第2852日目 〈パウロの言葉に弱者救済を思う。〉 [日々の思い・独り言]

 「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(二コリ2:7−8)
 パウロは推定57−58年頃、コリントに住まうキリスト者たちに宛てた手紙にそう記した。
 これをどう受けとめればよいか。わたくしはかつて本ブログにてこの章を読んだとき、「罪を犯した者へ手を差し伸べて孤独にしてはならない、相手を愛しなさい、とパウロはいう。これなのです、すべての弱き人に必要な言葉は。なんと涙があふれそうになる、あたたかな言葉でありますことよ」(第2169日目)と書いている。
 この感想はいまに至るも、微塵たりと変わることがない。
 罪人のなかには自分の行いを悔い改めることができる者がいる。罪を償い、更生しようと努めることができる者がいる。そう信じる。なかにはとうていその犯した罪を許しがたく、心よりの改悛を望めぬ重度の犯罪者もあるが、連衆までもここで擁護する気はない。が、しかし、……。
 人を死に至らしめる最大の病は絶望である、と曰ったのは、キェルケゴールであったか。されどそれと同じぐらいに人を、ともすれば死に駆り立てる場合のある病こそが<孤独>なのだ。孤独は人の心に猜疑を生み、被害者意識を植えつけ、感情の幅を狭くし、精神を卑しくさせ、周囲との間に強固な壁を築き、そうしてその人自身を蝕んで絶望の淵へ追いつめて、そこから死の深淵へ飛びこませる。斯くして失われるべきでなかった魂が1つ、肉体と人の世から去って彷徨うことに。
 まわりはそうした人を視界から外してはならない。救いを求める声には応え、差し伸べられた手を握ることに躊躇してはならない。相手の姿は未来のあなたの姿だ。相手を救うならばあなたも救われよう。もしあなたが助けを求めるならば、応えてくれる人もあるだろう。理想論とは承知している。
 70代と60代の兄弟が都内の公団で、人知れず死んでいたという記事を読んだ。水道も電気もしばらく前から止まっていたが、それが行政に報告されることはなかった由。また生活保護も受けていなかったため、なおさら実態の把握に遅れが生じた様子である。
 ──これはけっして他人事ではない。わたくしはこれを読んで、身震いを感じた。向こう三軒両隣のまじわりが途絶え、地域社会が形骸化している現代に在ってはゆめ珍しくない出来事といえよう。他者への干渉が悪しき風潮と思われるようになって、人々が他人とまじわるのを恐れるようになった結果、絶望と孤独を募らせてひっそりと誰知られることもないまま死んでしまう人もあるのだ。
 国の経済力、人々の給与の高額なることは心を潤わせる。換言すれば、それらが低下すれば人の心は殺伐となり、無関心と不干渉が人のなかにこびりついて、<生きづらい世のなか>が生まれる温床となる。バブル経済と当時の世の中の動きはたしかに、わたくしの目から見ても異常だったけれど、それでも人々は互いを知ろうとし、見知らぬ者が隣り合っても朗らかでいられた。すくなくとも、自分の関心領域の外にある人とは没交渉を貫く、という人を見掛けた覚えはない。
 「あなたがたも互いに相手を受け容れなさい」(ロマ15:7)というパウロの言葉と併せて、二コリの文言に触れて、そんなことを考える。◆

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