第2816日目 〈渡部昇一の露伴受容 1/2〉 [日々の思い・独り言]

 幸田露伴の『努力論』が露伴読書の始めだったのは、ひとえに渡部昇一の著書で紹介されていたからです。そうですね、わたくしの当時の嗜好を踏まえて考えるなら、「幻談」が最初であったと思われても仕方ない話ですね。しかし、そうではなかったのです。
 向学心に燃えていた時分の遭遇ですから、さっそく坂の下の神保町まで講義サボって(先生、スミマセン)捜しに行きました。多少状態が悪くっても単行本があればうれしいな、と思いながらね。少しでも渡部昇一が読んだヴァージョンに近附きたかったんでしょう。
 とはいえ、御存知のように『努力論』の単行本なんて、幾ら神保町と雖もそう易々と転がっているわけもありません。いちどだけ、露伴全集の端本を見附けて小躍りしましたが、残念ながら『努力論』が収まる巻ではなかった。単行本は諦めて、駿河台下の川村書店で岩波文庫の古本を買いました。その帰りにキッチン南海でスタミナたっぷりカロリー満載の定食を食べながら、買ったばかりのそれを読んでいたのを覚えています。
 でも、はたちそこそこの若造に露伴の文章は歯が立たぬ、難物であった。文語体の文章に馴染みがあったとはいえ、露伴のそれは江戸から綿々と続いた漢文教育の結晶です。おまけに教養人としては当代最高峰の人でしたから、仏典や中国文学に典拠を求めるものが多々あり、しかもそれは当たり前のような顔をして、なんの説明もなく唐突にさらり、と出てくるのですから、歯が立たぬも同然。これはとんでもない代物に手を出してしまったぞ、と後悔しましたね。途方に暮れた、というてもよい。
 ずっと手許に置いておいたのは、渡部昇一の紹介の仕方の上手さ、取り上げ方の熱のこもりようにこちらも感化されて、いつかそのうちにそう苦労せず読めるようになるだろう、と単純に思うていたからでしょう。およそ渡部昇一の著作に触れて露伴の項を読みこの『努力論』に関心を抱かずスルーできる人は、そう多くないと思います。
 月日は流れて、貴方が仰るようにその間今日まであまりマジメに『努力論』を読むことはありませんでした。マジメに、というと語弊があるかもしれません。折に触れて巻を開いて任意のページから読み耽ることは何度もありますし、書かれた内容について倩考えを巡らせたことだってありました。が、斯様に『努力論』を何度開いて読んでいようと、わたくしのなかで幸田露伴という存在の異質なることに変わりはありませんでした。
 ちょうどそれは、やはり20代の頃、モーツァルトの音楽に迎え入れてもらえない、そんな疎外感を味わっていたのに似ています。演奏会で、音盤で、どれだけモーツァルトの音楽を聴いて、綺麗だな、美しいな、哀しいな、なんて通り一遍の感想こそ抱きこそすれ、自分のなかにモーツァルトは入ってこず、近附こうとしても嘲るような笑みを浮かべて、キミにはまだボクの音楽は早いよ、と拒まれているような、そんな気分をずっと持っていたのです。それはやがて、わたくしにモーツァルトへの敬虔なる信仰を抱かせるきっかけとなった指揮者、ペーター・マーク逝去の直前あたりに解消されたことですが、そんな一種の疎外感みたいなものをずっと、露伴に感じていたわけです。
 ですから講談社文芸文庫から露伴の著作が発売されたときも、新刊書店の平台に並ぶそれを手にして中身をぱらぱら目繰ったりすることはあってもレジへ運ぶことはなく、そのままうっちゃっていたわけです。
 その間に読んだ露伴の作物は、幾つかあります。もっとも、文庫化されたものが専らで、「幻談」にはじまり『五重塔』や『天うつ浪』、あと捕鯨をテーマにした小説があったように思いますがそれと、あとは史伝小説から『今川義元』ぐらいかな、あとは専攻も絡んで芭蕉関係の本は貪り読みました。が、肝心の、わたくしにとっては露伴攻略の本丸というべき『努力論』は、まったく進展のないままで。あ、捕鯨の話は「いさなとり」ですか。捕鯨の話になるまで、けっこうなページが費やされていましたよね、たしか?
 月日は経って、持っていた岩波文庫版はだいぶ傷んできました。元々古本で、火事をくぐり抜けて弱っていたのに加えてわたくしの手荒な扱いですからね。宜なるかな、というところでしょう。さてまた岩波文庫で買い直すか、でもあの活字がびっしり詰まったものを新しく買うて今後も読むのは難儀だなぁ、と年齢を感じさせることを考え考え迷っていた頃、角川ソフィア文庫からリプリントが出ると知り、発売を心待ちにしていたのです。そうですね、ここに持ってきたものが、それです。
 でも、中身はじつに読みやすくなっている。紙の色も影響しているのかな。ここへ来るまで電車のなかで(赤い韋駄天、京浜急行)読んでいたのですが、まったく目が疲れなかった。活字の組み方も勿論、影響しているでしょうね。
 それはともかく、岩波文庫版と大きく異なる点、逆にいえば角川ソフィア文庫版で読むメリットですが、岩波文庫にはないエッセイが併載されていることに尽きます。「立志に関する王陽明の教訓」というものですが、これが『努力論』を補強するエッセイなので、露伴の文業のまだまだ一端を知っているに過ぎぬ者にしてみれば、成る程、こんな理路整然と陽明学の開祖の思想を説明した文章が露伴にあったのか、と目を開かれる思いであります。もっとも、理解しているとは勿論いえませんから、今後も『努力論』同様に付き合ってゆくことになりそうです。
 いま貴方が離席している間に角川ソフィア文庫版に目を通していたのですが、この解説も丁寧に書かれていますよね。独りよがりでない、衒学的でない、読む者を置いてゆくような「?」が脳裏にちらつくような文章ではない。どこぞの出版社は見習ってほしいですね。角川ソフィア文庫の解説は総じて「アタリ」だと思います。ふぅん、これの解説者は山口謠司という人ですか。文献学者。
 ──ああ、もう紙幅が尽きますか。ごめんなさい。本当なら、そう、貴方が持ちかけてくだったテーマは、渡部昇一の露伴受容について、でした。渡部が露伴について語った本を点検して、かれがそこでどのようなことをいうているか、『努力論』をどのように紹介しているか、他の作品に関してはどのような発言をしているか、といったことをお話しするのでしたね。「本があるからこそできる、考証的随筆と思えばいいんですよ」なんて貴方にそそのかされてここまで出向いてきました。また日時を改めて、渡部昇一の露伴受容について、好き勝手喋らせてもらいましょう。◆

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