第2649日目 〈マカバイ記・一第4章1/2:〈アマウスの勝利〉&〈リシアスとの戦い〉withインフルエンザまがいの風邪のなかで見る夢。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第4章です。

 一マカ4:1-25〈アマウスの勝利〉
 夜更けのことである。シリアの将軍ゴルギアスはユダ軍を夜襲するため、6,000人の兵を率いてアマウスを出発。一方アマウスの南方に陣を敷くマカバイはゴルギアス不在の敵陣を攻撃するため、軍を動かした。
 ──ゴルギアスはユダ軍の駐屯する場所に来たが、もぬけの殻だ。事前に動きが察知されて逃げられたのだ、と思うたゴルギアスは、命じて付近を捜索させた──。
 夜明けである。ユダ軍はアマウスを見晴るかす平野に姿を現した。シリア軍の布陣に挫けそうになったユダ軍だが、マカバイに励まされて、鬨の声をあげながら敵陣へ斬りこんでいった。
 戦場にラッパが高らかに鳴らされた。ユダ軍とシリア軍が剣刃を交えるたび、兵は1人また1人と傷附き、倒れ或いは前進した。遠近で兵のあげる勲しの声、武具がかち鳴る音、兵馬のいななき、馬の蹄や兵の軍靴の響きで戦場は揺れた。大地は震え、血が流れた。
 やがて数を誇るシリア軍は信念の下にひとつとなったユダ軍に徐々ながら圧され始め、遂に総崩れとなり、まだ命ある者はユダ軍の追撃を受けながらゲゼルやイドマヤの地、或いは地中海から遠くない内陸の町ヤムニア、旧約聖書の時代にはアシュドドと呼ばれたアゾトにまで逃げていった。マカバイの追撃は容赦がない。
 マカバイが追撃から戦場へ戻ってくると、ちょうど民が倒れた敵兵から戦利品を略奪している場面である。かれは諫めて、むしろ周囲の警戒にこれ務めるよう命じた。
 まさにその時、山から戦場の様子を覗きこむ敵の残党がいた。かれらは立ちのぼる煙や倒れたる友軍兵の姿を見て状況を察し、またユダ軍が陣営を再編している様子に恐れをなし、ことごとく異国へと逃げていったのだった。
 ここに至ってようやくマカバイは戦利品の略奪を許可し、自分も多くの富を奪った。
 「こうして、この日イスラエルに大いなる救いがもたらされたのだった。」(一マカ4:25)

 一マカ4:26-35〈リシアスとの戦い〉
 リシアスは嗟嘆した。ユダヤ掃討が思うような成果をあげられていないからである。
 とはいえ、嘆息してばかりはいられない。アマウスの戦いの翌る年(前164年)、リシアスはみずから軍を編成、アンティオキアを発つとイドマヤ地方のマリサを経て、エルサレム南西ベトツルに陣を敷いた。ベトツルは南からエルサレムに上る街道沿いの町にして軍事上の要衝である。
 マカバイはリシアス軍の接近を知るやベトツルへ進軍、シリア軍に相対して陣を敷く。が、敵の強固な陣営を前に刹那たじろいだが、こう祈って自分たちの萎えそうになる心を立て直した。曰く、──
 古代より苦境のイスラエルを勝利に導いてくれたイスラエルの救い主よ、「どうかあの陣営をあなたの民イスラエルの手によって封じ込め、彼らの兵と騎兵とを辱めてください。彼らに恐れを抱かせ、彼らの強い自信を揺るがせ、彼らを粉砕して破滅に導いてください。あなたを愛する者たちの剣で彼らをなぎ倒させてください。あなたの御名を知る者すべてが、賛美をもってあなたをたたえるようにしてください。」(一マカ4:31-33)
 ……そうしてマカバイ率いるユダ軍とリシアス率いるシリア軍は激突し、剣刃を交えて戦った。ユダ軍は自分たちが優勢になるのを知るたびに士気を高めて悠希、逆にシリア兵は自軍の劣勢なることを感じ取って闘志を鈍らせてゆく。──ユダ軍はみずからの生死にかかわらず命を賭して、雄々しく戦った。
 リシアスは損耗が激しくなるばかりの戦いに勝機なしと判断した。そうしてシリア軍全兵の撤退を命じた。
 ──が、この撤退はユダヤ討伐の断念ではない。リシアスは更なる対ユダヤ戦の準備を、王都アンティオキアにて進めたのである。

 だんだんと聖書の記述を基にした歴史物語に傾きつつあることを、敬虔なるキリスト者、ユダヤ教徒、研究者とその他諸々の諸面々へお詫び申しあげます。
 しかしながら意見を述べれば、歴史書のダイジェストなど原則としてあり得ない。実行すればそれはほぼ間違いなく、編年体のスタイルを取ることになるのではないでしょうか。編年体というても『春秋』やや『日本書紀』のようなものではなく、むしろ歴史の教科書の巻末でおなじみの年表スタイルにイメージは近いかな。
 年代の特定に時間は要すが、それができるなら事は単純で、「マカバイ記 一」のノートなど2、3日あれば事足りるでしょう。ですがそれではあまりに無味乾燥で、しかもわたくしが本ブログにてノートする必要などまるで、ない。却って<歴史を語る>面白さを損なうだけであります。
 自分ではダイジェストというてもそれがほぼ再話に等しく、書物によって物語的潤色を加えているのは、否めない。補足の域を超えてしまっている場合があることも、認めるところであります。
 ではなぜ敢えて、聖書の記述を基に想像を交えた文章をこしらえるのか。
 読んでもらうならすこしでも面白く感じていただきたい、予備情報があるならそれを交えて補いたい、これを契機に古代オリエント史に興味を持っていただきたい、というところでありましょうか。そうしてなによりも、<書いているわたくしが、聖書で語られる歴史物語の一々を面白く思うているから、どんどん書きこみたくなる>のであります。まぁ、こちらの方が強いかな。
 さて、えぇと、ベトツルですが、本文中で補ったようにエルサレムの南西約40キロにある町で、文字通り海抜760メートル超のエルサレムに登る街道の途中にある。ここには砦が置かれており、エルサレム南方の防衛の要。逆にここを落とせば誰であろうとエルサレムへ入城するのは容易であった、というてよいのかもしれない。事実、マカバイはリシアスとの戦いの後、ベトツルの防御をさらに固めてその後の戦いに備えた。
 第4章は残り1項にていよいよ、シリアに汚された聖所の清めを語ることになる──。to be continued.



 この時期になると、かならずインフルエンザまがいの風邪を引く。今年も例外ではなく、会社を2日続けて欠勤。熱が38.0度を下回らないのは、どうしたわけか。病院に行っても解熱剤やらの風邪薬一式を渡されるだけで、理由については「さてねぇ……」と小首を傾げるばかり。
 けっきょくおとなしく家にこもって、床に横になっているより他ないのだが、いやぁ、こういうときはいけませんね、妄想が果てしなく広がってゆき、とめどがない。その妄想の続きを夢に見るに至っては、「いやはやなんとも」と呵々しつつ嗟嘆するしかない。
 こんなときはふしぎと時間の流れ方がおかしいことになり、長かったり短かったり、ねじれたりまっすぐだったり、自在に伸び縮みしたり行ったり来たり、で、起きていても「本当にいま、自分は目覚めているのかな?」と疑問に感じてしまう……こんなこと、ありませんか?
 だから夢のなかの出来事が目覚めて起きたあとも自分のまわりで継続されているように思うときが、ときどきある。現実と妄想(幻覚?)が互いの領域を侵犯し合って、わたくしを引き裂こうとしているようで正気を保つに相当の努力を強いられることも、たびたびある。
 <そこ>は、安息の場所。<そこ>でわたくしを待つのは、逢うことのかなわぬ人たち。或る人はいるべき場所に帰るよう叱責し、或る人は留まることを望んでいる。どちらも選べぬ自分はやがて、<神>の声に気附いていつもの世界へ帰還を果たす。おお<神>よ感謝します、と嘯きながら。
 その<神>の名は、──スマホのアラーム機能。◆

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