第2659日目 〈太宰治『お伽草紙』を読んでいるのですが……。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ趣味の読書がまったくはかどらない。哀しく、嘆かわしいことである。『晩年』から再読書を始めた太宰治の未読本、2冊目の『お伽草紙』でさっそくつまずく事態に陥ってしまったのだ。通勤カバンの肥やしになって、もうどれぐらい経つ? つらつら考えているうち、太宰作品へののめりこみ具合が以前程でなくなっているのに気が付いて、唖然呆然、愕然悄然。
 どうしてだろう?
 誤解を承知でいえば、<面白さ>や<夢中になれる><その文学を渇望する>という意味で、わたくしのなかで太宰文学は「賞味期限が過ぎた」のかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」てふ諺、どうやら読書に於いてもいえることらしいね、ワトスン。
 太宰文学の、殊初期作品が持つロマンティシズム、ニヒリズム、ナルシズムは、<読者を選ぶ>というより、<読者の感性と年齢>をより選ぶようだ。読者の年齢が若ければその分、太宰文学の感染力は力を増す。世界を死滅させた、かの”キャプテン・トリップ”も裸足で逃げ出すぐらい、極めて強力かつ自覚症状なき流行性感冒。ちなみにそれの潜伏期間は人によってばらつきが見られるけれど、若いうちに読んだ人程一生の付き合いになる可能性は高いという。
 が、これを逆手に取れば年経り人生を積み重ね、髪に白いものが混ざり始めた年代が改めて手に取るのは、チトきつい部分がある、ということではないか。
 太宰治の文学が大人の鑑賞に堪えぬ、というのでは勿論ない。ただ、甘ったるさが鼻につき、必要以上に感傷的になってしまうのだ。赤面して、むず痒くなってしまうのだ。過ぎ去り時代の傷をごそごそと撫でられたり、記憶の底で澱のように沈殿して眠りについていたような思い出を浮かびあがらせ向き合わされる気恥ずかしさと悔恨……。読み手と作品の一体化ではなく、或る程度の乖離はあっても仕方ないというのが、中年もしくは初老の年齢に差しかかった者が太宰治を読む態度なのかもしれないな、と思うているのだ。
 太宰再読、その嚆矢を担ったのは『晩年』である、と先に書いた。何編かを除けば概ね惰性で読むのが常だったと雖も、たとえば「ロマネスク」など3編に○印を付け得たのはせめてもの幸いか。それは一読、二読して愉しく、惚れてしまった作品の証──。残念ながら「道化の華」は事情あって読み止したまま、終わりまでページを繰ることかなわず、それっきりになってしまったのだが。そのうちに読もう(この態度がいけない。「いつ読むの? いまでしょ」、それは済まぬが、できそうにないな)。
 いまは2冊目、『お伽草紙』である。こちらは『晩年』以上に読書に気が乗らず、青息吐息で一編を読み終えるのも珍しくない。通勤カバンの肥やしになりつつあることは既に述べた通りだが、ここに至ってもう一つ、別の読書を怠ける理由めいたものが生まれたことに、顔を顰めて頭を抱えて、嗟嘆している。
 「新釈諸国噺」で現在、足踏み状態なのだ。井原西鶴の浮世草子の群れから太宰が何編かピックアップして、かれなりの味付けを施した、或る意味で短編小説の面白さが堪能できるはずの作品にもかかわらず、わたくしの心はいっこうこれを愉しまず、活字を追う目は虚ろでページを繰る手は鈍り、物語は感情にわずかの動きも与えない……。気に喰わない。読む時間がなかなか取れない、とか、仕事が忙しくってねぇ、なんてよくある理由は、ここでは二番手に過ぎぬ。では──?
 包み隠さず、正直に、ミもフタもないことを申しあげる。
 「凡例」や奥野健男の解説へ触れたときから、「新釈諸国噺」を読むことに幾許かの危惧を抱いていた。なぜなら、学生時代からこの方、浮世草子を始めとする西鶴の小説とは相性が悪いからだ。
 総じてわたくしは、西鶴や八文字屋本に代表される浮世草子が好きではない。一個の物語として鑑賞したとき、読み応えをまるで感じないのだ。そもそも雑に書かれたものが多いよね。岩波書店や新潮社、小学館の古典文学の叢書に含まれる作品は当然として、図書館から借りたりしたものでそれなりの数の浮世草子を読み漁ったけれど、心を動かされるぐらいにインパクトのある作品には、ついぞお目に掛かることができなかった。
 ──偉そうなことを、と、また知らぬところで揶揄されそうな発言をしたが、実際わたくしは20代の結構な時間を費やしてそれらを読んだのだから、なにも後ろめたさを感じることも恥じ入ることもなく、堂々と斯く申しあげる。
 勿論、読み得たものは近世期を通じて出版されたものの一部でしかない。氷山の一角なのだ、翻刻されている作品は。が、この或る意味で馬鹿げた読書を行うことで、メジャー、セミ・メジャー、マイナーな作品と玉石混淆ながら、浮世草子とは相性の悪いことが確認できただけでも収穫といえよう。当然の如く例外的な作品はあったけれど、それとて両手の指を折って足りるぐらいの数だ。やはり近世期に書かれた小説、ジャンルでいえば、読本が好きだ。
 例外ありと雖も西鶴が苦手な事実は、動かせない。それゆえと思うているのだ、「新釈諸国噺」を読みあぐねているのは。言い訳? そうさ。まぁそれはともかく、いまのわたくしが『お伽草紙』を開くとき、惰性で「新釈諸国噺」へ目を通しているのも事実なのである。もはや読むのは義務で、その行為は惰性に等しい。
 <新潮文庫版太宰治作品集・全冊全作品読破プロジェクト>第2弾なんてものを掲げていなければ、疾うにこの1冊は部屋の隅に抛って次の本に取り掛かっていたところだろう。かつて平井呈一がマッケン「A Fragments of Life」で従来のマッケン作品と違う肌合いを感じて読むのをやめ、これを収録した『』を放りやってしばらく忘却していたのと同じように。
 が、この世には義務にかられての読書もあるのだ。義務、という言葉が的を射ていないのは承知している。どういい換えればよいか……そうだ、<一つの目標を達成するため読むべきなかに必ず存在する、どうにも気分が乗らないけれど機械的に読み進めるより他ない本>といおう。顧みれば、クリスティにもドストエフスキーにも、そういう本はあった。赤川次郎にも源氏鶏太にも、横溝正史にもラヴクラフトにも、なによりスティーヴン・キングにさえ、そういう本があった。太宰にもあって、なんの不思議はない。
 いまは砂を噛むような読書に耐え、それが終わったあと目の前に開ける、読み終えた者だけが見ることのできる風景を目にするその瞬間を頼みにして、「新釈諸国噺」をゆるゆると読み進めよう。

 【次回予告】
 ……ああ、でももしかすると読み倦ねているのは、この文庫だけ活字が小さいせいかなぁ……。◆

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