第2749日目 〈ドストエフスキー『死の家の記録』を読みました。【再読】〉 [日々の思い・独り言]

 TwitterのTLへ流れてきたと或るツイートに触発されて、今日の原稿を書く。『地下室の手記』がはじめてのドストエフスキーであった、という、誰かがリツイートした誰かのツイートを読んで、そんなことを企んだ。
 ちょうどド氏再読・文庫化作品全作読破を目的とした<第二次ドストエフスキー読書マラソン>に来春までには取り掛かれるかな、と目算が付き、これまでに読んだドストエフスキーを引っ張り出していた折ゆえ、良いタイミングだったのである。
 読書記録或いは本ブログの過去記事を検めるまでもない。わたくしがはじめて自覚して読んだドストエフスキーは『死の家の記録』、10年前;2009年11月のこと。学生時代、ロシア文学のゼミで読まされた『白夜』とグリーン版世界文学全集に収録の各作、映画を観る前に体力に任せて読み切った『悪霊』は除かせていただいている。
 正直なところ、どうしてその時期にドストエフスキーを読もうとしたのか、覚えていない。長く蓄積されてきた渇望が臨界に達したのだろう。古書店や新刊書店で新潮文庫のドストエフスキーをちまちまと買い集め、そうして読書の勇断(という程ではないけれど)を下したのだ……それは翌夏、あまりの暑さに集中できず、では太宰でも読むか、と箸休めしたが運の尽き。そのまま本道に戻ることは終ぞなく、今日へ至っている──と、記憶するが、果たして?
 『死の家の記録』、それはドストエフスキーがシベリア流刑から帰って最初に著した、長編ルポルタージュだ。記録者にして語り手ゴリャンチコフの体験が自分の過去に重なり、ついページを繰る手が鈍って考えこんでしまうところは、以前とまるで変わるところがない。半日費やして読み返してみてその迫力と壮絶さに圧倒されてしまうたところも、また。人間が如何に環境によって非人間的な姿に変貌してしまうか、希望や感情を保ち続けることが難しいか、を痛烈に思い知らされるのだ。
 「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまで暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受容れるようになる。暴虐者の内部の個人と社会人は永久に亡び去り、人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる。加えて、このような暴虐の例と、それが可能だという考えは社会全体にも伝染的な作用をする。このような権力は誘惑的である。このような現象を平気で見ている社会は、すでにその土台が感染しているのである。」(工藤精一郎・訳 新潮文庫 P299-300)
 ……嗚呼、斯程雄弁に人間の変貌について語り得た文章が、他にどれだけあろうか!?
 が、語り手ゴリャンチコフ即ち著者ドストエフスキーはそのような劣悪な環境のなかで、自由になる日を夢に見続け、その日が訪れることへの希望を失うことなく、これまでの人生を厳しく反省し出獄後に営むであろう理想とする生活を思い描きその遂行を信じて、シベリアでの4年間を生き抜くのだ。キェルケゴールではないけれど、絶望こそが死に至る病なのである。その死とは肉体の死のみならず魂と人間性の死をも指す。……とすれば、それを未然に防ぐための良薬は希望のはずではないか。
 この体験なくしてわれらが知り親しむドストエフスキーの世界は生まれなかっただろう……人間心理を饒舌なまでに筆を費やしながら抉りに抉って神話のレヴェルまで高められた後期の作品群は、シベリア流刑と『死の家の記録』の執筆なくしてあり得るものではなかったのだから。
 人間心理を徹底的に、容赦なく抉ってゆくそのスタイルは、次に書かれた中編『地下室の手記』(『地下生活者の手記』)にて切り詰められた形で、そうして更に切迫した調子で表現されて、やがて『罪と罰』を嚆矢とするドストエフスキーの5大長編へ発展、結実してゆくことになる。
 そうした意味でも本書『死の家の記録』は、ドストエフスキーの全著作中最重要にして必読複読の要成す1冊である。◆

共通テーマ:日記・雑感