第2670日目 〈寝しなの読書、いまは紀田順一郎の著作が多いんです。〉 [日々の思い・独り言]

 寝しなにビールを飲みながら、本を読む。就寝前の一刻をこんな風にして過ごす。やるべきことは済ませてあとはもう寝るだけ、という時間。わずか20分、30分てふ短い時間だが、明日の憂いや患いを追い出して、書棚から持ち出した本を開くのが無上の楽しみと化しつつある。以前はアニメ『けいおん!!』を1話ずつ鑑賞することだったが、この数日はさっぱりご無沙汰で……。
 ──ああ、友よ。実を申せば、この時刻に読む本は紀田順一郎がちょうどよい。なぜだろう? 理由はよくわからない。しかも読むのは、かれが著作を陸続と送り出していた頃のものではなく21世紀になってからの、回顧の趣が強くなってきた本である。具体的に書名を挙げれば『幻想と怪奇の時代』と『戦後創成期ミステリ日記』、『幻島はるかなり』、『蔵書一代』。出版社はいずれも松籟社。
 最近自分の書くものがノスタルジックな傾向を深めてきたせいか(個人の感想です)、それともそのジャンルに血道をあげていた時分に水先案内人のような役目を担っていた人の書いたものだからか、紀田順一郎の本を読んでいると、ふしぎとしみじみした気分にさせられるのだ。
 初めはほんの一滴の清らな水滴がいつしかせせらぎとなり渓流となり、地下から湧き出た伏流水を束ねていつしか幅も広い川となって悠然と人の住まう土地のなかを流れて果て知らぬ大海へ至る、その戦後初期の一鍬を情熱だけを頼みとした人たちと揮った紀田順一郎のジャンル小説への<愛>は、既に供給されていることが当たり前な今日の読者には夢想だにできない先駆者ならではの希望と挫折と探索、そうして人の縁、人の環に彩られて、読み手の魂を──就中いま程情報もなく人とつながることもできず、独りきりで、コツコツ足を使って作家の消息を古本屋や図書館で辿り、偶さか雑誌や本の解説で知る情報を頼りに本屋を巡り歩き、時には識者へ手紙で問い合わせたり、海外の古書店にカタログを請求して欲しい本を見附けるたびに垂涎のよだれを流したりしていたかつての若者の心を、懐かしさと後悔のみならず、もしかしたら実現していたかもしれない未来をふと思うて、哀惜の情に駆られて涙を流し、嗟嘆するのだ。……ここまで、ワン・センテンス。
 徒し事はさておき、顧みるまでもなく中学生から会社員数年目の頃まで約15年間、偏愛して握玩措かなかった幻想小説と推理小説には平井呈一や宇野利泰、深町眞理子や矢野浩三郎、荒俣宏や紀田順一郎などといった面々の名前が踊っていた。わたくしはかれらの訳書や解説で世界を知り、ゆっくり広げていったのだ。それゆえか、かれらのエッセイをまとめた本を知ったり、未読の文章の載った雑誌など見掛けると、無性に欲しくなって、なにはさておいても購入してその後はしばらくの間、一心不乱に読み耽るのである。
 本稿を投降したら、いつものようにわたくしは冷蔵庫を開けて、キンキンに冷やしたビールを取り出し、椅子に座を占め、明日に味わう憂いを忘れるようにして書棚から持ち出した紀田順一郎の本を、読む。これがいまは至高の一刻だ。さて、それでは、──◆

共通テーマ:日記・雑感

第2669日目 〈ダンセイニ卿『戦争の物語』を再読しよう。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日のブログにて、村上春樹の本をダンボール箱に詰めて代わりに日本古典文学のテキストと研究書を棚に並べた、と書いた。本日の原稿はその副産物というべきもの。その過程で別の書架に並ぶ本を眺めることになり(積みあげたダンボール箱でふさがれた、書架なのだ)、その一角にまたずいぶんと懐かしい思い出をよみがえらせる同人誌を10数冊、発見した。
 2つのサークルの同人誌なのですが、1つは創作、1つは評論。も少し詳しく申せば前者のジャンルはハイ・ファンタジーで、滅亡した国家の姫君が国家再興を目的に諸国を放浪する、未完結の『ギネルト・ロウ』(S&S)。後者はアイルランドの幻想文学者(の面が専ら有名な)ロード・ダンセイニの未訳作品の翻訳や研究に奮闘して、現在も刊行が続いているらしい『ペガーナ・ロスト』(西方猫耳教会)である。
 コミケに通い詰めて書架二杯分を埋め尽くした同人誌の殆どは、火事があった際に処分した。断腸の思いで処分した、もう二度と手にすること能わざるそれらをわたくしはいまでも夢に見る。煤や煙をかぶった同人誌の群れから「これだけはどうしても……」と救出、その後もコミケや創作畑に通ってコレクションの充実に努めたサークルの本は、本当にわずかだ。
 先に挙げた2つのサークルはその「本当にわずか」に属すものだが就中後者、『ペガーナ・ロスト』はわたくしが最後にコミケへ参加した年に購入した、唯一の事前より購入を計画していた同人誌なのだ。それとておそらく現在から顧みれば活動の初期の刊行物であろうが、この時分に購入した西方猫耳教会の本のなかでは、『戦争の物語』(稲垣博・訳 2004年06月)が好きだ。
 本書はダンセイニが「第一次世界大戦をスケッチ風に描いた散文集」(P124)で、掌編全34編を翻訳、収めている。陰翳のくっきりした、惻惻たる日本語で、このような稀代の戦争小説が読めた幸せを当時のわたくしはこんな風に、奥付に書きつけている。曰く、──
 「やりきれない。著者の傷の深さもさることながら、軍神の足許に倒れて戦処女たちに連れられヴァルハラへ行けぬまま草葉の陰に消えていった兵士たちの、侘しく淋しげな声を聞く思い。A.ビアース『生のさなかにも』と双璧を成し、マッケンの『弓兵』に見劣りせぬ戦場の哀切さ。なぜ日本にかのやうな戦場に満ちあふれる痛みや悲しみを凜とした文章で著し、かつ魂を癒やし心清らにさせる戦争小説の書き手が在らぬのか。事実の報告や多少の脚色など小説ではない。」
と。
 この感想は、本稿の筆を執る前に『戦争の物語』へざっと目を通したときも、あまり修正を迫るものではなかった。とはいえ、このあとまぁ1日に3,4編が限度だろうが読み進め、やがて読了した暁に改めて起草するであろう感想に、いったいどのような言葉が並ぶのか。楽しみなようで、ちょっぴり怖くもある。
 いまのわたくしの願いは『戦争の物語』読書のみならず、架蔵するダンセイニへの恵愛に満ちた研究書『ペガーナ・ロスト』の未所持分を可能な限り買い集めて、耽読することだ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2668日目 〈明け渡しの日、来たる。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の黄昏刻、これまで約6年に渡り一角を占めていた<それ>に代わって、かつての盟主が入城した。凱旋のラッパが鳴り響き、その光景を生きて目にし得た幸せに涙ぐむ者もあった。
 上文意訳:これまで約6年に渡って書棚の一段を占めていた村上春樹の著作をいっせいに移動させ、殆どがらんどうになったそこには昨夏、アパート取り壊しに伴い撤去予定の倉庫から自宅建て直しの際放りこんでおいた捨て難き書物のうち、もっともわたくしの愛惜する分野の書物、即ち日本の古典文学のテキストや研究書などを、分類や整理は二の次にして置いたのである。
 凱旋のラッパはわたくしの胸のうちで控えめに、されど壮麗に響き渡り、16年ぶりに棚に収まったそれらを見ることはできないと思いこんでいたのもあってその光景を目にできた途端、涙が静かにこぼれ落ちてゆくのを禁じ得なかったのだ。
 ──こうして再び書架に収まり背表紙を見せているのを眺めていると、古典の読書と研究に没頭していた頃から今日までの間に四半世紀前後という時間が経過したこと、あまり信じられないのが正直なところ。
 が、視線をぐるりと巡らせれば、村上春樹や三浦しをん、クリスティやキング、古今東西のミステリ小説を詰めこんだダンボール箱の山、山、山。もはや処分することもできぬ、情のたっぷり塗りこめられたものであるゆえ、その扱いにじつは閉口している。こうなったら、と考えるのだ、──
 書架のみならず床積みの本の群れに厳しくプライオリティを設定し、最上級(=もっとも手許に置いておきたい本)のものを除いた他の本はすべて、一時的であれ恒久的であれ貸し倉庫にあずけよう、と。その間にわたくしが目論んでいるのは、部屋のリフォームである。荷物を運び出して床の点検を行った後、窓際の壁を可能な限り作り付けの書架(と抽斗)とする。ついでにクロゼットも改修して、その下半分を抽斗にしたい。
 とにかく普通に考えても不足している収納を増やし、必要なものがすぐに見附けられて使えるようにしたいのだ。村上春樹の著作を移動させたのは、その端緒である。実を申せば、お願いしたい業者の絞りこみは着々と進んでいるのです。あとは資金面を如何にクリアするかだなぁ。
 これらのことが年内に実行できるか分からないけど、こうして書いてしまえば意思表示にもなるので、やがて強迫観念のようになって計画をなかばむりやり、強引に、実行に移すことを、当のわたくしは知っています。
 「まず計画を立てよう、それを実行しよう、そうして反省しよう」
 ……ああ、なんと良い言葉なのでしょう!◆

共通テーマ:日記・雑感

第2667日目 〈初めての読書会参加はいつになる?〉 [日々の思い・独り言]

 読書会へ参加したいのです。これまで機会があったにもかかわらず、どうも腰の重さと消極さが災いして、最後の一線を越えるこことができないでいる。
 昨春、読書した本について話す相手をなくし、それからというもの周囲に読書を趣味とする人に絶えて会わず、空しくてたまらない。読書会ってものに参加してみようかなぁ、と電脳空間をうろついては「これ」と思える催しをブックマークして、後程吟味を加えるのだけれど、けっきょくは参加を断念してしまうことばっかりで。参加申しこみ後に、仕事の関係でキャンセルを余儀なくされたことも、そういえばあったな。
 最近も「ああ、この読書会に参加してみたいなぁ」と思うことは偶にあるが、けっきょくはあれこれ理由を付けて諦めるんだろう、と考えると、もういけない、本当にその通りになってしまう。
 駄目だねぇ。
 誰だってそうなのだろうけれど、参加を検討する読書会はたいがい自分の好きな小説、既読の小説を対象としていることが多い。或いは「機会あれば読んでみたいと思うていたが、この読書会参加をきっかけに読んでみよう」と思い立たせてくれる小説が課題図書になっている読書会だ。
 ここ数ヶ月で何度も参加を考えて見送った読書会は、むしろこの「或いは」のケースに多く該当する。先程お話しした、申しこみ後にキャンセルしてしまった読書会、その課題図書はプレヴォー『マノン・レスコー』だったのだけれど、これなどマスネの歌劇《マノン》、プッチーニの《マノン・レスコー》を観たり聴いたりしているが、原作は読んだことがなかったから、この機会に──、と発起して参加申しこみをしたのである。これももうお話ししたことだけれど、けっきょくその日の休みを返上せざるをえず、初めての読書会は斯くしてわたくしの予定から流れて消えた。
 でも不思議なことに、参加したい、と思う読書会って殆どが名古屋、京都で開催されるものなのだなぁ。まぁ、ついでに観光してこようと思うているから、そのあたりは一石二鳥でよいのだけれど。これは地方にオペラを観に行ったり、オーケストラや室内楽の演奏会へ行く場合も同じなのだけれどね。だって日頃都会に魂搦め捕られて仕事をしているんだもの、せめてこれぐらいの贅沢は許されるよね? というわけである。
 本稿投稿後、東京にて行われる幻想文学系の読書会と、東海地方で開催されるSFの読書会への参加、その最終判断を行います。参加して会場で多くの人たちに刺激をもらって帰宅したらば、その日のレポートめいた文章が本ブログでお披露目されるはずであります。お披露目されなかったら? それは即ち、不参加を意味します。呵々。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2666日目 〈新潮文庫からラヴクラフト傑作集(南條竹則・編訳)が出ましたね。〉 [日々の思い・独り言]

 ふらり、と立ち寄った仕事帰りの新刊書店の平台にて、ああ今日だったか、と感慨深い溜め息を内心吐きながら、その1冊を手に取りました。H.P.ラヴクラフト『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』(南條竹則・編訳 新潮文庫)であります。
 収録作は「異次元の色彩」と「ダンウィッチの怪」、「クトゥルーの呼び声」、「ニャラルラトホテプ」、「闇にささやくもの」、「暗闇の出没者」、そうして「インスマスの影」、計7作。文句の付けようがない、これぞ、傑作集の名に恥じぬラインナップといえましょう。
 これまで光文社古典新訳文庫にてオブライエンやブラックウッド、マッケンらの傑作を新訳で送り出してきた南條竹則が、どうして突然新潮文庫からHPLの作品集を出すに至ったのか、寡聞にしてわたくしは存じませんが、これだけの大手からラヴクラフト作品が<傑作集>という形で出版されてたくさんの人たちの目に触れるようになったのは、喜ばしいことです。
 これまではラヴクラフトを読もうとすると、どうしても創元推理文庫に頼らざるを得なかった。が、どこの書店でも扱いのある文庫ではない、というのがネックでした。このたび新潮文庫から新訳が、しかも信用できる実力者によって出版されたことは、まさしく<令和の慶事>としか言い様がありません。
 今回の新訳が同文庫のロングセラー、『江戸川乱歩傑作集』と同じように未知の読者への好き入門書であり続けてくれることを祈ります。クトゥルー神話のゲームやアイテムを使ったライトノベルなどを契機にラヴクラフトの小説へ関心を持った人たちには、この新潮文庫版が入り口役を担うことになるのですから(というわけで、新潮文庫はゆめこの文庫を品切れ・絶版の憂き目に遭わせるべからず。役割と同様、責任も大きい)。
 そうしてその魅力に気附いた人たちが、『インスマスの影』に付された編訳者の解説やネット書店の情報などを頼りにして、貴重な資料や図版、合作小説をも網羅した創元推理文庫版全集(宇野利泰・大西尹明・大瀧啓裕訳)や評論やエッセイ、詩、書簡、添削した小説や同業者の回想録等まで網羅して未だその価値と資料性を失うことない国書刊行会版全集(矢野浩三郎他訳)、現在ゆっくりしたペースで進行中ながらリーダビリティでは先の2つの全集を上回る星海社版傑作集(森瀬繚訳)に向かってくれるならば、とても嬉しいです。わたくしもこの機会に改めて、ラヴクラフトの小説に遊んでみようと思っております。
 さて、次のラヴクラフティアンの夢見るところは、岩波文庫にラヴクラフトとクトゥルー神話の眷属が一角を占めて、この文庫のイメージをがらり、と変えてしまうことですね(呵々)。ここまで来てようやくラヴクラフトが世界文学の仲間入りをし、評価の定まった古典として新たな位置を占めるのではないか、とわたくしは考えるのであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2665日目 〈ビートルズ《PAST MASTERS Vol. 1》が、1枚、2枚、……。〉 [日々の思い・独り言]

 体が痛むときは集中力は勿論、思考力も他のなにも持続しない。即ち、原稿の執筆の不可能なることを身を以て知った07月25日なのであります。
 泣く泣く予定していた相沢沙呼『小説の神様』正続(講談社タイガ)の感想を放棄し、では代わりの原稿を用意しようにもストックがない(完成原稿として)ことに気附いて「嗚呼」と頭を抱え、けっきょく1日の猶予をいただき本日は穴埋めとしてこんな文章を綴っております。なにもかもが出たとこ勝負、なにを書くのか、何字書くのか、まるで見当が付かない。書くことがなくなったら体裁を整えて結びとし、予定投稿するつもりでいる。
 ……さきほど、資料を探すついでに机まわりの片附け(えー???)をしている際、なんとびっくり、ビートルズのCDが出てきたのです。デジパック仕様の《PAST MASTERS Vol. 1》。あれぇ、と呟く前に、このCDはさっき見たけれどな、という懸念しか湧き起こらなかった。
 急ぎビートルズのCDを突っこんである棚を漁り、あっさり件のCDを発見したことであります。あちゃー、と懐かしい所作をやってしまいました。額叩いて天を仰ぐ、あの格好ね。TOKIOの松岡が一時期、『ザ! 鉄腕! DASH!!』でやっているのを見ていた覚えがあるけれど、いまはそんなことどうでもいいか。
 要するに同じCDを2枚、架蔵していたのですね。しかも同じ時期にリマスタリングされて発売された奴なんだよ。ただ、それをいつ買ったのか、まったく覚えがない。棚にある《PAST MASTERS Vol. 1》は他のアルバムと一緒にタワーレコードで買いこんだものだけれど、では今日、資料の間から「ハァイ、久しぶり!」とばかりに顔を出したこちらの《PAST MASTERS Vol. 1》はいったいいつ、どこで……? どれだけ頭をひねっても、記憶をたぐっても、思い出せることはなに一つない。うぅん。
 処分してしまったがまた聴きたくなった、ディスク・フォーマットが変わってより高音質になった、などなどの理由から同じアルバムを買い直すことはこれまでも何度かあった。クラシックやジャズだと後者のケースが非常に多くてねぇ。フルトヴェングラー指揮、通称「バイロイトの第九」なんて一時期いったい十何種類架蔵していた? これは同曲異演を何種類も架蔵して聴き比べするとか、単なる蒐集とはもう次元が違う。購うは義務なのだ。うん、「バイロイトの第九」は異例としても、同じベートーヴェンで<不滅の九>や<ピアノの新約聖書>、或いは弦楽四重奏曲全集なんて何セットもあって棚を占領していたしね。
 でも、他のジャンルでは斯様にダブって購入する、なんて事態に陥ったことはなかった。記憶を探るまでもなく、そう断言できる。まぁね、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの《GREATEST HITS》と《Live at 25》は輸入盤と国内盤、両方持っているけれど、それはおそらくここではノー・カウントの対象になるはずだ。同じようにSKE48のシングル〈キスだって左利き〉と〈チョコの奴隷〉はヴァージョン違いをすべて買い求めたりしたことはあったが、こちらもおそらく同様にノー・カウントだろう。
 が、《PAST MASTERS Vol. 1》は明らかにそれらの場合と異なり「いつ」、「どこで」、「なぜ」、「どうして」同じヴァージョンを2枚、所持するに至ったのか、まったく謎なのである。ビートルズの他のアルバムが全部ではないにせよ何枚か、同じように発掘されたのであれば、解釈のしようもある。が、活動前期のシングル曲プラスαを集めた《PAST MASTERS Vol. 1》だけがあることが、推理をますます混迷させてゆくのだ。
 あれから数時間、悶々とこの問題について考えを巡らせていたわたくしは、ああそうか、と納得するものがあったのである。すとん、と腑に落ちた。むろん、解決したのではない。これが日常の謎、って奴だな、と納得したのだ。
 脱力したように突っ伏す誰彼の姿が思い浮かんだけれど、良いではないか、思い浮かんでしまったことは仕方ないよな。『ゴーストバスターズ』でダン・エイクロイド扮するレイモンド・スタンツ博士が「頭になにも思い浮かべるな!」てふ忠告も空しく脳裏にマシュマロ・マンを浮かべてしまったのと同じように? うん、そうかもね。
 秋口に某中古CD屋に処分する予定で、ぽつぽつCDの整理を始めている矢先でもあったため、このたび発掘した《PAST MASTERS Vol. 1》は深く考えるまでもなくダンボール箱行きと相成った。願わくば、これ以上どこかからビートルズのCDがダブって出てきませんように。いや、ビートルズに限らず、だけれど。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2664日目 〈愚人は嘘に怯え、人を欺いて今日を過ごす。〉 [日々の思い・独り言]

 未だ続くうしろ暗い蟄居の間、片附けせばやと思ひ立ちて、机の引き出し、棚の奥、積み重なりたるダンボール箱のなか、ごそごそ漁りてあらば、いと懐かしう作物を見附けてわれしとゞ涙に暮れにけり。
 それなむ学生時代の講義ノートにして、そのうちの一つは『古事記』なり。講師のアベ様は病のためなかなかその御姿御声に触れることなかりしが、幸ひにして最終の年に復帰せられて一年にわたりて『古事記』をなむ講義され給ふ。
 ──扨、現代日本語の文章に戻ろう。
 先生に指定された箇所を訳して翌週にそれを読む、というのが、履修する学生への課題であった。たまたま坐っていた席の関係で、順番は早くに訪れた。伊耶那岐と伊耶那美の国生みの挿話あたりであった、と記憶する(「伊弉諾」「伊弉冉」は『日本書紀』の表記)。古事記全訳なんて酔狂な企みが生まれた日である。それから約7ヶ月を費やして、日本古典文学大系本を底本に次田真幸『古事記全訳注』(講談社学術文庫)全3巻を主たる参考文献としながら、粛々と翻訳の筆を執り続けた。
 卒業論文に『古事記』を取り挙げたのは当然の流れだけれども、テーマを偽書説としたのは、上田秋成を案内人に分け入った国学に影響されたところが大きい。
 国学とは(平たくいえば)日本古来の思想や言語、歴史や文学などを俎上に上せて、神国日本の<国体>を明らかにせむ、とする学問で、特に近世中期以後目立って活発になった運動である。後の復古運動の原動力にもなった学問、といえば却って読む人の目を曇らせるか。この分野を代表する人に契沖や荷田春満、賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤などがいる。近世中期にこの運動が全国規模になったのは、印刷技術の向上や出版物の増加と流通拡大が背景にあったからだ。
 その有象無象の国学者達が殊更好んだ話題に、<古事記偽書説>がある。一大潮流となることはなかったようだが、『古事記』の成立を巡って、また『日本書紀』との関係から議論されたことは事実だ。
 そうか、そんな考え方もあるのか。そう首肯していたと同じ時期、大和岩雄著す<古事記偽書説>についての一連の研究書に親しむ機会を得た。それまで古事記を読んで、もやもやした疑問、ちぐはぐな印象を抱いていたところでもあり、それらを解決する光明を見出したような思いを、そのとき感じたことである。
 斯様にして執筆に至った、<古事記偽書説>をテーマにした卒業論文(のコピー)が、あれから四半世紀を経たいま、わたくしの手許にある。
 顧みるまでもないことだが、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。ただ一筋の道を外れることなく正直に歩いてきたのではなく、辛抱のなさと染みついた休み癖のせいで根無し草の如くあちらへふらふら、こちらへふらふら、と彷徨うている。後ろ暗い毎日を無為に、そうして怯えつ騙しつ暮らしているのであります。
 自らを叱咤し、病気に打ち克ち、明日こそは今日こそはと心に決めても暮令朝改。弱きに負けて、今日もまた……。もう、どうしようもない人間です、わたくしは。根太が腐っているどころの話ではない。救い難いレヴェルで人間が腐っている。約束さえ守れぬ、この愚かさよ。
 咨、父祖ははたしてわたくしをば赦すらむ。花の嘆き怒り、悲しみ嗚咽し、倒れるをまた見るや。
 いまのわたくしは、社会人として最低である。その資格すらないといわれても「否」と抗うことはできない。そうして、あらゆる意味にてわたくしは親不孝者である。この単純な一語に、あらゆる想いを含めて、斯く己を罵倒する。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2663日目 〈本日ブログをお休みさせていただきます、の挨拶と、西鶴を読んでいたんだけれどね、というお話。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ数日続く体調不良により、本日のブログはお休みさせていただきます。たいへん申し訳ありません。
 目眩がするわ、腹はくだるわ、体は怠いわ、で、定期通院のためとはいえせっかくの全日休暇なのに、なにをする気にもなれず、ベッドで横になっています。おまけにアパートを施工した建設会社から必要な連絡が来ず、金融機関に平身低頭する一幕は避けられず、──。
 目眩が治まったところで出来ることといえば、本を読むことぐらいしかできず、グールドとポリーニ、ヴァルヒャのバッハ《ゴルドベルク変奏曲》と、シフとバックハウス、山根弥生子のベートーヴェン《ディアベリ変奏曲》を小さなボリュームで流しながら、先日古書店で購入してきた日本古典文学大系『西鶴集 上下』、新日本古典文学大系『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』と『武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』(すべて岩波書店)を函から出してベッドの横に積みあげ、気の向くままに読み散らしていました。
 西鶴? あなたは数日前のブログで、たしか……? 斯く記憶をくすぐられたそこの読者諸兄よ、わたくしは態度を改めてみることにしたのです。太宰治『お伽草紙』、就中「新釈諸国噺」を読んでそれにどうも気が乗らないのを、だって西鶴や八文字屋本を始めとした浮世草子が肌に合わないんだもん、と言い訳した。その態度を改めてみよう、この機会だからちゃんと西鶴を読んでみようか、と思い直して、病院の帰りに立ち寄った古書店にて上記の叢書を買いこんできた次第。
 が、読んでみても、やはり第一印象を覆すには至らない。その後に抱き続けた「なんだかなぁ」という小首傾げる思いも変化なし。どうも西鶴記す<小説>には、厚みがないんだよなぁ。人物の素描に長けているのは頭のさがる気持ちなんだけれど……。
 今年は資格試験やミステリ、聖書の傍らにおりふし西鶴を読んでみることにいたしましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2662日目 〈はじまりは、アレックス。〉 [日々の思い・独り言]

 毎度お馴染み、みくらさんさんかが傲岸不遜にも読者諸兄へ、ちかごろのわたくしが経済や投資、金融の本をよく読んでいる理由について語る時間のはじまりだ。……上から目線の文章って、書いていて疲れるね。
 では、気を取り直して。
 マイケル・J・フォックスがTVドラマ『ファミリー・タイズ』(「全米熱中TV」!!)で演じたアレックス・P・キートン。『BTTF』時代からかれのファンをやっている方には周知の事実だが、マイケルの出世作となった作品であり、また配偶者トレイシー・ポランとのロマンスが生まれたドラマでもある。
 日本では第3-4シーズンのみの放送であったそうだが、これがもう粒選りのエピソードがずらり、揃ったシーズンで、当時放送されていたアメリカ・ドラマのなかでも2番目にベタ惚れした作品である(1番は、『特攻野郎! Aチーム』だ。これは不動だ)。
 アレックスはお金が大好き。が、そこにカツオのようながめつさと卑しさと浅はかさは、ない。金持ち父さんではないが、かれはお金を循環させ、お金に働かせることの意味と、富の力とそれが持つ様々な良い面と悪い面を、理解していた人物であったように思う。
 想像でしかないし、顰蹙を買うやもしれぬが、アレックスはもしかするとビジネスの世界で大いに活躍、成功して、もしかするとドナルド・トランプのような成功して富を築き、各方面へ影響力と求心力を備えた人物になっていたって、ゆめ可笑しくはなかっただろう(どうでもよい話だが、わたくしは大統領としてはともかく、ビジネスマンとしてのトランプを大いに尊敬する)。
 お金が大好きなアレックス、お金に愛されるアレックス──かれはハイスクール時代から経済やビジネスの本を愛読し、将来のヴィジョンを組み立て、遂にはこんなことまで口走り始めるのだ、曰く、「夜になるとお金が僕に囁くんだ、いいぞ、アレックス、もっと仲間を集めろ、って」と。
 まぁ、かれも10代の少年、ドラマのなかでいろいろ問題行動/発言はあったが、お金やビジネスについてきちんと自分なりの意見や考えを持つアレックスは、当時のわたくしにとって憧れの存在だった。
 いまは若干風潮が変わってきているようだけれど、わたくしが10代の頃はまだお金の話はするものではない、それをするのはちょっと汚くないか、なんて空気が残っていたからなぁ……バブル景気の真っ只中にあった時代だったせいかもしれないが、あの頃はなにをやっても相応以上のお金が稼げたし、それを運用するのも銀行に預けるだけでとんでもない利子が付いたりして、両手団扇だったしね。つまり、特に資産運用なんてしなくても、稼げて貯められる時代だったのだ。ゆえに、お金の話をするのはチト貧乏くさい側面もあったのだ。
 また脱線した、軌道修正。
 まぁ、そんなわけで当時の日本にあってアレックス・キートンはひときわ目立つ存在だったのだ。すくなくともわたくしの目には、とても異質で新鮮で、なにがしかの啓示を与えてくれる人物と映ったのである。ゆえに、というか、影響されやすい、というか、大学へ進学したら経済学部か商学部、或いは法学部に学んで、就職先は金融機関か証券会社、総合商社か、或いは無難に公務員……なんて考えていた。
 が、その夢はあえなく潰えた。在学中にバブルは弾け、就職シーンは低迷どころか暗黒時代を迎え、わたくしの卒業する頃がもっともその影響が深刻になったのである。事実、わたくしは明日から新年度、という日に内定取消の電話をもらった……! 公務員という未来がずうっと具体的に自分の前に立ち現れたのは、バブル崩壊という背景あってのことだ(このあたりはアレックスと関係ない話ですな)。
 その時分からなんとなく、自分の未来が思い描いていたものとは違ってきたなぁ、という実感がある。結果的にわたくしは進学先で文学、しかも<日本古典文学>なんてものを専攻し、カビ臭い学問にウツツを抜かして、アレックスの影を知らず追い出すことに成功してしまっていたね。これは、顧みる必要もなくわたくしの人生が悪い方向へねじ曲がる、一種のターニング・ポイントであった。
 グウタラグウタラして毎日を過ごし、ただ好きな学問と創作に明け暮れて、未来への投資も蓄財も二の次三の次、いつしかアレックスの影も実業への情熱もわたくしのなかからは消えてしまっていた。それから干支は、なんと2度も巡って現在に至る。
 それまで志しては挫折してを繰り返し、泥沼というか負のスパイラルにみごと落ちこみ抜けられず(ロバート・キヨサキいうところの<ラットレース>より、はるかにタチが悪い!!!)、そんな己に怒り、恥じ、侮蔑し、行く末の望みも抱けぬままだったが、じつは昨年あたりから転機が訪れているのだ。それを実感しているいまだからこそ、書けるエッセイが本稿である、とは流石に尊大の親玉じみているだろうか。
 ──転機とはなにか? 自宅敷地内に建つアパートの建て替えである。ここまで2019/07/20 13:00
 昨年の早春、地元の不動産屋さんに入居者募集や管理等々の件で挨拶に伺ったり、建設会社や各下請け会社の人たちと顔合わせ、打ち合わせを重ねたり、とこれまで自分が施主・オーナーという立場になったことで、これまで直接タッチしたことのなかった分野の方々と接することが多くなった。そのなかで最も重要な位置を占め、建物引き渡し後も長くお付き合いすることになるのが、金融機関のご担当者様であるのはいうまでもない。
 この時分から──8月の終わり頃かな──ようやく、<アパートのオーナー>という<経営者>である自覚が生まれ、また、不動産投資家たらんてふ志も生まれた。「カボチャの馬車」に端を発するスルガ銀行の不正融資の一件ゆえに投資家となる道に暗雲が立ちこめ、けっして予定通りに事は運んでいない。実業に関してはそんな次第で険しい道を歩いているが、いちど抱いた志を棄てることはけっして、断じて、ない。家族のため、自分のため、未来のため、社会のため、である。
 その代わり、というてはなんだが業者や金融機関と折衝してゆく過程で、どれだけ自分が無知であったか、思い知らされもした。不動産会社で営業をやっていたことはいちおうの下地になっているけれど、実務面ではまるで違う分野の人たちとの付き合いだから、わからぬことだらけなのだ。
 それゆえ、すくなくとも今年いっぱいは勉強の時間と割り切り、不動産投資や投資信託、またお金にまつわる本を読みまくり、証券会社や金融機関に持つ幾つかの口座の役割について思いを巡らせ、<資産運用>を真剣に考え、研究し、幾許かの貯金を元手に株やその他の投資を始めたのである。
 いまも傍らには『会社四季報 2019年3集夏』と株式投資、信託銀行について書かれた本、またFPと証券外務員2種のテキストがある(絶対合格しなくっちゃ!)。ああ、『ファミリー・タイズ』の影響が残っている年齢にこれらの本を侍らせ、読み耽っていたならば、わたくしはもう少し上向きの人生を歩んでいるはずなのに。同年代の人々と変わらぬ家庭を持ち、会社にあっても相応の肩書きを持ち、また収入を得ていたことであろうに。
 それとはまるで異なる現在の自分に憤りを感じている。せめて救いなのは、昨年からわたしの身の回りで起こった変化が結果的に失くしてしまったアレックスへの憧れを呼び起こし、芋蔓式に湧きあがって高じたお金への関心・執心からもっと給料の良い部署へ異動願いを出してそれが叶い、やっとわたくしはかつて胸のなかに抱いた金融機関に身を置くことができた。様々な知識をいま、研修を受けながら身に付けているのが、わたくしの現在(just now)である。ずいぶんと遠回りをしてしまった……。
 持病が悪化して研修中にもかかわらず1週間近く欠勤してしまったのが無念だが、事情はこれからかならず好転する。すくなくとも3年はここに齧りついて、自分のチームが抱える業務は勿論金融機関の知識と、対応の経験を積み、資格を取り、揉まれてゆこう。もう逃げることも、諦めることもできないのだ。それにね、願ったとおりに事態は流転して変化して、幸にあふれた未来が目の前に広がることを、わたくしは知っている。マーフィー理論? うん、そうかも。
 それに併せて、というわけではないけれど、つい先日、これから3年間で実行する、実現する、と決めた諸々をリスト化した。B/S作成の為、いろいろと洗い出していた副産物なのだが、負債が純資産を大きく上回っていたのには、狼狽させられたな。斯くなる上は、と強い決意を固めて財政健全化を目的に、件のリストを書き綴ったわけである。そのうちの2/3はかならず実現させるぞ。
 ……アレックスはドラマが終わったあと、どのような人生を歩み、いまどんな生活をしているのだろう。サブプライムローンやリーマン・ショックの煽りを受けて、貧窮した生活を送っている、なんてことになっていませんように。
 わたくしは、前に進む。そう誓う。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2661日目 〈令和元年夏(2019/07/21)、参議院選挙の結果を承けての綴り事。〉 [日々の思い・独り言]

 日付の変わる時刻に本ブログを書いております。
 昨日の参議院選挙、だいたい趨勢は決したようであります。憲法改正に前向きな改憲勢力は残念ながら、必要な85議席を下回ることはほぼ確定の様子。立憲民主党は議席を増やすだろうとは思うたが、まさか倍増するとは。
 安倍首相の総裁4選の話もちらほら出ているようですが、わたくしは賛成です。政権の結果を出すためにも、安倍内閣にはもう1任期は最低でも務めてもらわなくては。改革を止める事態に陥ってはならない。改憲にも増税にも否を唱える者ではない。否を唱える理由も、ない。

 ……今回に参議院選挙は、前回に比べて投票率が下がったようでしたね。期日前投票も投票日たる昨日も、一票を投じる人の数が減ったのは、正直、意外でした。
 あれだけ様々な形で、場面で「投票へ行こう」メッセージが全世代へ向けて放たれたのに、投票所へ足を運ばず一票を投じることもせず、出された結果について不平不満を漏らす衆が増産されたことに、強い危惧と深い懸念を覚えます。
 未来を考える選挙に参加しなかった分際で、政治について云々し、景気や増税、改憲について揶揄罵倒するなんて、ねじが外れていませんかね?
 国民として為すべき事を為すことを放棄した連衆のことは放っておいて、さて、──

 わが神奈川県の結果は、このようになりました。
 ○自由民主党:島村大
  現 58歳 当選1回 元日本歯科医師連盟理事長 自民党厚生労働部会副部会長
 ○立憲民主党:牧山ひろえ
  現 54歳 当選2回 米国ニューヨーク州弁護士 立憲民主党神奈川県連副代表
 ○公明党:佐々木さやか
  現 38歳 当選1回 自民党推薦 弁護士 公明党学生局長
 ○日本維新の会:松沢成史
  現 61歳 当選1回 元神奈川県知事 元希望の党代表
 4議席のうち3議席、島村さん、牧山さん、佐々木さんは早々に当確だったが、残る1議席がどうなるか、手に汗握って(ん?)ずっとNHKの選挙番組を観ていました。で、こういうときに限って、なかなか当確の情報が出て来ないのね。元神奈川県知事だった松沢さんなのか、何年振りかで共産党が議席を得ることに期待がかかっていた浅賀さんなのか……。
 結果は上記の通り、松沢さんに軍配が挙がった。ただ、ずっと得票数は浅賀さんより松沢さんの方が上回っていたのに、松沢さんの名前が出て来ないことが頭のなかに「?」が飛び交っていたのですよね。
 まぁそれはともかく、神奈川県は全議席が現役で埋まった。安定していると言えばその通りだが、如何に新人が食いこむことが難しいかを目の当たりにさせられた気分であります。当選された4氏には、投票してくれた人々の期待を裏切らない活躍を希望します。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2660日目 〈太宰治『お伽草紙』読書がはかどらないのは、活字が小さいせいかなぁ?〉 [日々の思い・独り言]

 【前回の太宰治】
 「新釈諸国噺」の読書が進まぬことに悄然としたわたくしは、顧みて自分が西鶴始め浮世草子の類に愛着等がまるでないためだ、と判断。ひとまずの溜飲をさげた。が、前稿を間もなく書き終える、という段に至って別の原因に思いあたる──。

 「新釈諸国噺」に限らず文庫『お伽草紙』を読み進められないのは、どうしてだろう? ずっと考えていた。するうち、はた、と思い当たる節があるのに気附き、妙に納得させられたことである。
 既読の文庫と較べてこの『お伽草紙』、活字のフォントが小さいよね。それが原因?
 これをどこで購うたか、もはや記憶にない。後の理由から、古書店/新古書店であろうと思われるが裏附けできる証拠は、残念ながら一つもない。
 が、過去に読んでいまは書架にて一時的ながら眠りを貪る新潮文庫版太宰治作品集は、いずれも活字のフォントが大きなタイプであったように記憶する(従来の面倒臭がりが遺憾なく発揮されているゆえ、実際の確認はできていないが……)。すくなくとも活字の大きさがネックとなって読み倦ね、読書行為そのもの敬遠には結び付かなかったことだけは、はっきりしている。
 そこで思い立ったのが本書と、活字が大きかった『晩年』のフォントサイズを比較してみることだった。調べてみましょう、モナミ。
 ──『お伽草紙』は30ポイント、けっして小さいとはいえないサイズだ。10年ちょっと前までは、これが定番だった。一方、『晩年』は35ポイントである。──わずか5ポイントの違いは読書へ如何様に影響を及ぼすか?
 あくまで個人の見解であることを、先にお断りしておく、──
 いまでも30ポイントで活字が組まれた文庫を、わたくしは普段からなんの抵抗も支障もなく読んでいる。寝しなの、仰向けになっての読書には向かないからそのときだけは避ける、という程度。いまはちょっと中断している横溝正史の読書も、こちらはわたくしがまだ小さい頃に刊行された文庫だから活字は30ポイントよりも小さく感じるが、それでも読書の中断に影響を及ぼすものではなかった。
 が、同じ30ポイント或いはそれ以下のサイズであっても、35ポイントであっても、読みやすさ・読みにくさという点では一つの共通項が見出せる。即ち、改行の頻度である。小さな活字であっても改行が適宜されていれば、文章を追ってゆくのにいったいなんの支障があろう?
 が、『お伽草紙』は活字が小さいことに加えて、改行もそう多くはないのだ。句読点の少なさに音をあげる向きもあるようだが、そんなこと、すくなくともわたくしには無縁の悩み。改行云々が決定的要因ではないけれど、それによって読書スピードが総体的に落ち、目の疲れを及ぼし集中力の低下を招き、次第に件の本を手にする機会が遠のいてゆく、という流れは容易に想像できるし、これまでも何度か経験してきたことだ。
 目の疲れということに関していえば、次第に乾いてきて目がかすむ、という類のそれではなく、むしろ視力の低下(老化、ともいう)に帰せられる話題である。ここ1年間で、急激に視力の低下を実感しているのだが、加えてピントが合わなくなってきていることも同じように。コレハ由々シキ事態ナノデスヨ、兄弟。
 視力検査のあと眼鏡を作り直せば解決する問題なのかもしれない。自覚していながら、自らの怠惰ゆえになかなか行き付けの眼鏡屋さんへ足を向けないのだから、なかなかこの男、始末に負えないね。
 ちかごろは本気でハズキ・ルーペの購入を考えている(1.6倍か1.8倍を)のだが、果たしてそれが抜本的な解決をもたらすか、といえば、おそらく答えは「否」と思われる。普段から掛けている眼鏡で、まずは案件の解決を目指すべきであろう。自室でのみならば構わないけれど、カフェや電車のなかで眼鏡の上からハズキ・ルーペを着けるのも手間だし、正直なところ、ちょっと恥ずかしい。そも、持ち歩くことがどこまで想定されて作られているか、わからないしね。
 まぁ、ハズキ・ルーペの話題はともかく、プロジェクト達成の意味も含めて「新釈諸国噺」は勿論、『お伽草紙』を飛ばすことなくだれることなく、物語を翫味しつつ読了したい。それはわたくしの、2019年中盤の切なる願い。感受性は鈍ってしまったが、太宰治の作物をもっともっと愉しみたい。その一念からの、願いなのだ。
 そこでわたくしは(或る意味で滅法クダラナイ)、一つの実験を試みることにした。即ち、──
 他と同じく35ポイントの、改版された新潮文庫版『お伽草紙』を本屋さんで買ってきた。明日から太宰はこちらで読んでみる。果たして浮世草子を苦手とする性向が祟って読み倦ねていた面、けっして否定できぬ「新釈諸国噺」を明日から毎日、わたくしは読んでゆくことができるかどうか。
 事情ありまるで読めぬ日もあろうし、1日に1編しか読めぬ日だってあるだろう。それでも、30ポイントの文庫時代とは違い、心理的にも身体的にも負担なく読み進めてゆくことができれば、もうそれを慶事といわずしてなんといおうか? その暁には、諸君喝采せよ峠は乗り越え目の前に広がるは希望に満ちた沃野である、とわたくしは叫ぼう。
 できれば今月中に35ポイントの文庫で『お伽草紙』が読み終え、今月下旬か来月へさしかかる頃には、次に読む本として用意してある『二十世紀旗手』を通勤カバンに忍ばせられるといいな。
 そんな期待を抱きながら、明日から実験に臨む。結果はかならず、かならずご報告します。
 それじゃあ皆さま、おやすみなさい。

 【近日公開】
 ──あれ、読むスピードと物語への没入度、これまでとぜんぜん違くね?◆

共通テーマ:日記・雑感

第2659日目 〈太宰治『お伽草紙』を読んでいるのですが……。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ趣味の読書がまったくはかどらない。哀しく、嘆かわしいことである。『晩年』から再読書を始めた太宰治の未読本、2冊目の『お伽草紙』でさっそくつまずく事態に陥ってしまったのだ。通勤カバンの肥やしになって、もうどれぐらい経つ? つらつら考えているうち、太宰作品へののめりこみ具合が以前程でなくなっているのに気が付いて、唖然呆然、愕然悄然。
 どうしてだろう?
 誤解を承知でいえば、<面白さ>や<夢中になれる><その文学を渇望する>という意味で、わたくしのなかで太宰文学は「賞味期限が過ぎた」のかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」てふ諺、どうやら読書に於いてもいえることらしいね、ワトスン。
 太宰文学の、殊初期作品が持つロマンティシズム、ニヒリズム、ナルシズムは、<読者を選ぶ>というより、<読者の感性と年齢>をより選ぶようだ。読者の年齢が若ければその分、太宰文学の感染力は力を増す。世界を死滅させた、かの”キャプテン・トリップ”も裸足で逃げ出すぐらい、極めて強力かつ自覚症状なき流行性感冒。ちなみにそれの潜伏期間は人によってばらつきが見られるけれど、若いうちに読んだ人程一生の付き合いになる可能性は高いという。
 が、これを逆手に取れば年経り人生を積み重ね、髪に白いものが混ざり始めた年代が改めて手に取るのは、チトきつい部分がある、ということではないか。
 太宰治の文学が大人の鑑賞に堪えぬ、というのでは勿論ない。ただ、甘ったるさが鼻につき、必要以上に感傷的になってしまうのだ。赤面して、むず痒くなってしまうのだ。過ぎ去り時代の傷をごそごそと撫でられたり、記憶の底で澱のように沈殿して眠りについていたような思い出を浮かびあがらせ向き合わされる気恥ずかしさと悔恨……。読み手と作品の一体化ではなく、或る程度の乖離はあっても仕方ないというのが、中年もしくは初老の年齢に差しかかった者が太宰治を読む態度なのかもしれないな、と思うているのだ。
 太宰再読、その嚆矢を担ったのは『晩年』である、と先に書いた。何編かを除けば概ね惰性で読むのが常だったと雖も、たとえば「ロマネスク」など3編に○印を付け得たのはせめてもの幸いか。それは一読、二読して愉しく、惚れてしまった作品の証──。残念ながら「道化の華」は事情あって読み止したまま、終わりまでページを繰ることかなわず、それっきりになってしまったのだが。そのうちに読もう(この態度がいけない。「いつ読むの? いまでしょ」、それは済まぬが、できそうにないな)。
 いまは2冊目、『お伽草紙』である。こちらは『晩年』以上に読書に気が乗らず、青息吐息で一編を読み終えるのも珍しくない。通勤カバンの肥やしになりつつあることは既に述べた通りだが、ここに至ってもう一つ、別の読書を怠ける理由めいたものが生まれたことに、顔を顰めて頭を抱えて、嗟嘆している。
 「新釈諸国噺」で現在、足踏み状態なのだ。井原西鶴の浮世草子の群れから太宰が何編かピックアップして、かれなりの味付けを施した、或る意味で短編小説の面白さが堪能できるはずの作品にもかかわらず、わたくしの心はいっこうこれを愉しまず、活字を追う目は虚ろでページを繰る手は鈍り、物語は感情にわずかの動きも与えない……。気に喰わない。読む時間がなかなか取れない、とか、仕事が忙しくってねぇ、なんてよくある理由は、ここでは二番手に過ぎぬ。では──?
 包み隠さず、正直に、ミもフタもないことを申しあげる。
 「凡例」や奥野健男の解説へ触れたときから、「新釈諸国噺」を読むことに幾許かの危惧を抱いていた。なぜなら、学生時代からこの方、浮世草子を始めとする西鶴の小説とは相性が悪いからだ。
 総じてわたくしは、西鶴や八文字屋本に代表される浮世草子が好きではない。一個の物語として鑑賞したとき、読み応えをまるで感じないのだ。そもそも雑に書かれたものが多いよね。岩波書店や新潮社、小学館の古典文学の叢書に含まれる作品は当然として、図書館から借りたりしたものでそれなりの数の浮世草子を読み漁ったけれど、心を動かされるぐらいにインパクトのある作品には、ついぞお目に掛かることができなかった。
 ──偉そうなことを、と、また知らぬところで揶揄されそうな発言をしたが、実際わたくしは20代の結構な時間を費やしてそれらを読んだのだから、なにも後ろめたさを感じることも恥じ入ることもなく、堂々と斯く申しあげる。
 勿論、読み得たものは近世期を通じて出版されたものの一部でしかない。氷山の一角なのだ、翻刻されている作品は。が、この或る意味で馬鹿げた読書を行うことで、メジャー、セミ・メジャー、マイナーな作品と玉石混淆ながら、浮世草子とは相性の悪いことが確認できただけでも収穫といえよう。当然の如く例外的な作品はあったけれど、それとて両手の指を折って足りるぐらいの数だ。やはり近世期に書かれた小説、ジャンルでいえば、読本が好きだ。
 例外ありと雖も西鶴が苦手な事実は、動かせない。それゆえと思うているのだ、「新釈諸国噺」を読みあぐねているのは。言い訳? そうさ。まぁそれはともかく、いまのわたくしが『お伽草紙』を開くとき、惰性で「新釈諸国噺」へ目を通しているのも事実なのである。もはや読むのは義務で、その行為は惰性に等しい。
 <新潮文庫版太宰治作品集・全冊全作品読破プロジェクト>第2弾なんてものを掲げていなければ、疾うにこの1冊は部屋の隅に抛って次の本に取り掛かっていたところだろう。かつて平井呈一がマッケン「A Fragments of Life」で従来のマッケン作品と違う肌合いを感じて読むのをやめ、これを収録した『』を放りやってしばらく忘却していたのと同じように。
 が、この世には義務にかられての読書もあるのだ。義務、という言葉が的を射ていないのは承知している。どういい換えればよいか……そうだ、<一つの目標を達成するため読むべきなかに必ず存在する、どうにも気分が乗らないけれど機械的に読み進めるより他ない本>といおう。顧みれば、クリスティにもドストエフスキーにも、そういう本はあった。赤川次郎にも源氏鶏太にも、横溝正史にもラヴクラフトにも、なによりスティーヴン・キングにさえ、そういう本があった。太宰にもあって、なんの不思議はない。
 いまは砂を噛むような読書に耐え、それが終わったあと目の前に開ける、読み終えた者だけが見ることのできる風景を目にするその瞬間を頼みにして、「新釈諸国噺」をゆるゆると読み進めよう。

 【次回予告】
 ……ああ、でももしかすると読み倦ねているのは、この文庫だけ活字が小さいせいかなぁ……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2658日目 〈ときめきを感じない本なら捨てられるの? 否。そんなこと、あるわけがない。〉 [日々の思い・独り言]

 本を処分して、まったく割に合わぬ買取金額に憤然としつつも納得し、すこしだけ広くなった(と錯覚される)書棚と部屋を眺めながら、つらつらと考えた。処分できる本とできない本を分かつ基準は、なにか?
 片づけ術のオーソリティとして、いまや世界的に知られる存在となった石原麻里子が提唱するのは、<ときめきを感じるか、否か>である。成る程な、と思う一方で、いやちょっと待ってくれ、と声を荒げてしまうのだ。洋服や生活用品については、それで或る程度までは割り切れる部分もあろう。
 が、本はどうか? 彼女の架蔵する本がどこにでも転がっているような、或いは処分しても某新古書店を覗けば棚差しされているような、そんな程度の本ばかりなら、斯様に無責任かつ乱暴な発言も許されようけれど、……蔵書家の立場に立って<片づけ術>を提唱できるような人材は、この世界には存在しないのであろうか。嗚呼! もっとも、そんな人がいてもけっして参考にならぬ意見ばかりが飛び出すような予感しかしないけれど、ね。
 ときめきを覚えなくても手許に置いておきたい本というものが、一定程度以上の蔵書を抱える人には絶対にあるに相違ない。わたくしにも、ある。辞書辞典、地図に始まり各種レファレンス類。のみならず、過去にわたくしのなかを通って血肉となり、いまはもう退役していると雖も書架にあって暗に存在を感じさせる本というのが、確かにある。
 そのなかには思い出やときめきとはまるで異なる次元の執着や情念がこびりついた本も、存在しているのだ。中学生の時分から買い集めて耽読し、火事をくぐり抜けて手許に残った幻想文学というジャンルの書籍は、まさしく思い出と共に執着や情念が塗りこまれた本なのである。日本の古典文学に関しては最近、再び自分のなかで燃えあがってきたジャンルなので、いまはここから除外しておく。
 けっきょく、処分できる本と処分できない本の間に、線引きできるようなものはなに一つとしてないのだ。ゆえに本の処分や片付けは、あらゆる片付けや収納についての指南書やアドバイザーが避けて通るのだろう。ブックオフに売りなさい? 倉庫に預けなさい? ヤフオクやメルカリを利用しましょう? 阿呆か。そんなことで済むなら、蔵書家は誰も苦労しない。
 厄介かつ哀しい作業だよね、本の処分って。CDのほうがまだ割り切れる(個人の意見です)。
 でも、いつまで生きていられるか、わからない。人生は有限である。本はあの世に持ってゆけないのだ。残された者に苦労をさせてはならない。──為、いまのうちから断腸の思いを退けて鬼神と化して、「これも捨てる! あれも持ってゆけ!」とばかりに震える手で快刀を振るうよりないのだろうなぁ。
 紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)に記された、著者の想いが近頃よくわかるようになってきた。日本を代表する知識人がこれまで蓄蔵した数々の蔵書、災害等を避けるために中国地方へ書庫附き戸建を購入して移住したにもかかわらず、寄る年波に抗うこと能わずシニア向けマンションへ入居するため、蔵書の過半を(殆どすべて、という方が正解なのか……)処分する顛末など、涙なくして読めるものではない。
 いつか自分にもその日が訪れるやもしれぬ。そう考えたら、尻の下がむずむずしてきて、一刻も早く視界に入る多くの本を処分したくてならなくなる……のだが、自分にそんな勇断をくだして決行するなんてことが、果たしてできるのだろうか。そう思うと決意はたちまち萎えてゆく……。
 子供の頃から親しんだ本を処分できる日の訪れよりも、架蔵する本をしまう書庫と捨てられない本の避難所を兼ねて、家族で住まう新しい家を建てることの方が、よっぽど現実的なんだけれどな。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2657日目2/2 〈京都アニメーションの事件。〉 [日々の思い・独り言]

 なぜ? どうして? そんな疑問が朝からずっと、頭のなかをぐるぐる回っています。
 ちょうどスカパー!でリピート放送されて録り溜めした『けいおん!!』を観ていたこともあり、今回の事件がなおさら心に痛く突き刺さります……。いったいどうして、このようなことが?
 『涼宮ハルヒの憂鬱』、『氷菓』、『響け! ユーフォニアム』、『日常』、『中二病でも恋がしたい!』、その他たくさんの素晴らしい作品がわれらの心を、時にあたたかく、時に慰撫し、また時に涙流させることもありました。この会社が製作する作品には、いつどんなときでも<優しさ>が満ちあふれていたのです。
 新作アニメの製作発表の際、製作会社に「京都アニメーション」の名前があるだけで、われらは安心してその作品へ期待を寄せることができました。クオリティと内容の良さは、保証されたも同然でしたから。
 世にたくさんの魅力的な作品を送り出してきた京都アニメーションと、そこで働いてわれらにたくさんの幸せをもたらしてくれたスタッフの方々を、けさ凶事が襲った。憤りよりも先に、冒頭の疑問が脳裏を駆けめぐり続けました。
 月並みな言葉ではありますが、亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。負傷されて医療機関に搬送、治療を受けている方々のご快復をお祈り致します。どうかこれ以上の死傷者が出ませんように。
 火災によって失われた資産の数々、その損壊の程度も心配ですが、一日も早く、犯人の口から真相が語られますように。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2657日目1/2 〈DELLのノートPCを購入したよ。〉 [日々の思い・独り言]

 いつの間にやら、Windowsマシンを買っていたのです。それから数ヶ月後には、遂に、というかようやくというか、一太郎の最新ヴァージョンも。……けっしてMacから乗り換えた(出戻った)わけではありません。Macから離れることは、ない。
 <WindowsとMacの両刀遣い>になったそもそもの理由は、そうならざるを得ない理由が生まれたからだ。購入したのは昨年夏のこと、ほぼ1年前ですね(あの頃の仕事はとっても楽しかった。環境にも上司・同僚にも、体調にも、本当に恵まれていた。戻れるものなら、ホント、戻りたいですわ)。
 当時、どちらかというと事務作業がメイン業務になっていたわたくしは、毎日の日報や週一の週報、各種データ集計、既存資料の修正と新規資料の作成、或いはそれらにまつわる付帯業務に明け暮れており(懐かしい!)、ちょっとは頼られる存在になっていた(自画自賛)。
 その過程でExcelを使用する場面が非常に多くなったのだが、実はわたくしはこれまでの仕事でExcelを頻繁に使って作業する場面に遭遇したことがなかった。精々が既存資料の小さな修正や指定箇所へのデータ入力程度。
 また、当時自宅に在っても表計算ソフトが使いこなせたら便利だ、という場面が多くなっていた。MacでもNumbersという表計算ソフトを使えば資料は作れるが、どうにもこいつ、意固地でなかなか使い勝手がよろしくない。やはりこの種の作業はMicrosoftの方が一段上だなぁ、そう認めざるを得なかった。
 加えていえば、新しいパソコンを買えるぐらいの貯金も、通常の貯金とはまた別に貯まってきた……。
 もっとぶっちゃけたことをいってしまえば、やはりWindowsマシンはあるに越したことはないよ! だって便利だもん!!
 ――そんな風に種々の要素が絡まり合った夏の初め頃から、家電量販店の店先をうろつき、店頭のカタログを収集し、雑誌を舐めるように読み、また各種Webサイトを巡回して、物色を始めたのである。
 その際、課した条件は3つ。①ノートPCであること、②Office搭載であること、③ディスプレイ・サイズが17インチであること、以上。
 お察しいただけるだろうか、これらのなかでいちばん、というか唯一無二のネックが③であることに。作業時の可視領域は広いに越したことはない。視力の良くない者に小さなサイズのディスプレイは、あまりに酷じゃ。却って目を悪くするばかり。そも購入の検討を始めた当初から、ワープロソフトに一太郎を採用することは決定事項。ディスプレイは可能な限り大きなサイズを、とは必然的要求だったのだ。
 では、なぜ17インチなのか? んんん、難しい質問だ。Macへ乗り換えるまで使用していたWindowsマシンは15インチで、特に不便は感じなかったはずなのに、どうして?
 答えは至極単純である――持ち歩くことはないし(そちらはMacBookAirに任せておけばよい)、基本的に自宅で使うマシンゆえディスプレイのサイズは可能な限り大きくしたい(iMacのディスプレイが27インチなことも影響しているだろう)、それがために多少は重くなっても仕方ない/目をつぶろう、という次第。勿論、大きなディスプレイという一点を以て外付けディスプレイを考えたことは、一度もない。
 そうしてわたくしのパソコン探しが始まり……様々な経緯を経て、DELLの或るマシンに候補を絞った。あとは実見と操作性の確認だ。が、どこの量販店を回っても17インチのノートPCって在庫してないのね。某店の人曰く、需要がない、と。じゃぁ、直販店に行けばあるんじゃないかしら、と考えて即行動に起こしたけれど、結果は空振り。おいおい……。
 いちばん外寸の近いDELL製品で大きさや操作性を確認もしくは想定し、同社の通販サイトにてカスタマイズ、購入したのはその晩のことだ。大きさってさ、新聞紙を同じサイズに折ってみても、結局のところその商品が届いて所定の位置に置いてみないことには、実感できないものだからね。
 斯くして。
 晩夏の頃に件のノートPCは届いた。Excelとショートカットキーを勉強して、とにかく体が覚えるまで徹底的に練習した。その課程で作られ、<old>フォルダへ放りこんだファイルは数知れず。
 ああ、ショートカットキーについては、こういう経緯があったんです。当時の直属上司が基本的にマウスは使わない、キーボードの操作だけで殆どすべての作業を完了させる人だった。自分は隣に坐っていたこともあって、ショートカットのことを(Excelも併せて)教えてもらったりしているうちに自分も可能な限りマウスを使わずにパソコンを操作するようになっていたのだ。DELLのノートPCが来てからというもの、Webサイトをうろうろしては、各種アプリケーションに於けるショートカットを紹介した記事を閲覧、時にブックマークしている。いやぁ、この上司はわたくしにとって<師匠>と呼んでいい存在だった。あすこの事業所には他にもそういう人があと2人、いた。件の上司が退職した直後にわたくしも健康上の理由で退職したのも、もしかしたら偶然ではなかったかもしれない。
 まぁ、それはともかく。
 前述のように年度の替わる時分に一太郎の最新ヴァージョン、即ち一太郎2019プレミアムパックを購入、インストールして、ようやっとあるべき環境にすることができた。正直なところ、未だWindowsの使用頻度はMacに比べて低いため、一太郎の操作も不慣れな場面が相当ある。が、元々使っていたソフトなのだから、戸惑いなどはまったくない。ただ、以前に比べて「できること」が格段に多くなっているので、そちらの慣熟には今しばらくの時間が必要になりそうだ。
 ちなみに本ブログに関していえば、昨日お披露目の第2656日目と本日の第2657日目が一太郎で執筆した、何年ぶりかの原稿となった。感慨深いのである……。
 MacとWindows、或いはPagesと一太郎、双方の使い分けを如何にしてゆくか、が今後も課題として残るが、まぁ押っつけ解決していることでしょう。
 それにしても、どうしてWindowsはしばらく使っていると、筐体があんなに熱くなるのか。肌の接している部分がかゆくなったりして、困るのだよ。このあたりの対策も必要だなぁ。でも、大げさなことはしたくないんだよねぇ。やれやれ。◆(一)

共通テーマ:日記・雑感

第2656日目 〈鮎川哲也「達也が嗤う」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 この春のはじめより暮れの頃、さはりごとありてふる里のなほおくつ方へ蟄居して過ごしたる男あり。其間手持ち無沙汰なりとてわずかのお金を握りしめ古書肆を巡り、推理小説ばかりあれやこれやと漁りて、帰りては早々に高床の万年床へ転がり、深更または明け方まで読み耽りて無聊を慰めて過ごしける。
 さて。
 この蟄居の間、と或る短編ミステリに「あっ!」と叫び、腰を抜かしてしまった。『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー』第3巻所収の鮎川哲也「薔薇荘殺人事件」てふ、犯人当て小説の古典といわれる作品だ。
 正直なところ、<読者への挑戦状>を付した小説に好い読後感は持っていなかった。「薔薇荘殺人事件」を読むのも躊躇したのだが、それでも一抹の期待を胸に読み始めたのは、おそらく綾辻と有栖川のトークの熱さに打たれたせいもあったろう。
 斯くして作者からの挑戦を承けて謎解きに取り組まんと、紙とシャープペンを用意して問題編を読み返す。だまされないぞ、ちゃんと読んで考えれば正解できるんだ、と自分にいい聞かせながら。
 手掛かりはすべて、文中に落としこまれている。ミステリは<騙しの文学>だが、それゆえ、殊三人称の記述にアンフェアな描写があっては駄目なのだ。「薔薇荘殺人事件」は三人称の小説、ルールは厳格に守られなくてはなるまい。犯人当て小説ならば、尚更だ。
 成績は惨敗だったが、「薔薇荘殺人事件」は犯人当て小説としてのみならず勿論、一編の短編ミステリとしても秀逸な切れ味と驚きを味わえる作品で、何度読んでも抜群に面白い。が、人口への膾炙という点で江湖に知られる作者の犯人当て小説は、むしろ「達也が嗤う」であるらしい。というわけで、——
 お待たせ致しました、読者諸兄よ、本題に入ろう。鮎川哲也「達也が嗤う」です。
 今日、いちばん手っ取り早く「達也が嗤う」を読むとしたら……『翳ある墓標』(光文社文庫)か『下り"はつかり" 鮎川哲也短編傑作集2』(創元推理文庫)のどちらかだろうか。されど絶版ながら実は作者には『ヴィーナスの心臓』(集英社文庫)てふ、犯人当て小説ばかりを集めた短編集がある。こちらは読者がゲームに参加しやすいように(どこまで意図されてかは不明だが)、テキストが問題編と解答編に分かれているのが特徴。幸運にも古本屋の棚で『ヴィーナスの心臓』を偶然見附けて蔵書にすることができたので、このたびの読書にはこれを用い、また本稿に於いても引用等で採用する。
 小さな声で告白すると、「達也が嗤う」は今回がようやく初読。
 粗筋はといえば、——
 舞台は元箱根のホテル、緑風荘。語り手の浦和は病気療養中の義兄を見舞いに、ここを訪れた。義兄は浦和に、保険金はお前には渡さぬことにした、という。緑風荘には先客として、かれらの他に6人の男女がいた。元陸軍中将とその妻、ジャーナリストを自称する男、アメリカ帰りの女、肥った独身男と卑しい前歴の女(緑風荘にて急遽婚約したが、かれらが結ばれることはなかった)。
 自称ジャーナリストは以前、卑しい前歴の女と出会ったときのことを皆の前で吹聴、これを厭味たっぷりに当てこする(「背に腹は変えられない」)。そうして2日目、浦和の義兄が死ぬ。自殺か他殺か? 目星も立たぬうちに、今度は自称ジャーナリストが殺される。そばにあったのは、宿泊客の私物のヴァニティケース。騒然とするなか、犯人と目されていた人物の死が告げられる——。
 以上、問題編。解決編の粗筋なんて、書けないよ。
 今回も冴えた働きは期待できぬながらも灰色の脳細胞を叱咤しつつ動かして、まずは疑いの心持て問題編の、一人称の文章を熟読。気になる箇所を洗い出して点検し、続いて伏線やミスディレクションと思しき点を紙に書き出す。斯様にして検討を重ねながら自分の推理を微調整して、1つの自殺と2つの殺人について思いを巡らせる。1つ1つの可能性を排除しつつ論理的に推理を構築してゆけば、<誰が、なぜ、どのようにして>犯行を遂行したか、白日の下に明らかとなるはずなのだ。
 ……お陰様で犯人と動機は正解できた。が、本文中に犯人が埋めこんだ数々のフェイクには、まるで気附けなかった。解決編のあとで問題編を読み返し、そうして初めて「そういうことか……」と嘆息した次第。あすこにあったあの文章はこういう意味だったのか、とか、指示代名詞がはっきりしていないのはそういう理由からだったのか、とかね。「画竜点睛を欠く」とは、まさしくこのことですね。
 そういえば解決編にて鮎川哲也は犯人に、こんなことをいわせている。曰く、「私はただの一度もアンフェアな書き方をしていない」(P213)と。また、「率直に云わせて頂くならばあなたのアタマが悪いのであり、私を責めるのは見当違いと云うべきである」(同)とも。
 本来の文脈から切り離しての引用になったが、いわんとするところはこうだ。即ち、<事件解決のための手掛かり、登場人物にまつわる幾つものフェイクを見破るための手掛かりは、すべて提示してあります。それにかかわることで嘘は一つも書いていません。ちゃんと読んで理詰めで考えれば、犯人は指摘できます。間違えたからといって作者を責めるのは、あなたの失態でしかありません。騙されたあなたが悪いんです>、——。
 いやはやまったく、その通り。悪あがきめいた抗弁の台詞も、八つ当たりの言葉も出てこない。「ンダ、ンダ」と頷くより他はない。あるのは世界が変転してまるで違う世界の光景を読者の眼の前に出現させたことに対する驚きと、威風堂々たる騙しのテクニックの妙に対する称讃、そうしてそれらがもたらす得もいわれぬ感動だ。
 偉そうなことをいえる者ではないのだが、もしこれから「達也が嗤う」を読まれる方があって、自分も謎解きに挑戦しようとされるなら、一つだけ忠告(?)——「"木を見て森を見ず"なんて愚を犯すことなかれ。すべてを疑い、すべてを指摘せよ」
 ——わたくしは先に、本作を『ヴィーナスの心臓』で読んだ、とお話しした。わざわざ断ったのは理由があって、それは「達也が嗤う」の成立事情に由来する。そのことについて、簡単に述べておきたい。
 本作が世に出た初めは昭和31(1956)年7月、日本探偵小説クラブの例会にて朗読された。まず問題編を黒部龍二が朗読し、そのあと30分で例会出席者たちが頭をひねって犯人を誰何、そうしていよいよ解答編が朗読される、という流れだが、勿論それだけで済む話では、ない。会場での朗読にあたっては作者いうところの<立体演出>がなされるなど趣向と茶目っ気と稚気を凝らしたものとなったようである。
 説明下手で申し訳ないところだが、往事の和気藹々とした様子や正解が発表されたあとの侃々諤々の光景など、想像するにとても愉しくなってくるのは、果たしてわたくしだけであろうか。これを鮎川哲也が仕掛けた<本気の遊び>といわずして、他になんというのか、なんて気分にもなってくるのだ。
 『ヴィーナスの心臓』所収の「達也が嗤う」のテキストは、<問題編+解答編>だけで構成されており、昭和31年10月の『宝石』誌が初出。
 が、実は本作には異版と呼ぶべきものが、別に存在している。こちらこそが、いわば世界初演時の姿に近いヴァージョンなのだ。そうしてなんとも嬉しいことに、われらはそれを、綾辻行人編『贈る物語 Mystery 九つの迷宮』(光文社文庫)で読むことが可能だ。個人的にはテキストだけのヴァージョンの方がずっと純粋で好きだが、『贈る物語』所収の「達也が嗤う」ではテキストの一部改訂の他、序文や挑戦状、あとがきなどが付されているなど一編のミステリ小説を取り巻く世界をまるごと堪能できることもあり、「こちらも是非、機会あればお手にとってご一読ください」とお願いする。両方のヴァージョンを読みくらべると、作者が聴取者・読者へ向けてどれだけ<本気の遊び>を挑んできたか、想像できるのではないでしょうか。
 ——鮎川哲也の小説の面白さは、徹底した論理と巧みな文章に支えられた、水も漏らさぬ緻密な構成と、真相解明に重要な示唆を堂々と読者の目の前にぶら下げることも辞さぬ稚気にある。「達也が嗤う」はそうした点が端的に表れた好例だろう。それゆえにこそ本編は、この分野のマスターピースとして長く愛読され、また最高峰を占め続けてきたのではないだろうか。◆(一)

共通テーマ:日記・雑感