第2818日目 〈太宰治『もの思う葦』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 12月は読みかけの本を大車輪で読み通すのに最適の月です。とにもかくにも大晦日までに、日附が変わり年が改まるまでに読んでしまえば、それなりの達成感に包まれ、一区切り付いた気分になります。1年の終わりの日に、自分はこの本を読んだのだ、と得もいわれぬ法悦に身を浸すのに最適な日。
 太宰治『もの思う葦』もそのようにして、とにもかくにも19時03分に読了したのでした。
 まぁ、途中で中断が何度もあったので、読了まで1ヶ月かかってしまったけれど、読んでいるときは小説以上に没頭していたかもしれません。琴線に触れる一節あればページの隅を折って、そこをカッコで括ったり、時に何事かを書きつけて、本を汚した。おかげで他の太宰の文庫よりも小口の上が、折った分だけ膨らみを持って厚ぼったくなっている。けっきょく1ヶ月を費やして読むことになった『もの思う葦』ですが、その分もあるのか、これまでに読んだ新潮文庫版太宰治作品集の諸巻のなかで心底、「読んで良かった!」と思えた1冊となりました。
 顧みて他文庫レーベルの太宰作品集に、随筆をまとめた1巻があったかと考えると、すくなくとも現行のもののなかにはないはず。ちくま文庫版全集は別扱いになるけれど、それを例外とすれば皆無では?(随筆を添えた巻なら幾らかあろうけれど、角川文庫も岩波文庫も全点は揃えていないので、そんな弱腰の物言いになってしまう)。そう考えると、奥野健男は本当に良い仕事をしたなぁ、と思い、然る後に感謝をささげたくなるのであります。
 例によって気に入った1編には、目次に合点を付したのですが、数えてみたらその数は全49編中10編となった。巻頭を飾る「もの思う葦」と「碧眼托鉢」にその合点はないけれど、集中の幾つかには付けているので、合点の数は20編近くに上りましょう。これを基にして太宰随筆のエッセンシャルを編みたく思うが、さすがに他人のフンドシで相撲を取る行為に等しかろう。
 ここには太宰一流の、皮肉がある。諧謔がある。被虐がある。優しい眼差しと、他人を気遣う心がある。「己を愛するように隣人を愛せ」を実践するかのような、あたたかさがある。そこから発露した憤怒がある。そうして、ガラスのような、マグマのような、生きとし生けるものに寄せた愛が、そこかしこに息づいている。『もの思う葦』を読むことは即ち、小説ではフィルター越しにしかわれら読者は接することのできなかった、太宰の剥き出しの魂の震えに触れることも意味するのかもしれません。
 随筆集の感想を書くのは、小説のそれよりも難しい。書き馴れていない、といえばそれまでだが、せめて合点を付した随筆の題だけでも記して感想の責を塞ぐとしましょう。順番に、──
 「古典竜頭蛇尾」、「一日の労苦」、「或る忠告」、「返事」、「小説の面白さ」、「酒ぎらい」、「自作を語る」、「海」、「『井伏鱒二選集』後記」、「如是我聞」。
 別の符牒を付けた随筆に「天狗」と「女人創造」がある。
 また、「もの思う葦」と「碧眼托鉢」に収められたものでは「敗北の歌」、「老人」と「難解」、「書簡集」、「『哀運』におくる言葉」、「百花繚乱主義」、「感謝の文学」、「審判」と「余談」、「Alles Oder Nichts」、「最後のスタンドプレイ」、「冷酷ということについて」、「わがダンディズム」、「『晩年』に就いて」(以上「もの思う葦」)、「わが友」と「Confiteor」(以上「碧眼托鉢」)がある。
 1行2行の箴言めいた文章があれば、何ページにもわたる随筆も、「もの思う葦」と「碧眼托鉢」の場合は含まれています。何ページかになるものは当たり前だけれど、1行の作で心を摑まれるのは滅多にあるものではない。余程上手く文章を作り、そこにすべての情熱と知恵と技巧を叩きこまないと、ただの自己満足であります。むろん、太宰がどこまでその1行に精魂費やしたか、或いは単なる思い付きを筆にしただけか、定かでないけれど、そこにはたしかに太宰の叫びが刻みこまれている。上に挙げたうちで1行といわず数行でしかない作にわたくしが合点を付したのは、たぶん太宰の魂の震え、内なる叫びに共鳴したからでありましょう。
 太宰の随筆とは小説にくらべてスポットライトの当たることなかなかない分野ですが、それだけに小説家・太宰治から受ける印象を若干なりとも修正せられること必至な分野の作物でもあるのです。
 殊に太宰という作家は、青白くて女性的なイメージがありますので、随筆を読むとそのデスパレートぶりにたじろいでしまうことが、ありました。本書の「Ⅳ」と「Ⅴ」、ここは先輩・同輩作家に寄せた文章と、編者の奥野健男が「やや感情的だが日本の規制文学に対するもっとも本質的な批判を行った歴史的記念碑」(P317)と呼ぶ「如是我聞」に割り当てられたパートですが、たじろいだというのは専らここに収められた文章に拠るのであります。
 就中志賀直哉に対する憤りの程は、読んでいて痛快を通り越して体の芯からゾクゾクしてきます。「弱さや苦悩は罪なのか」と問い掛ける言葉は穏便なれど、相手の喉元へ匕首突きつけんばかりの勢いで憤怒の炎の燃えあがりが、太宰の志賀批判の後ろにはある。『人間失格』と並行して書かれた随筆「如是我聞」は、太宰が目指した文学の方向や理想を推し量るに格好の材料を提供してくれていると思います。
 新潮文庫版太宰治作品集は、次に読む『津軽通信』を含めて、あと3冊。すべて読了したら機を改めて『もの思う葦』を読み返して、それを踏み台に作品集全巻一気読み直しの機会を設けたい──随筆と小説の相互補完を行いたいのです。眼光紙背に徹す読み方の労は、太宰治になら費やしても良いと思うのであります。◆

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