第2579日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 この感想を書くにあたってどうしてもカバンへ入れて持ち運ぶ必要があるため、古本屋で講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』上下巻を買ってきた。それから折につけノベルス版であれ文庫版であれ読み返してみて、やはり『暗黒館の殺人』を傑作だと信じて疑わぬ思いに揺らぎはなかった。
 ──いつかやってみたかった、浅倉久志による『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)「訳者あとがき」の一節の模倣で本稿を始めたのは、他でもない、これまでに読んできた綾辻行人の諸作のうちでこれ程、「傑作」という呼称を問答無用で冠すに相応しいものが(すくなくともわたくしには)見当たらないからである。
 5月いっぱいを費やして物語の世界に沈潜していた時間は、とても幸福だった。現実ではいろいろあったけれど、物語のなかへ潜りこんでいる時間はしあわせだった。物語の世界に足を踏み入れて種々諸々の意味で幸福と悦楽を実感したことは、2017年に於けるわたくしの読書体験でもおよそ最たるものとなるだろう……。
 幸福だった、という理由の一つはこういうことでもある──こちらが抱く、犯人はこの人だろうか、こんなトリックではないか、などと考えても、それらがことごとく、見事に外れてゆくことで尚更、一語一行、一文、行間を丹念に読み、或いは前の方を読み返して検討するのだけれど、やはり凡百の頭では真相を見出し、そこへ辿り着くのは難しく、そうしてそれは二度、三度と繰り返され。
 こんなわけだから、文庫版第4巻の中葉あたりから徐々に、いい方を変えればそこそこ露骨に全体像が窺えてきたときは、新緑の気持ち良い時節だというのに、思わず薄ら寒くなり、肌に粟粒が浮かんできたよ。同時に、興奮と驚愕のつるべ打ちに脳みそは沸騰して体は火照り続け、昂ぶるばかりの心を鎮めるため途中で敢えて読みささねばならなかったこともしばしばで。
 文庫版「あとがき」にて作者自ら曰うこの件り──「(この『暗黒館の殺人』は)何と凄まじくも僕好みの傑作であることか」には惑うことなく首肯したわたくしなのだけれども、実はこの作品、インターネット上では賛否両論、いや、悪罵の方が目立つ印象のある作品でもあった。
 たしかにミステリ小説として読むならば、明快な真相究明と結末を求めるならば、最後まで読んだあとで「ふざけんな!」と怒り心頭に発して本を床なり壁なりに叩きつけたことだろうが、21世紀になって以後、ハイブリッドというかジャンル・ミックスされた作風、内容の小説がとみに顕在化してきたことを併せて考えればわたくしは『暗黒館の殺人』を謎解き小説として読むことはどうしてもできないし、またそう読むべきでもないだろうなぁ、と考える。
 『暗黒館の殺人』に頻出する<謎>の多くは誰彼によって真相が暴かれないまま──というよりも、そんな如何にも人智の枠内での解決や説明を拒絶する/寄せ付けない類の、人間が踏みこむべきでない領域に属する類の<謎>であるゆえに、最後の最後まで、それこそ読了して巻を閉じたあとまで一種、異様な空気のなかへ在り続けるのだ。物語の幕切れでいみじくも江南孝明が述懐するように、そこは僕たちが──人間が近附いてはならない場所であるゆえに。
 むろん、ミステリの体裁を採っていながらミステリでもオカルトでもなく……てふ中途半端ぶりを指して「駄作」と評したい向きの気持ちもわからないでもないが、受け取るばかりで思考を停止させた読み方も果たしてどうなのか、と考えさせられますな。
 『暗黒館の殺人』を傑作たらしめている要因の一つは、自在に分裂して個々の登場人物のなかに入りこんだり、時間を行ったり来たりすることのできる<視点>の導入にある。マルチ・キャラクターによるマルチ・プロットという方法を採り難い(『暗黒館の殺人』の)物語構造である以上、澱みなく、滞りなく、語られるべきことが語らしめられるためには<視点>の採用と活用が不可避であった。
 この<視点>を採用した長編小説の書き手には、たとえばチャールズ・ディケンズやスティーヴン・キングがいるけれど(ウィリアム・サッカレーもいたか)、そこそこ長くて、そこそこ入り組んだ物語を破綻なく語るためには、時としてこのように全能とさえいうてよいカメラの存在が不可欠になる。もし<視点>という突破口を見出すことができなかったら『暗黒館の殺人』は<館>シリーズ屈指の失敗作となっていたのではないか。もっとも、この<視点>の採用ゆえに「読みにくい」という声もあるのだろうけれど、それ程のものであろうか?□

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