第2825日目 〈ルビについて。〉 [日々の思い・独り言]

 昨夜は就眠前の読書に松本清張「梟示抄」を、寝落ちするまで読んだ。今日は病院と調剤局の待合で、太宰治『津軽通信』中の「黄村先生言行録」他を。
 「梟示抄」は西南戦争の遠き発端、征韓論者であった江藤新平の挙兵から処刑までを記録文書風に書いた、清張の冷徹なる眼差しとその裏に歴史の敗者への共感とを感じさせる佳品だ。太宰の方は、戦時中に文壇の閉塞的かつ軍国主義讃美なるを嘆じて無聊を慰めるかの如く綴った、とぼけた小品である。
 両者ともに実におもしろく、読んでいるうちは視線が上っ面を舐めないように、ページを繰る手が急くのを抑えるように、注意すること幾度であったか。が、その際に一つだけ、ちかごろ頓に思うことを、改めて慨嘆したことである。つまり、振り仮名つけようぜ、と。
 歴史的事項であれば、或いは一般名詞であれば、調べれば事足りる。気にかかっても調べることせず、漫然と読み進め、また前に進むこと=読了だけを目的とするなら曖昧に済ませてしまうだろうけれど、まぁ気になる人は調べれば容易に正解へ辿り着く。或いは字面からなんとなく意味を類推して、言葉は悪いが当てずっぽうに読んでしまうことだって、できる。
 が、それが頻出する場合は? その著者独特の読み方、当て字をしている場合は? 一般名詞でなく固有名詞、殊に人名地名の類は頭を悩ませること必至なのでは?
 というわけで、わたくしが書き手と版元に嘆願したいのは、せめて固有名詞だけでもフルで振り仮名振ってくれ、ということ。歴史に材を取った一昔前の作家たちの小説、何だ彼だで漢文の素養ある人が多かったので、前フリ無しに、さも当たり前のように、万民共通の教養であることを前提に漢語が繰り出されてくる。或る程度まではこちらもわかるが、ちょっと足を踏み入れるともうお手上げだ。そうして気に掛かる人は漢和辞典や故事成語事典を総動員することになる。その煩を避けて読書に没入できる時間を増やすためにも、要所要所に振り仮名を振るのは必要だと思うのである。
 近代文学では総ルビの小説あることもめずらしくなく、それは読者層によって対処が異なるそうだが、いま花袋や漱石の復刻本など検めてみてもわずらわしい程にルビが踊っており、そのおかげで読書を中断することなく、一方で「この固有名詞はこう読むのか」と新たに知ることができて、非常に便が良い。それに齢を重ねれば重ねるにつれ、ルビのありがたさがわかってくる。つまり、それは読む意欲を湧きあがらせるのだ。ルビは誇るべき文化である。
 総ルビの復活は難しくとも、もうちょっと今日の出版物にはルビの頻度が増えても良いように思うのだが……。
 周囲の読書人から無作為にサンプルを選んで、この件については今一歩踏みこんで考察する機会を持とう。◆

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