第2869日目 〈青空文庫で太宰治「諸君の位置」は読むな。〉 [日々の思い・独り言]

 漫然と──本当はなにか目的があったはずなのだが、忘れた──太宰治の著作年譜を眺めていたら、否応なくその項目で目ン玉が止まった。件の条に曰く、「昭和15/1940年3月 『月刊文化学院』に「諸君の位置」を発表」と。
 こ、これはいったいなんだ? 「諸君の位置」とは、発表媒体から察するに、随筆のようである。『月刊文化学院』とはおそらく当時の文学科有志による同人雑誌に相違ない。それにしても、咨、まさか、太宰と文化学院が結びつくとは……!
 文化学院とは大正10/1921年、神田駿河台に創立せられた自由主義を謳う学校である。創立者は西村伊作。学監・講師陣には錚々たるメンバーが名前を連ねる。およそ日本の近代文芸史に名を残す人は残らず、駿河台に集って教鞭を執ったのではないか、と錯覚してしまうぐらいだ。創立当初は与謝野鉄幹・晶子夫妻、画家の石井柏亭、婦人運動家の河崎なつを中心に作曲家の山田耕筰、フランス文学者の秋田玄務、哲学者の和辻哲郎、物理学者の寺田寅彦、作家の芥川龍之介や有島武郎、川端康成などが、常勤非常勤臨時の別なく学生たちの指導にあたった。
 美術部同様、創立当初から学院の主柱としてあった文学部の初代部長は与謝野鉄幹(寛)である。第2代目は菊池寛、第3代目は千葉亀雄、そうして第4代目にして戦前最後の、当局によって学院が強制閉鎖される昭和18/1943年9月1日まで文学部長を務めたのが、西村伊作の同郷人でもあった佐藤春夫。就任は昭和11/1936年1月と、学院年表にある。また、文学部の学生有志による同人雑誌、『月刊文化学院』の創刊は昭和14/1939年6月であった。その題字は当初、佐藤の筆に成るものが使われていた由。因みに文化学院50年史『愛と叛逆』(文化学院出版部 1971/5)の巻頭口絵には、『月刊文化学院』の書影が載る(第29号「与謝野晶子追悼特集号」)。
 文化学院は三田と並んでわたくし、みくらさんさんかの母校でもある関係で、そのうちに簡単な学院史のようなものを、自分が通った時代の点描と併せて書いておきたい。
 ……ここでようやく太宰治の登場である。
 『太宰治全集』別巻(筑摩書房 1992年4月)の詳細な年譜に拠れば、昭和15年正月、3が日のどこかで太宰は佐藤春夫の許へ、年賀の挨拶に訪れた。「昭和十一年十月以後、破門のようになって」いたことが、併記されている(P540)。
 ここで年譜をさかのぼって該年月にあたると、成る程、膝を打って「あの事件のあった年か!」と首肯させられるのだ。昭和11/1936年は『晩年』が刊行されて太宰の作家人生が始まったメモリアルな年であるが、一方でパピナール中毒治療と麻薬禁断の目的で二度にわたって入院を余儀なくされた年であり、同時に佐藤との間に芥川賞にまつわるやり取りが行われた年でもあった(「今度の芥川賞は太宰君、キミで決まりだと思うよ」「本当ですか、いま生活が非常に窮乏しておりますので、センセイ、是非にもわたくしが受賞できるよう計らってください」→8月に選考結果出る、太宰落選→パピナール中毒による2度目の入院)。
 この一連の騒動のなかで佐藤はなかば、匙を投げた様子である。『太宰治全集』第11巻は書簡に充てられているが、太宰から佐藤に宛てた手紙はこの年を最後に途絶え、以後のものは別巻収載の書簡を含めても見附けられない。
 斯くして交流はそのまま絶えてしまうかに見られた。が、縁はふたたび結ばれる。太宰にしてみれば体調は回復し、気持ちの整理も済み、慎重にタイミングを見計らっての年賀の挨拶と相成ったことであろうが、そんな太宰と佐藤との間にどのような会話があったのか、それを伝える資料は残されていない。
 ただ1つ、話があったであろう、と推測できるのが、『月刊文化学院』への寄稿の件である。佐藤サイドから切り出されたものか、太宰の方から「どこか書ける雑誌などありましたら、ご紹介の程を……」という風に頼んだか。いずれにせよ、この日の会話が実ったことで、太宰と文化学院にただ1度とはいえ結びつきが生まれたのだろうことは、想像に難くない。
 太宰は「諸君の位置」という短い随筆を書いた。学生を叱咤鼓舞する内容である。それは昭和15年3月刊『月刊文化学院』第2号第2巻通算第9号に掲載されて、いまは『太宰治全集』第10巻に収められる。余談ながら翌る第10号に載った西村伊作の随筆「数字と偶像」(「数と偶像」とする文献もあり)が検閲・削除の憂き目に遭い、また12号でも「老獪言説」が同じ措置を受けていることを、この雑誌、この学校を語る上では外せぬ事柄であるため、敢えて付記しておく。
 「諸君の位置」の初出誌となった『月刊文化学院』については編集兼発行人の石田周三が、「『月刊文化学院』」てふ一文を草して当時を回想している(『愛と叛逆』所収 P335-39)。往時のエネルギーとパッションが片鱗ながら伝わってくる、この雑誌に関する殆ど唯一の証言というてよいのだが、「どんな人がなにを書いたか、いまになるとちっともおもいだせない」(P337)とは却って潔い。それだけたくさんの人々の寄稿があって、そのどれにも思い出深いエピソードがある、ということなのだろう。そう解釈したい。うん、太宰もね、1度だけ寄稿していたの。その随筆、「諸君の位置」はどうにも心に残らぬ1編なのだけれど、これは個人の見解です。
 なお、現在「諸君の位置」は青空文庫にて公開されている。但し、全集所収の同編と較べて青空文庫は致命的ミスを犯した。最後の段落から結びとなる3つのセンテンスをバッサリと、省いているのだ(スクリーンショット並びにプリントアウト済み)。それゆえにこそ、「諸君の位置」は青空文庫──webではなく、筑摩書房の全集(文庫版含む)で読むべき1編といえるだろう。
 削られたのは学生編集に一言した部分だが、いったい入力を担当した人物はなにを考えて、このような措置を執ったのか。校正担当者を別に置く理由はなにか。好事家によるボランティアはよいけれど、テクストに敬意と注意を払えぬ輩に任せるべき作業では、決してない。誤りあっても見過ごしてよいのなら、小学生に任せればよい。
 もしかすると、入力担当者が用いた底本には、件のセンテンスが欠落していたのだろうか? まさか! 底本に使用したのは、筑摩書房の全集である旨はっきり断りが入っている。「自分が使った底本にはそのような文章はありませんでした」と言い逃れはできない。ちくま文庫版全集を底本に用いた、とはどこにも書いていない。こちらならば、件の一節省かれているのだが、底本の表記や選択を甘く見ると(手近にある本で間に合わせようとすると)このような目に遭う、という格好の例といえよう。
 これは青空文庫が提供するすべてのテクストの信憑性に帰結する問題であり、これにかかわるすべての人物の能力にかかわる問題でもある。是非にも青空文庫の運営元並びに入力担当者・校正担当者による経緯の説明と弁解の言葉をお聞かせ願いたい。◆

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第2868日目 〈クライヴ・バーカー《血の本》が日本に登場した頃。〉 [日々の思い・独り言]

 友成純一の本を読んだという人に、「クライヴ・バーカーの《血の本》シリーズがお好きかもしれない」と紹介したのは、きっとシリーズの訳者の1人、宮脇孝雄が『幻想文学』誌のどの号だかのインタヴューにて、翻訳の際(体の器官の表現について)友成の小説を参考にしたことがある、と答えているのを覚えていたからだ。──と或る日のTwitterでのやり取りの背景である。
 そんなリプライをしたあとのことだ、「ああ、そういえばクライヴ・バーカー、しばらく読んでいないな」と、小さな懐かしさと一緒にその名、その作品を思い出し、帰宅して着換えるのももどかしく、ホラー小説を突っこんであるダンボール箱を開けて、各社から出たバーカーの文庫と単行本を引っ張り出し、机の脇に積み重ねてページをぱらぱら目繰ったのは。
 ──わたくしの10代はそのまま1980年代に重なる。その後半から頓に海外文学の翻訳文庫に異変が生じたのを、この目で確かめ、この肌で感じている。むろん、読者の側からである。
 即ち、キングの『シャイニング』が文春文庫から復刊された1986年秋から徐々に、日本の好き者たちのまわりで<モダンホラー>なる名称が囁かれ始め、ハヤカワ文庫が〈モダンホラー・セレクション〉をスタートさせてハーバートやグラントなどを、あとを追う形で創元推理文庫が〈創元ノヴェルス〉を立ちあげてテムやクーンツ、ローズを、扶桑社は後発の不利に甘んじることなく〈サンケイ文庫〉を創刊してキングの短編集やアンドリュースなどを送り出すようになった。と同時に「モダンホラー」てふ名称はイコールキング以後のホラー作家たちを総括するような、一種の便宜を図るためのレッテルとして一般名詞化した。
 同じ時期に国内ミステリでは綾辻行人がデビューして<新本格>が一大潮流を形成しつつあったのは、果たして無関係といえるのだろうか。
 さて、モダンホラーだが、キングを除いては特定のレーベルからいろいろな作家が散発的に紹介されたが精々で、特定の作家が或る程度の数をまとめて、その全貌がなにとはなし見渡せるような形で翻訳・出版される機会はなかなか訪れなかった。と、そこへ殆どなんの前触れもなく登場したのが、キング絶讃の言葉が踊り、当時としてはグロテスクな表紙イラストに飾られた《血の本》シリーズ第1巻『ミッドナイト・ミートトレイン』の作者、クライヴ・バーカーである──「キング絶讃/激賞」は9割ハズレが定説、しかしバーカーの場合は嬉しいことに例外の1割に該当した──。
 そうして今日顧みるにあの頃、バーカー以外の作家たちは読者層も売れ行きもさしたる結果を残すことができないまま、紹介は尻すぼみになっていった感がある。むろん、これはやがてバーカーも辿る道であるわけだけれど。
 ──わたくし? 当時紹介された<モダンホラー>の作者たちのなかではバーカーがいちばんのお気に入りだった。イギリス人作家であることが、贔屓になる理由の1つだった。リヴァプール生まれで、ビートルズのメンバーの誰だかと同窓とかいうエピソードも、気に入った。
 そんな話はともかく、《血の本》シリーズ全6巻が刊行されるたび、ドキドキワクワク、ビクビクゾワゾワしながら、さながら地獄めぐりでもするような気分で、夜更けにたった独りで「恐怖の博覧会」会場をガイドなしで歩くような気持ちで、血と臓器とセックスとユーモアと奇想と暗鬱が奇妙な調和を見せる短編小説群を1つ1つ、舌舐めずりしながら、読んだ。高校、学校帰りの相鉄線各駅停車横浜行の車内;窓を開け放した夕暮れ刻、隣に坐る部活の後輩のY君が覗きこみ、バーカーを読んでいる、と知ると、「よく読めますね、気持ち悪くなりませんか?」と真顔で、感心したような口調でそういうたのを、覚えている。
 そう、高校の行き帰りに読んだ。授業中に隠れて読んだ。放課後、誰もいない(使っていない)新校舎6階の空き教室(の鍵をこっそり開けて)読んだ。流石に寝る前は控えた。いやぁ、だって、夢見がよろしくなく、うなされたこと1度や2度ではなかったもの。えへ。──随分とバーカーに淫していました、あの当時は。それゆえ書く小説にも自ずと影響が出てしまうたのは仕方なきこと。けれど、それはまた別のお話である。
 1980年代後半から1990年代の終わりまで、継続して、出る本すべて購いその端から読み耽った<モダンホラー>の作家は、キングとバーカーだけである(その頃からキングは、なんだか真昼の労働者のようなイメージの作品が続いて、正直なところ、当たり外れが多かった時期であったように思う)。バーカーについては《血の本》のあとに本邦初紹介時は『魔道士』というタイトルで文庫化の際改題された『ヘルバウンド・ハート』(映画『ヘルレイザー』の、いちおうの原作)、映画『ミディアン』の原作『死都伝説』(D.クローネンバーグが悪い医者役を怪演!)、本格的ダーク・ファンタジーである『ウィーヴ・ワールド』に『不滅の愛』、『ダムネーション・ゲーム』、『イマジカ』、そうして21世紀になって『アバラット』と『心の冷たい谷』がお目見えする。刊行ペースのせいもあろうが、バーカーの作品はいつ読んでも期待を裏切られることなく、物語に没入させてくれたものだった。
 バーカーのファンタジーについて個人的に思うところあるとすれば、ホラー小説よりもずっと濃い口で(世界も人物も雰囲気も描写も、なにもかも)、強烈なイマジネーションに支配された、ダークさとハードさという点では当時ブームであった同じ英国産ファンタジーの雄『ハリー・ポッター』シリーズに優っている。『アバラット』の翻訳が中途半端なところで途切れたのは勿論、第2巻が第1巻から実売部数を落として、第3巻出版のエビデンスとなる数字を稼ぐことができなかったためだろう。売れなかったこと、評判にならなかったことが至極恨めしい。その一方で『ハリー・ポッター』と同じようなファンタジーを求める読者層に受け入れられなかったことも、「宜なるかな」という首肯してしまうのだ。
 いま簡単に調べてみると、バーカーの訳書は電子書籍と無縁の様子。良くないなぁ。これは良くないよ。読みたくても読めない状況をそのままにしては、いけない。すくなくとも《血の本》シリーズの版元、集英社はその重い腰をあげて『ミッドナイト・ミートトレイン』から『ラスト・ショウ』までの全6巻に加えて(合本にするのが良いだろう。その際は事情により第6巻へ回された「プロローグ」を、本来の位置に戻していただきたくお願いする)、『ヘルバウンド・ハート』、『死都伝説』、『ウィーヴ・ワールド』まで電子書籍化して供給してほしいのだ。
 いつの時代にもホラー小説の読者、クライヴ・バーカーの読者はいる。◆

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第2867日目 〈聖書つれづれ草〉 [日々の思い・独り言]

 「あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。/主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。」(イザ60:20)
 わたくしはこれは、婚姻を結ぶ相手との縁をいうのだと、勝手に解釈しています。<主>というが勿論、永遠なる結びつきの伴侶をいう。心も体も信仰も、この言葉の下に調和し、永久に結びついて未来への礎となる──。
 「神が結び合わせたものを人は引き離してはならない」(マコ10:9)、「信仰と希望と愛、この3つは永遠に残る。この内もっとも大いなるは愛である」(一コリ13:13)、という福音書・パウロ書簡の言葉と併せて、大切に想い、噛みしめてよくその意味するところを考えるべき言葉でありましょう。

 聖書読書ノートとしての機能を本ブログが終えて、4年近くになろうとしています。逆にいえばその後4年もだらだらと、小説やエッセイなど飽きることなく書き綴ってはお披露目してきたわけですが、いまでも時々、なんの目的を持つことなく、聖書を読みます。
 うん、訂正しよう。「目的なく」読んでいるばかりではない。出典を確かめるため、状況を確かめるため、或いはそのときの心境に即した言葉を探して、繙きもする──というか、たぶんその方がしばしばなように思う。
 でも、聖書って不思議な書物です。
 そのときの自分の気持ちにかなう言葉が、開いたページのどこかに埋もれている。そうしてそれをこちらが見附けるのを、待っているように思えてくる。勿論、「かならず」とはいえない。「ほぼ8割の確率で」というが良いところでありましょう。諫めの言葉を探しているのに開いてみたら「雅歌」であったらば、これはもうやり直しする他ありません。
 かつてディックは、『易経』を採ってその託宣を参考に小説の執筆を進めたとか聞く。実際のところはどうであったか。典拠となる文献が手許から散逸してその後買い直すこともしていないので記憶に頼った物言いとなることをご寛恕願いたい。
 されど聖書に於いても同様のことが可能でありましょう。適当に開いたページのなかに、自分の気持ちにかなう言葉を見附けられる書物なんて、この世にどれだけあるというのか。すくなくともわたくしは足掛け8年実質7年、聖書をバカ素直に最初から最後まで読んできた経験を踏まえて、或る程度まで自信を持っていえるのです;聖書はその稀なる1冊である、と。

 聖書といえば何年か前にCSで観た『THE BIBLE~選ばれし者たちの歴史物語~』というドラマ。その続編『A.D. 聖書の時代』(『A.D. the Bible Continues』)が本国アメリカではとうに放送済みなのだが、日本では未だCSで放送される気配がない。
 日本語字幕なしの輸入版DVD/Blu-rayがAmazonにて発売、またNetflixで配信されているが、できれば『THE BIBLE』同様、吹き替えで観たいのだ。配役は当然として、声優たちがこれ以上ないぐらいにハマった聖書のドラマなんて、そう滅多にあるものではなかったから。が、前作とはキャストが一新されているようなので、そのあたりは実際観てみないと判断がつかないね……。
 たしか『A.D.』はイエス磔刑から復活、ステファノの殉教やサウロの回心、ローマ最初のキリスト者の誕生までを描いている。即ち、『THE BIBLE』の最終話とかぶるところだいぶある構成。ちょっとこのあたりは記憶が曖昧だけれど、間違っていないと思う。
 もうヒストリー・チャンネルが腰をあげてくれるのは諦めて、Blu-rayを買うか、Netflixに登録するしかないかなぁ。◆

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第2866日目 〈ただ愉しみのためにだけ、ミステリ小説を読もう。〉 [日々の思い・独り言]

 高校生の頃、ジェイムズ・ヒルトン『チップス先生、さようなら』(新潮文庫)を読んだ。図書室で借りたあとお小遣いをやり繰りして購入、その後幾度と読み返していまも書架の目立つ位置に置いてある、思い出の1冊である。随分とこの作家を気に入ったのだろう、高校を卒業するまでに『失われた地平線』『鎧なき騎士』『学校の殺人』を立てつづけに読んでしまった。これらはいずれも学校の図書室にあった。感謝。
 その『チップス先生、さようなら』の開幕間もなく、先生の人物を紹介するに際して作者は、間借りしている部屋の描写をして本棚にクローズアップしたとき、いちばん下の棚にソーンダイクなどの探偵小説の廉価版がぎっしり詰まっていて、先生は時々このような小説を読んで愉しんでいた、と書く。その光景は瞬く間に己の脳裏へ、これ以上ないぐらい鮮明な映像となって焼きつき、ふとした拍子(たとえば書架の片附けなど行っているとき)に記憶の底からよみがえる。
 つい先日、何年振りかで読み返した。件のページへ差しかかると、ああ、と嗟嘆してしまったのである。置き場所はともかくとして、先生の探偵小説への接し方と、自分のミステリ小説への接し方は、とってもよく似ているな、と、感じたのだ(不遜ないい方で恐縮だが)。
 小学生の頃からミステリ小説には親しんできた。当時特に熱中して現在までその様子が変わらない対象はホームズであり、じつはルパンにあまり関心がなく、少年探偵団は1作も読まずに成長してきたことは、別に書いたことがある。
 が、どれだけたくさんの作品に触れて中毒患者を自覚しながら次から次へと読み、どれだけ特定の作家へ惚れこみ舐めるように読み漁り、雑誌や書評集或いは評論など読み耽ってみても、他のジャンルのように筋の通った読み方はできず、専らミステリ小説へ主軸を置いた文章を執筆する者ではない、と自覚している。
 なにかしらの目的意識の下に量を読み、体系化するようなジャンルではなかったのだ。わたくしにとってミステリ小説は、愉悦の域を超えるものでは決してない。評論をぶち、論究に耽るタイプでは、なかったのだ。
 わたくしはミステリ小説について<なにか>を発言できる側になりたかったのだ、それが自分の手に余り、思考もそのようにできていないことを棚にあげて、どうにかして<読者>の側から<研究者>の側へシフトしたかったのだ。でも、それは所詮見果てぬ夢で、自分の力をこの年齢になっても正確に把握できなかったわたくしの未熟を露呈しただけの話である。いや、お恥ずかしい。
 しっかりとそれを自覚してしばらく経つけれど、以来ミステリ小説は純粋に<ナイトキャップ>の役目を果たしている。ミステリは文学か、然り文学であるべきだ、なんて論争が昔あったようだが、正直なところどうでもいい話だ。扱われる事件や謎がどうあれ、それが何歳になっても胸をワクワクドキドキさせてくれさえすれば、構わない。
 最近は東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』第3巻を、欠伸が止まらなくなり、目蓋が重くなってくるまで読み耽るのが、寝しなの愉しみである。翌日の勤務に差し支えないように、そも朝ちゃんと起きられるように、とセーブしなくてはならないのが悩みだけれど、まぁ、仕方ありませんね。面白いんだもの
 ミステリ小説を愉しんで読めなくなったら、わたくしは潔くこのジャンルの読者であることをやめるよ。◆

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第2865日目 〈野原一夫『太宰治 生涯と文学』を買いました。〉 [日々の思い・独り言]

 スーツを直しに出かけた帰り、野原一夫『太宰治 生涯と文学』(ちくま文庫)を古本屋にて購入。同じ店で以前、『回想 太宰治』(新潮文庫)を見附けて買った。ちょうど、『新ハムレット』所収「女の決闘」を読み始めたところで、しかも『太宰治 生涯と文学』を開いたら、偶然にもこの短編に触れたページが開いた。一瞬の逡巡は途端払拭され、他の文庫といっしょにレジへ運んでいた。
 思い返せば、一人の作家をずっと読み耽っている間、研究書や回想など並行して購うたことある作家は、わずかだ。記憶をたぐれば鏡花と三島、E.ブロンテとドストエフスキーぐらいだ。そこに太宰が加わる。古典時代にまで対象を広げれば、定家卿と秋成が登場する──作品となればホームズがあるが、いまは脇に退かしておこう──。好む作家、淫した作家はまだあるにもかかわらず、どうしてこの4人だけなのだろう。
 敢えて一言で回答するなら、自分と相通ずる部分あるを見、或いは狂おしいまでの憧れを抱くところあり、魂の底からの共鳴を覚えたからだ。いわば骨の髄まで惚れこんだ作家たちについて、作品だけでなく興味関心が人物や伝記、知己の人たちの手に成る証言の類を、無理ない範囲で、偶然に任せつつ1点1点、ゆっくりと買い集めてゆくのだ。積もる頃にはその作家への<愛>はもはや進化てふ言葉ではいい表せぬあろう。
 それにしても書簡や伝記、回想のみならず写真アルバムまで文庫で入手可能な作家なんて、太宰治以外にあるだろうか。やっぱりみんな、太宰が好きなんだ。だから売るし、買うんだね。泉下の三島は歯ぎしりしているかな。◆

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第2864日目 〈中居くんがジャニーズであるうちに、続きを書かなくっちゃね。〉 [日々の思い・独り言]

 うぅん、困ったなぁ。事前にわかっていたら、ちょっとぐらい無理してでも続きを書いていたのに……。先日、元SMAPリーダー中居正広さんの事務所退所の記者会見が行われました。それを知って思うたのが、「第2826日目 〈影の人生を努力にささげる人たち;ジャニーズのタレントたち。〉」の後編、<中居正広編>が未だ手つかずなことでありました。
 時機を逸した、と弁解して逃げることもできる。が、かれが事務所にまだ籍を置いている今年度中に、いちどはお披露目して世に曝しておきたい。
 ──そも中居正広の読書家たる面をフィーチャーするつもりで、がらにもなく件の原稿を書き始めたわけでしたから、そのことを書かずして放置するのは不全としか言い様がないのでありました(正直なところ、前稿に於いてどうしても書いておきたかったのは、木村拓哉と岡田准一の2人だったからね)。まぁ、有り体にいえば、なんだか落ち着かない気分がする。なにが「to be continued.」だ、嘘つきが赦されるのも限度がある。
 が、時は満ちた……否、いまを逃すことはできない。好機? ノン。崖っぷちである。東尋坊の断崖、その際に海に背向けて立っている心境である。野村監督が亡くなり、その著書にSMAP舵取りの範を仰いだ中居正広がデビュー以来籍を置いた事務所を去る。これだけのことありなお前稿の続きの筆を執らずに涼しい顔でいられるだけの厚顔無恥では、わたくしはない。
 ──がんばって、書きます。◆

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第2863日目 〈太宰治『きりぎりす』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『きりぎりす』は太宰中期、昭和12/1937年から昭和17/1942年の間に書かれた小説を収める。全14編。十八番の女性の告白体を始め、私小説、随想風とあいかわらず太宰の文体、文章の巧みかつ流麗堅固そうして自在な技を堪能できる。勿論、題材も多彩。津軽時代の回想に端を発した話あり、心中を決めながらどこか煮え切らぬ夫婦の話、友人のエピソードを交えながら犬嫌いの心情を吐露して最後は弱きものへの同情を覚える話、故郷での評判を機にしいしい同郷人の集まりに出かけて失態を演じる話、ろくでなしの夫にさんざん苦労させられた末遂に愛想尽かした妻の告白、先輩作家に滅裂な書簡を送ってたしなめられる話、家族の厄介者を冷徹した眼差しで描く作品、etc.etc.。
 1編読了する毎、時に1行ばかりの素っ気ない、時にページの余白をびっしり埋める量の感想を、綴っている。なにかしら共鳴するところある文章にはカッコして、件のページの上端を折っているから、巻を閉じるとその部分だけがわずかにふくらんでいる。痕跡を、残したのだ。
 読了から本稿起草まで、『きりぎりす』を読み返していたのだけれど、さすがにこの短期間では感想も大きく変わらないことに安堵、確認した上で、いまキーボードを叩いている。が、早くも忘れかけている細部に改めて感じ入ったことでもあった。
 冒頭を飾る「燈籠」はわが身を顧みることを強いられもする、何度読んでも胸に迫るところある哀れとも哀しとも思う1編。「おしゃれ童子」を読んで伊達者ブランメルの遠縁のように少年を感じ、ひそかにボー・ダザイと口のなかで呟いて吹き出しちゃう。「姥捨」を太宰風『夫婦善哉』のように思い、「善蔵を思う」に太宰流<ホントのハナシ>を感じもした。「佐渡」を読んでは罵詈してそれを遠慮なく余白に書き連ね、どうしてこんなものを書いてくれちゃったのだろう、としばし思案に暮れたりもしている。
 そうしてわたくしにとって本書の白眉は、表題作の「きりぎりす」、最後に並んで置かれた「水仙」と「日の出前」の3編である。
 「きりぎりす」にわれはいふ。曰く、「画家の亭主は唯の畜生夫である。ええ格好しいのペテン師にして生活不能者である。/これまで耐え忍んできた女房の抑制きいた語りゆえに佳品となっている。この亭主は誠の、正真正銘の、真性の、治癒不可なるクズである。およそ人のクズ、男のクズを描かせて太宰の右に出る者おそらくなく、そうして太宰程筆のなめらかになる小説家も滅多にあるまい。/そのような人物を拵えて、またそれに相対する性質の語り手を拵えて、人間の見栄とか二心、お調子の良さとそのあとに訪れる不協和音など、真正直に、誠実に描いて、かつ普遍のものへと昇華させる才に長けたるは、まさしくこの天才に為せる業である」と。
 「きりぎりす」に作者はいふ。曰く、「誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います」(P187)と。嗚呼、この美しさよ。慎ましく、慎ましく、人よあれ。
 「水仙」にわれはいふ。曰く、「<太宰治>のイメージから相当外れた異色の小説。一歩踏み誤ればサイコ小説であるが、勿論本作はそのように読み捉えるべきではない。/(巻末奥野健男の)解説にあるように善意が人を圧し潰し、変節させるという事実を敢えて言葉にして暴露した、ストレートで痛切なる一種のリポートである。そうして圧し潰され、変節させられたがゆえに、その人の能力(才能)が本物であったか疑わしく思えてくるというのは、プロアマ問わずなにかをクリエイトする人ならば胸に突き刺さる部分あるのではないか。奇妙な味の小説、と、乱歩が使ったのとは異なる意味合いでこの言葉を採り、本作をそう評したい」と。
 「水仙」に作者はいふ。曰く、「水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方である。なんだか天才の絵のようだ。おのずから忠直卿の物語など思い出され、或る夜ふと、忠直卿も事実素晴らしい剣術の達人だったのではあるまいかと、奇妙な疑念にさえとらわれて、このごろは夜も眠られぬくらいに不安である。二十世紀にも、芸術の天才が生きているのかも知れぬ」(P324)と。嗚呼、偽とは、義とは、果たしてなにぞ。
 「日の出前」にわれはいふ。曰く、「けっきょく犯人は誰なのか、そも自殺か事故か、ハタマタ父なる人による殺人かてふ疑問あり。よもや仙之助氏が、と疑うところあり、また『津軽通信』「犯人」に様相似るところあり、など、読了した瞬間より<フーダニット>(犯人は誰か)に関心を集中させてしまうと雖も、なんとむかむかしてくる小説かという想いがそれに優る。むかむかする、とは、作品の好嫌に拠るにあらず。家族の厄介者たる勝治の人物造形があまりに肉体と感情備えたるものに思えて、却ってそれゆえにこそ生身の人間に向かい合ったときに覚える腹立たしさなど感情を荒げるのである。/勝治は救い難く許し難く面罵したき男にして、その言或いは動、人を欺きお金をまきあげ無駄に遣う、家族に冷たくまた暴力腕力で己を貫き他を退け従わせる。それらのことごとくが鏡に映りこんだ自分を見る気がして、心の底から嫌悪し、目を背けたくなるのである。つくづくイヤである。イヤなものはイヤだ。/太宰がこのような作品をも描いていたことにわたくしは、驚く。成る程、とも思う。もっとこの方面に突き進んだ小説を読みたかった。もしかすると太宰はプロパー作家よりも凄惨なその種の小説を世に送り出していたかもしれない。そう思うと、太宰の自死にやりきれないものを感じる。終の妹の一言──「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」──あたかもカフカ『変身』に於ける、ザムザ青年死後のかれの家族を思い起こさせる。/(扉に書きつけた感想を、もう一つ)悪漢になりきれぬ意志弱く薄情乱費を旨とする小粒な洟垂れ小僧、斯くして死人となりて遺族に安寧をもたらす」と。
 「日の出前」に作者はいふ。曰く、「勝治だって、苦しいに違いない。けれども、この小暴君は、詫びるという法を知らなかった。詫びるというのは、むしろ大いに卑怯な事だと思っていたようである。自分で失敗をやらかす度毎に、かえって、やたらに怒るのである」(P342)と。嗚呼、これ自分を偽り世を偽る小心者に固有の心理なり。
 また曰く、「少女は眼を挙げて答えた。その言葉は、エホバをさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。/「いいえ、」少女は眼を挙げて答えた。「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」(P353-4)と。嗚呼、心胆震えて止まらずとはまさしくこれなり。
 長くなった。もう筆を擱く。そろそろ右手も限界だ。
 結びに、本書中別格でわたくしの好きな短編である「燈籠」から──
 「私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たちの一家が、ずいぶん綺麗な走馬燈のような気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます」(「燈籠」 P17)と。
 家庭のささやかな幸福とは、こういうことだ。慎ましく、凜として、気高くあれ。◆






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第2862日目 〈”あなた”が“ここ”にいればいいのに。wish you were hear.〉 [日々の思い・独り言]

 もう来週でわたくしはここからいなくなるのである。残念でならぬ。上のウケや覚えがどうあれ、六本木一丁目での仕事は愉しかった。作業に没頭して、あっ、という間に時間が経ってしまう感覚、作業繁忙だと残業願い出たくなる程に充実した気持ちなど、じつに何年振りか。多少の手空きな時間が生じるのは仕方ないとしても、それがそのまま無意味な暇を持て余すことにつながるわけではない。やることがある、というのは幸せなことである。
 今日は金曜日、令和02年02月21日仏滅。わずかに仕事が途切れている間、わたくしは刹那夢想の世界へ入りこむ。下の階までエレヴェーターで降り、そこから地下鉄の改札がある階まで違うエレヴェーターで降りる。すると、エレヴェーター・ホールに、”あなた”がいるのだ。どこかで食事する約束でもしたのだろうか。近くまで来たら退勤の時刻だったので、不意討ち喰らわすように待ち伏せ……もとい、待っていてくれたのか。勿論、あなた独りではない。親がいて、子供と孫がいる。これから先は火曜日に日附が変わるその瞬間まで、幸せだけがわたくしにはある──。
 が、現実は然に非ず。そこには誰もいない、何事もない。群衆のなかのロビンソン・クルーソーとは、わたくしのことだ。ああ、”あなた”が“ここ”にいればいいのに。wish you were hear.
 わたくしは泉ガーデンをあとにして、いずみ坂から道なりにアークヒルズ一帯へと、歩いてゆく。もしかするとどこかにひょっこり、麻布御用邸跡碑に遭遇するのではないか、と淡い期待を抱きつつ。アーク・カラヤン広場からテレビ朝日の前を過ぎて、サントリー・ホールの懐かしい扉を溜め息と共に眺めて、またここで音楽を聴けるようになるのだろうか、と思うてみてから、またぐるぐると坂を降りて階段を登り、六本木一丁目から溜池山王へ至り、高層マンションなど仰ぎ見て「東京に住みたい、このエリアに住みたい」と心底より希望しているうちに、この場所;赤坂インターシティAirヘ辿り着き、地下1階吹き抜けの丸テーブルにて上階にあるスターバックスで買ったコーヒーを飲みながら、ちと寒さを感じながら、モレスキンの手帳に本稿を書き綴っている。
 麻布御用邸の跡は見附けられなかった。なにかしらのサインになる碑は視界に映らなかった。無念である。が、道すがら見附けた公園内の案内板に、かすかな希望をつなげるかもしれない。昭和13年と平成21年の地図を並べて掲げる案内板が、あったのだ。同じ案内板には周辺にある坂の由来が記されてある。それを、写真に撮った。帰宅してからiMacの画面で見れば、なにかしらの発見があるだろうか、と期待して。結論;発見はなかった。やれやれである。
 為すを望んだ予定は、斯くしてあっさりと済んでしまった。これからわたくしはどうするか。──ああ、そうか。考えるまでもなかった。わたくしはいま、どこにいる? そう、”あなた”に所縁ある場所に近接する地域で、わたくしはいまこうして呆けている。思い出の場所へ足を向け、いつまでこの世に留まらねばならぬのか、せめてもの繰り言を述ぶか。哀れその人、哀れその魂。◆

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第2861日目 〈旺文社文庫を知っていますか?〉 [日々の思い・独り言]

 いまでも学校図書館に備え付けられているのだろうか、旺文社文庫は? わたくしの通った高校の図書室には、学校図書館向けに特別あしらえしたてふ単行本のように、ボール紙で厚くした若草色の表紙で装われた旺文社文庫が、文庫コーナーの主役を占めていた。度重なる貸出による表紙の破損等を想定して、あらかじめそのようにしていたと思われる。
 読書の面白さ、愉しさに本式に目覚めた高校時代は別のいい方をすれば本代を如何に捻出するか、どの本を買うか取捨選択の目を養われる時代でもあった。もっともっと、と新しい本を求める飢えて貪欲な心には、自分で買える本に限りが生じる。その渇きを癒やす手段、不足を補う手段が、図書館(室)となるのは必然であった……むろん、わたくしだって例外ではない。
 図書室に入り浸っていたわけでもないが、週1で通うことになり(あぁ、いろいろ事情あってな)、ふと目に付いた海外作家がエドガー・アラン・ポオ(エドガァ・アラン・ポオ)である。旺文社文庫の、刈田元司訳『黒猫・黄金虫 他四編』──これは二重の意味で<出会いの書>となった──1つはポオとの、1つは旺文社文庫との。
 ポオに限らず旺文社文庫の特徴でもあるけれど、名作とされるフィクションのたいていには挿絵が添えられ、解説として作者の懇切な伝記と作品解説、そこに載らぬ代表作や年譜などが付く。その1冊で作者について詳しく知ることができ、またもっと他の作品を読んでみたいと思う情熱駆り立てられた人への指針になるような、そんな本作りがされていたのだ。旺文社文庫でポオを読んでいなかったら、そのあと躊躇いなく創元推理文庫の全集を書店のレジへ積みあげて夏の数週間、流れ落ちる汗をどうにか留めて読むような少しだけ未来の自分はいなかっただろう。
 最近は見掛けないが某SNSで、特定の文庫レーベルを全点揃えようと見境なく買い漁る酔狂漢が居った。その人の集めるのはブックオフを周回すれば概ね集められるような代物であった。
 わたくしがもし同じことをするならば、と妄想すれば、その対象は旺文社文庫以外にあり得ぬ、10代の読書に益あり彩り添えた、わが鍾愛の文庫レーベルだ。古本屋さんで旺文社文庫を見附けると、思わず手にして未蔵の1冊だったら矢も盾もなく買ってしまう(ときが、どちらかといえば多い)のは、それゆえか。
 そんな風にして、縁あり集まってきた旺文社文庫がいまどれだけ、書架に収まっているのか、正確なところは把握していない。が、棚の最前列にあるだけを数えてみると、30冊あった。調べれば3桁は超えよう。ポオは勿論、O・ヘンリー、ラム姉弟、ヘッセ、ハーン、ブロンテ、スタインベック、フールニエ、ゾラ、ドーデ、シュトルム、ワイルド、スティーヴンソン、鏡花、鴎外、独歩、壺井栄、実篤、犀星、達治、春夫、白秋、朔太郎、湖人、亀井勝一郎、戸板康二、池田彌三郎、奈良本辰也、渡辺文雄、小室等、エトセトラエトセトラ。どれもこれも、これまでの人生の一コマで読み耽った、思い出深い文庫たちである。このなかには亡き婚約者が遺したものも混ざっている。過半は火事をくぐり抜けてなおわたくしに寄り添う本である。わたくしが焼き場で焼かれるときは棺の底にこれらの本を、他のものといっしょに敷き詰めてほしい。
 今後も旺文社文庫を、折に触れて買い集めてゆくことになる。この文庫の看板の1人であった内田百閒は、実を申せば2冊しか持っていない。亀井勝一郎の文庫を全点集め終わったら、こちらの方も……と企むこと度々であるが、でもおいら、そこまで百閒先生に耽溺しているわけでもないしなぁ。どうしましょうか。◆

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第2860日目 〈筑摩書房は小山清の全集を文庫で出してくれぃ。〉 [日々の思い・独り言]

 今日は短く行くぞ。と、柄にもなく宣言したところで、本日のエッセイの始まり、始まり。
 『ビブリア古書堂の事件手帖』を読んでいなかったら、小山清の作品に触れることはなかったのではないか。太宰治の小説を読んでいると、小山に仮託したとされる登場人物に出喰わしたりする。その流れで小山清の作品集を探して読むことがあったかもしれない。が、現実的に考えて、可能性は低かったかも。物事にはすべからくタイミングというものがある、ということだ。
 結果的にわたくしは『ビブリア古書堂の事件手帖』によって小山を知り、ちくま文庫から作品集が出されたときに飛びつくようにして読み、あまりの感激に同じ筑摩書房から出る<大人の本棚>シリーズに収まる1冊、続けて講談社文芸文庫の作品集へ手を伸ばし、偶然という幸運に恵まれて新潮文庫の作品集を手に入れた。初読のとき以来、梶井基次郎と南木佳士と同じく自分の心のずっと奥に大切にしまっておきたい作家の1人にまでなった。要するに、わたくしは小山清の作品に惚れてしまうたのだ。
 その後、筑摩書房から小山清の全集が出ていると知り、その増補版を古書目録やネットオークション等で探しているが、偶さか目にして注文を入れても外れることが続いている。幸いにして市内の図書館が架蔵しているので取り寄せてもらって読み、前述の文庫版作品集には入らぬ随筆にも小説と同じく人生を諦観し、慈しむ眼差しが捉えた事象に、深い興趣を感じたりした。是非にも架蔵した全集である。そう思わせるだけの香気が、そこには馥郁と漂っている。
 しかし、現実的な面で問題が生じるのは否めぬところ。買いこんだその全集を(1巻本とはいえ)如何に家へと運びこむか、無事運びこめたは良いもののそれをどこに置くのか、それに先立つ問題として、帯附き美品が果たしてそう都合よく見出せるものであろうか、加えてなによりも軍資金の問題を解決せねばならぬ。
 それをクリアするための、たったひとつの冴えた解決法がある。要するに筑摩書房が小山清全集を文庫化すればよいのだ。それで物事はすべて円満に解決する──よね? なんというても文庫版全集の雄、数多あるレーベルのなかで誠実さと丁寧さには定評ある筑摩書房だ。前例も沢山ある──漱石、基次郎、賢治、龍之介、鏡花(「全集」ではく「集成」だけれど)、百閒、一葉、敦、オースティン、ドイルのホームズ、久作エトセトラエトセトラ。
 そうしてなによりも、師・太宰治。このラインナップに小山清が加わることになれば、きっと泉下の弟子も落涙されるに違いない……。師弟仲よく全集が同じ文庫に収まる幸福、なににも代え難き喜びといえるのでは? 事の序でに開高健・田中英光も含めてしまえばよろしかろ。
 わたくしはなによりも、『小さな町』に入る短編「よきサマリア人」を文庫で読みたい。「道連れ」「雪の宿」を文庫で、ページの端が丸まるまで、角が擦れるまで、読み耽りたい。これらは架蔵する3冊の文庫に載らぬ作品だ。過去に他から出た文庫にはあるかもしれないけれど、自分が読める状態にないのは事実だから、こんな風に信仰告白する。
 斯様な想いからわたくしは、筑摩書房に文庫版『小山清全集』の刊行を切に希望する。単行本の全集の文庫版は流石に難しいだろうから、せめて小説全作、随筆1/2は読めるようになったら嬉しい……。分冊になっても、勿論構わない。むしろ、大歓迎。書誌データや解説が充実していれば、もっと喜ばしい。
 如何であろう?◆


ビブリア古書堂の事件手帖 ~栞子さんと奇妙な客人たち~ (メディアワークス文庫)

ビブリア古書堂の事件手帖 ~栞子さんと奇妙な客人たち~ (メディアワークス文庫)

  • 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
  • 発売日: 2011/03/25
  • メディア: 文庫



落穂拾い・犬の生活 (ちくま文庫)

落穂拾い・犬の生活 (ちくま文庫)

  • 作者: 小山 清
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/03/01
  • メディア: 文庫



小さな町 (大人の本棚)

小さな町 (大人の本棚)

  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2006/10/11
  • メディア: 単行本



日日の麺麭/風貌 小山清作品集 (講談社文芸文庫)

日日の麺麭/風貌 小山清作品集 (講談社文芸文庫)

  • 作者: 小山 清
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/07/11
  • メディア: 文庫



小山清全集

小山清全集

  • 作者: 小山 清
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2020/02/20
  • メディア: 単行本




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第2859日目 〈汚せ、汚せ、汚せ、その本を!!〉 [日々の思い・独り言]

 本を汚すことにいつからか、抵抗がなくなった。学校の教科書や資格試験の参考書を除いては覚えているかぎり、本に書きこみをした最初の記憶は20代中葉の頃でなかったか。専ら電車のなかで岩波文庫の八代集を読み通したときだ。
 1994年3月、春のリクエスト復刊で『後撰和歌集』から『三奏本 金葉和歌集』『詞華和歌集』まで、古本屋で大枚叩かねばならなかった5つの勅撰集が書店の平台に並んだ。それを承けて改めて、『古今和歌集』と『千載和歌集』『新古今和歌集』を単独ではなく<八代集>という一つの大きな流れ──日本文化の美意識の温床ともなったこれらの和歌集を、最初から丸ごかしに、成立した順番に通読してみよう、と思い立った。電車のなかで、喫茶店の片隅で、夕暮れ刻の図書館の窓側の席で、自分の部屋で、シャープペン片手に気に入った歌に符牒を付けて、目次にその数を書いた。
 これが自発的に本を汚した、一等最初の記憶である。
 そのあとで徹底的に書きこんだり傍線を引いたりして、半壊寸前の状態にまでなった本はといえば、即ちそれは聖書であった。然り、本ブログにて使われた新共同訳聖書(旧約聖書続編付き)である。
 聖書を読み終えてからはしばらく、そのようにして何事かを書きこんだり、ページの端を折ったりなど、とにかく読んだ痕跡を残すような読書はしていなかった(ように記憶するのだが、さて?)。椅子をぐるり、と廻して書架を眺めて腕組みし、回想を試みるもまるでヒットする本が思い浮かばず、思い出すのを助けてくれる本が目に付くこともない。ということは、仮にあったとしても、然程印象に焼き付くものではなかった、ということだ。付箋をペタペタ貼った本なら、幾らでも思い浮かぶし、書架を眺めたところで視界に入って自己主張してくるのだが。
 が、ここ数ヶ月、わたくしは特定の本だけを相当に汚すようになった。本、というよりも文庫だね。遠慮なく、琴線に触れた文章のあるページの上端を折り、その文章を括弧で囲み、そうして最近の何冊かは余白に感想など認めている。対象は、新潮文庫版太宰治作品集である、就中『晩年』『二十世紀旗手』『津軽通信』あたりから顕著になってきた。感想文を書く下準備ともメモともいえようが実際はもっと単純な話だ。「この小説を読んでボクが思ったこと」を綴っているに過ぎない。とはいえ、これがあとになってとっても役に立つことは事実である。
 今日(昨日ですか)、太宰の『きりぎりす』を読み終えた。作品ごと終わりのページに1行程度の感想を書き付けたものもあり、余白をびっしり埋めて各作扉にまで及んでいる場合もある。目次にはお馴染みな符牒が舞い、なにやら一言メモがその下にあったりする。開き癖がすっかり付いた文庫は、書店のカバーを外せばぱっと見は綺麗なものだ。が、巻を開けば人の手を経た本特有の紙のめくれ方、感触である。世界でたった1つの本というに相応しい、手垢にまみれ、手擦れのできた、読んでいるときの空気と記憶が詰まった、ゆめ棄てること能わざる“それ”──。
 このような形でわたくしは、『きりぎりす』読了をご報告する。いい方を換えれば、遅かれ早かれ、その感想文が本ブログにてお披露目される、という意味でもある。明日は読み返す日に充てるつもりのため、お披露目は明後日以後になるだろう。『新ハムレット』を読み始めるのも、明後日以後になるかな。◆

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第2858日目 〈枯れ木に花を咲かせましょう;嗤いながら、『呪怨』を観る。〉 [日々の思い・独り言]

 あのね、みんなが怖い、怖いっていうホラー映画の殆どに、「え、どこが?」と返してしまうわたくしは、もはやそのあたりの感覚が麻痺しているのだろうか。いまではなにを観ても基本、心中ツッコミの言葉を呟き、時には呆れの溜め息、また失笑苦笑くすくす笑い。
 とはいえ、わたくしにもウブな時期はあったのだ、勿論。『悪魔のいけにえ』『死霊のはらわた』『デモンズ』『血の祝祭日』等々、いまでは鼻歌交じり、欠伸混じりで鑑賞できるが、初見の当時は怖くて観たことに後悔を覚え、そうして或る時期まで観るを控えていた映画は多い。
 本朝のホラー映画でそれに匹敵するような作品──初めて観たときは震えあがったけれど、いまでは当時の怖がりっぷりもどこヘやら、という作品あるとすれば、その最右翼に挙げられるべきが、『呪怨』であった。
 顔は血まみれ、全身は骨まで透けて見えそうな薄灰色の肌を持った不健康そのもの、四つん這いで移動するのが大の得意な佐伯伽椰子とその実子、母と同じく不健康な肌の色に加えて歌舞伎役者まがいの隈取り目立ち、四季を通じてブリーフ一丁で駆けずり回り時にソファの上で体育座りしている俊雄による、<呪い>という名の<笑い>が全編に満ちあふれて波状攻撃してくる、至高のファルス(笑劇)である。
 実はこれまでシリーズ全作をまとめて観ることができなかった。TSUTAYAへ行くたび、まとめて借りちゃおうか、と思案することあれども他の作品へ目移りしてそのまま忘れて帰ってしまうが毎度のオチ。偶さかシリーズのどれか1作を単独で観てしまったり、或いはYouTubeで<極めつけの恐怖シーン・まとめ>とか銘打たれて編集されたものを怖い物見たさで閲覧して、それなりに恐怖したことありと雖もまとめて鑑賞するにはどうにも腰が重く、爾来幾年過ぎたやら。
 そんな過去があったにもかかわらず。現在では当時味わった恐怖など微塵も思い出すことなく平然と、お茶を飲みながら『呪怨』を観ることができる。
 昨年であったか、CSのファミリー劇場他で全作が放送されたのを契機に、一所懸命内蔵HDの容量を開けて録画に臨み、休みの1日を割いて<イッキ観>を敢行したわけだが……観る前に抱いていた不安や躊躇い、後悔の類──「なんで録画しちゃったんだろう?」「4倍速ぐらいで早送りして、もう“観た”ことにしちゃおうか」etc.──は1作ごとに薄れ、終いには「なんやねん、『呪怨』ってホラーやなくてドタバタ喜劇やったんか」と思うに至った。いや、まったく。
 衝撃の結論に腑抜けたものを感じ、そのあとで襲ってきた脱力感と失望感、そうして疲労感に、翌日の勤務を休みたく思うた程でしたよ(『残穢 ──住んではいけない部屋──』を続けてみることで、どうにか出勤の意欲は振り絞りましたが、これって偉くないですか?)。
 テレヴィの画面、雨の学校、病室、遺影、床から後頭部から、布団のなか、と、所構わず節操なく現れては相手を嬉々と呪殺しまくる佐伯伽椰子(呪殺は彼女の生きがいであります!)。彼女のアクティヴぐあいは是非にも他のホラーヒロインに見倣ってほしいところがあるが、それでも敢えて一言したい。伽椰子、お前はやり過ぎだ。殺しすぎだ、というのではない。殺りたければ気の済むまで殺ればよい。
 どうしてそんなにウケ狙いな出現の仕方ばかりするのか、と小一時間問い詰めたいのだ。事前の打ち合わせや仕込みの都合もあろうが、お前の出現シーンは大概が演出過剰で観ているこちらはシラケてしまう。このあたりは他のホラーヒロインたちの出演映画を観て、勉強してみては如何か。謙虚な姿勢をゆめ忘れぬことだ。昔ながらの「ヒュー、ドロドロ」の方がお前の出現方法よりもずっと怖いよ。
 あと、小林センセーへの思いを綴った日記を、簡単に見附けられてしまうような場所へ隠すことはお奨めできない。それで隠したつもりなのだろうか? そんなに大事ならば、隠し場所にもっと知恵を絞れ(もっとも、お前にどれだけの知性があるのか、知ったことではないが)。見附けてください、読んでください、逆上してください、罵ってください、折檻してください、殺してください、と嘆願しているに等しい。すべては夫よあなたの御心のままにアーメン。剛雄でなくてもこれじゃぁ、気分を害すよ。伽椰子になけなしの想像力があれば、このような惨事は起きず、されど残念ながら『呪怨』もこの世に生まれ落ちることなかっただろうから、まぁ。結果オーライというべきか?
 もしかすると伽椰子、生前のお前はドMだったのか? ならばお前は専業主婦になど収まるべきではなかった。夫の目を盗んで平日昼間はどこか場末のSMクラブでM女として働くべきだったのだ。
 それと、俊雄。いまどきブリーフなの、とは訊かない。それは俊雄のアイデンティティを否定する質問だ。かれの個性を認めてあげなくてはいけない。
 が、「ニャー」とか「ミャア」とか馬鹿の一つ覚えのように猫の鳴き真似するだけでは、じきに誰からも相手にされなくなって、路線変更を余儀なくされてしまうよ。嗚呼、また俊雄が猫やってるよ、飽きたっつーの。そんな風にいわれたくはないだろう?
 それにな、猫嫌いの人間にしつこくそれやったら、蹴飛ばされてフルボッコにされるで。うん、わたくしならそうするね。猫の鳴き真似して可愛がられかつ許されるのは凛ちゃんぐらいだよ。いっそのこと、弟子入りでもしてきたらどうか。
 忌憚なくいうて、『呪怨』シリーズとは世にも愉快なシットコムである。恐怖の要素はことごとくお笑いに変換され、全編これ抱腹絶倒を約束された、役者揃い踏みなシチュエーション・コメディ。伽椰子よ、俊雄よ、かれらの弾けた演技に彩りを添える助演者たちよ、キミたちは活躍の場を映画やドラマの世界に求めぬ方が賢明であるまいか。佐伯伽椰子座長『呪怨』一座は今後、M-1グランプリ出場を目標に切磋琢磨すべきだろう。ああ、そうそう。くれぐれも結果が気に喰わないからとて審査員たちを呪殺することなかれ。そんなことしたら、怨むで?◆

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第2857日目 〈はじめての村上春樹;『辺境・近境』〉 [日々の思い・独り言]

 高校生の頃に『ノルウェイの森』が爆発的に売れて、社会現象にまでなった。『はなきんデータランド』の<書籍>ランキングでは長らく首位を守り、乗換駅の地下にあった書店の平台にはいつもこの上下2巻、赤と緑の表紙カバーに金色の帯が掛かった単行本が並べられていた。ご多分に洩れず、わたくしも読んだ。なんだか大人の小説を読んだように思い、それからしばらく目眩のするような濃密な読書の時間を過ごした。が、作者との付き合いがその後続くことはなかった。
 バブル崩壊の衝撃をもろに喰らって就職浪人のまま学校を卒業して数年が経った20代後半、大学生協の書籍部で『辺境・近境』(新潮社)という本を手にした。紀行作家になりたくて、あちこち旅行しては写真を撮り、文章を綴って、仕事をしたい雑誌の編集部に送って営業らしいことをしていた頃でもある。
 当時はどのような紀行書や雑誌を読み散らしていただろう。そのなかにあって『辺境・近境』は頗る付きで面白かった。否、当時のわたくしには唯一無二の聖典と映った。笑わば笑え、真正直に話された事実は得てして失笑を買うものである。それまでに読んでいた他の本はといえば、沢木耕太郎『深夜特急』と蔵前仁一『ホテルアジアの眠れない夜』、宮脇俊三『時刻表2万キロ』、和辻哲郎『古寺巡礼』などなど、ド定番といわれる作家・作品であったが、正直なところ、羨望こそすれそれはどこか一歩引いた冷静な感情で、溺れるぐらいに惚れこむのは難しかった。
 そこに現れたのが、書籍部の平台に置かれた『辺境・近境』である。そのジャンルの本を片っ端から読み漁りたい熱に浮かされ、かつ範としたき作家を求めていたその頃に、遭遇してしまったのだ。本を手にするときになにかしらの予感はあったかもしれない、目次に目を通し、イースト・ハンプトンやノモンハンの文章を摘まみ読みして、それまで自分が親しんできた外国文学の翻訳にも似た文章に一気に引きこまれ、讃岐うどんの文章に付けられたイラストにおかしみを感じて、勤務が終わったあと、レジを開けてもらってその本を買い、メディア・センターにこもって読書し、勿論読了すること能わず帰りの電車のなか、帰宅して大学の勉強もそっちのけ、翌る日の出勤の電車のなかで読み耽ってとうとう次の日の昼休憩には読み終わってしまった。そうして、この人のような文章を書きたい、この人のような物の見方捉え方を真似したい、と、たった一昼夜で思うぐらい心酔してしまったのである……。
 では、そのあとに書いた紀行文は、その人のようになり得たか。勿論、答えはノーである。見せかけだけの空疎なものにしかならなかった。別の日に同じ旅行を題材にして書いたときの方が、余程生気に満ち、情景や人々の息遣いを喚起させるに力あったぐらいである。これは果たしてなにを意味するか。なにをも意味しない。自分は自分でしかない、ということ。或いは、エピゴーネンの創出はこうも簡単に行われる、ということ。もっと単純にいえば、コピーを作るのは容易いことだ、と。賢明にもわたくしはそれを早々に悟り、「わしはわしじゃ」と心中呟きながらその後も紀行文めいたものを書き、いつしかそこから離れてこうした<うぐいすのさえずり>と自称する文章を、延々30年以上も飽きることなく書き続けている。
 『辺境・近境』のあとで『遠い太鼓』(講談社)を古本屋で買い、こちらにもいたく惚れこんだが、もうその人のスタイルで文章を書きたい、なんて大それた希望は棄てていた。それでも──小説を読むことはなくなっても、紀行だけはいつまでも買い続け、読み続けよう、と決意していたね。
 ──蛇足であるけれど、その人の単行本の初版を集め始めて8ヶ月か9ヶ月後には、9割を架蔵する幸運に恵まれた。それまでに所持していた単行本は基本的に処分した。が、『辺境・近境』はいつまでも第2版である。初版はよく見掛けるけれど、買い換える気が起きない。そんな考えが一瞬であっても刹那であっても、脳裏をかすめることがない。『辺境・近境』だけはあのときのわたくしが大学生協書籍部で手にし、満員電車のなかで果敢にも読み耽って、この人への尊崇象形を抱かしめるに至った第2版でなくてはならないのだ。◆

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第2856日目 〈荷風記す"霊南坂右手の宮内省御料地"とは、いずこのことなりや。〉 [日々の思い・独り言]

 永井荷風は麻布の偏奇館へ移居した大正9/1920年から翌年にかけて、『新小説』誌に「偏奇館漫録」と題する随筆を5回に分けて発表した。その第3回に曰く、「赤坂霊南坂を登りて行く事二三町。道の右側に見渡すところ二三千坪にも越えたるほどの空地あり。宮内省の御用地という。草青く喬木描くが如し」と。
 現在の霊南坂は起点の右側にアメリカ大使館を置き、左側にはThe Okura Tokyoがある。坂はゆるい登り坂となって奥へ進み、スペイン大使館・スウェーデン大使館のある高台へ至り、御組坂を下りて左手に折れれば偏奇館跡碑が、然程の自己主張もなく建っている。そのときあなたの目の前には泉ガーデンが、どん、と建ち、その向こうに首都高速都心環状線を見ることができるはずだ。偏奇館跡のある道を泉ガーデンの車寄せの方へ歩き、泉屋博古館分館へ続く橋をくぐると、やがて道は左手にゆるやかなカーブを描いて降りる格好となる。そうなれば、アークヒルズ一帯が視野に収まるのも時間の問題である。
 静かな六本木一丁目から賑わしい六本木一丁目へ。さっきまで歩いていた霊南坂からのコースがどれだけ静けさに満ちていたか、実感されるのではないか。
 先の「偏奇館漫録」にて荷風が書いた宮内省の御料地とは、おそらく霊南坂教会やアメリカ大使公邸からアークヒルズ一帯であると思しい。というのもまさしくその界隈には、麻布御用邸があったからだ。御用邸である、御用地ではない。麻布御用地は現在の有栖川宮記念公園である(漢字変換処理能力を測るにこの単語は、1つの判断基準となろう)。
 ──先程は霊南坂を登って途中で右手に折れてしまったが、そのまま歩みを進めると、皇女和宮が晩年に住んだ静寛院宮邸があった一帯に辿り着く。──
 荷風ともあろう者がどうして「宮内省の御料地」などぼやかした書き方をしたのか、わからない。皇室への崇敬? まさか、敗荷散人にそのような感情、あろうわけがない。不敬罪になるのを恐れたか? 馬鹿馬鹿しい。ならば「宮城」と書いた作家は全員罪に問われたか。勿論、これを荷風の無関心の裏返しと考えれば、納得はできる。さすが、とは口が裂けてもいえないが。
 今日、そこに御用邸があったことを示す碑などが建てられているのか、改めて仕事帰りに歩いて探してみよう、と思うている。◆

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第2855日目 〈深夜の霊園にて婚約者と話すこと。〉 [日々の思い・独り言]

 いまの勤務地が婚約者の眠る霊園のそばなのにかこつけて、仕事帰りにてくてくと歩いて、久しぶりのお墓参りへ行ってきた。程良く離れてもあるため、日頃の運動不足解消の一助にはなったかな。ちょうど同じぐらいの距離には彼女が通った高校もあり、何年振りかで訪問したいのだけれど、流石にいろいろ間違われそうな予感が強いので、断念することに。
 祥月命日、月命日にはほぼ必ず、ここに通っている。仕事帰りであろうと休みの日であろうと、横浜にいようと東京にいようと、夜中であろうと昼間であろうと、時間になぞ関係なく。まぁ、台風の日には行ったことがないけれど……逆にいえば、雨の日、雪の日には行ったことがありますよ、ということでもある。
 これまでにも両手両足の指では数えられないぐらい、横浜の飲み屋街にて呑んだくれたあとでタクシーへ乗りこみ、件の霊園へ行ったこともあります。夜中の2時頃にこちらを出発して。行く先を告げるとまずドライバーの皆様、一様に厭な顔をされる。長距離になるとか多摩川越えるとかそんなのではなく、その……行き先を伝えるや躊躇し、怪訝な顔をされるのだ。おいおい、勘弁してくれよ、という風な表情。これまで幾度、そのような顔つきをされたことであろう。
 なんというても行き先は、曰く付きの場所である。その霊園絡みでタクシー運転手の遭遇したエピソードは、頗る付きで有名。この話を聞いたことがない人って、すくなくともわたくしの同世代や上の世代には皆無でないか(むろん、口裂け女じゃないからね)。
 うすうすお気付きになった読者諸兄があるやもしれぬ。──然り、そこは、最恐にして最凶ではないまでも都内随一、定番の心霊スポットな青山霊園である。夜中にタクシーへ乗りこんできた客が唐突に、「青山霊園までお願いします」と告げたら耳を疑い、「なにいってんだ、こいつ?」となり、ヤな客乗っけちゃったなぁ、と後悔するよな。反省したいが、こればかりはどうにもならない。
 話を進めよう。
 時間はさておき、或る意味でわたくしは青山霊園の常連である。パトカーが不審者の類に職務質問しようと構えているが、いつの間にか警官たちとも馴染みになった。わたくしが霊園に入りこむのを見咎めて近附こうとすると、相棒の警官がそれを制して、あの人はいいんだ、とゼスチャーする。まるで金田一耕助にでもなった気分だ。それ程までにわたくしはここへ熱心に(?)、なかば恒例行事のように、巡礼者のようにして、通ってきているのだ。どうだ、まいったか。
 ふらふらふらふら、勝手知ったる他人の家の如くに迷うことなく、どれだけ泥酔していても正確に、つまずくこともぶつかることも間違うこともなく、墓所へ参るのだが、そうして婚約者の眠る墓の前に着いて合掌し、やおらどこかで買いこんできた缶ビールをぷしゅっ、と開ける。生温くなったビールは、どこで呑んでもやはり美味しくない。拠って一頃は日本酒を片手にぶら下げて墓参したのだが、それはまた別のお話。
 ほぼ毎月やって来るむかしの婚約者を、お墓のなかから彼女はどんな目で見ているのだろう。もう、また来たの? と溜め息吐きながらそこから出てきて、わたくしの隣に坐りこんでいるかもしれない。そうだったら、とっても嬉しい。ぶつぶつ何事かを呟いている(ように傍からは見えるに相違ない)わたくしの話にいちいち頷き、相槌を打ってくれていたら、とっても嬉しい。早く私を忘れて誰かいい人見附けなよ、と呆れているのか、そんなに私のこと想い続けてくれて嬉しいよ早くこっちに来て一緒になろうね、と企んでいるのか、その心中、無粋なわたくしには思い及ばぬところであるのだが──。
 わたくしが帰ったあとは、まわりの墓所で眠る方々に、いつもお騒がせして済みません、と頭をさげているかもしれない。良い旦那さんをお持ちですな、といわれて、婚約中に私死んじゃったんです、なんて過去を話していたら、ちょっと頬がゆるむ。成る程、逝く前からわたくしはご近所さんには知られた顔、ということか。ラヴラヴバカップル? なんとでもいえ。
 さて、夜更けに墓所の前に坐りこんでビールなり日本酒なりを、良い気分で呑んでいると、時折、少々騒ぎながら、霊園に入りこんでくる連衆がいる。心霊スポットで動画撮影を、或いは肝試しをしようとのこのこ入りこんでくる浅墓な痴れ者衆だ。あたりがざわめくのを、そんなときは感じる。ここに眠る数多の霊が動き出す瞬間だろうか。墓石の向こう、墓所の間の通路になにかが揺らめき、進んでゆくのが肌でわかる。死者の眠りを脅かし、その場所の静寂を破って喜々とする者たちに、然るべき応えのあらんことを。◆

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第2854日目 〈影よ、お前は何者だ?〉 [日々の思い・独り言]

 いつの頃からか覚えていないが、視界の端を黒い影が過ぎるのだ。前触れなし、出現する条件も一定でない。
 その影は虫のように見えるときもあれば、朧に人の姿をしているときもある。視界に入るか入らないか、ぎりぎりのところに誰かがいる──脇に退いた方がいいか、と思うてひょい、とそちらを見やると、何者の影も気配も、ない。狐につままれた気分で、わたくしはまた歩き出す。
 こちらの思い過ごしかもしれないが、人の影に見えるときの<それ>は、なにやら口許(と思しきあたり)に薄ら笑いを浮かべているようである。誰かに付き纏われる謂われは、ない。死霊にも生き霊にも祟られる覚えがない。わたくしは至極健全に、正直に、正しく生きてきた。誰彼を恨んで丑の刻参りをしたこともなければ、呪詛の祈祷を行ったこともない。
 では、あれはいったいなんだったのか。わたくしにはわからない。どう小首を傾げても、思いあたる節はない。わたくしのまわりをいつもうろついているのは、親しきひとたちの霊だけだ。父と叔父、従兄弟、母方の祖父と叔父叔母たち、そうして婚約者。が、かれらが件の影となってわたくしの視界をかすめて消えるわけはない。かれらはきっと、出るなら堂々と、わたくしの眼前に現れるだろう。暇だから遊びに来たよ、とか、お迎えに上がったよ、とか、出て来る理由はともかくとして。
 あれはいったい、なんだったのか。わたくしの視界を侵犯してはまた立ち去ってゆく、いと腹立たしき影は果たして何者ぞ。
 わたくしに用事があるなら、わが国の領海を侵しては去るどこぞの国の船舶みたいな行動はやめたまえ。死霊であっても生き霊であっても、それ以外の存在であっても構わぬ、お前たちにプライドはないのか。人でなくなったあとも矜恃を保て、馬鹿者。きっとそんな連衆だろう、心霊動画に現れて人を驚かせるのは。死んだあとまで生者を脅かしたり、迷惑をかけたりするな。傍迷惑な奴らや。
 まぁ、あの人の生き霊になら取り憑かれて、精搾り取られたってかまへんけどな。
 あれ。んんん、これがひょっとして、怪談実話というものか?
 「──はっきり言ってごらん。ごまかさずに言ってごらん。冗談も、にやにや笑いも、止し給え。嘘でないものを、一度でいいから、言ってごらん」(太宰治「善蔵を思う」 『きりぎりす』P148 新潮文庫)
 でもな、これ、ホンマのことなのよ。読者諸兄よ、信じてほしいねん。◆

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第2853日目 〈太宰治「善蔵を思う」を読んで、ナザレのイエスをも思う。〉 [日々の思い・独り言]

 毎度のことで恐縮ですが、ゆるゆると太宰治『きりぎりす』を読み進めている。今日は集中のなか程に置かれた「善蔵を思う」を読んだ。三鷹に移って早々に、みずぼらしい老婆に8輪の薔薇を押しつけられて憮然と過ごす太宰が、郷里の名士を集めた会合に出席して醜態を演じ、その翌る日に訪ねてきた洋画家の友どちになかなか優秀な薔薇であると誉められ、どんな人間であってもうちに秘めているはずの善意を信じて生きてゆこう、「この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思った」(P171 新潮文庫)ところで筆が擱かれる。
 本巻にも好きな作品が目白押しで困るのだが、殊「善蔵を思う」は、『きりぎりす』のなかでも1,2を争う名品、いわば白眉と思う。改めて感想の筆を、いつものように執るつもりですが、前に置かれる「皮膚と心」「鴎」と並んで偏愛すること他に劣ることなき逸品とはいえるだろう。そのなかにこんな一節を見附けたことで、昨日に続いて新約聖書に絡めたエッセイをそうすることにした。その一節に曰く、「私は永久に故郷に理解されないままで終わっても、かまわないのだ」(P169)と。
 故郷の人たちは自分の醜聞を知っている、「郷里の恥として、罵倒、嘲笑している」(P160)に相違ない、と太宰は己をカリカチュアか卑下かする。この一節に触れて、脳裏に瞬いたのは、イエスが故郷ナザレにて宣教しようとして相手にされなかったエピソードだ。頭を振り振り、かれは弟子たちに呟く。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタ13:57)と。
 勿論、太宰をイエスに仮託しようというのではない。が、そのときのかれらの境遇が、よく似ているのだ。2人とも故郷に受け入れられなかった(すくなくとも、そう思っていた)し、故郷の口さがない人たちからあれこれ揣摩憶測で語られていた。それが自身のなかで枷になったか、かれらは故郷へ帰ることに二の足を踏んだ──イエスがそれでもナザレに帰ったのは、神の子の務めを果たすという使命在ってこそのことである。太宰にはむろん、それがなかった。躊躇う気持ちはあっても、帰りたくない気持ちはあっても、それを封じこめて帰郷する必要があった;作品のため、家族を守るため、幾度も太宰は金木の地を踏んだ。
 時代がかれらに追いついた、とはあまりに野暮天な表現である。時代よりもかれらが先を歩いていた、と陳腐なことを申しあげるつもりもない。「生前の誹り、死後の誉れ」とは佐藤春夫が上田秋成を評していうた讃辞と記憶するが(間違っていたら、ごめん)、共に生まれ故郷でむかしから自分を知る人たちに受け入れられることなく、或いは<故郷の恥>と誹られて和解することなく、若くして死出の旅に出た2人の姿を重ね合わせてしまうたのである。そういえば2人とも、享年は30代ですな。
 全編を読了したら、改めてこの「善蔵を思う」を読み返す。◆

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第2852日目 〈パウロの言葉に弱者救済を思う。〉 [日々の思い・独り言]

 「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(二コリ2:7−8)
 パウロは推定57−58年頃、コリントに住まうキリスト者たちに宛てた手紙にそう記した。
 これをどう受けとめればよいか。わたくしはかつて本ブログにてこの章を読んだとき、「罪を犯した者へ手を差し伸べて孤独にしてはならない、相手を愛しなさい、とパウロはいう。これなのです、すべての弱き人に必要な言葉は。なんと涙があふれそうになる、あたたかな言葉でありますことよ」(第2169日目)と書いている。
 この感想はいまに至るも、微塵たりと変わることがない。
 罪人のなかには自分の行いを悔い改めることができる者がいる。罪を償い、更生しようと努めることができる者がいる。そう信じる。なかにはとうていその犯した罪を許しがたく、心よりの改悛を望めぬ重度の犯罪者もあるが、連衆までもここで擁護する気はない。が、しかし、……。
 人を死に至らしめる最大の病は絶望である、と曰ったのは、キェルケゴールであったか。されどそれと同じぐらいに人を、ともすれば死に駆り立てる場合のある病こそが<孤独>なのだ。孤独は人の心に猜疑を生み、被害者意識を植えつけ、感情の幅を狭くし、精神を卑しくさせ、周囲との間に強固な壁を築き、そうしてその人自身を蝕んで絶望の淵へ追いつめて、そこから死の深淵へ飛びこませる。斯くして失われるべきでなかった魂が1つ、肉体と人の世から去って彷徨うことに。
 まわりはそうした人を視界から外してはならない。救いを求める声には応え、差し伸べられた手を握ることに躊躇してはならない。相手の姿は未来のあなたの姿だ。相手を救うならばあなたも救われよう。もしあなたが助けを求めるならば、応えてくれる人もあるだろう。理想論とは承知している。
 70代と60代の兄弟が都内の公団で、人知れず死んでいたという記事を読んだ。水道も電気もしばらく前から止まっていたが、それが行政に報告されることはなかった由。また生活保護も受けていなかったため、なおさら実態の把握に遅れが生じた様子である。
 ──これはけっして他人事ではない。わたくしはこれを読んで、身震いを感じた。向こう三軒両隣のまじわりが途絶え、地域社会が形骸化している現代に在ってはゆめ珍しくない出来事といえよう。他者への干渉が悪しき風潮と思われるようになって、人々が他人とまじわるのを恐れるようになった結果、絶望と孤独を募らせてひっそりと誰知られることもないまま死んでしまう人もあるのだ。
 国の経済力、人々の給与の高額なることは心を潤わせる。換言すれば、それらが低下すれば人の心は殺伐となり、無関心と不干渉が人のなかにこびりついて、<生きづらい世のなか>が生まれる温床となる。バブル経済と当時の世の中の動きはたしかに、わたくしの目から見ても異常だったけれど、それでも人々は互いを知ろうとし、見知らぬ者が隣り合っても朗らかでいられた。すくなくとも、自分の関心領域の外にある人とは没交渉を貫く、という人を見掛けた覚えはない。
 「あなたがたも互いに相手を受け容れなさい」(ロマ15:7)というパウロの言葉と併せて、二コリの文言に触れて、そんなことを考える。◆

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第2851日目 〈崖を削り、土を盛り、地下を抉った六本木一丁目に、ひっそりと偏奇館跡碑はある。〉 [日々の思い・独り言]

 須賀敦子が偏奇館跡を訪れたことをエッセイに書いて、それがいま永井荷風『麻布襍記』(中公文庫)の巻末に収録されている。彼女がいつ頃そこを訪うたのか、調べが行き届かず済まぬことだが、すくなくとも須賀が見たことも想像したこともないだろう、現在の偏奇館跡とその周辺をわたくしは見ている。
 彼女がこの地を散策した或る年の五月初めの休日の朝。その頃の六本木一丁目のあたりは地域の再開発計画が破綻して、霊南坂からアメリカ大使館、現在のThe Okura Tokyo(当時はホテルオークラ別館として開業していたか)、スペイン大使館、スウェーデン大使館を横に見ながら登ってくると、そこから先は建設現場でお馴染みなスチール壁で覆われて、江戸の面影戦後もまだ辛うじて残ったこの界隈からそれを一掃して殆ど廃墟と見紛う光景が広がったのではないか。すくなくとも、現在の姿を須賀敦子が目にすることはなかった。
 荷風はこの地に大正9/1920年5月、かねてより普請中であった洋館の完成を待って、移ってきた。その前年に土地の貸借契約を(代理人を立てて)締結して後、件の洋館を翌春落成に合わせて造築したのである。当時の住所は、「東京市麻布区市兵衛町一丁目六」であろう(よく「崖上」と、さも住所の一部の如く列記する文献を稀に見掛けるが、それを書いた衆は国立国会図書館や港区役所、或いは管轄法務局等へお出掛けされるがよろしかろう)。
 その崖上の土地の初見から偏奇館入居までを『断腸亭日乗』で追うと、以下の如し、──
 大正8年11月8日条:麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初頭の暮霞に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。
 同月12日条:重て麻布市兵衛町の貸し地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。
 同月13日条:市兵衛町崖上の地所を借ることに決す。建物会社々員永井喜平を招ぎ、其の手続万事を依頼せり。
 12月8日条:留守中箱崎町の大工銀治郎麻布普請の絵図面を持参す。
 同月15日条:午後永井喜平麻布借地の事につき来談。
 大正9年正月3日条:歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。
 同月8日条:大工銀治郎を伴ひ麻布普請場に赴く。
 同月30日条:大工銀治郎来談。
 2月14日条:建物会社々員永井喜平見舞に来る。
 同月24日条:午後永井喜平来談。
 3月9日条:麻布普請場に赴く。近隣の園梅既に開くを見る。
 4月13日条:麻布普請場よりの帰途尾張町にて小山内君に会ふ。
 同月16日条:半蔵門外西洋家具店竹工堂を訪ひ、麻布普請場に至る。桜花落盡して新緑潮の如し。
 5月2日条:麻布普請場に往き有楽座楽屋に立寄り夕刻帰宅。
 同月21日条:永井喜平来談。
 同月23日条:この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。
──と。
 そうして荷風は『麻布襍記』に収められた随筆「偏奇館漫録」と「隠居のこごと」に、偏奇館周辺の地理や謂われを綴った箇所がある。本来ならそれについてもここで取り挙げるべきだろうが、ちょっとその記述に触発されるところあり、むかしの東京市の地図を探して調べてみたい部分があるため、この点に関しては後日に譲ることにしたい。
 さて。
 いちどわたくしはなにかの文献で、当時の麻布を撮った写真に偏奇館の一端が写るのを見た事がある。まこと、その端は、断崖絶壁とはいわぬまでも東京市中にしては急な傾斜角を持った大地の縁部分である。そうしてそれは、実はそのまま現在の六本木一丁目に重なる地勢でもあった。
 いちど歩いてみられると良い。再開発ゆえに消えた落合坂のような例もあるとはいえ、現在の泉ガーデンやアークヒルズ、泉ガーデンレジデンスの立地が、六本木一丁目駅から大使館が建つ霊南坂の路地に至るまでの斜面をよく活かしてあることに、気が付かれるのではないだろうか。ただ、そこそこ複雑にエスカレーターが走り、屋外に怪談ならぬ階段はあってもひと思いにまっすぐ上り下りできないことで、自分のいま居る場所が刹那わからなくなったりする弊害はあると雖も、なんとなく体で感じていただけるのではないか、と、再開発前から馴染みの場所でいまはここに通勤することとなったわたくしは思うのである。
 須賀敦子が訪れたときは宙ぶらりんになっていた再開発計画はその後突如として動き始めて崖を削り、土を盛り、地下を抉って東京メトロ南北線の開通前後に周辺はオフィスビルが建ち並び、むかしを知る人がその光景を見たらかならずや目が点になるであろうぐらいの変貌を遂げて、面目を一新した。思うに東京23区内でここぐらい、地勢そのままにむかしの面影を掃討して、華やかにして眠ることなき街へと衣替えした場所も、そう思い浮かばないのである。
 永井荷風はこの地へ移り住んで以後、幾つもの作品を書いた。『雨蕭々』を皮切りに『麻布襍記』、『下谷叢話』、『つゆのあとさき』、『濹東綺譚』、「来訪者」等々。そうして昭和20/1945年3月9日、偏奇館は米軍の空襲によって焼亡。その一切を荷風は離れた場所から観察して、『断腸亭日乗』に清書した。蓋し『断腸亭日乗』最大級の白眉というてよい。曰く、
 「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を巡り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身を隠し、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、……近づきて家屋の焼け倒るゝを見定めること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館樓上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」云々。
 また翌る3月10日の条に曰く、「嗚呼余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲して文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり……昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず」と。
 実際に火事で家をなくし父を亡くした身には、荷風の行動は狂気の沙汰である。文学者として、というよりも荷風という不世出の個性が為せる技/業であるのは重々承知、だがしかし、わたくしには地に唾吐き捨てて、定家卿よろしく「吾が事に非ず」と切り棄てて、永井壮吉(荷風本名)という人の人格を疑いたい。
 かつて麻布区市兵衛町1丁目の偏奇館に住まった荷風に、再開発が実はリスタートを切っていたことを知らぬままここを訪ねて逝った須賀敦子に、現在の六本木一丁目界隈を見せたら、果たしてかれらはなにをいうのだろう。◆

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第2850日目 〈クラリネット吹きの友どちのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 耳を患ったとき、つらつらと思い出す人のなかに、クラリネット奏者の男性がありました。その人は日本の音大を卒業後、ドイツにあるブラームスゆかりの音楽大学に留学して、帰国しました。わたくしは帰国して間もない時分のかれに出会い、縁を結ぶことになったのです。
 きっかけは何気なしに投稿して掲載された音楽雑誌の記事。それを見たかれが手紙をくれて、年明けにある小さなリサイタルへ招いてくれたのでした。その際どんなお話をしたのか、もう覚えていない。伝ワーグナー作曲とされていた、クラリネットのための小品の真の作曲者がベールマンという人である。そんな話をした覚えだけは、たしかにあるのです。
 その後、機会ある毎にかれのリサイタルへ足を運び、クラリネットのまろやかであたたかみのある響きに魅せられてゆき、そのままどっぷりと室内楽の深い沼に嵌まりこんでいったのです。
 そも交を結ぶきっかけが雑誌への投稿記事である旨既にお話ししました。当時のわたくしはベートーヴェンの弦楽四重奏曲とシューマンのオーボエのための曲に魅了されて、室内楽を徐々にながら聴くようになっていました。
 とはいえ、いまのように居ながらにして、末端へ至るまでの情報があっという間に集められる時代ではありませんでしたから、図書館で音楽雑誌のバックナンバーを読み漁り、グローブ他の辞典で当該項目の記述へ目を通したり、或いはやはり図書館で音楽書のコーナーを舐めるように、片っ端から読み耽り、そうして違う図書館でCDを借りては聴き、カセットテープにダビングして、返してはまた借りて来て、を繰り返していました。
 そんな風にして室内楽の名曲を知ってゆく過程で、件の友どちと知り合うことができたのです。ブラームスやモーツァルトがクラリネットのために書いたソナタや五重奏曲を始めとして、サン=サーンスやプーランク、ブリテンの曲を知り、ショスタコーヴィチの曲のクラリネット編曲版という珍品に出会い、かれのために作曲された曲やかれ自身の筆になる曲の初演に立ち会えた喜びは、そのあとのかれとの会食や飲み会での愉しい思い出と一緒にいまでもはっきりと、胸のなかに刻まれています。
 わたくしが不動産会社に就職した頃から段々と、かれのリサイタルへ足を運ぶ機会は少なくなりました。仕方ない、と普段ならいうところだが、今回ばかりはそんなことをいう気分になれない。もっと時間をやり繰りして、そちらへ回すお金を作り、可能な限りかれの吹くクラリネットのまろやかな響きの時間に心身をゆだねるべきでした。──やがて年賀状のやり取りが精々となり、それもこの数年はこちらの筆無精と人でなしゆえ途絶えてしまっている──嗚呼!
 かつてのように頻繁なる手紙のやり取りの復活はもう望めなくても、まだ聴力の残っているうちに、白石光隆さんや奥様を伴奏者にした、あなたのクラリネットを客席から聴きたい。白川毅夫さん、わたくしを覚えてくださっていますか?◆

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第2849日目 〈お部屋のお掃除:これが完成形、かな。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年から断続的に連載(ということにしませんか?)してきた、「お部屋のお掃除」シリーズですが昨日、ようやっと胸に描いた姿に、限りなく近附いたと自負します。
 壁に造り付けられた書架は、真ん中の構造壁で右と左に別れており、すべての棚が可動可能。雑誌も文庫も同じ書架に収められる、場合によっては同じ棚に収められるのが強みだが、一方で救い難い欠点も1つだけ、ある……奥行きがあり過ぎるのです。
 否、これは贅沢な悩みかもしれません。同じ量を収めるとしたら、本棚が何杯必要になるか、どれだけのスペースを喰うか、それを考えると、造ってくれた棟梁さんには感謝しかないはずなのだが……。まぁ、「本の重みで床が抜けるか」的な不安と焦燥と、まわりからの讒言には、ここは敢えて、東照宮のアイドル・モンキーに倣って耳を塞ぐとして、話を前に進めましょう。
 いちおうの完成を見たのはたしか年が明ける前後と記憶する。過去のブログやHDDにしまってある原稿を検めれば判明するが、いまは横着してそう書かせていただきます。その後、廊下に長いこと積んであったダンボール箱を開け、詰めこまれていた本をサルヴェージした後、ひとまず件の書架の前に積み重ねて、できた山は4つ、腰高のため殆ど連峰というてよかった。そうしてその向こうにある書架の本の出しづらきこと、腹立たしくも時間が経てば馴れてしまい、なんとなく昨日までそのままにしておいた。
 もっとも、昨日になっていきなり片附けを再開、どうにかほぼ完成形までこぎ着けたわけではありません。左右いずれの列も最上段はパソコンやプリンタの箱が占拠しており、それらは部屋を、就中蔵書と書架の整理を始める前から温めていたプランで、遅かれ早かれそれらを撤去、空いたスペースに棚板を渡してスティーヴン・キングか村上春樹の単行本と文庫本をずらり、並べる魂胆でありました。が、そうはうまいこと問屋はおろさなかった。
 1つの棚へ収める本には、なにかしらのテーマを持たせたい。書架の前に積み重なって人間の可動領域を狭める4つの山を眺め、続けて書架を見あげて、ふむぅ、と考えた。さいわいとそこに積まれた本はみな、日本の古典文学である、そのテキストと、専門的な読み物である──じゃぁ、和歌・歴史・日記・随筆・俳諧俳文・思想・物語、と分ければいいさ、と結論が出るまでにさしたる時間を必要としなかったのは、読者諸兄もご想像されたことと思います。然り、わたくしは期待を裏切らないのだ。
 そのプランに基づいて山を切り崩し、書棚に入る本も引っ張り出して、作業開始。件の空き箱については埃の積もり具合に閉口したけれど、すべて拭いてから廊下に放り投げ、もとい積みあげて日曜日にバラシを行うとし、棚板も雑巾で綺麗にして、いよいよ作業開始。夕食をはさんで日付が変わった10分後に、じゅうぶんに満足できる、完成形に極めて近いと思うてよろしかろう姿がわたくしの前に現れた。
 左列の最上段には歴史・日記・随筆・物語・思想・俳諧俳文・折口信夫研究の単行本/雑誌を収め、対する右列の最上段は歴史小説と上田秋成関係の本でまとめた。むろん、秋成は国書刊行会版・中央公論社版の全集を含む(前者については、「遺文」も、勿論)。手前にはどうにも行き場がなかった中公文庫版『折口信夫全集』全31巻別巻1を並べました。
 右列に収めたものは上から順番に、古典の専門的な単行本や大学紀要、奢灞都館から出版された近代文学、そうして反町茂雄の著書を中心にした棚、小学生の頃に1冊ずつ買ってもらった集英社版『学習漫画 日本の歴史』全18巻と、貧書生の時分にこれも1冊ずつ買い集めていった中央公論社『日本の近世』全18巻を中心に、小学生の頃使っていた国語辞典や、日本語教師の勉強をしているときにかった日本語辞典、アクセント辞典、そうして郷土史の本を添えました。その下はクラシック音楽にまつわる本(難聴ゆえに音楽書を大量に処分した折、その別れから逃れ得た愛惜おく能わざる本)とお気に入りの現代小説数冊、渡部昇一の著書やその他の新書を収めた。その下の棚にはいよいよ村上春樹の単行本・文庫本を一ヶ所に集め(それでも文庫数冊があぶれるの)、さらに下の棚には分散しておかれていたコミックをまとめました。
 これで書架の前にはもう、床に積み上げ本はありません。すっきりした。なににもぶつかることなく歩けるのは、精神衛生的にも極めて良いことでありますね。これから多少の出入りはありましょうが、それは記すに値しないぐらい微々たるものでありましょう。
 今回の書架の整理で棚には幾らかの余裕が生まれた。そこを使って、或るコーナーを設けました。わたくしは10年以上前、ハンドル式のシュレッダーを使っていたことがあります。シュレッダー部分は疾うに刃が駄目になってしまい棄ててしまったのですが、紙片が落ちてくるプラスチック部分はなにに使うともなく部屋の片隅にありました。
 それを活用して、今後読む/読まなくてなならない本を置くようにした。透明なのでなにが入っているのか一目瞭然、しかもそこに本が入ると、あきらかにまわりとの違和感があるので、まぁ、目立つ、目立つ。「読まなくちゃ! 読んで参考にしたい/読むに値すると判断したから、お金払って買ったんだろ。読めよ、おれ!!」と自らに訴えかけてきて手を伸ばさせる効果は大。幸運にも来週からようやく働くことができるので、往復の電車のなかや隙間時間を使って、2日で1冊は読みあげるようにしよう、と心に決めたのであります。太宰はどうしたのだ、なんて野暮天なこと、訊かないでね。
 さて、まもなくCSで映画が始まるな。筆を擱いて、腰をあげよう。Let’s call it a day.ビールは2本、冷やしてある。そうそう、チーズも忘れないように、と。◆

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第2848日目 〈単行本と文庫本、買うならどっち?>〉 [日々の思い・独り言]

 単行本派か文庫本派か、と問うならば人よ、まずは対象を限定させることだ。然る後に続くべき質問では、それはあるまいか。
 そんな次第でここは国内外の別なく小説、そうして現代小説に絞ろう。それに則って、話をしてゆこう。その上でようやく自分の答えを述れば、──
 わが輩は単行本派である。と同時に文庫本派でもある。事実を申しあげた。中身の入った缶詰を投げるのは、くれぐれも自制してほしい。もし投げるなら、缶切りと、中身を食すためのお箸なりフォークなりをいっしょに頼む。
 両派なり、というのは単純に、作家によって異なりますため。双方に跨がる作家もあれば、どちらかのみな作家もある。外国人であれ日本人であれ、単行本でしか読むことかなわない作家がいるし、2,3年待てば文庫化される作家もある一方、はじめから文庫オリジナルで出す作家もある(今日はこのパターンが目立ちますな)。ゆえに、われは両派なり、というのだ。
 順番に考えてゆく。
 単行本しか出ない作家、待てば文庫化されるがさいしょは単行本が出る作家。この人たちについては当然、単行本を買う。──本当にその作家の作品が読みたいから。一刻も早く読みたいから。そうしてなによりも、その作家にこれからもずっと作品を書き続け、出版社にも出し続けてほしいから。読者にできる「作家の応援」とは新刊書店に並ぶ本を買って、かれらへ印税が振りこまれるようにすることだ。
 万年ノーベル文学賞候補の日本人作家、日本のまんなかで医師を務めながら本を書いた作家、世界的大ベストセラーでかつては「モダンホラーの旗手」と呼ばれたアメリカ人作家は、発表される新作、出る新刊を徹底的に追いかける心酔或いは畏怖、絶大なる信頼と鋼の如き愛を寄せる、単行本派な作家である。
 単行本を見送って文庫を待つ作家もある。それは大概、作家買いする程の存在ではなく、作品によって買ったり買わなかったりする作家だ。今日ベストセラー作家とされる人の本は、大体ここに入る。
 有り体にいって、敢えて単行本を買う気にならぬ作家、買うまでもない作家、いちいちを追っ掛ける程心酔或いは畏怖しているわけでもなく、また単行本を買わずとも他の誰かが売上げに貢献していまさらわたくしが買わずともじゅうぶんに生活が成り立ち、出版社からのオファーが引きも切らずな状態でありましょう? という作家を、ここでは念頭に置いている。
 まぁ、前段「いちいちを追っ掛ける程」云々は、単行本買いの作家の一部についてもいえることだが、その線引きは「心酔或いは畏怖」を除けばただ1つ、その作家へ寄せる絶大なる信頼と鋼の如き愛があるか否か。
 先年直木賞と本屋大賞をダブル受賞した作品が映画化された作家や、ミステリ小説と時代小説両ジャンルを横断して筆を揮う作家、今年筆名の一部を改めてその名でエッセイ集と新作小説を上梓した作家。──こうした人々はもとより真剣に追いかける情熱をかき立てられることなく、新作が出ても文庫を待つか或いは見送っても構わないと思うている、どちら付かずの人たちである。作品の出来不出来、クオリティの乱高下著しい(と、わたくしには感じられる)ため、単行本にせよ文庫本にせよ買うに冒険を伴うことしばしばで、そんなこともあってその仕事へ全幅の信頼も愛も持ちようがないのであった。
 そうそう、文庫オリジナルで出す作家についても、作品によって買ったり買わなかったりなのは、これまで述べたところとまったく変わるところはない。
 総括;単行本派か文庫本派か、それは作家によって、作品によって変わるので、一概に「こちら」と割り切って答えられやしない。繰り返すが、ゆえにわが輩は単行本派である、と同時に文庫本派でもある、というのだ。そも、そこまで単純明快な話でもあるまい。
 ご異論は?◆

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第2847日目 〈歌おう、感電するほどの喜びを! 修正申告と青色申告が、ほぼ完了しました。〉 [日々の思い・独り言]

 これでしばらく頭を悩ませる必要がなくなるか、と思うと、安堵と充足の気持ちしか起こらないのであります。昨年11月から始めた平成30年分の修正申告と、令和元年分の青色申告決算が、今日(昨日ですか)を以てほぼ完了し、残るは提出書類への転記・清書のみとなりました。青色申告に関しては今回が初めて、自分でがっつりとかかわって行ったこともあり、手探り状態でしたが、さいわいと青色申告の担当者の方が懇切丁寧に指導・掘り起こしを行ってくださったので、大きく悩んだり、誤ったりするところはなかった──と記憶。早くも記憶は風化しつつあるようであります(『IT』に出てくるルーザーズ・クラブの面々のように)。
 今回の申告作業、殊令和元年分の青色申告決算に関してはExcelを使って勘定科目事の入力、関数を使っての計算をしていました。なかなかに便利ではあるのですが、来年に活かすべき反省点が幾つも浮上しました。1つは勘定科目でまとめてしまうのではなく、そこにどのような内容の料金を含めたか、いちいち明細を作ってゆくべきでした。昨日も、○○はどの科目に含めたっけ? となる場面があり、しばし思い出しと書類をめくる時間が必要となってしまい、時間のロスだな、と思うた次第です。
 明日はExcelで作った資料やそれの基となった各種資料を検め見直したり、過去に出版されて手許にある収益計算や青色申告の本など参考にしながら、来年以後に使えるようなメモや表を作ってみようと思うています。そうして今年の11月頃から種々の通知や明細をまとめながら、適宜修正を加えてゆけばよい。
 始めたばっかりな頃はやることがあまりに多くて、やる前からうんざりしていたのが正直なところでした。が、実際に始めてみるとこの作業、とっても面白く、併せてExcelの(再)勉強もできたので、まぁ大変ではあったけれど非常に充実した一時でもあったことを告白して、本稿の筆を擱きます。◆

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第2846日目 〈英語を勉強し直したい。〉 [日々の思い・独り言]

 かえすがえす残念に思うのは、英語を自在に使いこなすこと叶わぬまま、大人になったことであります。沼津に住んでいた時期のうち、小学2年生から4年生までマルサン書店の2階に設けられたLL教室に通っていました。
 当時の授業については何度となく、英語ってなんて面白いんだろう、と親に感想を話していたそうですから、子供でも退屈しないカリキュラムが組まれていたのでしょう。
 どのような教材を使っていたのか、どのような先生がいたのか、もうさっぱり覚えていませんが、いちども休まず通っていたところをみると、愉しい体験だったのでしょうね。もっとも、帰りに1階のレジで、当時流行っていた怪獣や怪人のカードを1袋、買い集めてゆく愉しみ、マンガを立ち読みする愉しみ、学校の違う友どちと遊ぶ愉しみも、そこにはあったのでしょうけれど。
 中学・高校を通じて苦にならなかった英語ですが、高校を卒業してからは国文学の方へとふらふら歩いてゆき、……そうして英語とは再びの縁を結ぶことないまま、時を重ねてきました。
 久しく忘れていた、英語が好きだな、という気持ちがよみがえったのは、勤労学生をしていた三田時代。大学併設の語学学校へ入学を決めたのは、語学の独習の一環として選んからであろうか。きっかけは思い出せない。記憶は時間の果てへと流される。然る後に美化されるか、捏造されるか、忘却されるかするのです。
 とまれ、語学学校の講義は初級クラスでありながら、ずいぶんと刺激に満ちたものでした。20代の後半──知的欲望が燃えたぎっていた、最後の時代だったせいもあるのかな。
 苦しめられたのは、やはり文法でした。初級クラスのテキストとはいえ、文法を無視して文章が書かれることはない。思えば学生時代も英語自体は好きだが、文法だけは苦手でありました。いわゆる基本5文型は、理屈は理解できても実践しようとすると「?」が頭に点灯するのですね。
 さりながらこの時代を振り返ると、或いは当時のテキストやノートを見直してみると、わたくしはずいぶんと初級クラスでの講義を堪能していた様子。相当な勉強の跡が残っております。先生方の教え方も良かったのでしょう、いつしか英語が好きだ、という気持ちがよみがえってきて、己の特技を活かした自習までするようになった;即ち、英語で文章を書く、ということであります。
 ふしぎなことに文章を書いているうちに、文法への苦手意識は雲散霧消していました。芸は身を助く。その言葉の真実なることを一端ながら知ったことであります。
 ──手探り同然とはいえ、こんなことが可能だったのは、書店で見附けた2冊の文法書のお陰と思うています。巽一朗『「中学英語」を復習してモノにする本』(中経出版 1995/2)と、A・J・トムソン=A・V・マーティネット著/江川泰一郎訳『実例英文法』第4版[改訂版](オックスフォード大学出版局 1988/6)が、それであります。
 前者は表紙に「やり直し英語の早道」と謳っているだけあり、基本文と図解を要所に、豊富に配したところから読みやすく、わかりやすくできており、目からウロコが落ちる気分でした。予習復習の際は勿論、いっときも手放さず折あるごとに開いていた本で、カバーを外すと当時の酷使の刻印がはっきり残っている。これなくして、「文法は苦手」意識は消えなかったでしょうね。
 後者は英国の文法学者が著した文法書ですが、文法のあらゆるパターンを網羅した、解説は平易でありながらじつは初級から上級まで使用に耐える頑強な1冊。わたくしのなかでは、最強の文法書であります。訳者の江川泰一郎は本書を翻訳するにあたって<訳者注>を付し、適宜例文を増やしたり、解説を補ったりしているので、日本人にも江湖にお奨めできる文法書になっています。
 ……語学学校を卒業して、ふたたびわたくしは英語と縁のない世界で生きることになった。たまにむかし勢いに任せて読み切った小説、歴史書や聖書など読むことはあるけれど、文脈を追って丹念に進めるのではなく、開いたページに漫然と目を通す、というのが正解でした。
 いまつらつら企んでいるのは来週から始まる仕事に馴れて、時間の割り振りにメドが立つようになったら、もいちど英語の勉強をやり直そうかな、ということ。前にも書いているかもしれないけれど、定期的にやって来る向学心の現れまたは吐露、と受け取っていただけるなら、げに幸甚、さいはいなり(「妻は稲荷」とさいしょ、変換されました。みごとだ、ATOK)。◆


カラー版 中学英語を復習してモノにする本

カラー版 中学英語を復習してモノにする本

  • 作者: 巽 一朗
  • 出版社/メーカー: 中経出版
  • 発売日: 2010/05/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



実例英文法

実例英文法

  • 出版社/メーカー: オックスフォード大学出版局
  • 発売日: 2020/02/05
  • メディア: 単行本



英文法解説

英文法解説

  • 作者: 江川 泰一郎
  • 出版社/メーカー: 金子書房
  • 発売日: 1991/06/01
  • メディア: 単行本




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第2845日目 〈難聴も帰還も、きっと、なにかのご縁。〉 [日々の思い・独り言]

 かかりつけの医師によると、ほぼいつも聞こえる耳鳴りと、数人以上の集団のなかにあるとき相手の声が甲高くて聴き取りづらいことがあるというのは、もう仕方のないことで、ずっと付き合い続けてゆくしかない、とぞ。昨日、月に1度の経過観察の折、訊ねてみると、そのようなお返事でした。やっぱり……。
 突発性難聴に始まり真珠腫性中耳炎で左耳がやられ、治ったねぇ、と喜び安堵してかつての罹患を忘れかけた時分に、滲出性中耳炎とその後遺症かウィルス感染による失聴を右耳で経験して退職を止むなくされる結果に落ち着いて、爾来投薬と通院に専念して貯金を切り崩しつつ暮らしてきたこの約3年、悲喜交々の連続でしたが、この先どれだけ生きられるのか不明ながら、難聴ゆえの不安や苛立ち、そうして諦念を飼い慣らしてゆくことに正直なところ、自信はありません。
 こんな気持ちをつらつら吐き出しているのは、きっと来週から、古巣に戻っての就業が決まったため。聞くのに殆ど支障ない左耳を使うのであれば、問題ないでしょう。医師のその言葉を唯一の後ろ盾に、やはり自分はコールセンター業界から離れられそうもないからそのなかでいろいろ探していたけれど、就職活動(なのだな、やっぱり)を始めて約2ヶ月を経てやっと雇用契約を結ぶことのできた企業が、20年近く前に在籍していた企業であるというのも、会う人々が口を揃えていう台詞を借りれば、<これもなにかのご縁>。
 不安はある。だからめげずに通い、無理なく働いて、実績を残さなくてはならない。要するに、就業前からさっさと現場から離れることを視野に入れているわけです。それがわが身の健康を守るたったひとつの冴えた方法、それがわが耳を守って生きてゆくために与えられた最後の手段。誉められたことでは勿論、ない。が、長く働くためにも必要な考えではないでしょうか。口が達者でよかったな、と変な感心をわれ知らずするのは、やはり職業病かもしれません。
 ちかごろのわたくしの興味の1つは、難聴が記録される近現代の文士や音楽家、その他広く文芸家のそれがどの程度の症状であったのか、どんな風に過ごしたか、そんな事柄を知りたく思い、自身或いは第三者による記録の証言に目を通すことである。病名などは昔と現代とで隔世の感あること否めぬところなので、また本人も聞こえ方について記すこと少なく周囲の人も大同小異の発言しか残していないパターンが散見されるため、古い時代の人になる程検討と推測を重ねることになるわけですが、逆に現代の人たちの場合は突発性難聴もしくはそれと推測される罹患者が群を抜いて多くサンプリングされるのは、これが現代病であるかもしれません。加えて現代の場合、突発性難聴なのかメニエール病なのか判然とせぬ場合もあり、却って膨大になる資料等を前に「やれやれ」と肩をすくめて溜め息を吐きたくなるのが本音であります。
 いまは、2020年02月05日00時40分。外を行く車も人もなく、部屋も静かだ。耳鳴りは、本稿を書き始めた時分に較べれば低くなっていると雖も、いつ途絶えてくれるかわからない。時々、耳許ではなく室内で鳴り響いている錯覚に駆られる。ずっと金属音じみた耳鳴りが、音量一定の大きさで起きている間ずっと聞こえている不満と、聴力不調がもたらすやもしれぬ人間関係の不協和音に怯えながら、生きて仕事するのは、チトどころかソウトウ辛いものがある。が──、
 <進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない>のであります。いつもの言葉で恐縮です。でも、物事をよく観ようとするならば(それを心掛けたい)、難聴になったのもきっと<なにかのご縁>ですよね。◆

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第2844日目 〈読む本の傾向が変わったとき、その転換点にあって自分に強く影響を与えた本 2/2 ;チェスターフィールド『わが息子よ、君はどう生きるか』〉 [日々の思い・独り言]

 なにがあっても手放すことがない本こそ、本当の意味での「座右の書」ではあるまいか。最近になって、そう思うのであります。
 文字通り、常に傍らに侍らせておく本を指して「座右の書」というのは、ちょっと違和感がある。手許にある辞書や事典、歳時記などレファレンス・ブックをそう呼ぶ人も、なかには居られようけれど、座右の書というのはもっと時間の経過と共に自分のなかで重きをなしてゆく、或いは事ある毎に巻を開いて人生の指針としたり、慰めを与え、再び立ちあがる活力をもたらしてくれる種類の本を指していうのではないでしょうか。そのような経験を重ねてゆくなかで、その人にとっての<古典>が定まってゆく。それを即ち「座右の書」と称す──わたくしはそんな風に考えます。
 そうした観点で考えるなら、チェスターフィールド著竹内均訳『わが息子よ、君はどう生きるか』(三笠書房)は、昨日の渡部昇一の本と並んで、古典中の古典、座右の書のなかの座右の書といえましょう。

 わたくしが初めてこの本を読んだのは、元号が平成になってからでした。『続 知的生活の方法』の翌年であります。
 高校を卒業した年、季節はいつであったか覚えていませんが、亡父から贈られたのでした。年齢的にそろそろ人生について倩ながら考えてもよい頃だ、と考えてくれたのでしょう、『広辞苑』第三版といっしょに、おそらく田町駅隣接のビルでむかしから営業する虎ノ門書房で買って帰宅後、渡してくれたものと記憶します。父の思い出をよみがえらせてくれるという意味でも、この『わが息子よ、君はどう生きるか』はわたくしには大切な1冊なのであります。
 初めて接する人生を考えさせる本でしたから、「あなた方にこれこれのことを教えましょう」的な本を読むのが初めてでしたから、これまで好き勝手に読んできた小説とはまるで勝手が違うから、最初は手こずりましたね。
 でも、通学の電車のなかでゆっくり、じっくりと読み進めてゆくうち、ここに述べられているのは著者の経験から導き出された本物の、唯一無二の人生訓であることに気が付きました。ならば当時学校で読んでいた『論語』と同じようなアプローチで読めばいいのかな。
 そんな風に自分なりの突破口ができてからは、格段に読む速度も、内容への理解も進み、1度読み終えたあとはまた最初から、己の血肉となるぐらいまで繰り返し、繰り返し、読み返すようにその年は心掛けた──。それからというもの、特に決めたわけではありませんが、1年に1度は必ず読み直すようにして、火事があって父が亡くなるまでにすくなくとも14回は反復読書しておりました。その年以後は、毎年読み返す、という習慣はすっかり廃れてしまい。
 勿論、というのも正直どうかと思うのでが、その後わたくしは何度も道を踏み外しかけました。母を何度も裏切り、悲しませ、嘆きの言葉を吐かせた。それでも辛うじて、いろいろな犠牲や痛みを伴いつつも本道に立ち帰ることができた理由の1つは、チェスターフィールドのこの本を何遍も読み返していたお陰であるかもしれません。
 後年読んだ聖書のなかには、神の前に正しい道を歩んだ人々、道を外れてしまった人々の話が、うんざりする程出てきました。──「あなたがわたしをゆるしてくださるなら主よ、わたしは罪を悔い改め、あなたに従います。信仰を守り、悪魔の囁きに耳を傾けません」(映画『ウィッチ』2015 米)──
 道を踏み外して立ち帰ることかなわなかった人々の姿を、心中を想像しているとおかしなことに、チェスターフィールドがこの本のなかで息子に与えた訓戒を連想してしまっていた、と申しあげたら、失笑を買うでしょうか。
 が、わたくしは聖書の時代から絶えることなく伝えられ、教えられてきた道を正しく歩んだ人たち、踏み外してしまった人たちの物語があればこそ、チェスターフィールドの本に代表されるような人生論、修養書が人々の心に染みこむようにして、世代を経て読み継がれ、東洋の島国に住まうわたくしたちが母国語で読めているのだ、と考えるのであります。
 本稿を執筆するにあたって、久しぶりに書架から出して目を通してみました。神田に用事があったのでその行きの電車のなかと、用事が済んだあとそのビルの1階にはいるドトールにて、著者と対話するような気持ちで、付箋片手に読んでいました。以前読んでいた時分はたいへん集中して「眼光紙背を照らす」勢いで読んでいたので、特に線を引いたり付箋を貼ったりすることはなかったのですが(いまよりずっと脳味噌がやわらかくて、記憶力も理解力も優れていましたせいもありましょうが)、今回は、おお、Lord、なんということでしょう、渡部昇一に於けるハマトンを気取るわけじゃありませんが、今日久々に読んでみると心に響くところ、来し方を顧みて頷けるところ多くあり、気附けば付箋でいっぱいになっていました。これでも自重したつもりなのですが……いやはやなんとも。因みにそのあと読み返してみて、ここはいらないかな、と思い直して外した付箋は2枚か3枚に過ぎませんでした。
 道を踏み外しかけたこと幾度ありと雖も、そのたびわたくしを本道に立ち帰らせたのは、父への感謝と尊敬と母の涙と愛、そうしてチェスターフィールドの言葉でありました。このたび突貫作業ながら読み直して、ああこの文章が自分のなかへ染みこんでいて、無意識に己の行動の指針になっていたのだな、と思う言葉に再会できたのは、とても良い経験であった──
 たとえば第2章。<「潔く生きる」ことの心がけ>に、「君も、良心や名誉に傷をつけることなく、社会のなかで立派にやっていきたかったら、嘘をついたりごまかしたりすることなく、潔く生きるといい」(P35)とある。妬みや羨望から嘘を吐いても、ごまかせるのは始めのうちだけ。言い訳や恥をかくのを恐れて吐いた嘘も、却って自分を傷附けるだけの話。いつか──遅かれ早かれ──自分が最も傷附くことになるのだ。
 わが来し方を振り返ると、それが真実であることを思い知らされます。さまざまな場面で、必要性の有無にかかわらず吐いた嘘は、かならず自分を傷附け、惨めにさせ、人間関係を狭めて悪化させる。悔い改めても後の祭り。心に痛手を残し、その人たちがいるであろう場所を、公共の場であってさえ顔をあげて、胸を張って歩くことができなくなるだけなのです。惨めで、淋しい。そうした意味では、わたくしは<潔く生きる>ことができなった者であります。
 ただ、今後はそのようなことをしないよう、改悛してやり直すことはできる。新しい環境を得て、そこで再び立ちあがる意思と自分を律する強い意思がありさえすれば。二度と同じ過ちは繰り返さない、と固く誓い、それを実行して軽はずみな言動を慎むならば。人はやり直すことができる、悔い改めて自分を良くしてゆくことができる生き物なのであります。咨、また皆と会って、酒を飲んで、笑いあいたいよ。
 付箋を貼った箇所は沢山ある、と先程お話ししたが、なかでも、ドキリ、としたのは第7章のこの一節。曰く、「わたしの長年の経験から言うと、友が多く敵の少ない人がこの世で一番強い。そういう人は恨みを買ったり、ねたまれたりすることがめったにないので、誰よりも早く出世するし、万一落ちぶれるにしても、人々の同情を集めながら、優雅に落ちぶれる」(P172)と。
 わたくしは逆であった──腹を割って話せる友が少なく、そうして自ら作ってできた敵が多い。最悪であります。隠れている敵を見附ける、炙り出す人生なんてないのだ、とわかったときにはもう遅い。いちばん大事にしなくてはならない人たちとの<環>もしくは<和>を、わたくしは自らの狭量から壊して棄てたのだ。もう二度と取り返すことのできない人たちとの思い出は、けっきょく人を苦しめるだけの、一種の枷でしかありません。チェスターフィールドの言葉を、相当な拡大解釈になるやもしれませんが、わたくしはそう捉えるのであります。
 この本の、どこがポイントで、どの章を重点的に読めばいいのか、というのはナンセンスといえましょう。全部を、自分のなかに刷りこませる覚悟で読め。経験から、そうとしか申しあげられません。ただ、それでも敢えて、というならば、そうですね、第8章「自分の『品格』を養う」(P179-204)と、第9章の「1 人生最大の教訓『物腰は柔らかく、意志は強固に』」(P207-213)を挙げましょう。むろん、次回同じことを聞かれたら違う箇所を挙げるかもしれません。要するに、全部読んだら宜しいのではないでしょうか、という結論に辿り着くわけです。えへ。
 最後に。
 この、チェスターフィールドの『わが息子よ、君はどう生きるか』”Letters To His Son”の原書は1774年に刊行されました。いうなれば本書は、今日なお人気の衰えることない<人生論>の原点であり、古典であります。原点である、というのは逆にいえば、ここに<人生論>のすべてが詰まっている、ということであります。すべての類書の出発点でもある。本書で取りあげられる様々な訓戒をどんどん細分化して時代性を加味すれば、書店の棚を賑わせる自己啓発や人生論、マナーや人付き合い、話し方、読書法の本となります。
 サミュエル・スマイルズ『自助論』やデール・カーネギー『人を動かす』、ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』などよりもずっと前に書かれたこの本ですが、これなくして果たしてかれらの本の執筆出版、或いは内容の充実などあり得ただろうか、と考えると、ちょっと怖くなってしまいます。
 人生の本格的な始まりにあたって、どんな本を読んだらいいだろうか。もしそう訊かれたら、わたくしは迷うことなく本書をその第一番に推薦します。どんなに良いことが書かれていたとしても、そんな古い時代の本なんて内容的にも現代にはそぐわないですよ。そんな愚見を吐く輩があるなら、その言い分はもっともだ、と譲った上でこういいたい。まずはこの1冊から始めよ、と。書かれている事柄に、時代や国の違いによって価値を減ずる箇所なぞ、本書のどこにもない、と。
 およそ人生論を読む人、書く人は一度はかならず手にして目を通すことになる1冊が、『わが息子よ、君はどう生きるか』。これまでの経験や反省を含めて人生論、修養の本を書きたい、と、じつはずっと願っているのであります。◆


わが息子よ、君はどう生きるか(単行本)

わが息子よ、君はどう生きるか(単行本)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2020/02/04
  • メディア: 単行本




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第2843日目 〈読む本の傾向が変わったとき、その転換点にあって自分に強く影響を与えた本 1/2 ;渡部昇一『続 知的生活の方法』〉 [日々の思い・独り言]

 小説が大好きです。読むのも、書くのも、これに優る愉しみがこの世にあろうとは、とうてい思えません。小説 − 物語をたらふく愉しむことができるなら、どんな境遇に落ちたって構わない……妃の位にもなににかはせむ、と吐露した孝標女に心よりの共鳴を覚えるのも宜なるかな。
 高校を卒業して進学先は推薦入学で決まったのですが、その際に面接なるものがあり、学院事務長と文学部長の2人が相手でした。どんなことを質問されたか、まるで覚えていないが、ただ1つだけ覚えていることがあります。どんな人生を歩みたいですか、なる主旨の質問。正確には記憶していないが、そのときわたくしはこんなことを答えました。曰く、会社に入って出世とかしなくてもいいから生活するに困らないだけの給料をもらって、好きな女性と暮らし、好きな本を読んで、明日の心配をすることなく暮らせればいいです、と。
 顧みてそのときの答えのままに、今日まで人生を歩んできた──と書ければいいのだが、現実は然に非ず。どこがどうとか詳らかに述べる必要はないが、それでも折節<来し方行く末>、そうしてなにより<いま>に思いを馳せるとき、このときの面接の答え以上の欲というか望みが思い浮かばないのです。就職してからはそれゆえに困った場面もありましたが、そんな横道のお話はさておき。
 年齢を重ね、経験を重ねるにつれて、徐々に自分の気持ちが小説から離れてゆくのがわかってしまい、淋しい思いをしています。事実は小説よりも奇なり。むかしからの言葉を信じる気には勿論なれないけれど、さりとて否定するだけの根拠も持ち合わせていない。大方の成人ならば、思い当たる節はあるのでは? もっとも、それでも胸を張って「小説が好きですよ。それ以外のジャンルの本は読む気になりませんね」といってのける羨ましき強者も居られましょう。ただ、わたくしはそちらに真より与することができない者なのです。
 ここでいう<小説>が今日の、所謂エンターテインメント小説、ジャンル小説であることは、遅ればせながら申し述べておきます。
 小説から離れた心が向かった先は、修養書とでもいうべき書物でした。修養書、というても漠然としますが、わたくしは単純に、人を成長させるに益する本の称、と考えております。自己啓発といえば今風なのでしょうが、わたくしのいう修養書には偉人の伝記や立志伝、パブリック・スピーキングやマナー、道徳なども含まれてきますので、敢えて中身の薄っぺらい、自ずと尊大の傾向過多となりがちな「自己啓発」なるジャンルとは線を引くことといたします。

 転機になったのは、高校3年になる年の春休みに読んだ本と、進学した後に亡父より与えられた1冊の本でした。
 前者は、渡部昇一の『続 知的生活の方法』(講談社現代新書)。これまでもさんざん挙げた本なので恐縮ですが、これを抜きにしてはどうしても話が画竜点睛を欠きますゆえ、またか、と思われるかもしれませんがご寛恕の程願いたく。
 『続 知的生活の方法』は、横浜駅東口の地下街、ポルタにあった丸善で買った。1989年2月の終わり。
 どうして当時縁薄かった新書コーナー(というても、棚3列程度のもので、岩波新書・中公新書・講談社現代新書、その3レーベルぐらいしか幅を効かせていなかった時代である。隅っこには群小レーベルがまとめられていたかもしれません)で足を止め、特に講談社現代新書の背表紙を目で追っていたのか。そのなかでも渡部昇一の本に手を伸ばしたのはなぜなのか。わからない。呼ばれている気がした、素直に手を伸ばしてみた、としか言い様がありません。
 手垢で汚れて、すっかりくたびれた『続 知的生活の方法』を、いま書架から持ってきているのですが、開いてみると、渡部がスコットランドにあるウォルター・スコットの書斎を訪ねたときのことやスコットの生活に範を仰いだ知的生活の要旨にまず惹かれるところ大で、次いで自分のライブラリーを作りあげてゆく、という記述に感心して、その本をレジへ運んだと思しい。
 『知的生活の方法』よりも『続 知的生活の方法』を先に買い、読んだのは、単純に前作が棚になかったか、単に『続 知的生活の方法』に惹かれるところが大きかったか、或いは単なる見落としもしくは存在を知らなかったか(え?)。定かではない。
 とまれ、帰りの電車のなかで読み始め、寝食を忘れて読み耽り、一両日中に読了。たった1冊で渡部昇一シンパとなり、以後『知的生活の方法』に始まり、講談社学術文庫に入る『教養の伝統について』『「人間らしさ」の構造』を購い、古本屋で偶然見附けた『クオリティ・ライフの発想―ダチョウ型人間からワシ型人間へ』と『知的風景の中の女性』(いずれも講談社文庫)を買ったがために、帰りの電車賃がなくなり保土ケ谷から横浜まで国道1号線を歩き通すはめになったなど、その年はまさしくわたくしにとって渡部昇一イヤーであると共に、小説以外に読書の情熱を傾けられる本/著者を(自分の力で)見附けた、まさしくメモリアルな1年となったのでありました。
 訳書についてもかれの訳したハマトンの単行本3冊(『知的生活』『知的人間関係』『幸福論』)を、古本屋をまわって苦労して買い集めました。読んですぐに、内容がよくわかった、とはならぬものでしたがその後何年にもわたって、手にするのは時々なれど、飽きることなく読み続けることをしたお陰でか、なんとなくわかるな、というぐらいにはなった。それだけでも自分では満足でした。
 渡部訳の修養書となると他にも、ウェイン・ダイアーという人の本からも多少なりと影響は受けているはずですが、そこで得た修養が果たしてどれだけ己の血となり肉となったか考えると、正直なところ自信はまるでありません。為、これについて述べて深入りするのは止めておきます(自分でも話がどのように展開してゆくか、皆目見当が付きませんのでね。でも、そのうち「感想」という形でその一端をお伝えすることはあるかもしれません)。
 その後、幾つもの渡部昇一の本を読み続けてゆくことで、ハマトンやダイアーのみならずヒルティを知り、フランクリンの自伝に手を伸ばし、幸田露伴や本多静六の本を見附けてわからぬながらもとりあえず勢いに任せて丸ごかしに読み倒し、ヒュームの文庫を古本屋で手に入れてその論旨の明快さと文章のわかりやすさに驚倒したり、佐々木邦の小説を買って存分に楽しみ、また『知的生活の方法』を精読して自分の学問の方向性や能動的知的生活の仕方について考えることしばしばであったり、まぁ、渡部昇一の本、就中『続 知的生活の方法』に出会うことなかりせば、至極ツマラヌありきたりな読書を続け、フィクション以外の文章を書くこともなかったであろうこと、そうして文章を書き続けることもなかったろうこと、容易に想像できて身震いするのであります──。
 ──これが、高校3年になる年の春休みに読んだ本のことであります。或る意味でわたくしのすべてが、殆どすべてがこの1冊から始まっているように思えます。この1冊こそが、恩書のなかの恩書なのであります。

 亡父より与えられて、これが転機となった本のあることは、先程述べた通りであります。
 これもまた『続 知的生活の方法』と同様、手にするごとに読み耽って己を鍛えるに益あり、その後も1年に1度は必ず読み返す本なのですが、この本についてはまた明日にお話しさせていただこうと思います。
 紙幅が尽きた? いえ、いえ。そんなことではありません。もうすぐ月曜日の午前1時、CSで観たい映画が始まるのです。わたくしにとっては読書したり文章を書くと同じぐらい、大事なことであります。
 ただ、著者と書名は挙げておきます。読者諸兄へのせめてもの礼儀でしょう。それは、チェスターフィールド著竹内均訳『わが息子よ、君はどう生きるか』(三笠書房)であります。
 それでは、またあした。◆


知的生活の方法〈続〉 (1979年) (講談社現代新書)

知的生活の方法〈続〉 (1979年) (講談社現代新書)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/02/03
  • メディア: 新書




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第2842日目 〈10億円の使い道。〉 [日々の思い・独り言]

 約半月ぶりに新宿で友どちとの食事(と、当然、酒)を楽しんだのですが、会話が途切れた瞬間を狙ったように、後ろの席からこんな問いかけが聞こえてきました。むろん、その卓に坐る人たちはこちらと無関係、そのあとかかわることもなかったのですが、件の質問にはこちらもつい、考えこんでしまったのです。曰く、──
 「10億円あったら、どうする? 使い道を10個あげてくれ。但し、『貯金』という答えはなし。貯金にはiDeCoやNISA、投資積立も含む」
と。
 いちばんありがちな回答である、貯金、が封じられているのが、ミソといえましょう。さて、あなたはどうする?
 しばらく会話らしい会話は、われらの間になかった。口では種々語っていても、胸の内では10億円の使い道について、あれやこれやと思案しているに違いない。貯金が駄目、ということは逆にいえば、10億全額を使い切る勢いで、使途をあげてゆかなくてはならない、ということでもある。
 結論を話せば、お互いに10億円を使い切ることはできず、またその使途も、なんともいえずありふれて、つまらぬものでありました。友どちはともかく、わたくしが答えた内容は以下の通り、──
  1;収益用物件を複数棟(戸)購入する
  2;居住用住宅を購入する(書庫附き)
  3;現在返済中の事業者用ローンを完済する
  4;国内外企業の株式を最低1000株、購入する
  5;外国債券を購入する
  6;難聴者のための支援活動を行うための活動資金にする
  7;がん患者のための支援活動を行うための活動資金にする
  8;火事によって家族や住宅をなくした人たちへの援助活動のための資金とする
  9;特定の市区の長選選挙に出馬する
と、こんな感じでありました。
 10個目はどう考えても、ひねり出すことができませんでした。精々が100万円までの使い道であれば、いろいろ思い浮かぶのですが、もっと大きな額で、となると、難しい質問です。
 
上は常々考えていることをあげたに過ぎませんが、優先順位はこれといって決めていません。また、細かな点を詰めているわけでも、ない。スペースを食うのを喜びながら上を優先順位の高い順番から並べ直すと、こんな風になりましょうか。曰く、──
  1;現在返済中の事業者用ローンを完済する
  2;収益用物件を複数棟(戸)購入する
  3;国内外企業の株式を最低1000株、購入する
  4;国内外の国債社債を購入する
  5;火事によって家族や住宅をなくした人たちへの援助活動のための資金とする
  6;難聴者のための支援活動を行うための活動資金にする
  7;がん患者のための支援活動を行うための活動資金にする
  8;居住用住宅を購入する(書庫附き)
  9;特定の市区の長選選挙に出馬する
と。

 まずはネックになっていることを解決する。これが1番目、なににもまして優先して解決すべき事象ゆえ、ここに置きました。負債をなくさずして、今後の収益活動はあり得ぬでしょう。

 収益用物件については以前から心中密かに企んでいたことを、これを契機と実行したいのであります。元手が大きいのでこれまでは夢にしか考えられなかった新築アパート/マンション1棟を現金購入して、今後の活動の礎としたい。築年数はせめて5年以内が許容範囲かしら。購入してすぐ出口戦略を検討・実行しなくてはならない、というのはちょっとなぁ。
 それでもまだまだ十分に軍資金はある。複数棟というのは、不動産投資を続けてゆくならば、最低でも5棟2戸のオーナーになる、そうして家賃収入、管理費別で1億1,000万円を実現させたいと思い、試算してみた結果を反映させている。但し、これは昨年夏の試算結果なので、現在とは多少の差異が生じるだろう。やむなきことである。いずれにせよ、収益用物件が1つだけ、というのでは、有事の際の補償にはなりますまい。

 3と4、株式と債券はお金の使い道としては当たり前の方法、運用といえましょうため、割愛。

 5,6,7,名目は異なっていてもいずれも活動資金という点では同じ。わたくしはいまから15年程前、自宅を火事で失い、同時に父を亡くしました。まだ父は若く、会社を定年退職して日が浅かった。茫然自失としているときであっても、前に踏み出すために背を押してくれたり、支えてくれたのは、周囲の人たちでした。
 自宅再建、生き残った家族のケアをしてゆく過程で、自分と同じ境遇の人たちがこの国にはたくさんおり、様々な支援活動が行われているのを知りました。が、それは大概事後のことであることが多く、住む場所が決まり、仕事が見附かるまでの当面の生活の支援に関しては、地域の人たちの温情の他には行政を頼りにする以外にありません。
 詳細を述べるのは控えますが、この場合、即応性のある支援機関があればとてもありがたいのです。すくなくともわたくしはその人たちのために、電気ガス水道が整い、あたたかい布団があり、あたたかい風呂に浸かったり洗濯ができたりする、そうしてこれからのことをゆっくり考えられる場所があることは、とてもたいせつなのです。買い物ができるスーパーや郵便局、金融機関、公共の交通機関がそれ程離れていない場所にあれば、残された人たちは当面やらなくてはならないことに専念できます。
 悲しみや苦しみが癒えることは、ない。それはわたくし自身もよく知っています。骨身に染みてわかります。が、衣食住が足りていさえすれば、故人を悼むこともできなければ、生活を立て直すメドすら立たない。最低限の生活が保障されているといないとでは、まるで違うのです。わたくしはそうした人たちのために、セーフティハウスを設け、個人的な生活相談や就業相談、或いはその援助を行いたい。収益用物件の所有は、維持費の確保も含めてその活動のためのベースにもなると思うています。

 わたくしの、これも経験ですが、6と7ですね、自分が病気をしたり、家族が病気になると、働き続けること、就職することの難しくなるケースが、残念ながらあります。自身の通院、或いは家族の通院に付き添う、というのは、往々にして欠勤を意味しますから、上司や面接担当者はけっしていい顔はしない。言葉や表情は親切でも、実際のところは否定的であります。
 そうして大概の場合、かれらは病気についての知識を持ち合わせぬし、どういう病気なのか、どのようなケアや治療が必要で、事後の生活についてどのよう注意が(自身では)必要なのか、そういった事柄を知ろうとしない。聞きかじった程度の知識を絶対的正とし、思いこみや偏見に基づいて人事評価を行い、そうして当人のヒアリングを行っても形式的なものでしかない。
 ちょっと余談になりますが、或る日、家族の者に付き添って病院へ行きました。その日、わたくしは欠勤の連絡を会社に入れています。診察から結果が出るまで、半日が必要でした。件の家族は病室で休んでいます。わたくしは病院側に確認を取った上で、ちょっと近くの図書館に本を返しに行き、家族から頼まれていた買い物をし、まだ時間があるのでカフェで時間を潰していました。そうして夕方、病院へ戻って診察結果を聞いたわけですが、一人で外出していたどこかの時点での姿を、どうやら会社の上司が目撃していた様子なのです。
 運が悪かった、というべきかわかりませんが、以来わたくしに対する会社側の目は変わりましたね。その件について事実確認のために呼び出されたりしたのであれば良かったのでしょうが、結局相手の思いこみによって人事評価は下がりに下がり、まぁいろいろなこともあり、年度の切り替え時期に6年以上勤めた会社を退職となりました。これまで自分がやってきたことのすべてが無にされた気分です。
 ちなみにこの思いこみによる馬鹿げた評価はいまも根深く蔓延っており、もはや事実を述べ立てる機会も永遠に奪われて今日に至っております。もっとひどいことに、それはかつての同僚間にも広められ、かれらと連絡を取ることも再会することもできなくなりました。口惜しい限りであります。これは、銀座の話であって、横浜の話ではない。
 6の話の領域に入りますが、横浜時代のかつての上司にこんな輩がおりました。異動した年の11月に一同で集まる機会があったのですがその席で、いまは多摩センターにいる一時はマネージャーになるもすぐに降格されたSVの発言です、「耳悪くして聞こえなくなったなら、さっさと会社辞めろよ、役に立たない人なんてお払い箱だ」と。どれだけ酒の席での発言とはいえ、許されることであるとは思えません。周りにいた”ちゃん”という女性管理者と、当時は既に別事業所に移っていた丸太のような管理者も、「そうだ、そうだ」を同調したのには、もはやこの連衆ともこれまで、と思いましたね。

 さて、そんなことはともかく、本題に戻りましょう。

6と7についても、自分の経験であります。軟調になると仕事の上だけでなく、生活してゆくに困難な状況が生まれます。それまで当たり前のように行えていたコミュニケーションに支障が生じるようになる。わたくしは自分の経験──困ったりしたことを踏まえて、難聴、メニエール病、難聴とはいわぬまでも著しく聴力を落として困惑している人たちに、手を差し伸べたい。そんな人たちに対してできることをしてゆきたい。
 有川浩が自作のなかで登場人物にいわせたように、「聴覚障害って、唯一のコミュニケーション障害でもあるんですよ」(『レインツリーの国』P113 新潮文庫 2006/07)
 この言葉の重さ、とく噛みしめてほしい。外の世界にもう1度触れるきっかけをもたらし、かかわってゆく手助けになれればいい。そう考えての、活動支援云々のお話。

 がん患者のための支援活動についても同じような風に考えています。家族の誰ががんに罹っても、つらいし、苦しいし、感情の持って行き場がなくなることに変わりはありません。当人もつらいし、家族もつらい。けっして不安は尽きない。時に気持ちが不安に押しつぶされそうになり、叫んだりあたったりしたくなる。よくわかる、自分もそうだったから。家族ががんに罹って、幸い手術の経過は良好だが、やはり年齢が年齢だけに、いつ何時……と不安になる。
 この場合の支援とは、火事のときと違ってもう手術後にしか、殆どできることはないように思います。むろん、見守る家族の方々が一緒にいるならば、という前提ですが。いない場合は、逆にできることは凄まじく増える。手術に備えての投薬や健康管理、規則的な食事と生活など、やるべきこと守るべきことは山積みになりますからね。一緒に住む人が誰もいない、或いは相談や不安を口にする相手に書く人がこれをやるのは、心理的に相当な負担がある。そうした人たちを補助することができます。
 術後は、大きな病院では開催されていますが、がん患者同士のお話会、その家族たちのお話会の運営にかかわって、人々の気持ちを少しでも軽くさせてあげられることができれば、どれだけお金を使っても良いのではないでしょうか。
 もし他にできることがあるとすれば、そうした人たちのためのコミュニティを設けること、泊まり込みで看病する家族のための住戸を病院近くに用意すること、がんに限らず末期の人たちが希望するなら入居できる小綺麗なアパートを用意して使ってもらうこと、でしょうか。

 考えていても書いていても、つらくなってきますが、自分にできることはしたいのです。それが、わたくしのような者を産み育ててくれた両親そうしてけんかしながらも一応仲良く育ってきた兄、これまでわたくしを育てて支えてくれた人たちへの報恩です。受けた恩を世のために還元したいのです。そんなことを考えていたら、例の10億円の使い道、上記のようになりました。

 長くなりましたが、いまの自分の気持ちを書きました。ご寛恕願えれば幸いです。◆

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第2841日目 〈記憶のなかにしかいない人。〉 [日々の思い・独り言]

 「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれてときめき給ふありけり。はじめより、われはと思ひあがり給へる御方々、めざましきものに貶め嫉み給ふ。」
 かつてそういう人に出逢った。鶏群の一鶴、もっと言葉を悪くすれば、掃き溜めに鶴。本人でなくても心当たりのある衆には、反駁の一言でも投げつけたい気分かもしれない。
 本の整理をしているとき、ふと思い出してしまったのだ。記憶の泉の底から、よみがえってきた過去の亡霊もといその御姿は、あれからずいぶんと<時>が経ついまでもかわいらしく、美しく、凜としている。
 どんな拍子に、その人の本好きを知ったのか、覚えていない。深入りのきっかけが有川浩『図書館戦争』シリーズであったことは、間違いないのだが──。映画化の報が公にされる少し前のことであろうから、うぅん、もうどれぐらい前のお話になるのやら。
 その人が読むのは専ら小説であったけれど、こちらとはテリトリーのかぶることが殆どなかったので、ずいぶんと教えてもらう作家や作品が多かったね。とはいえ、こちらがそれらを好きになれるかどうかは別問題である。
 乱歩をまとめて読んでみる気になったのは、どう考えてもこの人の導きあればこそだ。薄暗がりのなかで、「芋虫」の話が始まり、あなたも是非読んでみるとよいですよ、とくすぐるように囁かれては、ねぇ・・・・・・。もうノックダウンですよ、その人の審美眼にも乱歩にも。そのあと立て続けに乱歩を読み、一息入れたついでにガソリンがなくなって爾来4年ぐらいかな、放置して、いま再び向かう機運になりかけているのは、多分ここでも何度か鉄板ネタのように飽きられようと構わず、いい続けたことである。
 それから旬日経ぬ時分に、かの人はわれら皆の前から姿を消した。飄然と、何処へともなく静かに、黙して、残り香も見事に消し去って、時の流れの果てに去った。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。
 それからというもの、小説を読んでもつまらなくなった。面白い読み物がなくなってしまったのではなく、読んだものについてわずかであっても話す相手のいなくなったことが、どこへとも知れず発展してゆく会話を楽しめなくなったのが、つまらなくなったのである。
 その人去りしあとの<場>に、代わりとなる存在はどこにもなく、空白を埋めるようにFacebookやTwitterで読んだ本のことなど投稿してみても、丁々発止のやりとりがあるわけもなければ、こちらを刺激してくれるような反応が常時期待できるわけでも当然、ない。所詮は双方向の交流ではないのだ。やはり読書について語り合うは、生身の人間と対面して行うに限る。それに気がついたら、始めた頃のような熱心さは、霧消してしまった。
 消息不明のかの人とは会えば勿論のこと、LINEでも、どうでもいい会話や本のことを話していた。かつての同僚たちとのLINEはためいらなく消せても、その人とのLINEだけはどうしても消せない。バックアップは取ってあると雖も、LINEを削除することがどうしてもできないのである。いつか再び繋がる日が来ることを、わたくしは切実に希望している。あなた以上に話していて充実できる相手は、いなかった。
 「いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくして歸り来たれば、すさまじくなかなかなりと思すこと様々にて、人の隠しすゑたるにやあらんと、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落し置き給へりしならひにとぞ。」◆

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