第2813日目 〈夏目漱石『草枕』を聴いたこと。〉 [日々の思い・独り言]

 神社の参道近くに家があるため、年末年始の参拝客の賑わいは、屋内にいても否応なく感じられる。とはいえ、気のせいかな、2日の夜になるともうすっかり静か。なにやらちょっと勝手のちがう年明けの様子に、わずかながらと雖も動揺を抑えられない現在、2020年01月02日の22時41分である。
 目下の悩みは、まるで読書が進まない、ということだ。辛うじて太宰は『もの思う葦』を宣言通り大晦日に読み終えたがその後はさっぱりで、この休みの間に読もうと思っていた本はなに一つ、読み終わるどころか、本が開かれる気配さえないという状況。
 正岡子規と柴田宵曲、幸田露伴の本を読むと決めたはずが、世間の雑事をこなすに紛れてそちらへ振り向ける気力さえ、ない。1ページ読んだかどうかというところで寝落ちすることも、まだ年が明けてまだ2日しか経っていないのに、早くもめずらしくない光景になっている。嗚呼というか呵々というか。
 仕方ないから午後はずっと、漱石を聴いていた。渡部龍朗朗読による『草枕』、朗読時間はiTunesを信じれば6時間22分。が、実際はもうすこし短く感じたのだが、おそらくその間ずっと耳を傾けていたわけではないからだろう。
 『草枕』に決めるまであれこれプレビューを聴いて、どれにするか悩んだ。岩崎さとこが朗読した『こころ』も惹かれたが、こちらの朗読時間は10時間12分となると、ちょっと躊躇してしまい、さてではなにを……と探しているうちに見附けたのが、件の『草枕』だ。
 おおげさな抑揚とは無縁な、言葉を慈しむようにして読まれた、静かで落ち着きのある声。非常に聴き取りやすい発声。わたくしはこの朗読を好む。聴力に支障あるものにこの人の声は耳に優しく、滑舌がはっきりして一語一語の発音が明瞭なので、安心して聞ける、という側面も無視できない。
 漱石文学にはどんな小品からも男の臭いしか漂ってこない、骨太で筋肉たくましい印象があるので、女性の朗読者は避けるつもりだったが、前述の岩崎さとこだけは例外。落とした声音に惻惻とした雰囲気がうまく調和して、この大作を読むにふさわしい人と感嘆した。
 では、みくらさんさんかよ。この約6時間のうち、お前はなにをしていたのか。
 答えましょう。でもちょっと待って、いま思い出しますから。えーっと……、
 昨日本ブログにてお話しした通り、手帳の書き写しをしていました。四季報やYahoo!・ファイナンス他をチェックしながら株式投資について検討し、バランス・シート作成の下材料を集めて4つに切ったカレンダーの裏側に細かく項目と数字を書き連ね、昨年し残したこと今年しておくことを列記、また昨年の手帳に走り書きなどした家族の諸事をコピーして新しい手帳に挟みこんだりね。或いは不要な明細や書類をシュレッダーにがんがん送りこみ、溜まった不要な紙を2つ乃至4つに切ってメモ用紙を作っていました(その結果、もう一生買う必要がないぐらいの紙の山ができあがった)。
 するとどうしたわけか、さっそく部屋が乱雑になってしまった。困ったものである。
 ──新年から気の抜けたような文章で申し訳ない。明日は檜ではなく、もっと読むに値するものを書こう。それでは失敬する、モナミ。デヴィッド・スーシェ演じるポアロのシリーズから、『ナイルに死す』をこれから観ようと椅子から腰を浮かす、現在23時54分である。◆

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