第2621日目 〈かくて我、聖書読書へ立ち戻りけり。〉2/2 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 実は今年5月に第2619日目の原稿を、同10月に第2620日目の原稿を、それぞれ書いたのだけれど(※1)、そちらで吐露した種々の思い──「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」へ取り組む意思と「ダニエル書」への執着にいささかの変化もないことに、正直なところ自分でも意外と思うている。
 かつて「一マカ」に取り組んでいた時分、読書中か読了後だったか忘れてしまったけれど、その第1章の余白にわたくしはこう指示のメモを残したのだった。曰く、「マカバイ記読む前に「ダニエル書」、ハーレイP508-9(エジプトの、シリアの支配下、3独立の1世紀)へ目を通しておくこと」(ママ)と。
 もしかすると、「ダニエル書」を読み終えたあとになにかの資料で「マカバイ記・一」との関連を知り、あらかじめ斯く書き付けておいたのかもしれぬが、いまとなってはもはや確かめる術なぞどこにもない。
 註記しておくと、ハーレイとはヘンリー・H・ハーレイ著『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)を指す。S.ヘルマン&W.クライバー『聖書ガイドブック』や岩波訳聖書、ティンデルの各巻他と一緒に繙く機会の多かった1冊である。中学生の頃から通っていまは閉店してしまうた古本屋の、いちばん上の棚に本書のむかしの版を見出して逡巡の挙げ句、翌週の日曜日、買いに行った思い出も併せてよみがえる1冊である。
 そのハーレイの著書のなかにある、ディアドコイ戦争後のパレスティナを巡る項目を読んでおけ、とメモはいうのだ。
 しかし残念ながら指示は──「ダニエル書」読後のものだとしたら──あまりその目的を果たさなかったようだ。もしその指示にちゃんと従っていたならば、「一マカ」のノートは矛盾や疑問点を内包したまま終わったりしなかっただろう。
 「ダニエル書」と「マカバイ記・一」はすこぶる密な関係性を持つ。「ダニエル書」の後半、第7章以下が黙示文学の領域に踏みこんだ、これから起こるであろう出来事の啓示になっていること、既に当該書の<前夜>に於いて触れているが、第11-12章はまさにマカバイ戦争前史ともいうべき内容なのだ。即ち、新バビロニアとペルシア両帝国の滅亡とアレキサンダー大王率いるギリシア王国の版図拡大、その拡大政策が王の崩御を以て事実上破綻、その後に勃発した後継者戦争とプトレマイオス朝エジプト/セレコウス朝シリアの盛衰、アンティオコス4世によるエルサレム占領と神殿冒瀆が、そこでは予告されている。
 ゆえにわたくしは「一マカ」第1章余白に斯く指示を残したのだった……。
 「一マカ」再読にあたって、では「ダニ」を如何に遇すべきか? むろん、それを読んでおくのはあらかじめ定められたことであるからともかくとして、問題となるのは、(かつてのような)「ダニ」のノートをこの度も作成するか否か──たといそれが後半、黙示文学の部分のみであったとしても──、なのだ。もうレジュメはモレスキンのなかにあるから、整理・推敲すればお披露目できるのだよなぁ。しかし、それって本当に必要なのかしらん。
 いずれにしても、「マカバイ記・一」に集中できるようになるのは「ダニエル書」に目を通したあとだ。では、本ブログが聖書読書ノートブログとして復活するのは、いつのことだろうか?
 希望的観測でしかないけれど、リハビリ期間も含めて今年中にはなんとか再びの第一歩を踏み出すことを目指したい。<前夜>さえお披露目してしまえば、あとは一瀉千里。
 晴れて聖書読書ノートブログが再開したその暁には、BGMとして、そうね、シベリウスの《伝説(エン・サガ)》Op.9を鳴り響かせようか、と考えている(※2)。読者諸兄よ、もう少し待っていて欲しい。◆

※1:本稿の第一稿は10月02日。
※2:ネーメ・ヤルヴィ=イェーデボリ交響楽団による演奏が、現時点での筆頭候補。□

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