第2708日目 〈いつか宮沢賢治に好かれる日は来るのだろうか?〉 [日々の思い・独り言]

 何度と読むのを試みても、どうしても先へ進めない作家、というのが、あるでしょうか。わたくしは、あります。宮沢賢治がそれです。
 小学3年か4年の、夏休みの課題図書に『風の又三郎』(ポプラ社文庫)があったが、その夏わたくしはそれを選ばなかった。小学5年国語の教科書に「注文の多い料理店」が載っていた。学芸会とかその類の催しで、同級生何人かとこれを劇に仕立てて上演したところ、まぁそれなりに好評だったのだが以来、賢治との縁は途絶えた……1990年代中葉まで。
 刊行が始まった『【新】校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)が図書館に納品されるや、さっそく借り出して読み耽った男が、高校時代の後輩にいた。「やまなし」や賢治の詩について一時、熱く語ることのあったかれに感化され、さて宮沢賢治ってどんな風な作家だったかな、と興味本位で新潮文庫を開いたみたのだが。
 開いてみたのだが、読書中はどうにも不可思議なイメージしか与えられず、読後はどうにも煙に巻かれたような曖昧模糊とした印象しか残らなかった。いちおう、文庫1冊は読み通したのだが、「賢治さん、ごめんなさない。わたくしにはあなたの良さが伝わりませんでした」と申し訳なく思いながら書架のいちばん片隅に押しこんだことである。
 それから今日までの間、世紀が変わり元号が変わり、身辺にも変化が生じた。アニメ映画『グスコーブドリの伝記』を仕事が半休だった日の帰りにふらり、と映画館で鑑賞し、同作の朗読をポッドキャストで発見してダウンロード、そればかり寝しなに流して結末に至ることなく眠りに就くのが、それから今日までのわたくしの宮沢賢治とのお付き合いである。
 そうして今年平成31/令和1年、或ることがきっかけで再び宮沢賢治を読む気になったのだ。
 とはいえ、いまのわたくしの心は太宰治に傾き、ゆるゆるばっちり、これの読書を進めている。新潮文庫で残り6冊。今年中には読み終わる予定だが、そのあとは長く棚上げ中のドストエフスキーをそろそろ片附けてしまおう、と覚悟を決めたばかり。
 どうあがいても本格的に宮沢賢治へ取り組むのは、来年夏以後となるのだが、幸いと賢治の作物は──内容の抽象性とか形而上的とかそんな点は抜きにして、単に分量の話だけをするなら──みな、短編である。むろん、中編と呼ぶべき作品もあるが、それとて数は少ない。
 わたくしはこういいたいのである、太宰読書の合間々々に賢治も1つ、2つは読めるよね、と。
 太宰治と宮沢賢治、心のありようが真逆な人間2人。太宰はね、どうにも不純ですよ。それでいて薄汚れた世界のなかに美しいもの、純粋なものを見附け出す。賢治は純粋なのだけれど、その目は理想の世界、人々の心根が改革された未だ観ることのできぬ世界へ向けられている。わたくしは賢治のよき愛好家でなければ、太宰のよき理解者でもない。けれども、わたくしにはこの2人が、互いに共感を抱かせつつもじつはまったく理解し合えぬ、相反する作家性の持ち主であるように、映ってならぬのであります。
 わたくしはきっと賢治に愛されていない。こちらから歩み寄ろうとすると、途端に離れていってしまう人。そういえばかつてモーツァルトがそうだった。モーツァルトの音楽に憧れてその懐に入るのを焦がれていた。良き導き手が現れたことで、「わたくしはモーツァルトに愛されていない」という気持ちは徐々に薄らいでゆき、いまとなってはその音楽の敬虔な信徒である。
 いつか宮沢賢治の文学に親炙し、大切に想うて鍾愛するに至る日が、いったい来るだろうか。「来たらいいよね」ぐらいにしか感じていない時点で、若干の諦めが心中に漂っているのは否定できない。小気味よく裏切られればいいのだけれど……嗚呼!
 いけない、駄弁を垂れ流してしまった。ではまた明日。◆

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