第2704日目 〈「秘めたる文学、妖しい文学、危険な文学」を求めて……好色文学の場合。〉 [日々の思い・独り言]

 秘めたる文学、妖しい文学、危険な文学。それに惹かれて探書して、後ろめたさを覚えつつ読み耽った、そのそもそもの始まりはいつだったか、と考えてみる。友どちと年に1度のマクドナルドで話しこんでいたときの話題を引きずっている。
幻想文学をいうているのではない。いみじくも斯界の識者により好色文学と名附けられた、その分野の小説詩歌の類のことだ。
 男の子ですから当然、そちらへの興味は一丁前にありました。が、当時はむしろ婚約者を病気で亡くしたそのショックから立ち直るのに精一杯で、とてもではないけれど、好色文学へ手を出す気分にはなれなかった。逆にこれで手を出して愉しんでいられたら、わたくしの趣味嗜好はいまとはもっと別のところにあったよね。
 学生時代は殆ど講義に出ないで神保町の古本屋街をほっつき歩いて過ごした。幻想文学の絶版本や雑誌を漁っていた一方、当時既に心酔して私淑し、お手紙のやり取りまでしていた生田耕作先生の著書をガイド代わりに、超現実主義の作家たちの翻訳を探し、奢灞都館の本を探し、近世漢詩人の版本をわくわくしながら目繰り、そうして目を皿のようにして好色文学を探し求めた(思い出したこと:或る古書店にて生田先生の著書を買おうとレジへ持っていったら、すっごく不機嫌な顔をされて会計を済ませたことがあった[※])。
 バタイユやマンディアルグ、サドやマゾッホはきちんと流通していたから良いのだが、生田先生が著書で取り挙げるなかで、いちばん当時入手難だったのは(あくまで「自分の行動範囲内プラスαのエリアで、見掛けることがなかった」という意味で)、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『ムシュー・ニコラ』であった。
 余談:生田先生の著書に教えられた秘めたる文学、妖しい文学、危険な文学はいろいろある。なかでも、先生の翻訳でいちばん読みたかったのが、「いちばんむごたらしいさわり場面を克明に紹介した葉書」を「苦虫を嚙み潰したような不興面を想像してほくそ笑みながら」恩師生島遼一に送りつけた、と或る意味先生の面目躍如というエピソードを添えて紹介されたオクターヴ・ミルボー『処刑の庭』”Le Jardin des supplices”。国書刊行会から『責苦の庭』という題で翻訳が出ていたけれど、読んでいて生温い文章で、「どこが残酷描写なのですか?」と小首を傾げたくなる代物であった。期待値が高かったのか?
 話は戻って、──
 『ムシュー・ニコラ』は作者の履物フェチが炸裂した告白小説、という触れこみで自分のなかに刷りこまれたものだから、興味が先走って現物を入手する前に図書館にこもって読み耽りました。どういうわけか、それからしばらくその図書館、『ムシュー・ニコラ』を借覧禁止にしていましたが……。これを自分用に手に入れたのは、先生が故人となられた年の師走。その年末年始はレチフとマゾッホを読んで過ごしたこと、年賀状のファイルで確認が出来ます。
 まぁそういう年頃だったのでしょうね、20代初めの数年間にあれだけ熱心に好色文学に耽ったのは。隠れて読む後ろ暗い愉しみも、あの頃は持ち合わせていた。
 でも、それが徐々に後退していったのは認め難くも厳然たる事実だ。始まりが突然なら終わりも突然。或るときを境に憑きが落ちたようにさしたる関心を持たなくなったのは、たぶん、自分の興味がはっきり日本の古典文学に向いたから。大学院へ進学して研究者となり、その一方で教壇に立って学生を指導し……そんな未来図を、これまで抱いたどの夢よりも具体的に描くようになると、己の関心や興味の第一位から好色文学が転落し、幻想文学とミステリ小説が趣味の読書になるのは、そうね、当然の帰結だったかも。
 転落イコール処分に非ず。自宅建て替えの際、倉庫にとりあえず放りこんだダンボール箱のなかから連衆の表紙を見出したときは、往古に跋扈して調伏したと思うていた怨霊が現前に現れたような、そんな絶望と、と同時に禁じられた闇の愉悦があふれそうになりましたね。
 既に名前を挙げた作家の秘めたる文学、妖しい文学、危険な小説たちは勿論、ポーリーヌ・レアージュにバルベー・ドールヴィリー、ジュリアン・グラック、ルイ・アラゴン、ビアズリー、黒沢翁麿に平賀源内、伝荷風、伝龍之介、モダン・エロティック・ライブラリー、生田耕作コレクション、林美一の江戸艶本研究書と復刻本、岡田甫『川柳末摘花詳釈』『同 拾遺篇』、『秘籍江戸文学選』全巻、恥ずかしいので小声でいえばフランス書院の文庫もちょっぴり……と、よくもまぁ1箱に押しこんであったな、と感心するぐらいの本が、「お久しぶり!」とばかりに出てきたのだ。
 先日、アポリネール『一万一千本の鞭』(ロマン文庫版)を古本屋の棚の隅っこで見附けて買ったことも契機となって──、ずいぶん久しく失っていた好色文学への関心がよみがえりつつあるのを感じる。
 ただ、流石むかしのように血気盛んではないから、今度の関心とは好色文学史の構想となるわけだけれども……。でも、これだけで歴史が書けようはずは、ない。まだまだ資料を博捜する必要がある。でもそれだけの時間と体力、維持される情熱と根気が、いまのわたくしにあるだろうか。やはり愉しむにのみ越したことはない……?◆

※もとより覚悟のこと。その古書店は生田先生をどうしたわけか毛嫌いして、その著書は扱いません、扱ったとしても適正価格で処分します、と公言して憚ることがありませんでした。おかげで、ほかでは10,000円前後していた『るさんちまん』を1,200円という破格値で買えたのだから、文句なしですが。
 まぁ、なにがあったか存じませんが、特定著者の著作の取り扱い方には古書店の見識がうかがえることであります。□

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