第2844日目 〈読む本の傾向が変わったとき、その転換点にあって自分に強く影響を与えた本 2/2 ;チェスターフィールド『わが息子よ、君はどう生きるか』〉 [日々の思い・独り言]

 なにがあっても手放すことがない本こそ、本当の意味での「座右の書」ではあるまいか。最近になって、そう思うのであります。
 文字通り、常に傍らに侍らせておく本を指して「座右の書」というのは、ちょっと違和感がある。手許にある辞書や事典、歳時記などレファレンス・ブックをそう呼ぶ人も、なかには居られようけれど、座右の書というのはもっと時間の経過と共に自分のなかで重きをなしてゆく、或いは事ある毎に巻を開いて人生の指針としたり、慰めを与え、再び立ちあがる活力をもたらしてくれる種類の本を指していうのではないでしょうか。そのような経験を重ねてゆくなかで、その人にとっての<古典>が定まってゆく。それを即ち「座右の書」と称す──わたくしはそんな風に考えます。
 そうした観点で考えるなら、チェスターフィールド著竹内均訳『わが息子よ、君はどう生きるか』(三笠書房)は、昨日の渡部昇一の本と並んで、古典中の古典、座右の書のなかの座右の書といえましょう。

 わたくしが初めてこの本を読んだのは、元号が平成になってからでした。『続 知的生活の方法』の翌年であります。
 高校を卒業した年、季節はいつであったか覚えていませんが、亡父から贈られたのでした。年齢的にそろそろ人生について倩ながら考えてもよい頃だ、と考えてくれたのでしょう、『広辞苑』第三版といっしょに、おそらく田町駅隣接のビルでむかしから営業する虎ノ門書房で買って帰宅後、渡してくれたものと記憶します。父の思い出をよみがえらせてくれるという意味でも、この『わが息子よ、君はどう生きるか』はわたくしには大切な1冊なのであります。
 初めて接する人生を考えさせる本でしたから、「あなた方にこれこれのことを教えましょう」的な本を読むのが初めてでしたから、これまで好き勝手に読んできた小説とはまるで勝手が違うから、最初は手こずりましたね。
 でも、通学の電車のなかでゆっくり、じっくりと読み進めてゆくうち、ここに述べられているのは著者の経験から導き出された本物の、唯一無二の人生訓であることに気が付きました。ならば当時学校で読んでいた『論語』と同じようなアプローチで読めばいいのかな。
 そんな風に自分なりの突破口ができてからは、格段に読む速度も、内容への理解も進み、1度読み終えたあとはまた最初から、己の血肉となるぐらいまで繰り返し、繰り返し、読み返すようにその年は心掛けた──。それからというもの、特に決めたわけではありませんが、1年に1度は必ず読み直すようにして、火事があって父が亡くなるまでにすくなくとも14回は反復読書しておりました。その年以後は、毎年読み返す、という習慣はすっかり廃れてしまい。
 勿論、というのも正直どうかと思うのでが、その後わたくしは何度も道を踏み外しかけました。母を何度も裏切り、悲しませ、嘆きの言葉を吐かせた。それでも辛うじて、いろいろな犠牲や痛みを伴いつつも本道に立ち帰ることができた理由の1つは、チェスターフィールドのこの本を何遍も読み返していたお陰であるかもしれません。
 後年読んだ聖書のなかには、神の前に正しい道を歩んだ人々、道を外れてしまった人々の話が、うんざりする程出てきました。──「あなたがわたしをゆるしてくださるなら主よ、わたしは罪を悔い改め、あなたに従います。信仰を守り、悪魔の囁きに耳を傾けません」(映画『ウィッチ』2015 米)──
 道を踏み外して立ち帰ることかなわなかった人々の姿を、心中を想像しているとおかしなことに、チェスターフィールドがこの本のなかで息子に与えた訓戒を連想してしまっていた、と申しあげたら、失笑を買うでしょうか。
 が、わたくしは聖書の時代から絶えることなく伝えられ、教えられてきた道を正しく歩んだ人たち、踏み外してしまった人たちの物語があればこそ、チェスターフィールドの本に代表されるような人生論、修養書が人々の心に染みこむようにして、世代を経て読み継がれ、東洋の島国に住まうわたくしたちが母国語で読めているのだ、と考えるのであります。
 本稿を執筆するにあたって、久しぶりに書架から出して目を通してみました。神田に用事があったのでその行きの電車のなかと、用事が済んだあとそのビルの1階にはいるドトールにて、著者と対話するような気持ちで、付箋片手に読んでいました。以前読んでいた時分はたいへん集中して「眼光紙背を照らす」勢いで読んでいたので、特に線を引いたり付箋を貼ったりすることはなかったのですが(いまよりずっと脳味噌がやわらかくて、記憶力も理解力も優れていましたせいもありましょうが)、今回は、おお、Lord、なんということでしょう、渡部昇一に於けるハマトンを気取るわけじゃありませんが、今日久々に読んでみると心に響くところ、来し方を顧みて頷けるところ多くあり、気附けば付箋でいっぱいになっていました。これでも自重したつもりなのですが……いやはやなんとも。因みにそのあと読み返してみて、ここはいらないかな、と思い直して外した付箋は2枚か3枚に過ぎませんでした。
 道を踏み外しかけたこと幾度ありと雖も、そのたびわたくしを本道に立ち帰らせたのは、父への感謝と尊敬と母の涙と愛、そうしてチェスターフィールドの言葉でありました。このたび突貫作業ながら読み直して、ああこの文章が自分のなかへ染みこんでいて、無意識に己の行動の指針になっていたのだな、と思う言葉に再会できたのは、とても良い経験であった──
 たとえば第2章。<「潔く生きる」ことの心がけ>に、「君も、良心や名誉に傷をつけることなく、社会のなかで立派にやっていきたかったら、嘘をついたりごまかしたりすることなく、潔く生きるといい」(P35)とある。妬みや羨望から嘘を吐いても、ごまかせるのは始めのうちだけ。言い訳や恥をかくのを恐れて吐いた嘘も、却って自分を傷附けるだけの話。いつか──遅かれ早かれ──自分が最も傷附くことになるのだ。
 わが来し方を振り返ると、それが真実であることを思い知らされます。さまざまな場面で、必要性の有無にかかわらず吐いた嘘は、かならず自分を傷附け、惨めにさせ、人間関係を狭めて悪化させる。悔い改めても後の祭り。心に痛手を残し、その人たちがいるであろう場所を、公共の場であってさえ顔をあげて、胸を張って歩くことができなくなるだけなのです。惨めで、淋しい。そうした意味では、わたくしは<潔く生きる>ことができなった者であります。
 ただ、今後はそのようなことをしないよう、改悛してやり直すことはできる。新しい環境を得て、そこで再び立ちあがる意思と自分を律する強い意思がありさえすれば。二度と同じ過ちは繰り返さない、と固く誓い、それを実行して軽はずみな言動を慎むならば。人はやり直すことができる、悔い改めて自分を良くしてゆくことができる生き物なのであります。咨、また皆と会って、酒を飲んで、笑いあいたいよ。
 付箋を貼った箇所は沢山ある、と先程お話ししたが、なかでも、ドキリ、としたのは第7章のこの一節。曰く、「わたしの長年の経験から言うと、友が多く敵の少ない人がこの世で一番強い。そういう人は恨みを買ったり、ねたまれたりすることがめったにないので、誰よりも早く出世するし、万一落ちぶれるにしても、人々の同情を集めながら、優雅に落ちぶれる」(P172)と。
 わたくしは逆であった──腹を割って話せる友が少なく、そうして自ら作ってできた敵が多い。最悪であります。隠れている敵を見附ける、炙り出す人生なんてないのだ、とわかったときにはもう遅い。いちばん大事にしなくてはならない人たちとの<環>もしくは<和>を、わたくしは自らの狭量から壊して棄てたのだ。もう二度と取り返すことのできない人たちとの思い出は、けっきょく人を苦しめるだけの、一種の枷でしかありません。チェスターフィールドの言葉を、相当な拡大解釈になるやもしれませんが、わたくしはそう捉えるのであります。
 この本の、どこがポイントで、どの章を重点的に読めばいいのか、というのはナンセンスといえましょう。全部を、自分のなかに刷りこませる覚悟で読め。経験から、そうとしか申しあげられません。ただ、それでも敢えて、というならば、そうですね、第8章「自分の『品格』を養う」(P179-204)と、第9章の「1 人生最大の教訓『物腰は柔らかく、意志は強固に』」(P207-213)を挙げましょう。むろん、次回同じことを聞かれたら違う箇所を挙げるかもしれません。要するに、全部読んだら宜しいのではないでしょうか、という結論に辿り着くわけです。えへ。
 最後に。
 この、チェスターフィールドの『わが息子よ、君はどう生きるか』”Letters To His Son”の原書は1774年に刊行されました。いうなれば本書は、今日なお人気の衰えることない<人生論>の原点であり、古典であります。原点である、というのは逆にいえば、ここに<人生論>のすべてが詰まっている、ということであります。すべての類書の出発点でもある。本書で取りあげられる様々な訓戒をどんどん細分化して時代性を加味すれば、書店の棚を賑わせる自己啓発や人生論、マナーや人付き合い、話し方、読書法の本となります。
 サミュエル・スマイルズ『自助論』やデール・カーネギー『人を動かす』、ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』などよりもずっと前に書かれたこの本ですが、これなくして果たしてかれらの本の執筆出版、或いは内容の充実などあり得ただろうか、と考えると、ちょっと怖くなってしまいます。
 人生の本格的な始まりにあたって、どんな本を読んだらいいだろうか。もしそう訊かれたら、わたくしは迷うことなく本書をその第一番に推薦します。どんなに良いことが書かれていたとしても、そんな古い時代の本なんて内容的にも現代にはそぐわないですよ。そんな愚見を吐く輩があるなら、その言い分はもっともだ、と譲った上でこういいたい。まずはこの1冊から始めよ、と。書かれている事柄に、時代や国の違いによって価値を減ずる箇所なぞ、本書のどこにもない、と。
 およそ人生論を読む人、書く人は一度はかならず手にして目を通すことになる1冊が、『わが息子よ、君はどう生きるか』。これまでの経験や反省を含めて人生論、修養の本を書きたい、と、じつはずっと願っているのであります。◆


わが息子よ、君はどう生きるか(単行本)

わが息子よ、君はどう生きるか(単行本)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2020/02/04
  • メディア: 単行本



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