第2886日目 〈太宰治『グッド・バイ』を読みました。with新潮文庫版作品集全冊読了の報告。〉 [日々の思い・独り言]

 「実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守り通すのは、実に至難の事業であった。」(「十五年間」 新潮文庫『グッド・バイ』P60)
 ──この新潮文庫版『グッド・バイ』は戦後に発表された短編を収めた1冊であります。
 戦争、空襲、そうして敗戦の記憶がこびりついている時代の作品ということで、本書収録の諸編にもそれらは影を落としています。発表年代の早い作品には戦時中の不安や苦労が、生々しく刻みこまれました(「薄明」「たずねびと」「十五年間」)。それが、国が復興の兆しを見せ始めると、あかるさや華やぎ、やさぐれた雰囲気を映した作品が取って代わるようになります(「春の枯葉」「メリイクリスマス」「饗応夫人」「女類」)。まこと、小説は時代を映す鏡であります。太宰に限らずこの時代を経験した小説家はその後、自分の経験や見聞した作品を少なからず残しています。
 「十五年間」という短編があります。「東京八景」の補巻と続きですが、この「十五年間」、読み進むにつれてひどく背筋を伸ばさせられてゆく作品です。奥野健男は本作を指して、自己を語るに性急すぎて底の浅い感じがしなくもない(P392)、と評しますが、イヤイヤ、そんなことはない。饒舌かもしれないけれど、これがそれぞれの事象に対する太宰の主張であります。踏み潰されても侮蔑されても立ちあがる、魂の強者・太宰治の絶唱、糾弾と訴えの声であります。
 戦後一年経たずして太宰はよくこんな逞しくて厳しく精神を律した一作を書いた。戦前戦中戦後を通して、ただの一度も筋を曲げることなく、本当にこの時代にあって殆ど唯一の、気骨ある人であった。誰だ、太宰文学を青春の麻疹と十把一絡げにまとめ、作者を指して青白くてナマッチイ輩と申すは。
 これは「十五年間」を読了してページの余白へ書きつけた感想ですが、表現に一部改めた方が良いかと思うところありと雖も内容について発言を変える部分はまったくありません。
 太宰畢生の大作、『人間失格』は死の年、即ち昭和23(1948)年3月から5月12日にかけて執筆、入水自殺の前後に雑誌分載されました。その頃にやはり執筆、発表されたのが、本文庫の最後に置かれた「渡り鳥」と「グッド・バイ」であります。
 この2作にはこれまでの太宰文学に、まるでゴーストのように取り憑いていた宿命的な暗さや彼岸へのほのかな憧憬というべきものがありません。呪縛を断ち切って自在に魂を羽ばたかせて、どこまでも思うがままに紺碧の空を飛びまわって太陽の陽射しをたっぷり浴びたかの如き、突き抜けたあかるさと健康的な笑いを感じさせてくれるものがあるのです。
 これはもしかすると、あの世をまぢかに見てしまった者ならではの達観や諦念、或いは一切空の境地に辿り着いた者だけが書くことを許された、もはや<神品>としか言い様のないものであります。行間から滲み出るあかるさやあたたかさというのは、逆説的にはなりますが、案外とそんなところから生まれてくるのかもしれません。
 「渡り鳥」(『群像』昭和23年4月号)は、編集者をしている男の目を通して、文壇・ジャーナリズムに寄生する衆の生態を暴いた、キレ味のみごとな作品。このなかで太宰は、文芸の本質について自ら思うところを余すところなく、ざっくばらんな調子で語り倒しております。わたくしはこれを読みながらフト、落語家の高座に触れる思いでした。「渡り鳥」というこの短編そのものが、落語の速記本のようでもあるからでしょうか。が、それ以上に全体の結構に落語の諸演目と共通するのを感じるのです。是非にも上手の噺家によって朗読されるのを期待したい気持ちに襲われたことを、序に告白しておきます。
 そうして未完の傑作、「グッド・バイ」。朝日新聞のために用意されていた13回分を以て中断となった、太宰治の白鳥の歌、そうして唯一無二の新ジャンルの開拓を予告していた作品であります。どのようにいうてもキリがないので、新潮文庫の余白へ認めた感想を引いて、お茶濁しとさせてください。これまで述べたことと重複する部分もありますが、その辺はお目こぼしの程願いたく存じます。曰く、──
 「なんて事! 続きが読みたい。是程続きを渇望し、未完なるを惜しむ小説はなかった。このあとケイ子との離別話はどんな風になるか、兄者はどう絡んでくるのか。田島が最後の切り札と恃むキヌ子の怪力は揮われるのか。未完なればこそ様々妄想もふくらむが、かというて漱石の如く誰かが続きを書いたら複雑な心境となるらむ。オレガ読ミタイノハ、コンナモノデハナイ、ってね。
 ──底抜けのあかるさ、ほがらかさを備えた、新しい太宰文学の誕生を予告して去ったのが、この「グッド・バイ」。これまで読んできたどの作品よりも自由闊達、ユーモアと躍動感に満ちあふれた、唯純粋に「面白い!」と膝を叩いて笑い転げたい一品。太宰が最後に斯様な上質の喜劇(でも少しく影のある)小説を遺してくれたのは、幸い事でありました。以上全冊読了。」
──と。
 ここに言い足すことは、なにもありません。敢えて一言申しあげるなら、「思い出」から「グッド・バイ」へ至るまでの巻、太宰の創作活動が刹那の停滞こそあれただの一度も後退なぞなく、最後の最後まで大車輪で前進猛進を続けて止むことのなかったことでありましょうか。今更わたくしの指摘するところではないけれど、その遺産の過半を読み通したいまだからこそ実感できるのであります。

 えぇと、既にあちこちで呟いたり喚いたりしていたことですが、足掛け10年実質1年強を費やして新潮文庫版太宰治作品集全18冊を読み終わりました。2010年5月、『ヴィヨンの妻』に始まり同年10月、『新樹の言葉』を第一期として、次は昨2019年6月、『晩年』で再開して今年4月24日、『グッド・バイ』の読了を以て第二期とす。
 毎日毎時、読書に耽っていられる環境にあれば話は別だが、完治不能の読書浮気症患者ゆえ、飽きたら他へ手を移し、そのままどんどんランデブーの相手を変えて時ばかりが過ぎてゆく。ふとした拍子に「あいつ、いまどうしているかな?」的に意識へ上ることはあれど、かというて浮気症完治に努めておとなしくするわけでもない。気附けば長い時間が経ってしまった。でも、離れた心を再び呼び戻し、夢中にさせて抵抗させないだけの<力>を太宰治は、かれの文学は備えていることを、このたびわたくしは身を以て経験した。この実感、短期決戦の可能な人にはけっして持てまい。
 そう強がりいうて、弱々しく呵々と笑い、『ヴィヨンの妻』『斜陽』『人間失格』を夏までに読み直してしまおう、とぼんやり考えながら、本稿めでたく擱筆。次に読む作家のイニシャルも、D。◆

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