス細工のようなか細さ、その居ずまいの儚さがたまらないのだ。具体的な描写はないと雖も──おお、彼女が毛布にくるまって雷鳴におののく姿のか弱さと艶やかさよ……!◆

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