第2877日目 〈読むべき本が山ほどあるのに、森鷗外の文庫を買いこんだ、というお話。〉 [日々の思い・独り言]

 荷風と太宰と三島の本を年始から折に触れて読んでいて、森鷗外への興味を掻き立てられるのは、或る意味で必然かもしれない。荷風は『鷗外先生』(中公文庫)にまとめられた幾つもの随筆によって、太宰は「花吹雪」や中編「女の決闘」などに於いて、三島は『作家論』で熱心に弁ぜられた鷗外論に由来する。「たち依らば大樹の陰、たとえば鷗外、森林太郎」という太宰の文章は、はて、いったいどこで読んだのだったか……。
 かれらの文章を読み重ねてゆくにつれ、だんだんと自分のなかで鷗外の存在が大きくなる。が、まだわたくしには読むべき本がたくさん、ある。ここで新しい作家にご参入願うわけにもいかない。いま鷗外の文庫を買いこんでも、読むのは何年先になるか、わからぬからだ。
 書店の棚の前で逡巡し、その都度後ろ髪引かれる思いで立ち去るが、この前、ふと魔が差して過去、読んだことのある鷗外作品のあれこれを思い出して、そういえば自分が好んで読んだ鷗外作品って歴史に材を取った小説か翻訳のいずれかで、所謂現代小説にはあまり関心を持てなかったな、と。
 もうちょっと具体的な話をすれば、──
 高校の教科書で読んだ「舞姫」は文語体への不馴れゆえに当時は閉口したけれど、「かのやうに」と『伊沢蘭軒』『渋江抽斎』『北条霞亭』は愉しく読んだ記憶が、片隅にこびりついている。岩波文庫にあったシュニッツラー『みれん』、アンデルセン『即興詩人』、ゲーテ『ファウスト』の翻訳は一時期、目的ありきと雖も読むたび啓発されること多く、いまも書架の前面に収まっている。
 ああ、いけない。わたくしは、鷗外の作品についてどう思おうと、既読の作品について如何に回想しようと、かのやうな文章を書くべきでなかった。病気の発症である。それを誘引させたのは、その最後のダメ押しになったのは、咨、ワトスン、この文章なのだ。渡部昇一の戒めを思い出せ、文章は感情を増幅する、というそれを。
 さて、冷静になろう。大丈夫か、俺? ああ、大丈夫だ。自分への弁解の言葉は用意してある。
 いずれ、遅かれ早かれ、この日は来ていたのだ。それがたまたま令和2年3月のいまになっただけの話。気附けばわたくしは新潮文庫に入る鷗外の本、5冊を買いこんでいた(1日に、ではありません)。あわよくばちくま文庫の全集も、と思うたが、こちらは現在「舞姫」を収める第1巻しか目録に載らないのね。残念。古書店やネットでこちらの全巻セットを探すとしよう。
 ──とはいえ、いまはまだ鷗外は後回し、いずれ読む日の訪れるまで備蓄しておく本。なにはさておき、いまは太宰、太宰。今日明日中に長編「新ハムレット」を読了して、宿願の年度内新潮文庫版太宰治作品集の完読を達成したいのだ。ゆえに、筆を擱いて予約投稿して、……おやすみなさい、と読者諸兄にごあいさつしよう。◆

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