第2642日目 〈サロメとヨカナーンについて語るとき、文オタ・オペ好き・非キリスト者のぼくが語ること。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 「ヨカナーンの首を欲しうございます」と、王女サロメはいった──。
 ご存知、戯曲『サロメ』のクライマックスであります。捕らえられたヨカナーンに心奪われたサロメ。想いを拒まれた彼女が父王へねだった贈り物、それが洗礼者ヨハネの首でありました。
 『サロメ』の作者はオスカー・ワイルド。イギリス世紀末のデカダンを代表する文学者です。暖色に耽って投獄されたり、貴族のような面立ちも手伝って巷間を騒がせることたびたびな人物でしたが、著した作品は幅広いジャンルにわたり、その多くがいまでも読み継がれていることは、おそらく読者諸兄にも周知の事実でありましょう。
 たとえば、小説だと『ウィンダミア卿夫人の扇』や『ドリアン・グレイの肖像』、戯曲にはこの『サロメ』以外にも『真面目が肝心』、童話はおなじみ『幸福な王子』や『漁師とその魂』などがあります。日本では古くから多くの人によって翻訳されてきました。21世紀の現在でも新たな翻訳が生まれています。ワイルド作品はこんにちでも──やや偏りがあることは否めませんが──新刊書店の棚の定番であり、また古本屋の棚でも常連然としております。
 閑話休題。
 ワイルドは『サロメ』をフランス語で執筆しました。これを英語に訳したのがイギリス/イングランド出身の詩人・作家でワイルドの同性の恋人だったアルフレッド・ダグラス卿。もっとも、この英訳にワイルド自身は不満を覚えていたようで、後に自ら修正の筆を入れております。
 『サロメ』の翻訳にはもう1つ、極めて有名なものがある。それが当時のドイツ、現在のポーランドに生まれた詩人・翻訳家のヘートヴィヒ・ラハマンによるドイツ語版。どうして「極めて有名」と申しあげたかというと、ワイルドの戯曲よりもはるかに江湖に知られ、かつ舞台で上演される回数の圧倒的に多い、と或る舞台芸術作品の生まれる原動力となったからなのです。
 それがドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《サロメ》であります。
 管弦楽書法に於いてワーグナーの後継を恃むシュトラウスは最初、オーストリアはウィーンの詩人、アントン・リントナーから台本を手供されていたが、どうにも曲を付ける気にならない。そこでワイルドの原作をいじくったリントンの台本ではなく、原作のドイツ語訳を台本に用いて(一部削った箇所もあるとはいえ)作曲の筆を進める。斯くして一幕物のオペラとして産声をあげた《サロメ》は1905年、シュトラウス作品にゆかりあるドレスデンにて初演されました。評判は上々──というよりも、背徳的かつ退廃的、そうして原作自体が持つ拭いがたきエロスゆえに一大センセーションを巻き起こしたとのことです。たぶんこのエロティシズム絡みの話題は、単独で演奏されることも多い終幕の〈7つのヴェールの踊り〉に拠ると思うのですが、どうだったのでしょう。〈7つのヴェールの踊り〉は録音を聴くだけでも濃厚で官能的な、或る面で《サロメ》という作品の特質を象徴する音楽でもありますから、初演当時これに接した人々は果たしてどのような想いを抱き、考え、論じ、肯定否定それぞれに別れたのでありましょう? つくづくタイム・マシンのない時代に生まれたことを残念に思うことであります。
 《サロメ》の録音は数多く存在するけれど、やはりわたくしにはシノーポリ=ベルリン・ドイツ・オペラ=シェリル・ステューダー盤とカラヤン=ベルリン・フィル=ヒルデガルト・ベーレンス盤の2種類の録音が双璧だ。前者が理知的で冷徹な《サロメ》としたら、後者は激情と叙情と官能が巧みに調和したそれであります。どちらも甲乙付け難い、いまなお最強の《サロメ》。生きているうちにこれらを完全に払拭させて、CD棚の奥に定年退職願うまでにさせるレコードが現れるのかなぁ……。
 さて、今度はサロメの話をしましょう。『サロメ』でも《サロメ》でもなく、サロメの話。ワイルド描くサロメ王女の典拠のお話です。
 サロメもヨカナーンもワイルドの創造物にあらず。また、本稿冒頭のサロメの台詞もワイルドの天才がゼロから書かせたものではない、というてよいかもしれません。サロメもヨカナーンも、そこにいる──どこか? 新約聖書のなかに、共観福音書のなかに、かれらはいる。サロメはヘロデ王の娘として、ヨカナーンは洗礼者(バプテスマ)ヨハネとして、共観福音書のなかにいた。
 ナザレのイエスが弟子を集めて伝道を始める前、既にガリラヤ地方には「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ3:2)と宣べ伝える者がありました。それが洗礼者ヨハネであります。かれは人々に水で洗礼を施していましたが、常に自分は地均し的存在でしかない、というておりました。「マタイによる福音書」に曰く、──
 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタ3:11)
 この直後にイエスがふらり、とやって来て、ヨハネと洗礼問答をするのですが、ここでは省きます。
 イエスとヨハネの邂逅はこのとき1度きりだった様子。というのもその後ヨハネは、ヘロデ大王の子でガリラヤとペレアの領主、ヘロデ・アンティバスに捕らえられて死海東岸の要塞マカエロス(マケロス)へ幽閉されたから(マタ4:12)。もっとも、幽閉中であっても自分の弟子を通じてイエスとの間接的接触はあったようです(マタ11:2-6、ルカ7:18-23)。
 そもヨハネが捕らえられたのは、ヘロデ・アンティバスが自分の兄妹の妻ヘロディアを娶ったことを批判したため、といわれております。それは律法が許していることではない、というのが、ヨハネの言い分でした(マコ6:17-18、マタ14:3-4)。これに夫婦ともども立腹したことが、ヨハネ逮捕・幽閉につながってゆく。そうして結局ヨハネは、ふたたび外の世界を歩くことなく、剣の下に露となって果てたのでありました。
 サロメがヨハネの首を所望するエピソードは、共観福音書のうちマタ14:6-11とマコ6:21-28に記されています。
 ヘロデ・アンティバスは自分の誕生日の余興で立派な踊りをおどったヘロディアの連れ子、サロメに褒美を与えようといいました。そのとき彼女が求めたものこそ、洗礼者ヨハネの首だったのであります。たいそう心を痛めながらもヘロデは臣下へ命じてヨハネを斬首に処し、この狂気の贈り物をサロメに渡しました。
 ──ワイルドの戯曲、シュトラウスのオペラにはこのあと、サロメがヨハネ(ヨカナーン)の唇に口づけして倒錯した恋心を語り、その様子に恐慌を来したヘロデがサロメ殺害を命令するのですが、共観福音書にそんな記述は勿論、ありません。こここそがワイルドの天才が存分に発揮された部分である、とわたくしは信じて疑いません。
 このヨハネ処刑は紀元28年頃(イエス磔刑の2年前)の出来事とされます(佐藤研『聖書時代史 新訳編』P39 岩波現代文庫)。
 ここで注目すべきは、福音書に於けるヨハネ処刑の経緯が、回想形式をとっていることでありましょう。即ちイエスの活動・奇蹟の数々が耳に入ってくるようになると、ヘロデ・アンティバスは自分がかつて斬首を命じたヨハネが生き返ったのだ、とそう思うてしまったわけです(マタ14:1-2、マコ6:14-16、ルカ9:7-9)。はい、回想スタート(以下略)。
 が、実際のところはそうでなかったようだ。ヘロデにヨハネを思い出させたのはイエスの評判ではなく、しかも死したるヨハネをヘロデに結び付けたのは、紀元36年頃にあった対ナバテア王国戦での敗北だったといいます(佐藤前掲書P23、P56)。
 戦争の陰に女あり、で、当時既に妻帯していたヘロデ・アンティバスだが兄妹の嫁ヘロディアをわが妻とせんがため、それまでの妻を離縁しました。が、その離縁させられた女の実家が実家だけに、この欲望だらけの行為はヘロデ王に手酷い代償を支払わせる結果となりました。
 ヘロデが離縁した女の実家は隣国ナバテア──聖書でナバテア人はアラビア人とも書かれる。ナバテアは死海の東と南に広がる国だ──にあった。そうして父親は、王アレタス4世(在前9〜後39年)だった。この、ナバテア国との間に勃発した戦争については、わたくしもいつか短いエッセイを書きたいと思うております。
 新約聖書の時代を考えるに必須な文献の1つが、フラティウス・ヨセフスが著した『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』であります。ヨセフスはエルサレムの祭司の家系に生まれた、マカバイ家・ハスモン王朝の流れを汲む人。生年は37年頃と伝えられる。第1次ユダヤ戦争ではユダヤ軍の指揮艦で会ったがローマ軍に投稿して、エルサレム陥落を目の当たりにした。その後は帝政ローマの幕僚として生き、前述の2大著を書きあげて100年頃に没したといわれます。
 ヘロデとナバテアの戦争はヨセフスが生まれて間もない時分の出来事、そうして共観福音書の成立(諸説あれどだいたい60年代後半から100年までの間に成立)とヨセフスの後半生はほぼ重なるというのが面白い。このヨセフスが報告するところですが、ヘロデ敗北を多くのユダヤ人が洗礼者ヨハネの処刑と結び付けて考えていたようです(佐藤前掲書P56)。
 また、共観福音書にヨハネの首を所望した王女の名前は、じつは記されていない。にもかかわらずこれをサロメとするのは、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第18章5節の記述に基づいている。そこではヨセフ処刑はヘロデ王自身の判断とされるが、王の妻子について書かれた部分にサロメの名前が登場する。『ユダヤ古代誌』に於けるサロメと共観福音書が伝える王女の記事に一致点が見られることから、かの王女をサロメという名で後世は伝えたのでありました。
 ──西洋の文芸作品の、汲めども尽きぬ創造の源泉の1つが聖書であることは間違いありません。今回のワイルドとシュトラウスについても、例外ではありませんでした。
 共観福音書の記事だけでもじゅうぶんにドラマティックなものを、ワイルドの天才はさらに深みを加えて劇的なものとし、いちど知ったらもう忘れることのできないような強烈なキャラクターと台詞を紙の上に叩きつけて、後の世のわれらに残してくれました。サンキー・サイ。
 もしかすると、ワイルドの『サロメ』/シュトラウスの《サロメ》は、バッハの受難曲やカンタータと同じぐらい、聖書の世界へ皆さんをお招きするのに格好の作品といえるかもしれません。よろしければワイルドの『サロメ』/シュトラウスの《サロメ》に触れてみてください。きっと或る種の法悦を感じ取っていただけると思います。◆

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