第2618日目 〈蔵書処分への道〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 はい、みなさん、こんにちは。ちかごろすっかり筆無精になっている、本ブログの管理人──というかブログ主、みくらさんさんかです。聖書読書ブログがいちおうの完結を見てからこの方、Macを立ちあげるのも面倒臭くってねぇ、いやぁやんなっちゃいますよ……なんてポーズばかりのぼやきは脇に置いて。でも、聖書を読み終えてブログの更新が間遠になり始めて早……2年か、もう!
 本を読むのも映画(ドラマやアニメ含む)を観るのもすっかりペースが落ちた。ブログの毎日更新・毎週更新から離れた現在、それまで原稿書きに費やしていた退勤後の時間を、ではなにに使っているかといえば、どこへ寄り道することもなく帰宅して、家族団らんや独りの時間はもっぱら不動産投資の勉強とそちらのサイトを巡回していると、もう寝る時間である。
 不動産投資についてはこれをネタにまたエッセイ(らしきもの)を2、3編書くであろうからここでは触れないけれど、これに絡んで1つだけ私事を述べさせてもらえば、恥をさらしてでもいわれなき陰の糾弾を浴びてもそれでもなお会社に踏み留まっているのは、家族あることを別にすれば銀行の評価を上げるのと属性を綺麗にすることを第一として励んでいるからなのだ、というてあながち間違いではない。
 ところで今日は、つい先程遭遇した愕然とするような出来事について報告したいのだ。
 地元神奈川県に根を張る某大手書店の本店文具売り場で来年2019年の手帳を購入(毎年使っているメーカーの手帳だ)、それをリュックの、買い物した品物を入れておく用のポケットへ仕舞ったのね。そのときはなんに違和感もなかった。そうしてそのあと、ぷらぷら、毎度お馴染みなスターバックスに足を伸ばして、リュックのなかをごそごそ漁っていたのさ。そうしたらポケットのいちばん下、奥まったところに、買い物した覚えのないブックオフの袋が出てきた。
 おかしいな、たしかに今日ブで本は買ったけど、袋には入れてもらってないし、そも袋のなかの本はどう触っても文庫本だ。厚みはそれなりにあるけれど、1冊ものではない、何冊かそこには入っている。なんやねんこれ、って開けてみたら、目を疑う光景がそこにはあった……おお、ナイアーラソテップ! 這い寄る混沌!!
 ……ビニール袋のなかから背表紙を覗かせたのは、五木寛之『百寺巡礼 第一巻 奈良編』(講談社文庫)と江戸川乱歩他による合作小説『五階の窓』と『江川蘭子』(春陽堂文庫)だったのだ。お値段、〆て316円也……なんとまぁ。
 なんとまぁ、といえば、これらを購入したのはちょうど1週間前だ。買ったのは覚えているけれど、まさかリュックのなかで保管されていたとは、さすがに思いもよらなかったよ。されど否み難きこの事実には反省せざるを得ぬ。しかも五木寛之の本は既に同じ巻を所有し、端っことはいえいまも机にちゃんと載っているのだ
 そこでわたくし、みくらさんさんかは溜め息交じりに考えた。今後二度とこのような事件が再発せぬよう対策を講じるべきだ、と。自分がなにを持っているのか把握しよう、と。これはなにも本にのみ適用される話ではない。CDに於いても、服に於いても然りだ。把握すべきは「なにを持っているか」だけではない、「それがどこにあるのか」もわかっていなくてはならない。
 余談だが10年近く前か、その頃に書いた掌編小説(事実上、現時点でわたくしが書いて完成させた最後の小説)、題して『美しき図書館司書の失踪事件』の原稿がいつの間にやら行方不明になっており、いまも捜索中だが発掘発見される様子はない。どこかに紛れこんでいるはずなのだが……。
 閑話休題。
 そうした意味では、「それがどこにあるのか」を把握する方が喫緊の課題かもしれません。
 しかし、把握するためにはまずなにから手を着ければよいか。勿論考えるまでもなく不要品の選別と処分である。が、言うは易く行うは難し、という言葉が古来よりこの国にはある。選別、処分、いずれについてもその言葉がずしり、と肩に、気持ちにのしかかり、始める前からわたくしに溜め息をつかせる。やれやれ。思うようには進まぬ作業なんだよ。
 ああ、本、本、本……。それは生涯の友であり、同時に不倶戴天の敵。愛惜一入ながら憎々しいことこの上ない──或る意味でこれらの形容と本はきっと同義語なのだろう。
 処分する? 残しておく? その基準は極めて曖昧だ。なによりも1冊1冊にこめられた想いは様々なのだから。未読で溜まっている本ばかりなら幾らか負担も少なかろう。選別だって考えこむことはあれど迷いに惑わされて決着がつかぬことは殆どなく、古本屋行きのダンボール箱に本を移すその手も比較的軽やかで、作業はすいすい進むことだろうから(経験に基づく)。
 が、やはり厄介なのは既読の本、愛着ある本、研究や資料として集まってきた本、加えてレア本である。これらは1冊ごとに読んだてふ想いが、記憶が、思い出が、痕跡が、拭いがたいぐらいに刻みこまれているのだから。それだけに、残すか否か、の裁判は長期化し、膠着状態に陥り、なかば放り出すようになかば投げやりに、おそらくは残す方の山に重ねられて、そうして再び無間地獄の如き修羅道を果てしなく歩くことになるわけだ。こうなった身に<断捨離>も<ミニマル生活>も、もはや無縁。<ときめかないモノは棄てましょう>に至っては世迷い言の極北である。え、言い過ぎ? うん、そうかもね。
 話は横道にそれたが、結局は愛着ある本は残し、愛好する作家・ジャンルは残し、研究・理解の名目で集まってきた本は概ね残す、という、ちゃぶ台を引っ繰り返してまた元に戻すような羽目になる。これを<元の木阿弥>っていうのかなん。いったい作業の意味はあったのか、と自問したくなりますよ。それで答えが返ってくることはまずない、っていうね。
 だってねぇ……。(しかたないじゃん、という台詞をみくらさんさんかはどうにかこうにか吞みこんだ)好きな本からは、刺激されたり慰められたり、ヒントを与えられたり回答/解答を得たりしたいもの。だから捨てられないんだよ。スティーヴン・キングや怪奇幻想のジャンルを処分する? 冗談ではない、それは絶対に無理だ。断言したっていい。過去に1度、愚かにも実行して深く深く、途轍もなく大きく後悔して悲しみに暮れた挙げ句にその後、処分したうち9割8分の本は買い戻してきたもの。そんな経験があるから、絶対に捨てられない。
 トールキン、リチャード・アダムス、C.S.ルイス、ローリング、スタインベック。かれらの本も捨てられない。火事後の自分を慰め、支え、励ましてくれたのだから。あのときの、「こんなことになってしまって、これからいったいどうやって生きてゆけばいいんだろう?」という気持ち、それまで当たり前のようにあってこれからも当然のようにあり続けると思うていた現実──生活や人が、その日を境に永久に奪われてしまった哀しみや嘆き、そのあとに襲い来たった虚しさと鉛の衣をかぶったような重苦しさetc,etc.そんな日々をどうにか生き抜くことができたのは、踏み外すことなく道に留まったまま前へ歩き続けることができたのは、人々の献身と優しさに救われたのみならず、わずかに現実を忘れて立ち帰る強さを与えてくれたこれらの本のお陰なのだ。回復とは取り戻すこと、曇りのない視野を取り戻すことである、とはトールキンのエッセイの一節である。これを本当の言葉と知ったのは、火事後の読書であったことを言い添えておきたい。
 架蔵する英国古典ミステリ──特にドイルとクリスティ、セイヤーズ──と米国はロストジェネレーションの作家たち──特にヘミングウェイとスコット=フィッツジェラルド──、長短濃淡の差違こそあれ愛読してきた近代以後の日本の作家たち──リストが長くなること必至のため割愛──も、やはり同様に。
 また、生田耕作先生や平井呈一の著訳書。これらは糧に等しいので謝って処分されるようなことあらばきっとわたくしはどうかしてしまうだろう。
 作品のみ、シリーズのみとなればここへ加えるべきものは膨大となり、即ち残す本のリストは肥大の一途を辿るばかりだ。いやはやなんとも、頭を振るよりない顛末ダネ! なんのための処分蔵書の検討やねん。呵々。
 ……いや、呵々ではない。自嘲している場合じゃないのだ。されど解決策として見出したプランはいずれも帯に短し襷に長し。望みをかなえてくれる解決法など、そう滅多にあるものではない、とは勿論百も承知なのだが……。
 まずは書籍購入を控えに控え(抑えに抑え、とも)、蔵書数がこれ以上増えないうちに<残す本>を選別し、<所蔵先>を検討するが急務。もう人生も折り返し点を過ぎたのだ。わたくしに渡部昇一のような真似はできない。新たに読める本も、読み返す(読み返せる)本も、けっして多くはない。荷物が沢山だと身動きが鈍くなり、あとに遺された者が苦労する。もうわたくしは自分が持っている多くのモノを捨ててゆかなくてはならない年齢なのだ。
 斯く嘆息して窓外を見れば、街はもうクリスマスの景色である。恋人、夫婦、家族が、街路を往来している。もうそんな季節なのだ。いろいろな人が、いろいろな光景が、いろいろな想いが、現れては消えてゆく……嗚呼!
 しかしわたくしは進まなくてはならない。前に、前に、進むべき道を切り拓いて。
 今年中には収益物件購入と蔵書処分のメドは付けたいなぁ。◆

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