第2655日目 〈聖書ブログいったん中断と、小説の勉強のため書写など始めたよ、というお話。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろブログをまったく更新できておりません。読者諸兄にはまことに申し訳ない次第であります。
 この春、ちょっと母が大腸ガンと診断されて検査や入院・手術を行っており、入院前と入院中は勿論、退院後もいろいろとやらなくてはいけないことが山積みで、そちらを片附けてゆくことを最優先していました。
 また、わたくし自身も再度の突発性難聴(今回は深刻)を患い現在も治療通院中であるのに加えて、肺に小さな黒い奴、いわゆるガンってものが見附かってしまい、……加えて会社の方でもいろいろあり、正直なところ、ブログに向かう気持ちを奮い立たせることが、まったくできなかった。
 そろそろ……と思うのだけれど、いまは「マカバイ記 一」再読を進めてゆくのは負担に思うばかりなのだ。モチベーションの消失、といえば聞こえはいいが、要はやる気がすっかり失せただけのこと。
 が、われながら性質が悪いな、と思うのはここから先で、まだ「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」には未練がたっぷり残っているのですよ。中途半端に放り出すような気もして、なんだかお尻がむずむずして落ち着かないのだ。
 ──そこでみくらさんさんかは、考えた。
 いったん旧約聖書続編の件の2書は再度、読書等を放棄して来たるべき時をじっと待とう、と。
 それまでの間、ではブログの更新は棚上げとするのか? 否、である。これまでもそうであったように、読書の感想や日常雑記、そんなことを不定期ながらお披露目してゆこう、と企んでいる。
 どうぞご寛恕願いたく──。

 今日はこんなことをお話ししよう。
 数年前に下書き状態で放ってあった、おまけに未完な長編小説がある。そのうちの1つはとりあえず、切りのいいところまで下書きができているので、こちらの第一稿を仕上げるべく時間を見附けて(毎日とはさすがに行かないが)、しこしこがりがり書き綴っている。
 その過程で、もっと文章が上手くなりたいな、小説が上手くなりたいな、と切実に望むようになった。今回は特にその願望が強い。では、どうしたらいいかしらん、と小首を傾げてみたところ、昔ながらの上達法の実践に行き着いた。即ち、書き写し、である。
 誰の文章でもよいわけでは、勿論ない。
 文章が優れ、物語に潤いやふくらみがあり、小説技巧に長けていること。鍾愛する作家でも、これまで縁のなかった作家でも、構わない。とにかく書き写して得るところ多い作家であるのは、譲れぬ条件。
 そうして選び出したのが、向田邦子と安岡章太郎、南木佳士だ。この人たちの短編小説を原稿用紙に、意識しながら書き写してゆく。それを、始めた。
 まずは向田邦子の短編「花の名前」(『思い出トランプ』所収)、これを1時間という制限時間内で集中して、一枡一枡埋めてゆく。初日の今日(昨日ですか)は6枚目、正確には5.5枚目まで、「ご主人にお世話になっているものです」と名乗る女性からの電話を受けた場面まで。
 こちらが終わったあとは、直木賞受賞作の他2作を書写。そうしてから安岡章太郎の短編を『海辺の光景』と『質屋の女房』から数作、南木佳士は好きな短編をどれか1,2作と長編『阿弥陀堂だより』を書き写して、勉強しようと思うておる。
 他にも、弾みがついたら久生十蘭や太宰治(この人の場合は専ら文章のリズム、かな)、村上春樹、カーヴァーやカポーティ、キングやディック、ヘミングウェイも同様に書き写して、小説技巧や物語の構成など分析(?)してみたいですね。まぁ、早々に挫折する可能性だってなきにしもあらずですが……。
 と、ここまで書いて気が付いた、というか、思い出した。なんてことはない、わたくしはこれまで足掛け8年に渡り、と或る書物の文章を適宜抜粋して書き写してきたではないか。
 そう、聖書です。
 引用という形で、飽きることなく、時には無力に圧し潰されながら、ずっと聖書の言葉をわたくしは書き続けていたんですよね。すっかり自分の行為を忘れておりましたよ。この機械に改めて、聖書の言葉へ虚心に触れてみたいと思います。
 わたくしの架蔵する聖書は、とても少ない。新共同訳が2冊、縦組み引照附きと、もう1冊が<聖書読書ノート>ブログで使っていたもの。半壊とまではいかないけれど、割れはあちこちで生じている、書きこみと下線だらけの満身創痍な1冊であります。
 書架へ目をやれば他に、フランシスコ会訳(旧新約聖書合冊と新約聖書)と新改訳2017、現時点で最新の翻訳である日本聖書協会訳(旧約聖書続編附き)の、合計7冊が、架蔵されてある。岩波文庫の文語訳と個人役は、除いてあります。
 それぞれの翻訳でどのように違いがあるか、そんなことも確かめてみたいので、やはり聖書の、任意の書物任意の場面から書き写し作業はやってみたいですよ。もっとも、向田邦子や安岡章太郎などに於ける書き写しとは大きく性格を異にすること請け合いですけれど……。
 書き写しの作業って、退屈じゃぁありませんか? そう訊かれたら、こう答えましょう……いいえ、愉しくて、わくわくしますよ、と。
 この漢字をこの人は開くんだ、この人は動詞を開くのがクセなのかな、ここで改行するのか、まずは状況だけ短いセンテンスで提示したあと矢継ぎ早にじっくり簡素に説明してゆくのがこの人のスタイルなのかな、……なんていろいろ考えることも沢山ありますから。
 すくなくとも、退屈とは無縁の作業である、と申しあげておきましょう。

 学生時代、或いは就職浪人の時分、図書館から借り出した『後撰和歌集』や私家集、上田秋成の『藤簍冊子』など気慰めに書き写していたことなど、思い出しておりますよ。あの頃のわたくしにもう少し辛抱する執着心があれば、望んでいた職業に就くことだってできていたでしょうに。哀れなるべし、哀れなるべし。
 またしても、話が逸れてしまいました。わたくしのいけないクセです。慎みましょう。
 向田邦子の短編をいま、書き写しています。進捗状況など、本ブログやTwitterなどで折に触れてご報告するつもりです。目に留まったら、お読みいただけると嬉しいです。◆
自註:令和元年初めのブログ用原稿

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