第2612日目 〈ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 サスペンス小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』をようやく読了。台風12号による濡れからの回復を待ってのこの日となった。
 「ようやく」には2つの意味がこめられている。1つは通勤電車(もっぱら帰り)のなかを始めとする日々の細切れになった時間での読書ゆえ、どうしても読み終えるまで日にちがかかってしまったこと。もう1つは題名も著訳者も表紙カバーも粗筋も乱歩の挿話も昔から知っていたにもかかわらず読む機会を作ろうとしなかったため、人生の折り返し点をとうに過ぎたいまになって読んだのだ、ということ。
 ──妻殺しの濡れ衣を着せられた男、スコット・ヘンダースン。かれには妻が殺害された時刻の完璧なアリバイがあった。が、無実を証明できる女の存在を認める者は誰もいない。いえ、あなたはお一人でしたよ。万策尽きたスコットは親友ジョン・ロンバートに<幻の女>探しを依頼、斯くしてロンバートは女の手掛かりを求めてニューヨークの街を彷徨い歩く。探索行の果てにやがてあきらかとなった衝撃の事実とは──?
 スリルを盛りあげサスペンスをあおるには、センスがいる。そのセンスとやらを如何なる方法で料理するか。ここがシェフたる作者の腕の見せ所だけれど、アイリッシュはそれを章見出しでやってのけた。あっさりと、あざやかに。「死刑執行前 ◌◌日」……今日ではさして目新しくもないやり方だが、発表当時としては結構斬新だったろう。1942年の作品なのだ、この『幻の女』は!
 冒頭の有名な一文からして多くの作家へ影響を影響を与えた作品だけにプロットのみならずシチュエーション、犯人、トリックやアリバイなど、読み手によってはデジャ・ヴを覚えるかもしれないが、やはり時の流れに耐えて今日なお読まれる名作である。後続の作品群ではあまりお目にかかれぬ風格と破壊力を備えている。乱歩の評言はそれから70年以上を経たいまもなお、じゅうぶん通用するものであろう。いや、それにしても終盤であかされた<幻の女>の正体と、スコットと別れたあとの顛末には、ぎょっ、とさせられたよ。ちょっと薄ら寒くなったね。
 この古典的名作を今日巷にあふれる有象無象のミステリ小説を読みちらした目で読むと、センチメンタル過多な雰囲気に抵抗を感じ、省略を利かせた文章にしばし憶測を重ね、たまに冗長と映る描写に退屈を覚えたりもして、残りのページを指の腹でぱらぱら目繰って道通しの感を深めることたびたびであった。
 が、その一方で、経年劣化こそ否めぬものの時の波へ抗って常に版を重ねて読み継がれてきた要因に、上であげた点のあることも本当のところなのだ。ドライでありながら非情に徹しきれぬ甘くて優しい空気感が全編に垂れこめ、冗長な描写と思うたのは端役に至るまでその場限りの紙人形となるのを避けんがためのテクニックであり、物語に深みと制裁を加えるスパイスであった。
 省略の利いた文体とはハメットやチャンドラーのようなハードボイルド小説でお馴染みだけれど、アイリッシュのこの作品についてはちょっと事情が違うようだ。簡単にいえばハメットたちの文章が意識して作られたものであるのに対し、アイリッシュのそれは意識することなくふとした拍子に体のなかから自然と湧き出た文章に思えるのだ。
 新訳版の訳者、黒原俊行は一例として、妻の死体が運び出されるのをスコット・ヘンダースンが見つめる場面を挙げるが、件の文章テクニックに呑まれてうっかり読み流したことに気附き、急いで立ち止まって「この場面で起こっている(行われている)けれど描かれていないことはなにか」と考えこむ羽目に陥ることしばしばなのである。
 わたくしの印象ではこの現象、2人以上の人物が同じ場面に出ていて、皆等しくそれぞれの役をこなしている箇所にて顕著なようで、ここから転じて、もしかするとこのあたりにアイリッシュの弱点があるのではないか──多くの登場人物が一堂に会したときの各々の書き分けに苦手意識を持っていたのではあるまいか、アガサ・クリスティやスティーヴン・キングと違って、と邪推してしまうのだった。さりながらこの文体がサスペンス小説でも効果的なのは第12章、若い女がバーテンを追いつめてゆく、殆どこの2人だけで進められてゆく一連の場面を読むと納得なのである。
 1つの結婚生活の終わりから始まる犯罪──夫婦のどちらに原因があろうとも、激情に駆られて家を飛び出すや行きずりの女と夜の一時を過ごしたり、相手の誠意を弄んで嘲笑するなどわざわざ恨みを買って自分の命を危うくしたり、一方通行な愛情で相手を縛って夢想の計画の主要登場人物に仕立てたり、なんていう愚は犯したくないものであります。

 『幻の女』はハヤカワ・ミステリ文庫から3種のヴァージョンが、これまでに出ている。初めは1979年8月に稲葉明雄・訳で。次は1994年初夏(?)、改版を機に稲葉が訳文へ手を入れたヴァージョン。そうして2015年12月の、前述の黒原による新訳版だ。本邦初訳は最初の文庫化に先立つこと四半世紀以上も前の1950年、『宝石』5月号に一挙訳載された黒沼健・訳。
 黒沼訳はその後ハヤカワ・ポケット・ミステリ、通称ポケミスに収められたが(第183番 1967年10月)、早川書房は1972年9月から刊行開始した≪世界ミステリ全集≫の第4巻収録分から稲葉明雄・訳に差し替えて、1979年のハヤカワ・ミステリ文庫を経て2015年の黒原・新訳版へ至る。
 この機会だから、有名すぎる冒頭の一文を3人の翻訳者がどのように日本語へ置き換えたか、以下に引いて鑑賞してみよう。
 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた」(黒沼健)
 「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・旧版)
 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・改版、黒原俊行)
 稲葉改版の訳と黒原訳が同じなのは、黒原俊行がさんざん検討を重ねた結果、これ以外にないと判断して稲葉の遺族に了解を取った上での結果であることは、新訳版の訳者解説にある通りだ。新訳版からこの部分を引用する際は「稲葉訳」であることを明記してほしい、とは黒原の言だが、本稿ではそれでもあえて上のように処理させていただいた。ご寛恕を願いたい。
 今回わたくしが読書に用いたのは旧版だが、冒頭のみに限ればこの版を断然支援する。冒頭のみ、というのは如何せん翻訳が昭和40年代なかばであるため、今日では固有名詞はもちろん会話や叙述の一部に時流にそぐわない部分が目立ってしまい、読書の流れを刹那途絶えさせることが一度ならずあったからだ。まぁ仕方ない。これから『幻の女』を読む人は新訳版がやっぱり良いのかな。新刊書店で買えるしね。
 顧みて思うのはこの手の小説は細切れに読むものじゃぁないな。自身に則していえば、せめて帰りのみでなく行きの通勤電車のなかでじっくり読み耽ることができていたなら、と溜め息交じりに後悔している。◆

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