第2840日目 〈たのしみは、“このあと読む本”の入れ替えをしているとき。〉 [日々の思い・独り言]

 楽しみは、なんの予定もない日に朝から本を読むことと、本棚の本を整理しているとき。そんなうれしい回答の主は、中居正広であった。読書人の鏡だ。
 今日、“このあと読む本”の入れ替えをしているとき、この言葉が脳裏に浮かんだのである。本を読む人、積ん読本を溜めている人ならば、およそ共感できるだろう言葉。
 過去に積み残した本を消化する。聞こえはいいが、生来の浮気症が祟った結果でしかない現行の読書マラソンだが、間もなく1つの大きな節目を迎える。──新潮文庫版太宰治作品集、年度中の読了はほぼ確実となった。喜ばしい。が、気を抜いてはならない。
 次に控えるは、新年度からのドストエフスキーである。わずか2作とはいえ、残ったのが『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』だから、ちょっと難儀しそうな予感。されど読み果せれば、宿望成就、数多ある積ん読本もまったく気にならなくなる不思議さ。
 と、ここまではいつもと同じお話でしかない。ちょっと目新しい(と誇大広告)のはこの先だ。
 まぁ、こうしてゆっくり太宰を読んできていると時折、眼差しがそのまわりの作家たちへ向く。またぞろいつもの浮気癖か? 否、こんな理由があるのだ──
 いまを去ること6年と2ヶ月前の2013年12月。実業之日本社文庫が全3冊より成る<無頼派作家の夜>シリーズを刊行した。ん 3 1;織田作之助『夫婦善哉・怖るべき女』、ん 3 2;坂口安吾『堕落論・特攻隊に捧ぐ』、ん 3 3;太宰治『桜桃・雪の夜の話』以上3冊。各巻に文庫初収録の目玉がある。
 つい買いそびれているうちに書店の棚から姿を消してその後、注文することも怠ったまま今日に至っていたが、どうしたわけか、この3冊が別々の店で、同じ日に揃ったのだ。
 その前にも織田作之助短編集『聴雨・蛍』(ちくま文庫)を手に入れたり、坂口安吾『不連続殺人事件』(新潮文庫)を奨められたりしていたこともあり、或る意味で土壌は整っていたというてよいだろう。太宰に私淑した田中英光の文庫(西村賢太編『田中英光傑作選 オリンポスの過日/さようなら他』 角川文庫)を古本屋で、安く買ってきたのも、同じ時分だ。
 このタイミングに否応なく無頼派の作家たちへの関心が一気に高まったのも、致し方ないこと、とわたくしは考える。──寄り道浮気火遊び、言葉はどうあれ、する気になったのは、斯様な偶然が集積したがためのことだ。
 いまを逸したら、次にいつかれらの作物を読むようになるか、わからない。従ってド氏のあとは予定を変更して、無頼派の2人、太宰に私淑した1人の作家を読む。それぞれが1、2冊。記す程の後遺症は残るまい。
 前述の“このあと読む本”の入れ替えをしていたのは、この決定を承けてのことである。
 無頼派をそんな風に済ませたら、花袋→横溝→乱歩→綾辻と消化。そのあとは悠々自適、行き当たりばったり積ん読本消化の生活に入りたい。むろん、そうは問屋も卸すまいと覚悟の上。◆


夫婦善哉・怖るべき女 - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

夫婦善哉・怖るべき女 - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2013/12/05
  • メディア: 文庫



堕落論・特攻隊に捧ぐ - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

堕落論・特攻隊に捧ぐ - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2013/12/05
  • メディア: 文庫



桜桃・雪の夜の話 - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

桜桃・雪の夜の話 - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)

  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2013/12/05
  • メディア: 文庫



田中英光傑作選 オリンポスの果実/さようなら 他 (角川文庫)

田中英光傑作選 オリンポスの果実/さようなら 他 (角川文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
  • 発売日: 2015/11/25
  • メディア: 文庫



第2839日目 〈太宰治と松本清張を間違えたあとで、気が付いたこと。〉 [日々の思い・独り言]

 ふだんは太宰治を読み、寝しなの一刻に松本清張を読む。両方とも新潮文庫なものだから、ふとした拍子に混乱してしまうた経験を、今日した。『津軽通信』の感想を昨日ようやっと書いたことで肩の荷が下りてそのままベッドへ潜りこみ、目蓋が重くなってくるまで清張の短編「権妻」を読み、翌る今日からは太宰の『きりぎりす』を読み始めた。途端、幻惑が生じて、こんな錯覚をしたのだ──あれ、いま読んでいるのは松本清張だったっけ? 否、太宰だ。
 われながら可笑しい経験である。題材も作風も文章も、性質を同じうするところなど一つとしてないはずの2人なのに、一瞬と雖も取り違えてしまうとは、はたしてなにゆえぞ。まぁ、すぐに気を取り直して読書を続けて、片道の電車のなかで冒頭の「燈籠」を読み終えたのですが、件の錯乱はなかなか記憶から消えてはくれなかった。
 古本屋で、阿刀田高『松本清張あらかると』(光文社知恵の森文庫)を見附けて、10分近く買うのを悩んだ末にレジへ運んだ。中央公論社が阿刀田高編集『松本清張小説セレクション』全36巻を刊行した際、阿刀田が巻末に添えた解説風エッセイをまとめたのが、本書である由。
 セレクトされた長短編、創作或いはノンフィクションに寄せた阿刀田の視点は、松本清張の小説へようやく取り掛かるようになった自分にはなかなか新鮮で、買ってよかったなぁ、と思うこと頻りな現在なのであるが、特に興味深く読んだのは、姉妹で松本番を担当した2人の元編集者と阿刀田の鼎談だった。創作の舞台裏を潜み見た思いがする一方で、こちらの関心をより惹いたのは、清張と海外ミステリの関わりに触れた箇所。
 ポオが好きだったことは薄々感じられたが、クロフツのように論理を重んじた作家も好んで読んでいたこと、またシムノンは作品に流れるムードゆえあまり好きでなかったらしいことなど、ほう、と思いながら読んでいた。清張の著書に、読書歴を語ってまとめた本があるのか、寡聞にして知らないが、もしあるならば是が非にも読んでみたい。
 これは歴史のifになる話だが、もし清張が『点と線』で新ジャンルを開拓するきっかけを得ず、あのまま歴史小説を書き続けていたらどのような作家になっていたのだろう、と改めて想像を逞しうさせるきっかけにもなったのが、この阿刀田高の好著である。
 さて、先程の錯乱の話だが先程、松本清張のプロフィールをなにげなく眺めていて、おや、と小首を傾げるところがあったので、それを最後にお伝えして本日は筆を擱こう。
 松本清張は、現在の福岡県北九州市に産声をあげた。1909年、つまり明治42年12月21日(火・先勝)のことだ。小首を傾げたのは、その生年である。この年号は、どこかで見た覚えがあるぞ。しかもつい最近だ。
 椅子をくるり、と回転させ、書架に入る本、床に積まれた本を舐めるように見渡して、もしかすると……、と立ちあがり、積まれた本のいちばん上を手にして、表紙を開いた。
 ──やっぱり!!
 なんのことはなかった。明治42/1909年。伊藤博文がハルピンで暗殺されたその年。それは太宰治が生まれた年でもあったのだ。青森県北津軽郡金木村に津島修治は6月19日(土・赤口)、誕生した。
 太宰と清張が同い年……信じられるか。太宰が戦後間もない時分に命を絶ったこと、清張が平成まで存命であったこと、この事実を突き合わせると余計に信じがたく思われるが、揺らぐことなき事実なのである。かけ離れた、とはいわないまでも、およそ接点のなさそうな二人の文学者がいみじくも同年に、この世に生を受けていようとは。
 そうしてこの二人の作品を偶然にもわたくしはいま、なにも知らぬまま並行して読んでいたのだ。驚きは隠せない。「え? 嘘でしょう?」と声をあげてしまい、然る後にカレンダーを点検して、「本当だ」と納得するのだろう。となれば、冒頭で告白した可笑しな経験も、宜なるかな。なんちゃって。
 でも、同じ年に生まれた文学者たちの作品を軒並み検めてみたら、案外著作の底に流れる、【通奏低音】とでもいうべき共通のなにか──<因子>のようなものを発見できるかもしれない。この年に生まれた日本人文学者はかれらの他、大岡昇平(3月6日/土・仏滅)、中島敦(5月5日/水・赤口)、埴谷雄高(12月19日/日・大安)、中里恒子(12月23日/木・先負)などがいる。
 日本人としては史上初めてベルリン・フィルの指揮台に立った作曲家・指揮者の貴志康一(3月31日/水・大安)、『フクちゃん』の作者で横浜市民には崎陽軒の「ひょうちゃん」のキャラクターデザインを担当したことで知られるマンガ家の横山隆一(5月11日/火・赤口)、三島由紀夫の義父としても知られる日本画家の杉山寧(10月20日/水・先負)、映画評論家の淀川長治(4月10日/土・先負)と小森和子(11月11日/木・先勝)、作曲家の古関裕而(8月11日/水・先勝)らも、この年の生まれだ。
 ……なんだか、先勝・先負、そうして赤口が目立つね。◆


松本清張あらかると (光文社知恵の森文庫)

松本清張あらかると (光文社知恵の森文庫)

  • 作者: 阿刀田 高
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/06/12
  • メディア: 文庫



第2838日目 〈太宰治『津軽通信』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 読了して1週間。残るべきは残り、潰えるものは潰えた、という思いがする──太宰治『津軽通院』(新潮文庫)の記憶のことだ。
 <第二次太宰治読書マラソン>の要ともキモとも思わず、ただ以前のマラソンで読み残していたから、今回のリストへ入っていたに過ぎない1冊だったのに、現在はこのタイミングで読んでしまったことを心底後悔している。あまりに面白かったから。太宰の天賦の才能を見せつけられる思いがしたから。これ程に太宰の文章力に感嘆させられる作品集も、そうなかったから。短編小説の見本市とでもいうべきバラエティ豊かな1冊だったから。──うん、最後に予定している『グッド・バイ』の前かあとに読めばよかったよ。
 好きな作品ばかり、というてもけっして嘘ではない『津軽通信』。そのなかから、これは……! と思う作品を挙げると、「やんぬる哉」「未帰還の友に」「犯人」「酒の追憶」「座興に非ず」あたりになる。そのうちでも殊、記憶にこびりついて離れそうにないのが、前のうちの始めの3編。
 一言二言で感想を述べるなら、──
 「やんぬる哉」は、着の身着のまま、所持品というもの殆どなく焼け野原となった東京から逃げ出してきた疎開者と、腹に一物たくわえてかれらの言動に難クセつける陰湿な田舎人衆のまじわりが地方の閉鎖性を剥き出しにしている。この部分はいわば話中話なのだけれど、本編の語り手もまた生まれ故郷に疎開してきた人であり、件の話を語って聞かせるのは、かれの中学時代の同級で遊んだ記憶のあまりない、町の病院に勤める医師である。
 そうしてこの医師が無邪気ながらも残酷に、執拗に、語り手の空襲体験を話して聞かせろ、とせがむのだ。人の、無自覚な浅ましさと下卑た様を描いて見事というか、醜さを暴いて猥雑というか。さんざん放蕩と新聞沙汰の事件を重ねた太宰が、家族を連れて金木へ疎開しているときの経験が影を落としていよう(太宰が一家を引き連れての疎開は、けっして「放蕩息子の帰還」なんて収まりの良いものではなかったはずだ)。そういえば、田舎人と移住者の構造は、先に「新釈諸国噺」中の「吉野山」にも見られた。あちらは西鶴という原作のためか、ユーモア小説として読めたが、こちらはもっと生々しく、エゴ剥き出しの関係である。
 「未帰還の友に」は、出征した馴染みの友との思い出を語り、内地で過ごす最後の夜の交情を惻惻と綴った作品だ。戦後に発表された諸編のうち<もの哀しさ><余韻の静けさ>という点では何物にも優っている。
 わずかの時間であっても相手を楽しませよう、逃れられぬ憂き事を忘れさせられるよう努めよう、相手のためならばどんな無茶でもしてみせよう。そんな太宰のホスピタリティ精神が伝わってくる。これはもう、サーヴィス精神の発揮というよりも、おもてなしの心である。同じ時期に華々しく復権を報じられた荷風からは、断じて期待できぬ他者への寄り添いの姿だ。
 「未帰還の友に」を読んでいると気のせいか、また感情移入すること過多のためか、太宰の目から零れ落ちる涙を感じてしまう。どんな卑怯な振る舞いをしてでも、友よ、生きて還ってきてくれ。そんな祈りとも願いともつかぬ声を、聞くのである。
 そうして、「犯人」。『津軽通信』のみならず、すくなくとも新潮文庫版太宰治作品集を通じて、異色中の異色。独特の存在感を放つ。安定した職も稼ぎも、蓄えとなるお金もなく、ただ夫婦になりたい恋人だけがある青年が、一瞬の衝動にかられて既に嫁いでいる姉を殺傷、独り逃避行を続けたあと遂に観念して自殺してしまう。
 とてもではないが、小説のなかの出来事と割り切ることができない。青年の心理も行動も、加えてかれが置かれた状況も、わたくしには馴染みあり、もしかすると同じ道を辿っていたかもしれない──身につまされる、といえばそれまでだが、わたくしにはボタン1つ掛け違えただけでじゅうぶんあり得た過去なのだ。身震いがする。心胆寒からしめる小説とは、じつは「犯人」のようなものをいうのではないか。青年が自殺したあと、姉夫婦の様子が報告されるラスト・シーンは、皮肉である。マッケンの『夢の丘』に比してもゆめ劣るものではない。
 ──顧みて、本書に於けるお気に入りは、いずれも戦後に発表された。「やんぬる哉」は「月刊読売」昭和21/1946年3月号、「未帰還の友に」は「潮流」昭和21/1946年5月号、「犯人」は「中央公論」昭和23/1948年1月号に、それぞれ掲載。「やんぬる哉」と「未帰還の友に」は、津軽は金木の生家へ疎開中に、「犯人」は上京して三鷹の家で書かれている。
 細かな心理分析の類はしないけれど、生活の不安や精神の不安定の影は、大なり小なり作品へ反映していよう。この時代の作物程、かれの随筆、また特に書簡を併読しておくと良いものも、わたくしはないと思う。太宰の不安と哀惜、愛惜が露わになっている。
 そうしてもう1つ、嗚呼、と思うのは、「犯人」執筆・発表の時分にはもう、最期を共にする山崎富栄とのまじわりが始まり、ぬかるみへはまりこんでいることだ。即ち、太宰治、本名・津島修治の人生は終わりの時を刻んでいたのである。◆


津軽通信 (新潮文庫)

津軽通信 (新潮文庫)

  • 作者: 太宰 治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 文庫



第2837日目 〈ゆき?〉 [日々の思い・独り言]

 関東地方降雪の予報、首都圏交通網の混乱回避のため利用者に注意喚起、みくらさんさんか当日朝惰眠を貪る予定とて布団にくるまることを非難せよてふ喚起あり。
 戯れ言であります。
 昨日は午後から、豊洲と初台に所用あって出掛けておりました。20時頃、甲州街道の歩道をてくてくと、初台駅へ向かっていたのですが、空を見あげればたしかに雪が降ってもおかしくない鉛色の空模様で、雨礫が細かく降りしきっている。にもかかわらず、どうしたわけか大気はあたたかく感じた──暖冬を誠と感じさせるにじゅうぶんな、あたたかさ。
 本当に雪、降るのかな。そう独り言ちつつ駅に着き、東京オペラシティの公演カレンダーを睨みつけるのも飽きたあと、スマホの天気アプリを起動。……北関東は関東平野のど真ん中ではそこそこの勢いで、雪が降り始めた由。あらら、そうなんだ。
 早くも電車に遅れが生じている、と、インターネットのニュース速報は伝える。が、北へ線路を延ばすJRのターミナル駅、或いは日光と赤城への動脈となる私鉄の起点駅のどこにも、「雪が降っているので電車遅れてま〜す! ごめんね〜!!」なんてお知らせは、ない。それは本当に雪なのか、舞台でおなじみ紙吹雪なのでは、と疑いたくなりますが、うぅん、やっぱり雪なんだろうなぁ。
 北海道や関ヶ原周辺地域にお住まいの方々から見て、降雪により交通網混乱、遅延や運休が生じるってどう映っているのだろう。致し方ないのか、脆弱すぎるのか。
 昨今は各鉄道会社もさすがに学んだらしく、あらかじめの計画運休や事前の注意喚起に勤しむようになりました。ちょっと前までの出たとこ勝負的な態度がなくなったのは、利用者として素直に喜ぶべきところであります。
 まぁ、1つの路線に支障あらば並行する他路線また私鉄地下鉄にメガトン級の皺寄せが来るのは、「いやぁ。またですか。どうにかならんものかしらね」と、両肩すくめて首を小さく左右に振り振り、溜め息まじりに、やれやれ、と呟きたくなるのですが、首都圏に住まう限り、首都圏で通勤している限り、避けては通れぬ難儀でありますな。
 大阪に住んでいた知己の話だが、あちらは朝夕のラッシュと雖も首都圏とは雲泥の差であるらしい。そういえば以前、京都に旅行した際、たまたま夕方の帰宅ラッシュに出喰わした。場所が場所ゆえ旅行者の姿もそこにはあるのだが、隣り合わせた京都人カップルの話に曰く;今日はなんだかいつもより混んどるな。そうやな、そういえばこの前東京の支社に行ったとき、夕方の電車に乗ったんやけど、これの何倍も人多くって身動き取れんかったで。ええ、マジで? いややわぁ、東京にはうち住めへんわぁ。──鮮明に記憶している会話であった。当日の京都の電車のなかはそういえば、たしかにこちらの感覚では空いている方やったわ。いやはやなんとも。
 最後に、と或る駅の構内放送で流れた、明朝、電車を使う人たちへのメッセージ。曰く、「明日の通勤時間帯は計画運休等により、電車が動いていない場合もあります。そのような事態に備えて、電車以外の移動方法を、今夜ご帰宅されたあと、お調べしておくことをお勧めいたします。明日の朝は駅員が混雑や電車遅延・運休に伴うお客様対応で大わらわになり、そのようなお問い合わせをされても対応できない場合がございます。何卒皆さまのご協力をお願いいたします」と。
 ……過去になにかあったのか、都営○○線。◆

第2836日目 〈平成31/令和元年、読んで良かった本10選。(田辺剛『クトゥルフの呼び声』とさと『神絵師JKとOL腐女子』)〉3/3 【一部修正版】 [日々の思い・独り言]

 想定外の延長戦となり、恐縮しております。残り2冊のマンガの回であります。
 今回も長くなってしまいましたこと、あらかじめお詫びしておきます。

 最初に、田辺剛『クトゥルフの呼び声』(エンターブレイン/KADOKAWA ビームコミック 全1巻)を挙げましょう。一時の熱情は冷めてしまったとはいえ、わたくしは未だにラヴクラフトが大好きです。この人なかりせばいまの自分はあり得ず、10代の精神形成に大きく益あった作家であるのは否めぬ事実。もっとも、その益が有り難きものか悪しきものであるか、その判断は保留するとして。
 先日も、刊行を鶴首した『ラヴクラフトの怪物たち』下巻を買いこんできて、ぱらぱら目繰って神話の神々の名前を目にするたびわくわくして仕方なかったのですが、さて、これを読むことがあるのかなぁ、と一方で疑問に小首を傾げていたのでありました(といいつつ、カール・エドワード・ワグナー「また語りあうために」は買った帰りにパブへ直行して、黒ビール飲みながら読み耽ったのですけれどね)。
 クトゥルー神話のコミカライズというのが果たしてどれだけあるのか、寡聞にして知らないのですが、ラヴクラフト作品のコミカライズであればわたくしが一等最初に思い浮かぶのは──換言すれば、人生ではじめて出会ったラヴクラフトの原作をコミック化した1編ということになりますが──、『ヤングマガジン』1989年4月3日号に読みきり掲載された井上弘一「ピックマンのモデル」が思い浮かびます。原作の醸す禍々しさの表現力や異形の怪物の見せ方の上手さ、一瞬たりとも緊迫感の緩むことなき展開に魅せられて、何度となく読み返したものですが、単行本にまとめられた様子のないのが残念でなりません(あるならどうかお教え願いたい)。切り抜いておいてよかった……。
 その後、PHP研究所からクラシックCOMICSとしてラヴクラフト作品のマンガ化が何冊も刊行されましたが、描き手が統一されておらず、まさしく玉石混淆、むしろ石が目立つシリーズでした。出版社がどのような了見と意図で以て描き手をセレクトしたのか、皆目見当が付かぬ中途半端なシリーズでした。ただ、宮崎陽介という人が『ダンウィッチの怪』『狂気の山脈』『闇にささやく者』『クトゥルフの呼び声』を担当しておりましたが、ラヴクラフトの世界にふしぎとしっくりくる画風であったのを覚えています。
 が、今日ラヴクラフト作品をコミカライズして「この人の右に出る者なし」といえるのは、田辺剛を置いて他にないでしょう。『異次元の色彩』か『狂気の山脈にて』第1巻、どちらかを書店の平台で見附けて躊躇いなく購入したのだったと思いますが一読、脳天にハンマーを喰らったような衝撃を受けて翌る日、件の書店へ出掛けて既刊のコミックスを全点、注文しました。
 ここでは『クトゥルフの呼び声』になりますが、ストーリーは原作に忠実に、されどややアレンジを加えつつ、画風は大胆にして緻密、というところは本作でも健在。描きこみの異様なまでの凄まじさにマンガ家の狂的なまでの愛情と執念、そうしてどこか冷めた眼差しを感じてしまうのです──徹底的に原作を読み返して試行錯誤しなくては、とてもではないが生み出せる代物ではない。
 正直なところ、ラヴクラフトの小説は齢を重ねる程に読んでもイメージしづらくなってきて、自然と手が遠のいてしまっているのですが、田辺剛のお陰で今度は逆に、ラヴクラフトを読んでいると田辺剛の絵が思い浮かんできてしまい、却って想像の翼を自由に羽ばたかせることが難しい……それだけに完璧というてよい、或いは理想的な<ラヴクラフト描き>である証左といえるかもしれませんね。

 3回に分けて連載(?)することになった〈平成31/令和元年、読んで良かった本10選。〉ですが、掉尾を飾るのは、やはり、さと『神絵師JKとOL腐女子』(小学館 ヒーローズコミックスふらっと 既刊1巻)以外にあり得ません。何年も前の『フラグタイム』を最後に消息を仄聞することなかったため(こちらの怠慢も原因ですが)、まさか新作が読めるとは思うていなかったので、新刊書店に並んだとほぼ同時に購入、仕事帰りの電車のなかでは早く読みたい気持ちを抑えるのに苦労しました(たぶん、にへらにへらしていたと思いますよ)。その晩、買った、読んだ、のツイートを連投したので、まずはそれを並べてみるとします。曰く、
 「「もう新作読めないのかな」と諦めていた漫画家さんの新作! ふらり、と入った書店の平台に、どーん! と積まれてた〜。嬉しくて、涙出ました……。絵もお話も、とっても素敵で愛らしくて、好きなんだぁ。この人の作品。夜更かしして、これから熟読玩味する!」(8:26 2019年6月19日)
 「甘くて心がキュンキュンしますや、この漫画! キュンキュンって我ながらキモいけど、そうとしか言いようがない。読みながらこんなにくすくす笑い、息を呑み、頬をゆるませ、ページを進めては戻りを繰り返し、鼻の下を伸ばし、溜め息ついて、かわいいなぁ、と呟いた事なんて、これまで仲々なかったぁ。」(9:58 2019年6月19日)
 「相沢さんの突き抜けた腐女子っぷりと、ミスミ神の物怖じしない真っ直ぐさが、このお話をより魅力的にしているんだなぁ、きっと。また明日、読み返そう。ところで帯に小さく書かれた、「フラグタイム 2019年11月劇場OVA公開」って……!?」(10:05 2019年6月19日)
 「アグオカ観たい。イガ×トツ読みたい。色々読まされたせいで或る程度BL耐性はついていると思うので、尚更。それにしても、ミスミ神の姓は住田だが、下の名前は何と? どこかに書いてあったっかな? やっぱり今から読み返そう。」(10:33 2019年6月19日)以上。
 それから何日後だったでしょう、病院の帰りに秋葉原へ寄り道、初回特典が欲しいがためにアニメイト、ゲーマーズ、メロンブックスなどまわって荷物をずいぶんと重くしたのは。確かそのとき、穂乃果ちゃんと曜ちゃんのなにかも買ったような気が……と、これは完全なる余談ですね。そのあと、万世と竹むらでお腹をふくらませてぽっくらぽっくら帰宅した、というのはさらなる余談であります。特典欲しさに特定の店舗まで出掛けて購入したのなんて、そのあとは新田恵海の写真集ぐらいですよ。うん。
 昨今、なにかにつけて「尊い」なる讃辞を、特にオタク向け作品で見聞きするようになっていますが、わたくしは頑としてこの言葉を自分の文章で使わない、と決めている。が、殊この作品についてのみ、禁を破って用いるのを良しとすることに。「語彙力!」とは作中でアイさんが何度となく口にする台詞で、わたくしも「尊い」という言葉をこの作品へ手向けるにあたって内心同じことを呟いているのですが、それ以外に一言でこの作品を讃える言葉があるだろうか、と考えると、んんん、ないのですよねぇ。
 登場人物皆々愛おしいのですが、わたくしのお気に入りはアイさんの同僚の吉岡さんです。隣席でオタクモード全開のアイさんを冷静に観察、時に毒舌を吐き、でも面倒見の良いプラモオタの吉岡さんあってこそ、アイさんのキャラクターが生きてくるのです。
 発売早々から重版がかかり、これまで置かれているのを見なかった書店でもどうかすると目にするようになりました。もっともっと売れて、さと氏が今後も書き続けられる環境が作られてゆくといいですね。『りびんぐでっど!』で知って以来、どうしてこの人がもっと売れないのかなぁ、もっとこの人の作品を読みたいなぁ、とふしぎに思うていた過去を笑い飛ばせる未来の訪れを、わたくしは切に祈ります。
 『神絵師JKとOL腐女子』はヒーローズWebにて第7話まで読むことが可能(コミックスは第5話まで収録)。『フラグタイム』映画化の伴う諸事や出産などで更新は停まっている様子だが、先を急ぐことなくご自身のペースで、このあまりに可愛らしく微笑ましい恋物語を書き進めてほしいものです。
 とはいえ、最新話ではミスミ神への想い募らせてアイさんに「アンタなんかこの人にふさわしくない!」といい放つ少女が登場、今後の波乱を思わせるラストで終わっているだけに新しいエピソードの公開を渇望してしまうのは事実なのだが……けれどアイさん、「たしかにー!」という台詞はアカンでしょ。そうしてさりげなくアイさん相手に壁ドンしているミスミさん。この回に限らずですけれど、この惚気ダダ漏れのカップルの表情、仕草のすべてが可愛らしいですよ。
 最後の余談ですが、いまなにげなく文字数を調べたら、Twitterからの引用があったからという要因はあっても『神絵師JKとOL腐女子』がぶっちぎっていた。なんというか……。まぁ、このマンガが大好きなのだから、仕方ありませんね。

 最後に、昨年読んだマンガのなかで続刊を楽しみにしている作品をご紹介して、本稿を終えるとします。
 1つは清原紘の『十角館の殺人』(講談社 アフタヌーンKC 既刊1巻)、もう1つはみやびあきのの『珈琲をしづかに』(講談社 モーニングKC 既刊1巻)であります。
 前者は、新本格の代表作にして金字塔、このジャンルの開祖、立役者となった綾辻行人のデビュー作、『十角館の殺人』の「コミックリメイク」です。原作者となる綾辻がコミカライズのツイートを投稿すると、たちまち「どうやってコミカライズするんだ?」、「あのトリックをどう表現するんだ?」と、割と短時間のうちにTLへあふれたことでわたくしも存在をしり、おっかなびっくり、『アフタヌーン』誌への初掲載号を銀座の書店で購入して、人目もはばからず仕事帰りの電車のなかでじっくり読み耽ったのですが、これは案外と期待できるぞ、あの一行を表現するための下準備が入念に終わっているならば、途中迷走したりトンデモ方向へ進んでゆくことはあるまい、と溜飲をさげたっけ。
 しかしながら、〈館〉シリーズの準主役というてよい江南孝明が女性に変更、名前も江南あきらとなったことには面喰らった。事前情報でわかっていたとはいえ、実際目にしてみるとさすがに「うーむ……」と戸惑いを隠せぬものであります。
 が、ただでさえ本土側に<華>がないことを考えれば、この変更は大いに歓迎すべきというべきかもしれません。それも踏まえての「コミックリメイク」なのでしょうから。好奇心の旺盛な島田潔と、サークル仲間が合宿先に選んだ角島にまつわる四重連続殺人事件を知ってにんまりしてしまうあきらくんの組み合わせは、『十角館の殺人』に新しい光を当てるものになるかもしれない。引き続き、『アフタヌーン』誌を購読、そうして第2巻の発売を鶴首したく思います。
 (ついでながら『アフタヌーン』誌では現在、青木U平[原作]=よしづきくみち[漫画]=藤島康介[協力]の『ああっ就活の女神さまっ』と、工業高校の合唱部を舞台にした木尾士目の『はしっこアンサンブル』が連載されていて、こちらも楽しみに読んでいます)
 もう1つの『珈琲をしづかに』は題名からご想像いただけるかと思いますが、喫茶店を主舞台にした作品で、喫茶店の女主人に一目惚れした男子高校生のお話。なんとなくわが身に覚えのあるシチュエーションで、当時を思い出させられること時々あって複雑な気分に陥るのですが、本作の女主人は現実の何某と異なって控えめで立ち居振る舞いの凜とした、しづかさんであります。
 コーヒーの知識も得られますよ、なんて類のマンガでは特になく、喫茶店のなかに流れる静かな時間に身を浸して男の子との淡い恋の行方と、女主人の影にあれこれ妄想を逞しくしつつも見守るようにして読めばよい。
 喫茶店を主舞台にしたお気に入りのマンガに、山川直人『コーヒーもう一杯』や『小さな喫茶店』、或いは小山愛子『ちろり』がありますが、この『珈琲をしづかに』もそれらに並ぶ作品となるか。どきどきしながら続刊を待ちます。
 ──それにしても、『ラブライブ!サンシャイン!!』の第4巻っていつ出るんでしょうねぇ。永野護でさえ(失礼)ここ数年は連載を休むことなく単行本作業を並行、ちゃんと新刊を出しているというのに……。◆


クトゥルフの呼び声 ラヴクラフト傑作集 (ビームコミックス)

クトゥルフの呼び声 ラヴクラフト傑作集 (ビームコミックス)

  • 作者: 田辺 剛
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: コミック



神絵師JKとOL腐女子(1) (ヒーローズコミックス)

神絵師JKとOL腐女子(1) (ヒーローズコミックス)

  • 作者: さと
  • 出版社/メーカー: ヒーローズ
  • 発売日: 2019/06/14
  • メディア: コミック



フラグタイム(1) (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

フラグタイム(1) (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

  • 作者: さと
  • 出版社/メーカー: 秋田書店
  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: コミック



十角館の殺人(1) (アフタヌーンKC)

十角館の殺人(1) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 綾辻 行人
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: コミック



十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

  • 作者: 綾辻 行人
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/10/16
  • メディア: 文庫



珈琲をしづかに(1) (モーニング KC)

珈琲をしづかに(1) (モーニング KC)

  • 作者: みやび あきの
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/10/23
  • メディア: コミック


コーヒーもう一杯 IV (ビームコミックス)

コーヒーもう一杯 IV (ビームコミックス)

  • 作者: 山川 直人
  • 出版社/メーカー: エンターブレイン
  • 発売日: 2008/03/24
  • メディア: コミック



珈琲色に夜は更けて シリーズ 小さな喫茶店 (ビームコミックス)

珈琲色に夜は更けて シリーズ 小さな喫茶店 (ビームコミックス)

  • 作者: 山川 直人
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/エンターブレイン
  • 発売日: 2016/06/25
  • メディア: コミック



ちろり 1 (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

ちろり 1 (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

  • 作者: 小山 愛子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2012/02/10
  • メディア: コミック



ラブライブ!サンシャイン!!(3) (電撃コミックスNEXT)

ラブライブ!サンシャイン!!(3) (電撃コミックスNEXT)

  • 作者: おだ まさる
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/03/24
  • メディア: コミック


第2835日目 〈平成31/令和元年、読んで良かった本10選。〉2/3 [日々の思い・独り言]

 1日の間を置いて、昨年読んで良かった本10選の後半とさせていただきます。分割したのは予定の分量を超過したせいもありますが、それにかこつけてどうやって紹介すれば良いのか考えこんでいたためでもありました。むしろ、後者の方がウェイトは大きいかな。前半で取り挙げた5冊にむりやり共通項を見出すとすれば、いわゆる<活字本>であることでしょう。
 現にわたくしの蔵書のおそらく3/4は、この活字本であります(パーセンテージは適当ですが)。活字本の紹介はいままでも行っておりましたので──原稿の出来映えや読者への訴求力はともかくとして──、それ自体になんの抵抗と申しますか、構えるところはないのです。
 が、たとえば<絵>や<写真>を主体とした本の場合、さて、どのように紹介や感想の文章を綴ってゆけばよいものか、はた、と考えこんでそのまま筆を放ってしまうのであります。じつは過去に何度か、書きかけたことはあるのですが、どれもこれも中途で放棄、「格納庫」フォルダに突っこんでそのまま忘却……。
 が、今回ばかりはそうもいっていられません。なぜならば、このたびここに取り挙げる<絵>を主体とした本──つまり、マンガであります──はいずれもわたくしが、昨年出会って握翫するものばかりだからであります。それでは、──

 山崎雫の『恋せよキモノ乙女』(新潮社 バンチコミックス 既刊5巻)を挙げましょう。第3巻が刊行されるにあたって作成された書店用見本を手にしたのが、この作品へ惚れこむきっかけとなりました。読んでいて、心が幸せになります。主人公の恋や転職を応援するばかりでなく、作品全体にゆっくりと流れている時間と、情緒の濃やかさに、いつの間にやら自分が満たされており、幸福を分けてもらっているような気分になるのです。
 どうでも宜しい余談ですが、わたくしは女性の着物姿に弱い男です。わたくしはそうして方言を喋る女性が好きな男です。方言についていえば、やはりわたくしを完璧なまでにノックアウトしてくれるのは、京都弁であります。東男に京女、とはむかしからの定番的組み合わせですが、いまでも連絡を取り合うことのある元カノが京都の老舗の娘であったことも、京都弁にしてやられる要因でありましょうね。良いよね、都の言葉、その裏に隠された感情には触れないとしても。
 とはいえ、本書の主人公、野々村ももは大阪の女性なのである。ここまで京都弁で引っ張ってきたのはなんなんだ、とお叱りを受けそうですが、ここは平にご寛恕願いたく。
 ももは祖母が遺してくれた着物を纏って、休日に街を散歩する。友どちと琵琶湖畔の白鬚神社へお出掛けする。姉に頼まれて大阪へ「森のおはぎ」を買いに行く。母と一緒に和歌山は和歌浦の叔母宅へ、馴れぬ車を運転する。京都市東山区の長楽館で、姉の結婚式に参列して最後にステキな写真を撮る。奈良にある着物屋さんへ転職したももちゃんは通い詰めたくなる喫茶店を見附ける。そうして、京都市中京区の六曜社珈琲店でやがて恋い慕うようになる男性と出会う。
 恋模様は一進一退、最新刊にて気持ちにけじめを付けて新たな世界へ一歩を踏み出した主人公は、とても凜として、居ずまいの綺麗な女性になりました。やはりなにごとかを決意してそれに邁進すると覚悟を固めた女性は、綺麗ですね。
 着物について知ることがなくても、まったく問題はない。その回ごとに纏う着物の感じがもものモノローグで綴られ、話が終わったあとにはコバヤシクミによる「キモノ事始め ◌月の装い」というコラムが用意されている。和装に関しては正直なところ、写真よりもイラストの方がよくわかるところがあります。『恋せよキモノ乙女』は着物に興味はあるけれど、いろいろ種類があったり、コーディネートが難しそうで一歩引けてしまっている女性がいたら、是非にも手にしていただきたい1冊でもあります。
 (前述の元カノ、実家は呉服商なのですが、その業界にいる人たちが「着物の着付けをちゃんと描いているマンガって、はじめて読んだ」なる讃辞を述べているあたりからも、絵の完成度や丁寧さというものが伝わってくるのではないか、と思います)

 次は、さかきしんの『大正の献立 るり子の愛情レシピ』(少年画報社 思い出食堂コミックス 既刊3巻)を挙げましょう。タイトルが示すとおり、大正時代の家庭料理にスポットをあてた作品です。これもたぶん、書店の平台に並んでいたのが気になって、たまたま用意されていた書店用見本がきっかけで買ったものではなかったかしら。
 「趣味は?」と訊かれて「料理と喫茶店めぐり」と答えるのですが、いわゆるグルメの蘊蓄が詰まったマンガは好きではない。家庭料理に焦点を絞った、自分好みのマンガってないものかな、と思うていた矢先に当時新刊であった第3巻に出喰わしたのだ、という覚えがあります。たしかそのときは第3巻だけしかなくて、方々の書店を回って他の巻を集めたのでした。
 資産家の次男坊で小説家な旦那(柳沢総次郎)と鎌倉生まれの料理上手な妻(柳沢るり子)を中心に、隣近所やそれぞれの家族との交流を、ほのぼのとしたタッチで描いてゆく……という粗筋めいたことはつまらないね、止めよう。夫婦の愛情と信頼をまったく厭味にならず、むしろ微笑ましく描かれ、舞台が大正時代と合って表立った表現はしていないが却って絆の強さが際立っているように、わたくしには読めます。
 るり子さんたちと同じぐらい本作の主役を張るのが、この時代のちょっとハイカラな一般家庭の食卓に上った、和洋中の料理の数々。るり子さんは、西洋料理のレシピ本を参考にしてハヤシライスを作ってみる。訪れた編集部の人たちを、鮭のバター焼きマイナイソース添えでもてなす。若くして逝った母との記憶のなかにある料理、例えばちらし寿司を再現する。他にも登場する料理は、サンドウィッチ、しめじの佃煮、筍と蕗のお味噌汁、スコッチエッグ、てまり鮨、ごま豆腐、ポークカツレツ、カニ玉、ワンタン、茶碗蒸し、鯛めし、おやき、フライドテッケン、等々……。
 で、これがじつに美味しそうに描かれているのです。『孤独のグルメ』や『深夜食堂』を指して深夜の飯テロと呼ばれますが、向こうはドラマだからまだ良いと思います。録画していない限り、放送時間帯が決まっていますから(Web配信やCS放送、再放送等を除く)。
 が、『大正の食堂』はマンガです。れっきとした書籍です。その気になればいつだって読めてしまう。つまり四六時中というもの、読者はいつ飯テロされるかわからぬわけです。その気になればすぐ調理へ取り掛かれてしまう家庭料理だけに、その懸念は常に付きまとう。いや、罪な作品であります。
 こっそり告白する必要はないと思いますが、わたくしはこれを献立に詰まったときに繙いて冷蔵庫の中身と相談しつつメニューを決める。じつに重宝しております。つい先日も、これを読んで牛鍋とキャベツの梅和えに決めました。作り方やその過程がしっかりと描かれているからこそ、はじめて作る料理でも問題ありません。
 いやぁ、ホント、レシピ本としては村上信夫『ニッポン人の西洋料理』(光文社知恵の森文庫)と大原照子『英国 家庭の食卓』(中公文庫ビジュアル版)、『NHKテキスト きょうの料理』(ビギナーズ含む)と並んでこの『大正の献立 るり子の愛情レシピ』は役立ってくれています。だから、というわけではないのですが、続きが気になって仕方なく、そうして早く新刊が出ないかな、と期待しているのであります。

 次は、水瀬マユの『むすんでひらいて』(マッグガーデン エデンコミックス 全8巻完結)を挙げましょう。マンガアプリで「GANMA!」というのがありますね。もうかれこれ読者になって5年目を迎えようとしていますが、このアプリの良いところは、毎日、ここでしか読めない連載マンガが幾つもあるところに加えて、既に各社から単行本で出ている作品が途中まで読める点であります。
 後者についていえば、『モンキーピーク』や『ReLIFE』、『中卒労働者から始める高校生活』、現在は『復讐教室』ですが、昨年のいつ頃だったか忘れてしまいましたが、『むすんでひらいて』が期間限定で、途中まで公開された。高校生たちが織り成すオムニバス形式のラブコメですが、ゆるやかにかれら彼女たちの物語が紡がれてゆく。絵がもう自分好みで、すっかり惚れてしまいました。
 作画もシナリオも、コマの取り方も、そうして作品を支配する独特の<間>も、なんだかすべてがツボで、本作の更新が楽しみでなりませんでした。頬を緩ませながら読む作品、ってそう滅多にないのですよね。そんな数少ない作品の1つであったからこそ、もうGANMA! で読めなくなったあとから、ブックオフやヤフオク! などで本作の全巻揃いを探しました。処分する人が少ないのか、なかなかこちらの要望に添う出物はありません。
 じつは本稿を書いているいまも全巻通しで読んだことはいちどもないのです。GANMA! 連載中に取ったスクリーンショットと、数日前に古本屋で買った第8巻(最終刊)があるだけ。が、間もなく全巻揃いの美品が来週中には到着する。そうしたら数日はじっくり、読書に耽ることでありましょう。楽しみでなりません。

 ──と、ここでわたくしは読者諸兄に謝らなくてはなりません。今回で終わりにする予定だった〈平成31/令和元年、読んで良かった本10選。〉ですが、あと2冊を残して筆を擱かなくてはならなくなったのです。その2冊もマンガです。あしたはそれのご紹介と合わせて、まだ第1巻しか出ていないけれど、今後も継続して追っ掛けようと思うている作品を箇条書きめくかもしれませんが、取り挙げてみようと考えています。◆


恋せよキモノ乙女 1 (BUNCH COMICS)

恋せよキモノ乙女 1 (BUNCH COMICS)

  • 作者: 山崎零
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/01/09
  • メディア: コミック



大正の献立 るり子の愛情レシピ (思い出食堂コミックス)

大正の献立 るり子の愛情レシピ (思い出食堂コミックス)

  • 作者: さかき しん
  • 出版社/メーカー: 少年画報社
  • 発売日: 2017/09/25
  • メディア: コミック



ニッポン人の西洋料理 (知恵の森文庫)

ニッポン人の西洋料理 (知恵の森文庫)

  • 作者: 村上 信夫
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2003/10/02
  • メディア: 文庫



英国家庭の食卓―朝食からアフタヌーンティまで (中公文庫ビジュアル版)

英国家庭の食卓―朝食からアフタヌーンティまで (中公文庫ビジュアル版)

  • 作者: 大原 照子
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1995/09
  • メディア: 文庫



NHKテキストきょうの料理 2020年 01 月号 [雑誌]

NHKテキストきょうの料理 2020年 01 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2019/12/21
  • メディア: 雑誌



NHKきょうの料理ビギナーズ 2020年 02 月号 [雑誌]

NHKきょうの料理ビギナーズ 2020年 02 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2020/01/21
  • メディア: 雑誌



むすんでひらいて (1)

むすんでひらいて (1)

  • 作者: 水瀬 マユ
  • 出版社/メーカー: マッグガーデン
  • 発売日: 2010/07/14
  • メディア: コミック


第2834日目 〈”クソ”というなら根拠を示せ。〉 [日々の思い・独り言]

 もう1つのSNSでのこと。読書が趣味で、自称「広範に読み漁り、作家の文章評には一家言を持つ」という人と語らっていた。取り挙げる作家はみな、日本人作家の作品で、ジャンルはミステリ、時代は現代物ばかりである。
 いちどなにかの拍子に、海外の作家や戦前の探偵小説家の作品は読まないのですか、と訊ねたことがある。そこに載せられているのは本の書影と、紹介はあっても裏表紙の粗筋や解説を摘まんでつなげたに過ぎぬ短文。それでも作品のセレクトには一貫した主張のようなものが感じられたので、こちらもちょっと楽しみにしつつかれの投稿を追っていたのだが、ふとした拍子に上述のような訊ねたきことが浮かんだので、ぶつけてみた次第。
 返事に曰く;読まないですよ、なにか読む意味のある作品がありますか、あったら教えてほしいです。文章が大時代的で、風俗も社会習慣も現代とはそぐわないし、登場人物の考え方が古くさくて辛気臭くって、読み通せる作品なんて両手の指使っても余りますよ。ボクには皆、クソに思えているのです。
 ──Amazonのレヴュー欄を読んでいる錯覚に陥りました。
 では、かれのいう「クソ」とはなにか。要するに、自分に合うものは可、合わぬは否、というところか。自ら感性の器を広げるのを怠った挙げ句の自白と、わたくしの目には映った。「愚か」と申しあげるつもりはない。それもまた1つの生き方である。但し、なんと淋しく、哀しい生き方であることか、とは思うけれど。
 むろん、かれが過去に浴びるほど国内外のクラシックスに触れて読み倒し、該博な知識とそれらへの理性的な「一家言」を持った上で、食傷気味となったそれらに三行半をつきつける気持ちで斯様にいうたのならば、こちらも深く首肯してかれの新しい投稿を心待ちにするところだが、そうではないのである。
 その後、かれとのやり取りや投稿を目にする度毎に、件の返事は別に自らの衒学や蓄積を戒めるための方便などではなく、本当に「そのまんま」の意味であったことを知ってしまった。なんと正直かつ肝の坐った人であることか。
 また別の機会に曰く;その作家については、あれも読んだ、これも読んだ、どれも駄目、文章がクソ。買って読むに値せず。お金をドブに棄てるようなもの。此奴の作品を出す出版社も出版社なら、喜んで受け容れるファンもファン。
 ──呆れてしまいました。悪口雑言をまき散らすのは、幼稚園に入る前のお子様方にもできること。文章を書く人なら誰でもご経験あり、ご存知と思うが、文章は人の感情を暴走させるのである。それに悪口というもの、単語を並べれば或る程度の形は整うから、いちばん簡単な「期待を裏切られた」、「自分とは肌が合わなかった」ことを表明する手段なのだ。いみじくも読書家であり、作家の文章評に一家言を持つ、と自称するならば、このあたりのことはわかっていて良さそうなものであるが、どうやらこちらの「期待は裏切られた」らしい。
 これを言外に申しあげたらその御仁、SNSでこちらへのネガティヴ・キャンペーンを図ったようで、知己の人がそれを知らせて運営に報告、さっそくアカウント凍結の憂き目に遭ったと聞く。
 しかし、そうなる前に是非にも貴方には、「クソ」の根拠を示していただきたかった。残念である。◆

第2833日目 〈平成31/令和元年、読んで良かった本10選。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 いや、けっして手抜きではないですよ。都度一生懸命書いています。質の高低はさておき、そのときそのときで全力投球……信じてください。
 とはいえ、第三者の目で見た場合、「手抜き」、「やっつけ仕事」、その場凌ぎ」等々揶揄の声があがること多々なのは、じゅうぶん承知のこと。そこに「ベストを尽くした」、「これ以上のものは現時点では書けそうもない」というフィルターをかけたら、満足できる一編はわずかに数えるほどでしかない。第一ね、そんなこというていたらアンタ、1年の過半が手抜きの原稿になっちゃいますよ。失笑を禁じ得ません。
 ──と、のっけからの弁解詭弁が一段落したところで、昨年読んで「ああ良かったな、これは処分せずにずっと持っていよう」と思う本、ベスト10であります。
 何年も前からこのテーマで書いてみたかったのが、いまになってようやく書き、お披露目するのは単に内々の事情に起因するとことで、敢えて公にする必要はないでしょう。これよりも優先して書きたいことが山積みだったため、後回しにしていたらいつの間にやら時機を逸していた、というだけのお話なのです。ね、つまらない話でしょう?
 ここで取り挙げるのは、あくまで「読んだ本」であって、「刊行された本」と限定はしません。新刊で出た本にそこまでのアタリを求めるのは酷というもの。読んだ本、とした方が、こちらも気が楽だ。但し、ここに「平成31/令和元年にはじめて読んだ本」と括りは設けよう。でないと、再読が半分を占める可能性は否めませんからね。そうして、順位は付けません。
 さて、それでは、始めましょう。幕間狂言ならぬ選書の発表を──

 まず、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一による『深夜の読書 ミステリの愉しみ』(創元推理文庫)を挙げましょう。
 小泉喜美子や青柳いづみ子などミステリ小説の実作者でない人のミステリ評論が、好きです。知的遊戯としてのミステリを純粋に、面白がって読み、時に騙されることを喜ぶ人たち──創作論からのアプローチに基本深入りしない人の書くそれは、このジャンルへの愛情と本音にあふれています。それを一流の文学者が試みると、単なる書評の域を超えた読み物となる。
 娯楽読み物としてのミステリ小説をこうまで自分の愉しみとしてのみ読み、奔放自在に思うところを露わにして述べた、品位と茶目を備えた文章を、寡聞にしてわたくしは存じ上げない。
 これからミステリ評論乃至書評を書く人は、必読必須の1冊。されどこれにタメを張ろうとかこれの上をゆこうと思わぬがよろし。なぜなら何気ない文章の背景には、途轍もなく膨大な知識や素養が横たわっているから。これを凌駕するできる才の持ち主が現れることは、もはや期待できまい。

 つぎは松本清張の、『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)を挙げましょう。これはほんとうに、愉しみのためにだけ、暇つぶしのためにだけ読んだ小説。けれど、圧倒されました。心を鷲摑みにされました。身震いしました。居ずまいを正しました。そうして、夢中になりました。読了後、新刊書店を中心に入手浮華なものは古本屋を回って、ずいぶんと買い集めた。とはいえ、読める量なんてたかがしれているから、加えて購書に割ける可処分所得を控えている状況のため、身震いして2ヶ月ばかり経つのに集めたのは、20冊とすこしでしかありません。
 わたくしはこの短編小説集を、秋の深まりゆく頃11日臥せっていた時分、寝つけぬ夜中に専ら読んだ。ちょうど1編を読み終える頃に睡魔が襲ってきて、分量的にちょうど良かった。
 学問に精進するもちょっとした躓きが主人公の運命を苦しいものとする作品が本書には多く、それらいずれにも共感を示したのだが、やはり表題作を屈指の1作と思うのです。涙が止まらぬのだ。己の過去を顧みて、主人公の運命に重ね合わせて、涙にむせんだのであります。もし自分に文学というものがなければ考古学の道に進んでいたかもしれない。それゆえか、いまも博物館めぐりを趣味の1つとするが、その興味をくすぐる好編も本書には収められている。学閥の陰湿さと冷酷さを描いて思いあたる節様々なのですが、それ以上に考古学の知識や大学関係者の心の機微を的確に描いた作者の才能と文才と構成力に脱帽であります。やはり松本清張は<本物>なのですね。
 (『西郷札』を[まだ]読んでいますが、こちらも共感共鳴する作品が幾つもある、傑作短編集の名に恥じぬ1冊。読了予定日不明ですが、そのときは感想文をお披露目したく思うております)

 続いて、丹羽宇一朗の『仕事と心の流儀』(講談社現代新書)と『人間の本性』(幻冬舎新書)を取り挙げます。伊藤忠商事の社長を務めた人の著書を、最近になってよく本屋さんで見掛けるようになりました。単にこれまで自分の意識の外にあっただけかもしれませんが。
 2月か3月、読売新聞朝刊に『仕事と心の流儀』の広告が載っていました。思うところがあったのでしょう、この本はすぐに買って読まなくっちゃ駄目だ。強迫観念みたいなものを覚えました。数日後、ようやく地元の新刊書店で購い、そのまま近くの喫茶店にこもって読み通したのですが、ちょうどその頃<働く>ことに息苦しさを感じていた頃でもあり(いま思えば既に肺癌や聴力のさらなる悪化、その兆候はあったのでしょうね)、自分のなかへ染み通るようにして書かれていることが入ってきました。
 いちばんガツン、と来たのは、「くれない症候群」からぬけだせ、という部分でした。まさに丹羽氏の本を読んでいる頃が、自分のスキルアップを目指して、本心からしたい業務に就きたく異同願いを出しては空しい結果になることが続いていました。当時の上司に対して含むところはまったくありませんが、何度も続くと自分のスキル不足、志望動機の弱さを棚にあげて、「本当にちゃんと先方に伝えてくれているのかな」と不信な思いを心中募らせていた。それがまさしく、「くれない症候群」であったわけです。
 本書の他の部分にありますが、自分の能力を決めるのは自分ではなく他人なのだ、ということをすっかり忘れていたのですね。金銭目当ての仕事ではなく、本心からいま目の前にある仕事を楽しもう、精通しよう、上司に意見できるぐらいになろう、そんな気持ちがなくてはサラリーマンのプロにはなれないのです。よし、心を入れ替えて、いま一度ここでがんばってゆこう、と心に決めた矢先……健康上の理由から、これまで務めたうちで最も愛着あり、ここで一生働いて終わりたい、と思える会社を辞めざるを得なくなったのでした。
 自分語りになってしまいました。退職したあと、単発的に派遣社員や倉庫での軽作業に就きましたが、どれも自分を完全燃焼できる仕事ではありませんでした。人間関係のねちこさに辟易して、うち何人かの顔や声が脳裏にちらつき嫌になって鬱になりますが、それでもそこで生きてゆかなくてはならない、と自分を奮い立たせるために、丹羽氏の本を読んで支えとしていたのです。それらからいっさい解放された秋以後は、それまでと同じ姿勢で読むことはなくなりました。当然のことだと思います。でも、ここに挙げた2冊は勿論、それ以外の氏の本も、恩書としてこれからも何度だって読み返し、生涯の糧とするであろうことは間違いありません。

 最後に、渡部昇一『財運はこうしてつかめ』(致知出版社)を挙げましょう。『私の財産告白』など著した本多静六を検証するに渡部昇一ほど貢献した人はいなかったように思うのですが、本書は如何に本多静六が有数のお金持ちになったか、博士の生涯を辿りながら渡部自身の経験を随所に交えて説いてゆきます。僭越ながらわたくしは数多ある渡部の著書のうちで、本書は最上の仕事の1つというて構わないと思う。
 本多静六が実践してわれらにも提唱する貯蓄方法として有名なのが、「四分の一天引き法」であります。会社勤めで得られる収入の1/4は問答無用で貯金して、残り3/4で万事生活することを断固として実行せよ、然らば財は築かれよう、築かれた財は投資にまわし、得た福はみなに分けよ、と本多博士はいう。
 これは既に渡部のみならず他の人も紹介する、本多流蓄財のキモですが、本書は、生涯を辿るという側面を持つだけあり、お金持ちになったがゆえの同僚からの妬みや投資のポイント、人付き合いの方法、家庭をたいせつにする心身からの態度など、広く博士の本を読んで血肉とした渡部が紹介する本多静六の人間像の、なんと賢く懐深く、愛情細やかで温かみある人か。
 本多静六という不世出の蓄財家、福万家の思想と生涯を説いてこのようにコンパクトかつprofitableな本は、いつでも手に入れられるよう流通されていて然るべきと思うのですが、なかなかそうはゆかぬ実情がなんとも歯がゆく感じます。

 以上、5冊を「読んで良かった本」として挙げました。
 残り5冊は後日とさせていただきます。◆


深夜の散歩 (ミステリの愉しみ) (創元推理文庫)

深夜の散歩 (ミステリの愉しみ) (創元推理文庫)

  • 作者: 福永 武彦
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2019/10/30
  • メディア: 文庫



深夜の散歩―ミステリの愉しみ (ハヤカワ文庫JA)

深夜の散歩―ミステリの愉しみ (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者: 福永 武彦
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1997/11
  • メディア: 文庫



或る「小倉日記」伝 傑作短編集1 (新潮文庫)

或る「小倉日記」伝 傑作短編集1 (新潮文庫)

  • 作者: 松本 清張
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1965/06/30
  • メディア: 文庫



仕事と心の流儀 (講談社現代新書)

仕事と心の流儀 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: Kindle版



人間の本性 (幻冬舎新書)

人間の本性 (幻冬舎新書)

  • 作者: 丹羽 宇一郎
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2019/05/30
  • メディア: 新書



財運はこうしてつかめ―明治の億万長者本多静六 開運と蓄財の秘術 (CHICHI SELECT)

財運はこうしてつかめ―明治の億万長者本多静六 開運と蓄財の秘術 (CHICHI SELECT)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 致知出版社
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 単行本



私の財産告白 (実業之日本社文庫)

私の財産告白 (実業之日本社文庫)

  • 作者: 本多 静六
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2013/05/15
  • メディア: 文庫



第2832日目2/2 〈やはり自分の考えは間違っていました。Twitter再開します。〉 [日々の思い・独り言]

 なにもいうことはありません。タイトル通りであります。
 アクセス数を見て、劇的な現象に驚きを隠せません。あの分析やアンケートはなんだったのか。
 よって本日2回目の投稿を以て、舌の根の乾かぬ本稿から、ブログ更新通知としてのTwitterを再開します。
 ああ、はずかしい。いやぁ、ほんと、ごめんなさい。◆

第2832日目1/2 〈封印している本。〉 [日々の思い・独り言]

 残念ながらわが書架に『ネクロノミコン』や『妖蛆の秘密』のような魔道書は並んでいない。
 架蔵していたら、もしかしたら世界征服を実現できるかもしれないが、払われる代償はあまりに大きすぎ、正直なところ、対価にまるで見合っていないと考える。ゆえに所持せぬが正解。封印されているだけの魔道書なんて、ただの場所塞ぎでしかないのだから。
 ではここでいう「封印されている本」とはなにか、といえば、答えは単純で、即ち読むのを避けて、視界に入れず、意識にも上さぬようにしている本を指して、これなむ「封印本」と呼ぶ。
 今度の日曜日、宅配業者が古本屋へ売却する本を引き取りに来る。それの準備を進めているが、今日はその作業と同時進行する形で、書棚の入れ替えも行った──そうして、嗚呼、ルードヴィヒ・プリン、わたくしは長らく封印していた本を、1冊に限らず何冊も目にして、あまつさえ手にしてぱらぱら目繰ってしまったのだ……。
 まぁ、冗談はさておき、秘めたる願望ゆえに敢えて久しく読むのを止めていた文庫を、書棚の一角に見出して、つい、ふらり、と手にしてしばし読み耽ってしまったのだ、というお話です。
 その封印本とはつまり、旅本なのだ。どこかへ行きたい、てふ治療不可に分類される病に罹って久しく、万一宝くじでも当たったら借金完済した後、あてどない旅に出て数日の孤独を愉しんでくるに相違ない。そんなわたくしが旅本を封印するのは、自重せよ、とわが身わが心にいい聞かせんがための荒療治(チト違うか。まぁ、よい)。
 内田百閒の『阿房列車』シリーズ、宮脇俊三の鉄道紀行、沢木耕太郎の『深夜特急』シリーズ。これが封印本だ。読んだら絶対、旅に出たくなる。お金が自由にならぬ現在ならば、別に読んだって構わないよね、というのは間違いだ。株や債権を売却してお金を作り、そのお金を軍資金に時刻表を眺め、新幹線や飛行機の行き先表示を見あげて、よし行くベ、と切符を買って飄然と故郷を去るに違いない。そんな未来が容易く想像できてしまうから、読むのを避けているのだ。
 ではいつ読むの、という話になると思うけれど、……答えは出せそうにない。1つだけ確実にいえるのは、通勤中に読むのがいちばん危険だな、ってことですか。やれやれ、であります。◆

第2831日目 〈ツイートの整理をしていたら、気が滅入りました。〉 [日々の思い・独り言]

 ブログ更新のお知らせだけでも消したくて、今日は時間あらば粛々と、Twitterの削除作業をしていました。税務署にいるときはiPhoneで、自宅にいるときはiPadで、ひたすら。
 Twitterの利用は2014年4月から。以来昨日まで5,000近くのツイートを、これまでわたくしは投稿していたそうだ。うわぁ、と声にならぬ悲鳴をあげて、天井睨みましたね。この先どれだけの時間を費やすことになるのかしらん、と。そのあと、いまやらなきゃずっとやらない、と腰をあげ、ひたすら削除作業に没頭し──。
 でもね、これだけの数があると、とっても面倒臭いことが1つだけ、生じるんです。なんだと思います?
 それはね、過去になればなるだけ、端末の動きが鈍くなって読みこみも遅くなる、ってことです。殊に2016年のツイートを読みこむのは本当に時間がかかり、削除のボタンを押下しても反応するまで数分。殆どこれ、フリーズに等しいですよ。イライラが募り、退屈しのぎも兼ねて机に積んだ本を流し読み。が、1冊終わろうとしても、未だ画面に新たな反応はみられず、更にイライラを募らせ、また誰に呟くともしれぬ愚痴を吐く。斯様なことありと雖も、閣下、事態に変化なし、とご報告致します。
 けっきょく、削除作業は明日以後に持ち越しとし、いちおう備忘として書けば、作業は2016年7月まで完了した。あと2年分、か。長いな。「ブログ更新通知をすべて消し終えるまで、まだまだ道は長いな」という意味で、長い、というのでは断じてない。「待ち時間が長いな」という意味だ。嗚呼!
 もうちょっとサクサクと進められれば、いいのだけれど……。待ち時間にMacを立ちあげてGoogle先生に、自分のツイートだけを表示させる方法はないか、訊いてみた。「ツイート」は勿論、「ツイートと返信」にはこれまで投稿したツイートのみでなく、誰かのツイートへリプライ、またリツイートや「いいね!」まで、なにかしらのリアクションをしたものが全部表示されてしまうから、時間も容量も喰って非常に障りがあるのです。ところで先生の検索結果だが、果たして有効な解決策は見出せなかった。無念であります。
 そうしてわたくしは、ふたたび粛々と削除作業を再開し、また固まったな、と思うていたらいきなりTLの表示に切り替わったり、或いはTwitterのアプリそのものが落ちたりする。もう、イヤや。
 されどブログ更新通知だけは、(2つの例外を残して)すべて抹消したい。というわけで、しばらくこのむくつけき作業は続くのでありました。◆

第2830日目 〈最後のTwitter〉 [日々の思い・独り言]

 表題の件、以下のようにお伝え致します。
 本日を以てブログ更新通知としてのTwitterは最後とさせていただきます。為、今後は本に関することを中心に、日常の他愛ないツイートが主となります。
 本ブログは約6年間にわたり、更新通知にTwitterを運用してまいりました。Twitter経由でお越しくださってそのまま固定読者になる方が、月を追うごとに増えてくる様子をアクセス解析等で確認するたび、単純なわたくしは歓喜し、より力を注いで原稿執筆に精を出すようになりました。
 が、読書関係のツイートを始めた昨年6月頃から、伸び悩みといいますか、Twitterから本ブログへ誘導されてくる方がめっきり減少してきたことに気が付きました。これはどういうことだろう? 理由は様々想定できましょう。
 が、考えるにいちばん大きな理由とは、かつてTwitterを経由してお越しくださっていた方々がそのまま固定読者となり、本ブログをブックマークしてくださったからではあるまいか。Twitterを見て更新されたことを知り、そのままsafariなりGoogle Chromeを開いてブックマークした本ブログを閲覧されている──そのままTwitterから飛んだ方が楽ちんであるのは確かです。この方法は手間がかかっている。されど他に「いちばんの理由」と呼ぶべきものが見当たらないのです。
 実際のところ、本稿を執筆すると決めた時点で、Twitterで新たに読者となってくださっている方々のうち、無作為に選び出した40人に不躾ながら事情をご説明の上、アンケートを取ってみました。選出の条件の1つは、直接わたくしと面識のない方。すべては限りなく事実に近い回答を得たいから。すると、うち7割強がツイートの有無にかかわらず、定期的に本ブログをチェックしてくださっていることが判明したのです。うれしかった〜!
 さて、斯様な回答結果が出たことで、わたくしはブログ更新通知にTwitterを使うことを止めることを決めました。役目は果たされたのです。むろん、これが永続的決定事項であるとお伝えするつもりはまったくありません。ただ、これを行うことで過日話題にした、「義理いいね!」を回避することができるのは、この決定の数少ないメリットとわたくしは考えます。
 前述の通り、ブログ更新通知としてのTwitterは本日が最後になりますが、他の話題でツイートすることは継続しますので、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。◆

第2829日目 〈あしたは、あしたは、〉 [日々の思い・独り言]

 あしたはちょっと遠出する。楽しみである。遠出の理由はさておき、楽しみなのは、目的地でのご飯と、電車のなかでの読書である。
 ご飯はなにを食べようか。そこは、北関東にあって最大の小麦生産地である。となれば、うどん、かな。物心ついた時分からさんざん食べてきたけれど、正直なところ、この地で食べるうどんがいちばん美味しい。
 コシとツヤ、もっちり感と噛み応え、チェーン店の比では勿論なく、地元にある個人経営のうどん屋でも、斯様なうどんを食したことが、自分はない。同じ地に育った小学校来の友人も、口を揃えてそういうてくれる。リップ・サービスでないことは、長年の付き合いからわかること。
 釜揚げされたうどんと、薄めのツユに使われるは地元で醸造された、由緒ある醤油。そこに小口切りにされた青ネギ。なんの変哲もないけれど、何度でも食べたくなるわがソウルフードの1つなのだ。
 ナマズの天ぷら、鯉こく、ウナギ、それらも子供の頃から当たり前のように、食べてきた。あしたはそれらを食べる時間が、あるのかな。
 そうして読書。それなりに長い時間、電車に乗るから、おそらく太宰治『津軽通信』は読了できそう。これまで本書所収の「短篇集」、「黄村先生」シリーズの全編を読み得たけれど、表題の「津軽通信」はまだ途中だ。行きの電車では難しいけれど、帰りの電車のなかでたぶん、乗換駅へ着く前には読み終えられそう。
 でも、そこから先、自宅最寄り駅までの電車では、なにを読もう。候補はある。読みかけの松本清張『西郷札』(新潮文庫)と、東川篤哉『謎解きはディナーのあとで 3』(小学館文庫)。或いは年末に購入して、早くも再読となっている水野敬三郎『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(岩波ジュニア新書)か。
 すこぶる悩ましい問題だ。今夜一晩、じっくり考えよう。むろん、寝不足にならない程度に。考えすぎて寝られないようなら、炬燵に入って録り溜めたドキュメンタリーかアニメを観て、欠伸の絨緞爆撃が始まるまで過ごしていよう。◆

第2828日目 〈荷物を可視化した上で、部屋を片附ける。〉 [日々の思い・独り言]

 部屋を片附けていて気が付いたのは、自分の持ち物をいったんすべて、可視化することがいちばん大事だ、ということ。可視化、という言葉には誤解があるかもしれない。片附けの場面で「可視化」は「持ち物をその場に広げてみる」ことを指すようだが、わたくしがいう「可視化」はちょっと異なる。
 本、本、本。紙、紙、紙。ゴミ、ゴミ、ゴミ。これらを一堂に会して可視化するのは、なんと恐ろしく、やる前から意気消沈することであろう。第一、そんなに広いスペースがあったら、片附けに大騒ぎする必要なんて、ない。あきらかな不要品だけ、燃えるゴミの日か資源ゴミの日に、えっちらおっちら出しに行けば済む話だ。
 その場にいったん広げろ、というのではなく、山の向こうに眠る荷物がなんなのか、その山を切り崩して自分の目で確かめろ、そうしてそれを撮影するか記憶するかして、「どこになにがあるか」把握できるようにしろ。それが、わたくしのいう「可視化」だ。広げられるに越したことはないけれど、ね。
 昨年の夏から、Twitterの読書家たちの投稿に触発されて始めた部屋の片附けは、現在は静穏を保っている。小規模なレヴェルでの片附けは、常に進行しているが、それとて今度古本屋に処分する本の選別が精々だ。
 ちかぢか大きな規模で片附け(と本の処分)を始める。いまは隠れたる荷物を収めた写真を机に広げて、頬杖ついて唸り声をあげているところだ。部屋に何竿かある書架を見やって、溜め息を吐いているところでもある。既にキャパシティは越えている。どこにどうやって収めればイインジャイ、と心中叫びながら、どうにかしようともがいている、いま。
 いずれにせよ、ダンボール箱6箱分ぐらいの本を処分しないといけない。では、どの本を手放すか。逡巡した末に国産ミステリの過半を古本屋へ引き取っていただくと決めた。部屋のあちこちに積まれた箱がそのまま、宅配業者が運び出す箱になるのだから、まぁ、或る意味で楽ちんだな。むろん、事はそう簡単でなく、いちおう開梱して売る気のない本がそこに入っていないことを確認しなくてならないが。
 足もお金も時間も使ったことで、加えて長年の猟書の勘もあって、めずらしい本も相応に含まれたコレクション(響きが良いね。実態は単なる集積物だが)になっている自負はある。売却先もブックオフのように本のことを知らない業者ではないので、価値は評価していただけると信じているが、こちらの期待する買取値を大幅に下回る覚悟はできている。手放す気なぞ毛頭ない本だけれど、うむ、仕方ない。
 国産ミステリ以外にも、どの本を売り払うか、選別はできつつある。とまれ、部屋の有効床面積が増え、書架の棚も結構なスペースが生じる計算だ。断腸の思いといえばその通り、が、それ以上に安堵の気持ちが強いのは、なんともいえず不思議。そうか、これが終活、って奴か。成る程、成る程。
 売る、と決めた本はさっさと書架から退かす。『ONE PIECE』はその一つ。ジャンプ・コミックスで既刊全巻を持っているが、実は『ジャンプ』と同じ判型のLOG派(総集編、といわれている)なのだ。
 そんな次第で今回、<令和のお部屋掃除>第2年目の先陣を切る今回の売却の本当の主役は、国産ミステリなどではなく、『ONE PIECE』である。既刊全95巻を退かしてみて、新書サイズながらさすがに95巻となると、相当な幅を喰っていたんだな、としみじみ思う。とはいえ、LOGが未刊のエピソードのコミックスは残しておきたいので、それだけこっそり取り除ける。
 国産ミステリと『ONE PIECE』その他諸々がこれまで占めていた場所には、眠っていた本や資料が──それらは殆どすべてが、このたび可視化されたものである──収納されることになる。然る後、さらなる蔵書の処分が行われ……都度、その様子が写真に収められて、「どこになにがあるか」把握するための原資料となる。ちょっと捜して「ないなぁ」となったら、その写真に立ち帰って、そも架蔵しているのか、調べるのだ。
 可視化とは自分の持ち物を把握するのみならず、整理するための方策であり、所在を知る手段であり、捜索時間を短縮化する方途なのだ。◆

第2827日目 〈Sunny Day Live.〉 [日々の思い・独り言]

 昨日は予告なしでお休みいただくことになり、まことに相済みませんでした。理由を述べよ、と凄まれたらわたくしもおっかないので答弁する準備はありますが、必要ですか? 詭弁ハ好キジャナイノダ、勘弁シテクレタモレ。
 いや、生活基盤をたてなおす諸々の面談や書類作成等に追われて、ブログのことは気になりながらも原稿執筆の力が尽きた。床に潜りこんで、雀の鳴き声で起きるまで、トイレで目が覚めることもなかった。そうして今日というか昨日は田舎にある市役所へ、別件でお出掛けし……。早くこのようなことが終わってくれることを、願っています。Sunny Day Song……μ’sの歌声が、今日はとってもうわすべりして流れてゆく。
 そうして今日もこのような為体。雪が降るらし、てふ首都圏にいま、強風が街中を吹き通ってゆき、先程から窓を叩く怪しげな音もなにやら高くなってきた。明日からはこれまでのように、時に典雅に、時に猥雑に、自分の周囲のあらゆることを、考えたり思うたりするあらゆることを、吟味して文字に移して、ここにお披露目してゆく。
 あと1日だけ待っていてね、モナミ。◆

第2826日目 〈影の人生を努力にささげる人たち;ジャニーズのタレントたち。〉 [日々の思い・独り言]

 小山田いく『すくらっぷブック』の第何話かで、主人公のクラスが文化祭に向けて映画撮影を行うことになった。脚本を書くのはいちばん文学に親しんでいる主人公なのだが、どうにもキャラクターが動いてくれなくて途方に暮れてしまう。そこにクラスの知恵袋役、学級委員長が助言をすることで、主人公の悩みは解決して良い脚本ができあがり……という流れなのだが、そのとき委員長が伝えた一言は、こういうものであった。曰く、「影の暮らしが描けていないからじゃない?」と。
 フィクションに登場する数多のキャラクターにも、生まれてから死ぬまでの人生がある。さまざまな人生経験があるのだ。われらが物語で親しむのは、かれらの長い人生のほんのわずかな時間に過ぎない。物語が始まる前と終わったあとの人生があることを端的であっても覗わせること、それがキャラクター作りには必要なんじゃない? そこへ思いが至っていなかったから動きもせず薄っぺらくなってしまうんじゃない? と、かの委員長はいうのだ。
 これはなにもフィクションに於いてのみ適用される話ではない。現実の世界であっても事は同じである。あなたのまわりにいる人々の、ゆりかごから墓場までの人生に思い巡らせたことがどれだけありますか。曲がる角を間違えて、袋小路に迷いこんでしまった人もあるだろう。おしゃぶりをくわえているときから順風満帆、なにも努力も苦労も経験することなく死んでゆく人が、果たしてこの世にどれだけあるだろう。
 人は見る側のなかでのみ生きるに非ず。タレントなどその最たるものでないか。われらはテレヴィに映るその光景でしか、かれらを知らない。インタヴューで語られる声でしか、かれらの内面を知ることはない。ジャニーズ。かれら程実際と虚像が乖離しているタレントも、そういないように思う。
 昨年のクリスマスの頃から今日まで、自分の能力不足を痛感する出来事が続いた。自分ではそれなりに分析や研究などして、その場に臨んでいるつもりなのだが、現実はいつだって空振り、空回り。溜め息が出てしまう。こちらのことは棚にあげて、相手の見る目のなさを心中罵る。事実に目を向けることなく誹謗する連衆に呪詛の言葉を投げつける。でも、勿論自分に敗因、失態の原因があるのはわかっている(最後の一点以外は)。自分を客観的に観察したり、目標を実現させるための努力を怠っているのだ。
 そうして、もういちど、ジャニーズ。<影の努力>というものについて考えるに、この集団のそれは見習うに値する。
 きっかけは、今年のマックの顔を木村拓哉が務めるというニュース(マックというたかておいらが愛用するパソコンやあらへんで。りんごのMacやなくてマクドナルドや)。撮影中に見せた木村の「役者魂」をLINEニュースが伝えている。曰く、「ちょいマック登場「迷う」篇の撮影で、ちょいマックを買いに行くシーンでは、テーブル席で立ち上がる場面のみの撮影であったにもかかわらず、木村はそのまま店舗カウンターまで足早に歩き、「すみません!」と演技を継続。カメラに映らない場所でもワンシーンを演じ切る役者魂でスタジオの空気を盛り上げた」と。また、共演者に「ちょいマック」の発音を指導する場面が、「言い訳編」のメイキングで見ることができる。
 努力の話ではないが、一つ事を中途半端にすることなく完遂するという意味では、相通じる部分はあろう。まぁ、ただたんにわたくしが書きたかっただけのことだが、うむ、それはともかく。
 撮影現場に台本を持ちこんだことがないとか、カメラの回っていないところでもずっと投げ輪の練習をしていたとか、バラエティの収録のわずか30分弱の休憩中にドラマの長台詞を覚えて撮影ではNGを出さなかったとか、もうあなたの努力エピソードはどれだけあるのか、というぐらい枚挙に暇がない。
 むろん、木村拓哉に止まらない。V6の岡田准一や井ノ原快彦、TOKIOの国分太一、嵐の櫻井翔、NEWSの手越祐也、そうして戦友というべき中居正広……というよりも、影の努力を惜しまぬジャニーズが存在するのか、疑問である。
 岡田はデビューしてまだ仕事が少ない頃、毎日映画3本鑑賞・本1冊読破を己に課して、長く実行していたという。映画については仕事が終わったあとTSUTAYAであろうか、ゲオであるか、それとも他であろうか、映画を3本借りて観続けるうちに自ずと自分の血となり肉となった。肉体鍛錬もその頃から始めていたようで、成果は『SP』に結実し、昨年の『V6の愛なんだ2019』では都内の高校のアクション映画のために背筋も震えるような熱血指導を施した。
 池上彰は著書のなかで、国分と井ノ原のコミュニケーション・スキルのずば抜けて優れていることを挙げているが、その背景にあるのは番組資料や共演者に関する資料の読みこみにとどまらず、アンテナを周囲に張り巡らせ、新聞を中心とする各種媒体で世の中の動向をチェックする不断の努力である。櫻井については連合三田会の集まりで、会う人ごとに自分から話しかけて、相手から必ずなにかを持ち帰る様子であった、と仄聞する。
 そうして、わたくしがいちばん手本にしたいと思うのが、中居正広だ。「中居ノート」に代表される努力家エピソードを、木村に劣らず豊富に持つ人である。おそらくジャニーズの努力家といわれてかれを挙げる人は、圧倒的に多いように思う。冒頭でわたくしが書いた、自分の能力不足が引き起こした敗北と反省、改善をもうすこし具体的に、多少なりとも恥ずかしさはあるけれど、その告白と絡めて本稿中居正広編をお披露目することを約して、筆を擱かせていただきます。もう寝ないと明日がヤバいのだ。従って本当に久しぶりに、堂々とこの言葉を書きつけることができる。即ち、to be continued.◆

第2825日目 〈ルビについて。〉 [日々の思い・独り言]

 昨夜は就眠前の読書に松本清張「梟示抄」を、寝落ちするまで読んだ。今日は病院と調剤局の待合で、太宰治『津軽通信』中の「黄村先生言行録」他を。
 「梟示抄」は西南戦争の遠き発端、征韓論者であった江藤新平の挙兵から処刑までを記録文書風に書いた、清張の冷徹なる眼差しとその裏に歴史の敗者への共感とを感じさせる佳品だ。太宰の方は、戦時中に文壇の閉塞的かつ軍国主義讃美なるを嘆じて無聊を慰めるかの如く綴った、とぼけた小品である。
 両者ともに実におもしろく、読んでいるうちは視線が上っ面を舐めないように、ページを繰る手が急くのを抑えるように、注意すること幾度であったか。が、その際に一つだけ、ちかごろ頓に思うことを、改めて慨嘆したことである。つまり、振り仮名つけようぜ、と。
 歴史的事項であれば、或いは一般名詞であれば、調べれば事足りる。気にかかっても調べることせず、漫然と読み進め、また前に進むこと=読了だけを目的とするなら曖昧に済ませてしまうだろうけれど、まぁ気になる人は調べれば容易に正解へ辿り着く。或いは字面からなんとなく意味を類推して、言葉は悪いが当てずっぽうに読んでしまうことだって、できる。
 が、それが頻出する場合は? その著者独特の読み方、当て字をしている場合は? 一般名詞でなく固有名詞、殊に人名地名の類は頭を悩ませること必至なのでは?
 というわけで、わたくしが書き手と版元に嘆願したいのは、せめて固有名詞だけでもフルで振り仮名振ってくれ、ということ。歴史に材を取った一昔前の作家たちの小説、何だ彼だで漢文の素養ある人が多かったので、前フリ無しに、さも当たり前のように、万民共通の教養であることを前提に漢語が繰り出されてくる。或る程度まではこちらもわかるが、ちょっと足を踏み入れるともうお手上げだ。そうして気に掛かる人は漢和辞典や故事成語事典を総動員することになる。その煩を避けて読書に没入できる時間を増やすためにも、要所要所に振り仮名を振るのは必要だと思うのである。
 近代文学では総ルビの小説あることもめずらしくなく、それは読者層によって対処が異なるそうだが、いま花袋や漱石の復刻本など検めてみてもわずらわしい程にルビが踊っており、そのおかげで読書を中断することなく、一方で「この固有名詞はこう読むのか」と新たに知ることができて、非常に便が良い。それに齢を重ねれば重ねるにつれ、ルビのありがたさがわかってくる。つまり、それは読む意欲を湧きあがらせるのだ。ルビは誇るべき文化である。
 総ルビの復活は難しくとも、もうちょっと今日の出版物にはルビの頻度が増えても良いように思うのだが……。
 周囲の読書人から無作為にサンプルを選んで、この件については今一歩踏みこんで考察する機会を持とう。◆

第2824日目 〈渡部昇一の露伴受容 付記〉 [日々の思い・独り言]

 2年程前から渡部昇一が『努力論』に触れた箇所へ接するたび、氏が露伴をどう読み、自著のなかで語ってきたか、まとめてみたいと思うていました。それを今回、2回分載でお披露目に至ったのは、ひとえに年来の知己であるC・Tが掌でわたくしをうまく転がした結果であります。
 場所を地下の穴蔵から4階建てビルの一室へ移しての語りおろしは、はじめての出来事ゆえにずいぶんと緊張し、また喉の渇くのが早い経験でありました。終わったときにはじっとりと汗がにじんでいた程です。
 当初は文字に起こしてどの程度の分量を口述できるか不安でしたが、終わってみればいつもよりちょっとだけ多い文字数であったのは、正直なところ意外でした。だってね、プロの、売れっ子の物書きでもない普通の人間が、どうして口述筆記なんて経験しましょうか。
 持ちこんだ参考文献は全部で12冊。これを口述現地まで運ぶのは難儀なこと、また運転免許を持っていないことも手伝って、自宅まで相手に送迎してもらいました。贅沢ですか、そうですね。が、やはりそれらがないとなにも始まりませんから、敢えてそれは、必要にして切実なる贅沢であった、と弁解しておきましょう。
 口述も朱入れも終わってお披露目したあと、脱力感に見舞われました。なんだかもう今月はこれ以上なにも書かなくていいや、というぐらいに、精も根も尽きたように感じています。すくなくとも渡部昇一についても幸田露伴についても、いまはもうなにも語るべき材料も思い入れも自分のなかには残っていません。そう考えると、まだじゅうぶん井戸に水は溜まっていなかったことを実感しますが、また渡部昇一に関しては数ヶ月後、露伴に関しては数年後に、なにかしらの語るべき材料を見附けて組み立ててお披露目できるようになるのではないかな、と思うております。
 かねてより書くことを強く望んでいたテーマを、今回口述という方法で実現させてくれたC・Tに心よりの感謝をささげます。どうもありがとう。手土産にした竹むらの揚げまんじゅうは君、美味しかっただろう? つぎはくず餅だね。
 最後に貧弱ながら参考とした文献を列記して、筆を擱くといたします。

渡部昇一
読書有朋 大修館書店 1981年2月 谷沢永一との対談
随筆家列伝 文藝春秋 1989年4月
幸田露伴『努力論』を読む 人生、報われる生き方 三笠書房 1997年11月
読書有訓 私を育てた古今の名著 致知出版社 1999年10月
幸田露伴『修省論』を読む 得する生き方 損する生き方 三笠書房 1999年1月
幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法 致知出版社 2002年10月
読書こそが人生をひらく 「小」にして学び、「壮」にして学ぶ モラロジー研究所 2010年9月 中山理との対談

幸田露伴
露伴全集第27巻 評論4 『努力論』 岩波書店 1979年6月 後記:蝸牛会
露伴全集第28巻 評論5 『修省論』 岩波書店 1979年6月 後記:蝸牛会
『努力論』 岩波文庫 2001年7月改版 解説:中野孝次
『努力論』 角川ソフィア文庫 2019年7月 解説:山口謠司

井波律子・井上章一共編
幸田露伴の世界 思文閣出版 2009年1月 鈴木貞美「『努力論』とその時代」◆

第2823日目 〈渡部昇一の露伴受容 2/2〉 [日々の思い・独り言]

 かなうならば、渡部昇一の露伴論をまとまった形で読んでみたかったですね。『努力論』や『修省論』以外では露伴のなにを読み、なにを考えたのか。それをエッセイにしていただきたかった。『わが書物愛的伝記』(広瀬書院 2012/4)という本の後ろに著作目録があるのですが、それにざっと目を通してみても露伴にかかる著作はあまりなく、架蔵する渡部の著書を閲してみても先の2書以外に触れたところは皆無に等しい。交流のあった方々の文章を読んでみても、渡部昇一は露伴の『努力論』と『修省論』は実によく読んでいた様子だが、その他の露伴の本ではどのようなものを読んでいたのか、記したものは目に入ってこない。残念です。渡部の露伴論は生田先生の幻の荷風論と同様、読んでみたかった著作の1つです。
 わたくしが架蔵する渡部の著書は氷山の一角に過ぎず、勿論、未架蔵未読のなかに露伴について語ったものは随分あることと想像されます。が、渡部昇一は、まぁあれだけの数の著書を生涯に遺したのだから仕方ない部分はあるけれど、いちどどこかで語ったことを他の本でも繰り返すことが特徴の1つであります。佐藤順太先生のエピソードなど、果たして何回読んだことか。それが手を変えず品を変えずなのだから、「ああ、またこの話題か」とその箇所はさっと目を通すばかりとなるのですが、こういうときだけはその弊害がこちらに益するところとなる。つまり、他でどれだけ語られていようと、主旨や紹介されるエピソード、表現や比喩に至るまでさしたる変化はない。手厳しいようかもしれませんが、渡部の著書を或る程度の数読んでいれば自ずと感じられることであります。
 では、渡部昇一が初めて露伴の『努力論』に触れて語ったものは、なんという本に於いてであったのか。架蔵する範囲で確認できたのは、1981年2月に大修館書店から刊行された『読書有朋』が最初でした。生涯の盟友となる書誌学者、谷沢永一との対談で、1979年11月刊『読書連弾』に続く第2弾。このあと谷沢と組んだ対談本は陸続と刊行されて、それが渡部の頑健極まる知的生産を支える柱の1つであったことは否むことのできない事実。谷沢永一の存在あらずんば渡部昇一の著述活動は早くに涸れていたであろうと、わたくしは思うております。
 それはさておき、『読書有朋』の始めの章、「この人のこの一冊 新『青年に読ましたき本』」の2冊目に渡部が取り挙げたのが『努力論』でした。この前に谷沢が肥田皓三、浦西和彦と組んで完成させた岩波書店『露伴全集』別巻の拾遺上下、附録計3巻という尋常でない仕事を達成させたのを寿いで(?)、谷沢の口から刊行に至る裏話が語られての流れで、『努力論』がここで紹介されたのです。巻なかばの口絵には渡部蔵と思われる『努力論』と『修省論』の書影が載る。
 渡部は、こういうています。曰く、露伴が『努力論』のようなものを書いたのは残念だ、小説だけを書いてくれればよかったのに、という人があるけれど、なんにもわかっちゃいないですね、露伴があれを書いたから意味があったんであって、あれを読んで評価できない人ってたいがいエリートコースに乗った人たちばかりなんですよ、苦労したことがなかったんでしょうね、と。
 これは裏を返せば『努力論』を夢中になって読んだ人たちは、決して経済的にも学歴的にも恵まれているとはいい難い、でも向学心があったり、立身や人間関係になにか恃むところがあった人たちだったのだろう、ということができますね。時代は異なれどもサミュエル・スマイルズ著中村正直訳『西国立志編』や本多静六『私の財産告白』の読者層とかぶるところが多いのではないか、とわたくしは思います。渡部も奨学金頼みで生きていた大学時代、やはり苦労して身を立てた恩師から奨められて読んだ『努力論』と『修省論』だったので、そうした人たちに共感共鳴する部分多々あったのでしょう。
 『努力論』を読みたいな、と思うたのは、もしかするとこのときが初めてであったかもしれない。行動はしませんでしたが、それゆえに当時、岩波文庫が『努力論』を新刊書店に置いていたか知らないのです。対談当時は品切れであった様子ですが、それから10年を経過してわたくしが『読書有朋』を立ち読みしてその後ほどなくして行き付けの古本屋にて2冊セットで購入するまでの間に、復刊フェアなどで一時的に並ぶことはあったかもしれませんが、すくなくとも東京・神田神保町・新宿・池袋・横浜の岩波文庫を扱う新刊書店で『努力論』を見た記憶がありません。だから、神保町の川村書店にて古本で購入したのですよ。
 知る限りで、渡部昇一が幸田露伴並びに『努力論』について触れたのは、『読書有朋』が最初のようです。そうしてこれが契機となったのか、『諸君!』(文藝春秋)1986年1月号から1989年1月号に連載した「随筆家列伝」で露伴を取り挙げた際、この『努力論』を全面的にフィーチャーしました。
 実はこの本、どうしたわけか古書市場に出回ることもネット・オークションに出品されることも稀なようで、捜し歩いて捜し歩いて足を棒にすれども見附からぬ、ちょっとしたキキメの如き1冊と化していました。勿論、わたくしの知らないところで販売されていたでしょうが、それをいい始めたらキリがありません。これまで何度か市立図書館で借りて読んでいましたが、内容は朧にしか覚えていない。このたび、ようやっと帯附きの良品を入手できたので、1日1章、4日かけてじっくりと精読しました。本書で「随筆家」とは「随筆も書いた人」という括り。取り挙げられたのは佐々木邦、三宅雪嶺、八並則吉、幸田露伴であります。
 露伴の漢学の知識、『論語』理解や『水滸伝』翻訳、俳句など、様々な視点から露伴という巨像にアプローチして、紹介解説を施したものですが、わたくしはこれを露伴について書かれたエッセイのなかでも第一等に属する1編と思うております。露伴の『努力論』を読む前に渡部のこの章を1度でも読んでおけば、文章に苦労させられることはあっても内容がチンプンカンプンという惨事に見舞われることはないと思うてもいます。
 とまれ、露伴について書かれたこの章だけじっくりと読んでおれば、渡部昇一の露伴受容、露伴理解、露伴論は、概ね事足りると断言します。実際のところ、これを読んだあとに先程の『読書有朋』を含めて、露伴について書いた文章を検めてみましたが、いずれも大同小異、新しい材料を搬入して書かれたものは1つもない。10年1日というが、まさにその状態であります。専門家でないのですから当たり前だ、というて構わぬのでしょうが、なんだか淋しさを感じるのは事実なのでした。
 さて、とはいえ、『随筆家列伝』刊行から8年後。渡部昇一は『努力論』の編述を試みました。『幸田露伴『努力論』を読む 人生、報われる生き方』がそれです。1997年11月に三笠書房から刊行されています。既に露伴独特の文章表現や、繰り出される漢語・典拠等の不明から読者離れを起こしている『努力論』の現代語訳を試み、かというてそれは所謂逐語訳ではなく、むろん超訳なんて代物でもなく、「露伴の観察や意見をよく浮き立たせるように」(P7)して成った、いわば、「エッセンシャル・オブ・『努力論』 プレゼンテッド・バイ・渡部昇一」という1冊であります。
 村上春樹流にいえば、原典の持つアロマを損なうことなく移し替えた、となりましょうか。とまれ、『幸田露伴『努力論』を読む 人生、報われる生き方』は、なにやらAmazonの素人書評を読むと感情まじりの文章で罵倒する人のあるのが目に付きますが、そんな愚見に惑わされることなくご自身で判断されることを強くお奨めします。1度読んだだけでわからなければ2度、せめて3度ぐらいは読み直した上で、罵倒するならされればよろしい。元々『努力論』が一読即理解咀嚼できるものではありませんし、そもこうした類の本は何度も読み返して自分の滋養にする性質のものですから、1度読むだけで済まそうなど呆れた所業としか言い様がありません。むろん、向き不向きがありますから向かぬと思うた方はさっさと売り払って、それを読みたいと想うている人へと還元する最後のお務めを果たしてもらいたいものであります。
 また話が横道にそれましたね。幸田露伴の人生論で『努力論』と並ぶ著作に、『修省論』があります。こちらは『努力論』と違って文庫で読むことは残念ながらかないません。全集の第28巻を図書館で読むか借りるか、全集をいっそのこと思い切ってどん、と買うてしまうかしないと手許には置けぬが無念でありますが、じつは渡部昇一は『幸田露伴『努力論』を読む』の2年後、1999年1月に同じ三笠書房から、『幸田露伴『修省論』を読む 得する生き方 損する生き方』という本を出しています。編述のスタンスは『努力論』のときと一緒。こちらもいまはわたくしの書架にあって折りに付け読み返している1冊であります。この2冊は是非にもセットでお読みいただくのが良いと思います。
 心寒くなる疑問ですが、もし渡部昇一が『努力論』を読んでいなかったら、読んでも感銘受けることがなかったら、そうして『努力論』について人と話したり学生に奨めたり、或いは書くことがなかったなら、果たして『努力論』は現在と同じように読まれていたでありましょうか。仮に読まれていたとしても、アランの『幸福論』がもてはやされた時期に便乗してプッシュされていたか、或いは(これは現実にいまでも存在しているものですが)「超訳」シリーズの1冊に組みこまれてそれきりになっていたのではないでしょうか。すくなくとも、いまのように〈古典〉の地位を獲得して、永続的に読まれる環境は整えられていなかったのでは?
 渡部昇一あることでいま、『努力論』が読まれる素地は作られているのだ、とわたくしは考えています。渡部は、『努力論』中興の祖、というてよいのかもしれません。◆

第2822日目 〈吉岡葉月『聖なる淫女』改訂版への序文〉 [日々の思い・独り言]

 吉岡葉月『聖なる淫女』を生原稿の状態で読んだとき、わたくしはとっさにルイ・アラゴンの『イレーヌのおまんこ』を思い出した。冒頭から読者の頭を混乱させるかのような文章は、秘めたるエロスの極みに読者を、しかも選ばれたる読者を導かんとする一種の手段に他ならない。これは即ち、好色を愛するのではなく、エロティシズムを熱愛する数少ない本物の愛好家にのみ、ながく慈しまれる作品を世に送り出さんとする作者の意気込みに裏打ちされたものといえる。
 この『聖なる淫女』もそうした作者の意気込みによって生まれた、この分野の小さな佳品である。序に書くと、『聖なる淫女』は作者が大学在学中に講義の暇つぶしに書いた願望を基に発展させて執筆された、小説に於ける彼女の処女作であり、これまで4作の小説を発表した吉岡葉月のエロティック文学の原点といえる作品だ。
 著者の前作──あのめくるめく性の法悦と堕落の宴の果てに実現した三位一体の物語、『アイヒェンドルフ館綺譚』をお読みになった幸運なる読者のなかには、『聖なる淫女』の倒錯した一人称にアイヒェンドルフ館に永く仕える狂えるメイド、リンガルフの声を聞くかもしれない。また、最近作である『ヴィスペランテの灯し火』の第4章に於ける黙示的世界は、『聖なる淫女』の濃密かつ哲学的な乱交場面をさらに崇高な次元にまで高めた、殆ど唯一無二の力業である。
 このたび、諸般の事情により活動を停止していた書肆、Le Con’d Reneがふたたび、なんと15年ぶりにこの分野の出版を始める。活動再開に伴い幾つかの旧刊を復刊させるにあたり、そのうちの1つに本書が選ばれた。旧刊のなかでいちばん売れ行きの良かったものの1つであり、また活動停止中の間も復刊のリクエストの声絶えず、かねてより著者が機会あらば改訂版を出したいと強く希望していたためでもある。復刊に際してふたたび序文の筆を執る機会を与えてくれた書肆の主人と著者に感謝したい。
 なお、題は未定ながら吉岡葉月の新作が、本書肆より今夏の刊行を予定されていることをご報告して、擱筆する。◆

第2821日目 〈令和2年の読書予定。〉 [日々の思い・独り言]

 床に積みあげられた本の山を見ていたら空しうなったので、これから如何に読書を続けてゆくべきかを考えた。まず、今年は読書を中断してしまった作家たちの、残務整理を第一に心掛けよう。
 これまで〈読書マラソン〉と称して幾人かの作家を集中的に読むようしてきたが、最初の1冊から最後の1冊まで滞りなくプロジェクトを完遂できたのは誰もいない(と記憶する)。これではいけない。一念発起して昨年から、中断して抛り投げていた作家の1人、太宰治を読み始めたわけだが、こちらはゆるゆると、勝手気儘に読み続けて年が改まった数日前から『津軽通信』をかばんのなかに潜ませて、折節開いてすこしずつページを繰っている。
 太宰に関しては既にここでも延べたように、未読の4冊(以前3冊と書いたが、あのあと棚を見たら違っていた)を年度内に読了させることができそう。悦ばしき也。愉しきこと也。前述の1冊以外に未読で済ませている太宰の文庫は、いずれも新潮文庫で『きりぎりす』『新ハムレット』『グッド・バイ』。書簡集や身内知己による回想録や評論もあるが、こちらは手に入れるたび読んでいたので、数に入れる必要はない。筑摩書房版全集を手に入れたら再読することだってあるやもしれぬが、いまはその杞憂も無用である。なぜなら、そこに投じるお金を用意していないからだ。呵々。
 新年度からは、宿願のドストエフスキーである。上巻の2/3で読むのを止めた『未成年』、学生時代に力任せで読んだきりな『カラマーゾフの兄弟』。この2作を読んでしまったら、講談社文芸文庫の短編集は「いつかそのうち」で構わぬ。急いて読むものではないと思うている。が、福武文庫の米川正夫訳『ドストエフスキー前期短編集』と『ドストエフスキー後期短編集』は、是が非にもこのツィクルスで読んでおかないと、おそらく読む機会を逸してそのままになってしまうだろうから、こちらも今回の〈第二次ドストエフスキー読書マラソン〉の予定書目にリスト・アップ。ちくま文庫から出ていた『作家の日記』全6巻は悩ましいが、これを丸ごかしに読むことはおそらくないだろう。第一次マラソンの際、本気で小沼文彦個人訳筑摩書房版全集を買いこむか、図書館で借りることを考えたが、そのときの情熱はもはや燠火である。
 さて、ここまでは既に決まっていたこと。太宰の次はドストエフスキー、あらかじめ決まっていた既定路線であった。そうしてわたくしは冒頭で、今年は途中で読むのを止めていた作家の残務整理の年にする旨宣言した。そこでクローズ・アップされてくるのは、やはり過去に集中してその作家ばかり読み始めたのはいいけれど、途中で息切れ乃至は憑きが落ちたように遠ざかってしまった何人かの作家たちである。
 綾辻行人と横溝正史、江戸川乱歩、以上日本人作家の部。全員ミステリ作家なのは、偶然だろうか。勿論偶然だ。外国人作家となると、こちらは多士済々ですよ。別のいい方をすれば、わたくしの浮気症がもっとも発揮されたのは、こちらかもしれない。でもいちいちを挙げていたらキリがないので、本当に未読の作品すべてを消化したい偏愛の人だけを、ここでは。アガサ・クリスティ、P.G.ウッドハウス、スティーヴン・キング、……おや、これだけだ。
 人数は同じ3人ながら分量は、日本人勢を遙かに上回る。未読の作品数が多いのも事実だが、それ以上に1作品の分量が桁違い。殊にキング! 正直なところ、ここ10数年に刊行されたうち、発売早々さっそく読み耽って巻を閉じた作品って、片手で数えられる程度だ。読み残し、積み残しが嵩んでいまの惨状に至る。自業自得というべきか? 否、聖書読書を最優先した結果である。これは君、本当のことなんだよ。
 本音をいえば、晩夏の候より横溝、綾辻、乱歩と行って、今年はクリスティで〆括られればいいな、と考えています。そのクリスティにしても従前のハヤカワ・ミステリ文庫で再開するか、新規にクリスティ文庫版で都度買い直して読んでゆくか、頭の悩ませどころなのだが……愉しいね。◆

第2820日目 〈南木佳士の文章について。〉 [日々の思い・独り言]

 藤原定家にとって『拾遺和歌集』は握翫の書であった。歌学書『三代集之間事』で3番目の勅撰集『拾遺和歌集』に触れて、「窃かに之を握翫す」と述べている。だれからも隠れてたいせつに、慕うようにして読んだ、という。この伝でいうと、わたくしの握翫する作家は、南木佳士だ。
 氏の小説については追って感想文やいろいろ考えたことをお披露目する予定でいるので、今日はわたくしが氏に惚れて慕うようになった最大の魅力、即ち文章に関してその全体印象を、無謀にもその作物からの引用無しで述べてみる。
 南木佳士の文章とは、こういうものだ──なんの特徴もない、Flatな文章。読んで引っ掛かることなく、すいすい進む。が、ふしぎと心の奥の、いちばん深い場所に残り続ける。その文章が眠るあたりは、穂乃果にあたたかい。何気ない一行、一語、表現の裏ににじむユーモアと諦念、これがあるからこそ、氏の作品はあれだけ「死」について語りながら、陽だまりのような明るさとやわらかな希望に満たされているのだ。
 その文章を真似するのは難しい。赤川次郎や村上春樹の文章を真似ようとしてあえなく玉砕するのと同じように、難しい所業だ。
 いちど、南木佳士の短編、エッセイを原稿用紙に書き写したことがある。そのときに気付いたのだが、南木氏の文章はとくに語彙の豊富さを誇るものではなく、比喩が巧みなわけでもない。表現の華麗なる点を恃むものでもない。むしろ、朴訥として、不器用な文章である。でも、どこかに、すとん、と心の底に落ちる言葉が、ある。
 太宰文学の永遠なる由縁の一は、継承者を持たなかったことだ、と、なにかの太宰論で読んだ。文章や表面上のスタイルは容易に模倣できる。それゆえにエピゴーネンを数多く生み出した点では、近代文学者のうちでも筆頭格だろう。が、どれだけ模倣者を生み出そうとも、太宰文学が内包した思想や太宰の体のうちから滲み出た文章を芯から理解して継承させた作家は、ついぞ現れなかった。
 わたくしは南木氏の文章、或いは作品についても同じことを思うのだ。日々死と直面する医療の現場に在って、人間の強靱さと脆さを目の当たりにしてきた氏の筆から出る言葉は、衒いも空威張りも、虚勢もうわべの繕いも、いっさい剥いだ、等身大の言葉であり、仮面を脱ぎ捨てた生身の言葉である。だからこそ、却って生命力に満ち満ちて、たとい無骨な文章だろうと香気あふれる作品を構成して読み手の心を、本人も気付かぬ程に深いところで震わせるのだ。このような文章の、また斯様な文章で構築された作品の後継者に、果たしてだれがなり得よう。
 文章で読ませる作家というのは、そう滅多にあるものではない。
 獅子文六がいままた新たな読者層を得て華々しく復刊されているのは、なによりも文章の力に由来するところ大ではあるまいか。作品自体は戦後の復興期に書かれて時代風俗や慣習は既に時代遅れのものになっているにもかかわらず、陸続と復刊された原動力は、作品の面白さに加えて、というよりもそれ以上に文章力である。そうしてそれが、読みやすさ(リーダビリティ)につながってゆく。変に衒学的になることも技巧的になることもなく、民衆の口にのぼる言葉を採用して、ひたすら平易な文章を書くことに誠実であったからこそ、時代を超えて読まれる大衆小説家となり得たのだろう。
 南木佳士を大衆小説家と呼ぶのはさすがに躊躇われるし、またけっしてそのような人物でもないと思うけれど、文章力と読みやすさという点では獅子文六にも、赤川次郎や村上春樹に劣るものではない、と断言する。
 毎日飽きることなく毒にも薬にも話題にもならぬ文章を書き続けているわたくしだが、せめて生きている間にただの1編でよいから虚勢をいっさい剥いだ、嘘のない文章を書き残したい。◆

第2819日目 〈中央公論社版『上田秋成全集』の完結を願う。〉 [日々の思い・独り言]

 完結しないまま終わった文学全集が、この世に果たしてどれだけあるのだろう(本稿にて文学全集とは、個人の全集を指す)。短期決戦であろうと長期にわたろうと、無事に完結した全集が世の大勢のように見えるのだが。
 勿論、今日のような出版状況になる以前は、未完で消えていった全集は多かった、と聞いたことはある。現代ではそんなこと、まずあるまい……と思うていたら、確実に1つ、未完で終わった様子の文学全集が、いまわたくしの手許にある。
 中央公論社が1990年8月から全13巻別巻1の予定で刊行を開始した、『上田秋成全集』である。
 第1回配本は第7巻小説篇一、『雨月物語』を収めた巻だった。内容見本を火事で失くしてしまったので確かなことはいえないが、3ヶ月に1冊の配本が予定されていたのではなかったか。それを承けて学友に、なんとか買い揃えてゆくことができそうだ、なんて話をした覚えがある。とまれ、貧書生ながら配本のたび、1冊ずつ買い揃えていった。自分の貧弱な書棚に宝物が1つずつ増えてゆく歓びを味わいつつ。
 そのうち、消費税率その他物価の上昇に伴ってか、1冊の価格は改定されて、遂に本体価格10,000円を突破した。それでも辛うじて刊行は続けられた。第12回配本は第12巻歌文篇三、刊記は1995年9月。いま考えれば既に青息吐息、風前の灯火状態であったようにも感じられる。別のいい方をすれば、断末魔の叫びはそろそろあげられていた──。
 やがて上田秋成全集編集委員会の中枢、中村幸彦が逝去した。平成10/1998年5月のことだ。中村は岩波書店の旧日本古典文学大系「上田秋成集」を始め秋成研究、近世文学研究の泰斗である。同じ時期、版元は経営危機に陥り、自力再建のメド遂に立たず読売新聞社資本の導入でその傘下となり中央公論新社と改称するに至ったこと、良識ある読書人なら存じあげておられよう。
 『上田秋成全集』は残すところ2巻で、刊行中絶の憂き目に遭った。『上田秋成全集』は不孝な時期に刊行された、良心的な仕事であった。そうして研究者、愛好家に紅涙絞らせることとなった。ああ、せめて第13巻が刊行されていれば……と。かつて2度ばかり、問い合わせたことがある。別巻は無理でも第13巻の刊行はあり得ぬか、と。返答は、あり得ぬ、存命の編者も高齢乃至は余力なく云々。高齢はともかく、余力とはなんだ。
 ちなみに第13巻は歌文篇四、天理図書館や個人蔵の秋成筆短冊や帖面、「海道狂歌合」及び稿本、書簡などが収録される予定であった。中村ひとりが欠けたと雖も、残りの委員で翻刻や編集作業は進められたであろうと思われるが、それが為されなかったところを見ると、「編集委員会」の実態また能力に小首を傾げざるを得ない。所蔵者の協力が得られなかったり、なにかしら学者特有のトラブルが生じて話がこじれて、刊行のメド立てられなくなり、頓挫に至ったか。
 が、わたくしはいまなお第13巻、そうして秋成肖像や「年中行事絵巻」、茶器など写真に収めた別巻の刊行を待ち望んでいる。同じように思うている愛好家や大学、図書館もあるだろう。まだまだ未刊の2冊を求める層があることを、中央公論新社(と読売新聞社)は知ってほしい。本社機能が京橋の社屋から大手町の親会社のビルに移ると共に、骨抜きにされたわけであるまい。
 古本屋で既刊12巻が紐で括られて破格の安値で売られている光景を見るにつけ、火事をくぐり抜けて書架にいまも並ぶ『上田秋成全集』が視界に入るたび、哀しみを覚えずにいられない。未練たらしくわたくしは、未刊の第13巻と別巻の刊行を願い、待つ。◆

第2818日目 〈太宰治『もの思う葦』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 12月は読みかけの本を大車輪で読み通すのに最適の月です。とにもかくにも大晦日までに、日附が変わり年が改まるまでに読んでしまえば、それなりの達成感に包まれ、一区切り付いた気分になります。1年の終わりの日に、自分はこの本を読んだのだ、と得もいわれぬ法悦に身を浸すのに最適な日。
 太宰治『もの思う葦』もそのようにして、とにもかくにも19時03分に読了したのでした。
 まぁ、途中で中断が何度もあったので、読了まで1ヶ月かかってしまったけれど、読んでいるときは小説以上に没頭していたかもしれません。琴線に触れる一節あればページの隅を折って、そこをカッコで括ったり、時に何事かを書きつけて、本を汚した。おかげで他の太宰の文庫よりも小口の上が、折った分だけ膨らみを持って厚ぼったくなっている。けっきょく1ヶ月を費やして読むことになった『もの思う葦』ですが、その分もあるのか、これまでに読んだ新潮文庫版太宰治作品集の諸巻のなかで心底、「読んで良かった!」と思えた1冊となりました。
 顧みて他文庫レーベルの太宰作品集に、随筆をまとめた1巻があったかと考えると、すくなくとも現行のもののなかにはないはず。ちくま文庫版全集は別扱いになるけれど、それを例外とすれば皆無では?(随筆を添えた巻なら幾らかあろうけれど、角川文庫も岩波文庫も全点は揃えていないので、そんな弱腰の物言いになってしまう)。そう考えると、奥野健男は本当に良い仕事をしたなぁ、と思い、然る後に感謝をささげたくなるのであります。
 例によって気に入った1編には、目次に合点を付したのですが、数えてみたらその数は全49編中10編となった。巻頭を飾る「もの思う葦」と「碧眼托鉢」にその合点はないけれど、集中の幾つかには付けているので、合点の数は20編近くに上りましょう。これを基にして太宰随筆のエッセンシャルを編みたく思うが、さすがに他人のフンドシで相撲を取る行為に等しかろう。
 ここには太宰一流の、皮肉がある。諧謔がある。被虐がある。優しい眼差しと、他人を気遣う心がある。「己を愛するように隣人を愛せ」を実践するかのような、あたたかさがある。そこから発露した憤怒がある。そうして、ガラスのような、マグマのような、生きとし生けるものに寄せた愛が、そこかしこに息づいている。『もの思う葦』を読むことは即ち、小説ではフィルター越しにしかわれら読者は接することのできなかった、太宰の剥き出しの魂の震えに触れることも意味するのかもしれません。
 随筆集の感想を書くのは、小説のそれよりも難しい。書き馴れていない、といえばそれまでだが、せめて合点を付した随筆の題だけでも記して感想の責を塞ぐとしましょう。順番に、──
 「古典竜頭蛇尾」、「一日の労苦」、「或る忠告」、「返事」、「小説の面白さ」、「酒ぎらい」、「自作を語る」、「海」、「『井伏鱒二選集』後記」、「如是我聞」。
 別の符牒を付けた随筆に「天狗」と「女人創造」がある。
 また、「もの思う葦」と「碧眼托鉢」に収められたものでは「敗北の歌」、「老人」と「難解」、「書簡集」、「『哀運』におくる言葉」、「百花繚乱主義」、「感謝の文学」、「審判」と「余談」、「Alles Oder Nichts」、「最後のスタンドプレイ」、「冷酷ということについて」、「わがダンディズム」、「『晩年』に就いて」(以上「もの思う葦」)、「わが友」と「Confiteor」(以上「碧眼托鉢」)がある。
 1行2行の箴言めいた文章があれば、何ページにもわたる随筆も、「もの思う葦」と「碧眼托鉢」の場合は含まれています。何ページかになるものは当たり前だけれど、1行の作で心を摑まれるのは滅多にあるものではない。余程上手く文章を作り、そこにすべての情熱と知恵と技巧を叩きこまないと、ただの自己満足であります。むろん、太宰がどこまでその1行に精魂費やしたか、或いは単なる思い付きを筆にしただけか、定かでないけれど、そこにはたしかに太宰の叫びが刻みこまれている。上に挙げたうちで1行といわず数行でしかない作にわたくしが合点を付したのは、たぶん太宰の魂の震え、内なる叫びに共鳴したからでありましょう。
 太宰の随筆とは小説にくらべてスポットライトの当たることなかなかない分野ですが、それだけに小説家・太宰治から受ける印象を若干なりとも修正せられること必至な分野の作物でもあるのです。
 殊に太宰という作家は、青白くて女性的なイメージがありますので、随筆を読むとそのデスパレートぶりにたじろいでしまうことが、ありました。本書の「Ⅳ」と「Ⅴ」、ここは先輩・同輩作家に寄せた文章と、編者の奥野健男が「やや感情的だが日本の規制文学に対するもっとも本質的な批判を行った歴史的記念碑」(P317)と呼ぶ「如是我聞」に割り当てられたパートですが、たじろいだというのは専らここに収められた文章に拠るのであります。
 就中志賀直哉に対する憤りの程は、読んでいて痛快を通り越して体の芯からゾクゾクしてきます。「弱さや苦悩は罪なのか」と問い掛ける言葉は穏便なれど、相手の喉元へ匕首突きつけんばかりの勢いで憤怒の炎の燃えあがりが、太宰の志賀批判の後ろにはある。『人間失格』と並行して書かれた随筆「如是我聞」は、太宰が目指した文学の方向や理想を推し量るに格好の材料を提供してくれていると思います。
 新潮文庫版太宰治作品集は、次に読む『津軽通信』を含めて、あと3冊。すべて読了したら機を改めて『もの思う葦』を読み返して、それを踏み台に作品集全巻一気読み直しの機会を設けたい──随筆と小説の相互補完を行いたいのです。眼光紙背に徹す読み方の労は、太宰治になら費やしても良いと思うのであります。◆

第2817日目 〈本日休載のお知らせ。〉 [日々の思い・独り言]

 表題の通り、本日体調不良によりお休みさせていただきます。
 なんと、本当のことなのだ。自分でも信じられない。熱に浮かされて体の節々が悲鳴をあげているのが聞こえる。わずかの集中力とテーマが思い浮かびさえすれば、この状況でも短い文章が書けるのだけれど、それも叶わずいまはこの為体だ。あはれとおぼしめせ、きみ。
 そろそろ薬が効いてきたようだ。欠伸が止まらず、意識は朦朧として、タイピングの手は止まりがちである。寝床が甘美な歌声でわたくしを誘う。あたたかく、やわらかく、あまやかな、眠りの歌が、……。
 ああ、モナミ。
 読者諸兄よ、明日の復活を待っていてほしい。短文ならお披露目できるよう、相務めまするゆえ。◆

第2816日目 〈渡部昇一の露伴受容 1/2〉 [日々の思い・独り言]

 幸田露伴の『努力論』が露伴読書の始めだったのは、ひとえに渡部昇一の著書で紹介されていたからです。そうですね、わたくしの当時の嗜好を踏まえて考えるなら、「幻談」が最初であったと思われても仕方ない話ですね。しかし、そうではなかったのです。
 向学心に燃えていた時分の遭遇ですから、さっそく坂の下の神保町まで講義サボって(先生、スミマセン)捜しに行きました。多少状態が悪くっても単行本があればうれしいな、と思いながらね。少しでも渡部昇一が読んだヴァージョンに近附きたかったんでしょう。
 とはいえ、御存知のように『努力論』の単行本なんて、幾ら神保町と雖もそう易々と転がっているわけもありません。いちどだけ、露伴全集の端本を見附けて小躍りしましたが、残念ながら『努力論』が収まる巻ではなかった。単行本は諦めて、駿河台下の川村書店で岩波文庫の古本を買いました。その帰りにキッチン南海でスタミナたっぷりカロリー満載の定食を食べながら、買ったばかりのそれを読んでいたのを覚えています。
 でも、はたちそこそこの若造に露伴の文章は歯が立たぬ、難物であった。文語体の文章に馴染みがあったとはいえ、露伴のそれは江戸から綿々と続いた漢文教育の結晶です。おまけに教養人としては当代最高峰の人でしたから、仏典や中国文学に典拠を求めるものが多々あり、しかもそれは当たり前のような顔をして、なんの説明もなく唐突にさらり、と出てくるのですから、歯が立たぬも同然。これはとんでもない代物に手を出してしまったぞ、と後悔しましたね。途方に暮れた、というてもよい。
 ずっと手許に置いておいたのは、渡部昇一の紹介の仕方の上手さ、取り上げ方の熱のこもりようにこちらも感化されて、いつかそのうちにそう苦労せず読めるようになるだろう、と単純に思うていたからでしょう。およそ渡部昇一の著作に触れて露伴の項を読みこの『努力論』に関心を抱かずスルーできる人は、そう多くないと思います。
 月日は流れて、貴方が仰るようにその間今日まであまりマジメに『努力論』を読むことはありませんでした。マジメに、というと語弊があるかもしれません。折に触れて巻を開いて任意のページから読み耽ることは何度もありますし、書かれた内容について倩考えを巡らせたことだってありました。が、斯様に『努力論』を何度開いて読んでいようと、わたくしのなかで幸田露伴という存在の異質なることに変わりはありませんでした。
 ちょうどそれは、やはり20代の頃、モーツァルトの音楽に迎え入れてもらえない、そんな疎外感を味わっていたのに似ています。演奏会で、音盤で、どれだけモーツァルトの音楽を聴いて、綺麗だな、美しいな、哀しいな、なんて通り一遍の感想こそ抱きこそすれ、自分のなかにモーツァルトは入ってこず、近附こうとしても嘲るような笑みを浮かべて、キミにはまだボクの音楽は早いよ、と拒まれているような、そんな気分をずっと持っていたのです。それはやがて、わたくしにモーツァルトへの敬虔なる信仰を抱かせるきっかけとなった指揮者、ペーター・マーク逝去の直前あたりに解消されたことですが、そんな一種の疎外感みたいなものをずっと、露伴に感じていたわけです。
 ですから講談社文芸文庫から露伴の著作が発売されたときも、新刊書店の平台に並ぶそれを手にして中身をぱらぱら目繰ったりすることはあってもレジへ運ぶことはなく、そのままうっちゃっていたわけです。
 その間に読んだ露伴の作物は、幾つかあります。もっとも、文庫化されたものが専らで、「幻談」にはじまり『五重塔』や『天うつ浪』、あと捕鯨をテーマにした小説があったように思いますがそれと、あとは史伝小説から『今川義元』ぐらいかな、あとは専攻も絡んで芭蕉関係の本は貪り読みました。が、肝心の、わたくしにとっては露伴攻略の本丸というべき『努力論』は、まったく進展のないままで。あ、捕鯨の話は「いさなとり」ですか。捕鯨の話になるまで、けっこうなページが費やされていましたよね、たしか?
 月日は経って、持っていた岩波文庫版はだいぶ傷んできました。元々古本で、火事をくぐり抜けて弱っていたのに加えてわたくしの手荒な扱いですからね。宜なるかな、というところでしょう。さてまた岩波文庫で買い直すか、でもあの活字がびっしり詰まったものを新しく買うて今後も読むのは難儀だなぁ、と年齢を感じさせることを考え考え迷っていた頃、角川ソフィア文庫からリプリントが出ると知り、発売を心待ちにしていたのです。そうですね、ここに持ってきたものが、それです。
 でも、中身はじつに読みやすくなっている。紙の色も影響しているのかな。ここへ来るまで電車のなかで(赤い韋駄天、京浜急行)読んでいたのですが、まったく目が疲れなかった。活字の組み方も勿論、影響しているでしょうね。
 それはともかく、岩波文庫版と大きく異なる点、逆にいえば角川ソフィア文庫版で読むメリットですが、岩波文庫にはないエッセイが併載されていることに尽きます。「立志に関する王陽明の教訓」というものですが、これが『努力論』を補強するエッセイなので、露伴の文業のまだまだ一端を知っているに過ぎぬ者にしてみれば、成る程、こんな理路整然と陽明学の開祖の思想を説明した文章が露伴にあったのか、と目を開かれる思いであります。もっとも、理解しているとは勿論いえませんから、今後も『努力論』同様に付き合ってゆくことになりそうです。
 いま貴方が離席している間に角川ソフィア文庫版に目を通していたのですが、この解説も丁寧に書かれていますよね。独りよがりでない、衒学的でない、読む者を置いてゆくような「?」が脳裏にちらつくような文章ではない。どこぞの出版社は見習ってほしいですね。角川ソフィア文庫の解説は総じて「アタリ」だと思います。ふぅん、これの解説者は山口謠司という人ですか。文献学者。
 ──ああ、もう紙幅が尽きますか。ごめんなさい。本当なら、そう、貴方が持ちかけてくだったテーマは、渡部昇一の露伴受容について、でした。渡部が露伴について語った本を点検して、かれがそこでどのようなことをいうているか、『努力論』をどのように紹介しているか、他の作品に関してはどのような発言をしているか、といったことをお話しするのでしたね。「本があるからこそできる、考証的随筆と思えばいいんですよ」なんて貴方にそそのかされてここまで出向いてきました。また日時を改めて、渡部昇一の露伴受容について、好き勝手喋らせてもらいましょう。◆

第2815日目 〈志賀直哉? ボクには駄目だ、文学史にその名あるのがふしぎなぐらいだ。〉 [日々の思い・独り言]

 元同僚が死んだ。遺族から本が数10冊届いた。本人の遺志というか、形見分けの由。志賀直哉の初版本と全集である。彼女は近代文学愛好家で、思いがけなく話し相手を得た気分であった。席が隣りになったりすると様々話をできたのは、まぁすなおにいって嬉しかった。同僚は、志賀直哉を殊に慈しむように愛した。初版本が揃っているのはなんでも祖父・両親が編集者であった由縁らしい。
 が、さて、わたくしは志賀直哉を好まない。それを相手は知らなかった。
 高校何年生のときだか、現国で「城の崎にて」を読まされた。後半の描写の感覚的な点に惹かれた。とはいえ、山手線に撥ねられたら幾らなんでも3週間程度の「養生」じゃあ済まんだろ、最悪死んでいるよな。その旨宿題の感想文に書いて出したら、怒られた(これをこの“文豪”さんの誇張のねじけさいやらしさと知るのは数年経ったあとのこと)。
 その後も志賀直哉の小説を読んだことは、ある。勿論、義理と義務からだ。そんなでなければ読むものか。高校時代相応に感銘を受けてすぐにその興は引き、冒頭の件だけが残り続けた「城の崎にて」も、経年と共に阿呆らしい駄文にしか思えなくなった。だからなんだ!? という。正岡子規の言を借りれば、志賀直哉は「小説の神様」ならぬ「小説のゴミ様」にして「城の崎にて」はくだらぬ作にて有之候、というところ(子規よ、済まぬ、斯様にくだらぬ作家のために言葉を引くことになり)。よくこんな代物を教科書に載せる。文部科学省の学習指導要綱や教科書会社の見識を疑います。なにを良しと思うてこれを載せるか、四方を灰色の壁に囲まれた窓のない部屋にてスチール机をはさんで灯りを相手の顔に照らしつけて、じっくりゆっくりこちらの気の済むまで尋問してやりたい気分である。件の元同僚は逆に高校時代、「城の崎にて」を読んで志賀直哉信奉者になったそうだが、お生憎様。
 有名作、代表作と呼ばれる作品は文庫化されているので、同僚との話をきっかけに読んでみた。一部は読み直しで、極めて苦痛な経験だったが、とまれ、それらも読んだ。ますます嫌悪感が募った。どうしてこの人が近代文学史に名を刻んでいるのか。これの作物を愛読できる人の文学観というか審美眼は、果たしてどうなっておるのだろう。
 『暗夜行路』『小僧の神様』『万曆赤絵』『和解』『真鶴』『大津順吉』『網走まで』……等々。どれもこれも、睡眠誘導剤にはぴったりだ。わたくしはぜひ志賀くんの作品を不眠症の特効薬として厚生労働省へ認可を求める運動の旗振り役を担いたい。
 正直なところを申して、志賀の小説には人間の血が通っていない。とても無機質である。そうしてなにやら排他的、利己的、自分ファースト、上から目線である。不躾で、だらしなく、厭味である。地に足をつけて呼吸するのを拒んでいるかのようである。同じ白樺派でも武者小路実篤との決定的な相違は、この点にありましょうな。霞でも喰らっておればいいよ、君にはお似合いだ。ハハ。もっと正直にいうてしまえば、志賀直哉の小説1作を読んで砂を噛むような思いを味わうぐらいなら、時間の浪費と感じるぐらいなら、ラテン語の辞書でも読んでちょっと頭が良くなったような錯覚を味わう方が余程マシでありますよ。
 志賀直哉の小説、閉口だな。根太が腐っている。卑屈だよ、まったく。今後の近代文学史の課題は、志賀のいない文学史の構築だ。もっともそんな勇気のあるセンセー方なぞ、草の根分けて探そうとしても無駄かもしれぬ。所詮はいずれもへっぴり腰。
 ああ、そうそう、そんな人の作物でも1つだけ、良いと思えるものがあったな。短編で、「剃刀」。思わず背筋がゾワッ、とする。幻想文学の領域とかそういうの関係なく、志賀の唯一の傑作だ。作家の真の職能は傑作を生み出すことに他なし。この短編が書かれただけでも、もしかすると志賀が無駄に筆を費やして、似合わぬ対談にまで顔出して醜態を曝し続けた甲斐はあったのかもしれないね。呵々。
 件の元同僚の遺族から届けられた志賀直哉の本だが、視界に入れるも目障り、ただの場所塞ぎでしかないので、躊躇うことなく迷うことなく断ることなく非道いと思うこともなく、馴染みの古本屋に引き取ってもらった。査定額は126万。返事は保留している。◆

第2814日目 〈今年の目標をもう1つ、そうしてお金のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 1年の初めにあたり、経済状態の好転と財政健全化を、令和2年最大の目標と位置附けました。
 さしあたっては定期収入、つまり会社からの給与額を、勿論額面ではなく手取りでアップさせることを念頭に、活動してゆきます。
 そのために為すべきことは山程あるけれど、一つ一つ懸案を消化して給与アップを実現させましょう。然る後に改めて株式投資を再開し、投資信託の点検を行います。わたくしはお金持ちになって、地域や病院に貢献するのだ。
 年頭にかならず読むと決めている本が、ある。チェスターフィールドとスマイルズ、本多静六と山口瞳(年によって、ヒルティや渡部昇一が参入するのは、ご愛敬であります)。修身や道徳は今日、見向きもされなかったり、嘲笑の対象になっているかもしれません。
 が、人はいつでも自分を正し、より良い方向へ自分を伸ばしてゆくことのできる生物なのです。かれらの本を何遍も熟読することで、人生は或る程度まで正しい方向へ進むはずではないか、と本気でわたくしは考えております。
 本があるという自信が涸れることなき著述の背景となるように、お金があることの自信は活動範囲を広げ、交流関係を広げ、それらを維持し、また親に安心を、妻に充足を、子供に教育をもたらす源でもあります。「お金があればなんでも出来る」とは、ともすれば卑俗な表現かもしれませんが、これ程お金の力を端的に語った言葉もありますまい。
 お金を稼ぐこと、貯蓄すること、それらについて語ることを後ろめたく思ったり、卑しい行為と思う者の所にけっしてお金は寄りつかない。自分の経験や観察から、それの正しさを実感しています。お金に愛される人に、わたくしはなりたい。◆

第2813日目 〈夏目漱石『草枕』を聴いたこと。〉 [日々の思い・独り言]

 神社の参道近くに家があるため、年末年始の参拝客の賑わいは、屋内にいても否応なく感じられる。とはいえ、気のせいかな、2日の夜になるともうすっかり静か。なにやらちょっと勝手のちがう年明けの様子に、わずかながらと雖も動揺を抑えられない現在、2020年01月02日の22時41分である。
 目下の悩みは、まるで読書が進まない、ということだ。辛うじて太宰は『もの思う葦』を宣言通り大晦日に読み終えたがその後はさっぱりで、この休みの間に読もうと思っていた本はなに一つ、読み終わるどころか、本が開かれる気配さえないという状況。
 正岡子規と柴田宵曲、幸田露伴の本を読むと決めたはずが、世間の雑事をこなすに紛れてそちらへ振り向ける気力さえ、ない。1ページ読んだかどうかというところで寝落ちすることも、まだ年が明けてまだ2日しか経っていないのに、早くもめずらしくない光景になっている。嗚呼というか呵々というか。
 仕方ないから午後はずっと、漱石を聴いていた。渡部龍朗朗読による『草枕』、朗読時間はiTunesを信じれば6時間22分。が、実際はもうすこし短く感じたのだが、おそらくその間ずっと耳を傾けていたわけではないからだろう。
 『草枕』に決めるまであれこれプレビューを聴いて、どれにするか悩んだ。岩崎さとこが朗読した『こころ』も惹かれたが、こちらの朗読時間は10時間12分となると、ちょっと躊躇してしまい、さてではなにを……と探しているうちに見附けたのが、件の『草枕』だ。
 おおげさな抑揚とは無縁な、言葉を慈しむようにして読まれた、静かで落ち着きのある声。非常に聴き取りやすい発声。わたくしはこの朗読を好む。聴力に支障あるものにこの人の声は耳に優しく、滑舌がはっきりして一語一語の発音が明瞭なので、安心して聞ける、という側面も無視できない。
 漱石文学にはどんな小品からも男の臭いしか漂ってこない、骨太で筋肉たくましい印象があるので、女性の朗読者は避けるつもりだったが、前述の岩崎さとこだけは例外。落とした声音に惻惻とした雰囲気がうまく調和して、この大作を読むにふさわしい人と感嘆した。
 では、みくらさんさんかよ。この約6時間のうち、お前はなにをしていたのか。
 答えましょう。でもちょっと待って、いま思い出しますから。えーっと……、
 昨日本ブログにてお話しした通り、手帳の書き写しをしていました。四季報やYahoo!・ファイナンス他をチェックしながら株式投資について検討し、バランス・シート作成の下材料を集めて4つに切ったカレンダーの裏側に細かく項目と数字を書き連ね、昨年し残したこと今年しておくことを列記、また昨年の手帳に走り書きなどした家族の諸事をコピーして新しい手帳に挟みこんだりね。或いは不要な明細や書類をシュレッダーにがんがん送りこみ、溜まった不要な紙を2つ乃至4つに切ってメモ用紙を作っていました(その結果、もう一生買う必要がないぐらいの紙の山ができあがった)。
 するとどうしたわけか、さっそく部屋が乱雑になってしまった。困ったものである。
 ──新年から気の抜けたような文章で申し訳ない。明日は檜ではなく、もっと読むに値するものを書こう。それでは失敬する、モナミ。デヴィッド・スーシェ演じるポアロのシリーズから、『ナイルに死す』をこれから観ようと椅子から腰を浮かす、現在23時54分である。◆

第2812日目 〈今年もよろしくお願いします。ちょっと目標など書いてみます。〉 [日々の思い・独り言]

 令和2年になって最初のブログ更新です。あいにくと親族喪中のため、便乗するかのように新年のご挨拶は控えさせていただきます。
 さりとて皆様の幸を寿ぐ気持ちに偽りはございません。どうか令和2年が皆様にとって笑顔で過ごすことのできる良い1年でありますよう、心からお祈り申しあげております。
 ──え、目標ですか。そうですね、……
 昨年晩夏より本とCDの処分に伴う部屋の掃除が活性化したこともありますので、本年はそれを更に推し進めて可動可能空間を拡大して、積まれた本で隠れていた床が見えるようにしたいですね。
 正直なところ、本がたくさん詰まったこの部屋を窮屈に感じ始め、時に憎悪すら抱くようになったので、座右の書というべき以外は処分するか倉庫送りにして、清々した気分で次の年明けを迎えたいのです。鬼が笑うどころの話ではありませんが、先の見通しを立てるためには鬼の機嫌なんて気にしちゃいられません(鬼といえば、今日からリゼロ再放送か)。
 そうはいっても誓った舌の乾かぬうちから新刊書店で本を購い、馴染みの古本屋に挨拶ついでに何冊か購っていては、なにをかいわんや、なのですが……。
 部屋を片附ける流れで机と椅子、ベッドを今年後半には新調したい。机は造付けなので、もし実際に新調するとなったら撤去から始めることとなるため、実現はちょっと難しそう。が、それなら抽斗のたくさんついたチェストを2台ばかり、良さそうなのを見つくろって購入する必要が出て来る。書類や机上の小物が散乱している原因の1つは、抽斗というものがないからだと思う。収納がない/少ない、というのは衣類でも机まわりでも致命的であります。
 と、ここまでは物理的な面に絞った、現状打破或いは改善を目的とした目標。
 では、令和2年のわたくし個人の目標は果たしてなにか、というと……んんん、なんやろな。
 読書でいえば、現在継続中の太宰治作品集の年度内の読破、引き続いて未読のまま残したドストエフスキーの年内読破は必ず達成しなくてはならない目標といえます。いずれも新潮文庫版なれどドストエフスキーについては加えて講談社文芸文庫とちくま学芸文庫に収録された作品も、この機会に読んでおきたいという希望から買いこんでいるので、こちらは年末になっても読み終えていない可能性が、大。
 で、こういう長期戦になると寄り道したまま本道に戻ってこないケースがこれまでもあったので、そのあたりは自重しなくてはなりません。クリスティとか江戸川乱歩とか、横溝正史とか綾辻行人などが前例であります(太宰とドストエフスキーもそうだった)。斯様な現象を指して「浮気性」「浮気症」というそうですが、それは断じて浮気などではなく、単に気晴らしが過ぎてそのまま本道に戻るタイミングを逸しただけに過ぎません。
 それはさておき。
 他に念頭に置いてある目標となると、……できないこと、約束できないことは語るのを控えた方がよいと思われるので、「一マカ」「エズ・ラ」の再読・ノートの話はせぬが賢明でしょう。それを脇に置いて考えると、そうですね、加藤守雄の著作一覧を本ブログにてお披露目しましょうか。
 加藤に単独名義の単行本は2冊のみと雖も刊本未収録の論文や対談インタヴュー記事、講義題目や時事エッセイ、委員会報告の類が山のように存在しています。その生涯に加藤が発表したものの2/3は既に複写であっても手許へ揃えているから、あとはExcel/Pagesにちまちま入力して発表年次順に並べ替えれば済む。そうしてそれが案外と面倒臭くて、それを理由に仕立てて怠けて目標は画に描いた餅となる。
 同じようにして小林責・岩松研吉郎両先生の著作一覧も作成できればいいけれど、流石にこちらの年内お披露目は不可能。なぜなら、そのための資料収集は端緒にも付いていないからに他なりません。
 ──まぁそんな目標をつらつら胸のなかで弄んでいたのです、炬燵に入ってぼんやりニューイヤー駅伝を観ながら。
 本年もどうぞご愛読・ご支持の程、お願いして、筆を擱きます。◆