第2674日目 〈”第一次太宰治読書マラソン”を振り返ったとき、わたくしが思い出すあれこれのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 現在、第二次太宰治読書マラソンに勤しんでいること、なにかしらの気配を感じておられる読者の方もおられる模様。まぁね、『晩年』、『お伽草子』と続いて、しかも過去の読書の様子がぽつりぽつりと零れ落ちるように語られる様を見れば、自ずと察しはつくのかも。
 然り、ただいまわたくしは第二次太宰治読書マラソンの最中である。昨日もお伝えしたように病気療養で仕事を辞めざるを得なくなった代わり、読書へ勤しむ時間がたっぷり与えられたことで、マラソン・リーディング(ちょっと気取った言い方をしてみた)に腰を据えて臨めるのは、不幸中の幸い事、というてよかろうか。
 ここで話は過日の『お伽草子』に戻るが、活字の小ささに様々な面でめげて大きな活字の、改版された新潮文庫を買い直したこと、既にお話しした通り。その買い直した新潮文庫を先日、電車のなかで恙なく読み終えた際にふと、去来した記憶がある──たしか第一次のときもこんな時期に読んでいたよなぁ、という、模糊としていながらもありありと当時の光景を思い浮かべられるのだ。
 それを確かめたくて今日は、朝も早くから書架をあちこち捜索して既読の太宰治を発掘し、扉に書きこんだ読了日をチェック、Numbersに入力して並べ替えるてふ作業を行っていた。そうして記憶は正しかったことが証明される。2010年の5月なかばから10月上旬までにわたくしは、太宰治の文庫を読み耽っていたのだ、確かに。
 いまは既読な第一次にて読んだ太宰を列挙すると、こうなる。即ち、──『ヴィヨンの妻』に始まり『人間失格』、『斜陽』と続き、『津軽』、『パンドラの匣』、『惜別』、『走れメロス』を経て、『ろまん燈籠』、『新樹の言葉』へ至る。これはすべて読んだ順番に挙げた。
 どうしてこの順番だったのかは、もう覚えていない。が、すくなくとも最初の3冊についてはもしかすると、『文豪ナビ 太宰治』のガイドに盲目的に従ったのかもしれない。まぁ、明らかに有名作から読んでしまおうか、と企んだフシが見え隠れするのは、わがことながら気のせいか。
 だいたい1ヶ月に2冊、わたくしは読むのが遅いからね、どうしてもこれ以上にペースは上げられない。『パンドラの匣』は今回の『お伽草子』同様、改版前の活字の小さな新潮文庫だったからかしら、読了に3週間以上を費やしている。それでも9年前は現在より視力が良かったことの証拠になりそう。『お伽草子』は買い換えた翌日に冒頭の一編から読み直しを始めて、2週間弱が経った昨日、全編を読み終えたものね。
 教訓:読書人は視力を大切にしないといけない。
 暑い季節に太宰治を読む。──どうしてだろう、過去に必要あって真冬に太宰作品を何編か読んだのだが、あまりのめりこむことができなかった。読書の動機が動機だから、といえばそれまでだがわたくしには、太宰治は全身をじりじり太陽の熱で焼かれながら汗を掻き掻き読むのがいちばん似合っているように、感じてしまうのである。おかしいだろう。でもこれが経験から導き出した個人的見解って奴だ。
 ──なお、第一次に於ける『人間失格』のみ他と異なり新潮文庫ではなく、ぶんか社文庫での読書となったこと、備忘も兼ねてご報告しておきたい。ちょうどAKB48がメジャーになりつつある時期に出版された文庫で、『人間失格』では表紙モデルを前田敦子が務める(ちなみに宮沢賢治『注文の多い料理店』は松井玲奈なの)。さりながらなかなか十把一絡げに片付けることもできぬ文庫で、きちんと註釈が付されて、それが簡潔にまとまっている点がわたくしには好ましい。
 どうして新潮文庫で読まなかったのか、ですって? そのときはまだ太宰の文庫を買い揃え始めたばかりで、しかも全部じつは古本屋を回って買い集めていたものだから、活字の大きな『人間失格』は手許になかったんじゃないかな。9年前の細かな、正確なことは流石に覚えてないよ。
 ただこれだけは申しあげる。けっして前田敦子の表紙目的ではない、ということを。「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」──勿論だ、ラジャーである。
 でも、彼女の演技は好きです。それが途轍もなく光ったのは『イニシエーション・ラブ』と『もらとりあむタマ子』、『クロユリ団地』ですね。他は……んんん、これといって記憶に残る作品はこの3作以外、わたくしは挙げることができない。
 最後に話題が脱線してしまったが、次回は『お伽草子』感想をお披露目させていただければいいな、と本心から思うている。でも、さて、……?◆

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