第2894日目 〈汝、幻想文学へ還れ、とダンセイニ卿はいふ?〉2/2 [日々の思い・独り言]

 ──さて、読者諸兄よ。わたくしは冒頭、こう書いた;ちかごろ自分のなかに幻想文学への情熱がよみがえりつつある、と。それについて、もうちょっとだけお喋りをさせてください。
 10代後半から20代中葉あたりまでが、第一次幻想文学ブームと呼ぶべき時期でした。モダンホラーとクラシカルな怪奇小説に偏重していた当時、ダンセイニ卿とは非凡なるファンタジー作家というよりラヴクラフトに影響を与えた人、という認識の方がずっと強かった。荒俣宏編訳『ダンセイニ幻想小説集』『ペガーナの神々』(創土社)を古本屋で見附けて読んだのはこの頃です。が、それまで読んでいた小説との風味肌触りが違いすぎて、それきりでもう止してしまいました。
 そのあとの第二次ブームの際、わたくしはダンセイニの世界へ淫する喜びを味わったといえます。ブームの開幕は河出文庫から最終的に全4冊で刊行された作品集の第1巻、『世界の涯の物語』によって告げられる。奥付を見ると、2004年5月初版発行とある。この1冊で驚異と神秘、恐怖と法螺、黄昏と薄明の世界を描く筆に惚れこんで、それまでに買いこんでいながら殆ど読まずに仕舞いっぱなしだった邦訳作品を慌てて引っ張り出して、コミケで買った作品集などと併せて猛烈な勢いで読み漁ったのでした。
 それだけのめりこんで読むことができたのは、ようやくその時分にファンタジー小説を読む土壌ができあがったからでしょう。ふしぎとあの事故のあと数年は、われながらびっくりするぐらいな量のファンタジー小説を、玉も石も関係なく摂取していたように記憶します。閑話休題。
 この第二次ブームに於いてはダンセイニ読書が誘い水となって、架蔵していた幻想文学・怪奇小説を片っ端から読み直す作業に没頭することに。加えて、偶然と幸運に祝福されて全冊揃いを適価で購うことのできた国書刊行会の『世界幻想文学大系』と『フランス世紀末文学叢書』、端本ながら『ドイツ・ロマン派全集』を、文字通り寝食忘れて読み耽る毎日を3年か4年、続けることになります。顧みれば第二次幻想文学ブームは往年の作品をじっくり賞味することに費やされ、比較的時代の新しい人たちの作物には手を出していなかったことに気附かされます。どうしてか。正直なところを告白しますと、なんら魅力を感じられなかったのです。手先が器用なだけの小者に映ったのです。
 が、皮肉というべきかもしれません。ダンセイニ『世界の涯の物語』によって幕を開けた第二次幻想文学ブームに引導を渡す役を担ったのが同じダンセイニの、ミステリ短編集『二壜のソース』であったのは。それが前回お話しした新本格を始めとする国産ミステリの濫読に繫がるのですから、皮肉度は更に増すというてよいかもしれません。
 既に述べましたように、『芸術論』『戦争の物語』がきっかけとなって三たび、ずぶずぶ、と自分が幻想文学の沼へ嵌まりこんでいっている。どうしてダンセイニの作品が都度わたくしをこんな風に導くのか、どれだけ考えてもさっぱり理由がわかりません。人生は謎に満ちた出会いの連続であります。此度の第三次幻想文学ブームのなかでその一端なりとも摑むことができれば良いのですが。◆

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第2893日目 〈汝、幻想文学へ還れ、とダンセイニ卿はいふ?〉1/2 [日々の思い・独り言]

 それはまだまだ脆く、ともすれば実りの時を迎えられるかもわからぬものだけれど、めでたき哉、幻想文学への情熱が自分のなかへよみがえってきたような気がして、実に意外と驚きながらも喜びを隠せないでいます。
 ここ10年の間、読み耽ってきたのは小説と投資の本、小説を細かく検めればいったん中途で止した太宰とドストエフスキーの他は漱石に鏡花に花袋、荷風あたりを短期集中、気紛れ半分で摘まみ読みした以外は専ら現代の作家に目が向いて、なかでも読み耽って飽きることのなかったのが綾辻行人『十角館の殺人』で開眼したに等しい国産ミステリの世界でした……京大ミス研出身者を中心とした新本格を漁る一方で時代を遡って乱歩に横溝、鮎川哲也に連城三紀彦、清張といった具合に、未だに気が付くと手を伸ばして耽読、時間の経つのも気附かずにいる始末です。
 そんな風にもかかわらず、いま自分のなかで三たび幻想文学への熱が湧きあがってきたのは、どうしてなのか。そのような時期に差しかかったのだ、としか申しあげることができないのは無責任なようですが、どうやら人間の細胞は一定周期で入れ替わるというのは、信じてよいお話のように思います。
 倩顧みて、どんなことがきっかけになったのかな、と考えてみると、どうやらTwitterと書肆盛林堂の存在が無視できぬ役割を果たしているようです。たしかTwitterでは、むかしコミケで買ったダンセイニ卿の研究誌と作品集を写真に撮って呟き付きでツイートしたところ、それの編集や翻訳を担当された方からリプライをいただき、そこからイモヅル式に幻想文学及び隣接するジャンルのツイートを目にすることが多くなったと覚えています。
 もう1つの、書肆盛林堂。これは西荻窪にある盛林堂書店が出版業を行う際の屋号である。専用の通販サイトを持つ。わたくしがこの書肆を利用するようになったのはつい最近のことで、まだ日の浅い新参者だ。
 TwitterのTLに流れてくる幻想文学関連のツイートを眺めていた或る日、昨年ここからダンセイニの未収録短編集の翻訳(『ロマンス』)が出ていたことを知ってびっくり仰天、書肆の通販サイトに飛んだけれど既に売り切れ・再入荷予定なし、とのことだった。諦めきれずサイトを逍遙していたら、咨なんということでしょう! そこはわたくし好みの本が幾つも売られている蠱惑の世界だったのです。要するに油断すると財布の中身が翼生やして飛んでゆくこと必至な、個人的には危険度最大級のサイトなのでした。
 初めてそのサイトを覗いたときは、幸いなるかな悲しむべきかな、持ち合わせがあまりなく、あっても購書に優先する使い途があったのでどうにか注文ボタンをクリックしなくて済んだが、いちど斯様な幻夢境のあることを知ってしまうと、買わないまでも殆ど毎晩サイトに出掛けては溜め息吐いたり、様々目論んだりして月日の過ぎるのをぼんやり待ったのでした。
 そうして──事態は好転した。たとい向こう数ヶ月の間だけであったとしても。
 まぁ詳しいことはさておき、すこしは本を買う資金に余裕ができたとき最初に脳裏へ浮かんだのは、これで書肆盛林堂で本を買うことができるぞ、ということでした。それは、ちょっと大げさかもしれませんが、夢の実現を意味しました。通販は避ける、と決めていました。事実上初めての買い物は直接お店に出向いてしたかったのです。求める本が店頭になければ、そのときはそのときです。斯くしてわたくしは電車を乗り継いで西荻窪に降り立ち、商店街を迂回して目的地へ足取り軽く向かったのでした。6月、2度目のお休みの日であります。
 ……やはりここで、その日に購うた本のタイトルを列記するべきなのでしょうか……そうですよね、ここまで書いたのならそうすべきだというお言葉はよくわかります、ならばその後私的に素直に従いましょう……曝しましょう。買い求めた本は3冊、ダンセイニの『芸術論』と『戦争の物語』、クラーク・アシュトン・スミスの『黒い本』です。
 前の方で、むかしコミケで買ったダンセイニの作品集がある旨触れました。それが『戦争の物語』の前身(元版)となった同題の同人誌でした。更に今年になってそれを改訳、増補したものが書肆盛林堂から出版された『戦争の物語』である由。
 その日、帰りの電車のなかでダンセイニ作品集2冊をぱらぱら、拾い読みして至福の時間を堪能したのは、敢えて申しあげる必要もないでしょう。ダンセイニについては、だいぶ先になるだろうけれど感想を書くと同時にわたくしなりのダンセイニ論(「論」と呼べる代物になるか、たいそう不安です)を物して、しれっ、と、拙くも情熱だけはあるような感想文を書いてここにお披露目したく思うております。(to be continued.)□

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第2892日目 〈ドストエフスキー読書 - 「思い出の記」書き始めました - 今月出る本のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 いまわたくしは、ドストエフスキーを読んでいます。『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』だけで終わらせるつもりだった<第二次ドストエフスキー読書マラソン>でしたが、せっかくの機会だから、と未読のままだった『二重人格』をサルヴェージし、短編集を新刊書店で3冊買いこみ……というのが、先週までのお話でした。然り、またもや前回の続報である。
 偶然と幸運に導かれてあのあとわたくしは、おお、ミヒャエル・バクエフニスキー! 都内の古書店にて帯なしながら状態の良い福武文庫の短編集2冊を比較的安価で購うた一方、改めて新潮文庫版にて既読の初期作品を読み直してみよう、と『貧しき人々』の光文社古典新訳文庫版をレジへ運んだのであります。
 これだけでもうじゅうぶんで、おそらく読了までは年内いっぱい掛かるだろうに更にこの上わたくしは、新潮社版ドストエフスキー全集全28巻プラス・ワンを注文して、さて部屋のどこへ置くか、ああでもないこうでもない、と思案を巡らせ溜め息吐いている……なんと愉しい悩みであることか!?
 要するに、しばらく本ブログには太宰治に代わってドストエフスキーの話題がしばしば出ることになるのではないでしょうか、という他人事のような自分の話。退屈かもしれませんが、ごかんべんください。

 つい先日から、毎日ではないのだけれど、完成したらちょっと長めの代物になるに相違ないものを書き始めました。<人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり>──頭のなかでそんな文句が存在感を示し始めてきたのを意識したその日、フト思い立って筆を執ってみたのです。
 小説ではありません。一種の回想です。恥ずかしながら、思い出の記、と申しあげてよいかもしれません。学生時代のことを書き留めておこう、あの昏かったけれど心おどり充ち足りていたあの頃の思い出を。
 特に筋があるわけでは勿論、ありません。いちおう時系列ですが、思い出すままにあれこれ綴ってみているのであります。学校のこと、先生方のこと、点描しつつ素描しつつ書き継いで、昭和から平成へ御代が移った時代を過ごした自分のことなどいろいろと書いておこうと思うたのです。
 書きながら思い出したことを都度書き留めているようなところもあるのですが、実はこの作業がいまの自分にはとっても愉しい。そうして、あんなことがあった、こんなこともあった、とイモヅル式に、或いはなんの予兆もなく唐突に、様々思い出していると、あの時代が、自分の人生の最初にして最大の分岐点であったことを思い知らされています。
 ぶじ書き終えることができたなら、もしくは殆どすべてを書きあげてゴールが明確に視界に入ってきた暁にはこの回想、本ブログかnoteのいずれかで分載することを考えております。

 今月と来月は村上春樹の新刊が続く。今月下旬には待望のヘミングウェイ『老人と海』が高見浩の訳で出る。HPLの新訳作品集『宇宙の彼方の色』と気怠く退廃的な空気漂う館を舞台に催される背徳の宴を描いた倉田悠子の傑作官能小説『黒猫館・続黒猫館』が、間もなくお目見え。おまけに書肆盛林堂からはクラーク・アシュトン・スミスの単行本未収録短編集が、驚異と歓喜の2ヶ月連続刊行──いやぁ、まったく以て懐が痛い。
 とはいえ、なんと悦ばしきことであるか。1年でいちばん読書意欲の高まるこの時期に、斯様な新刊ラッシュとは。天の配剤、といまはそう呼ばせていただきましょう。◆


貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle版




猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)

猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2020/04/23
  • メディア: Kindle版




村上T 僕の愛したTシャツたち

村上T 僕の愛したTシャツたち

  • 作者: 村上春樹
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2020/06/04
  • メディア: Kindle版




老人と海

老人と海

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: 文庫




宇宙の彼方の色 新訳クトゥルー神話コレクション5 (星海社FICTIONS)

宇宙の彼方の色 新訳クトゥルー神話コレクション5 (星海社FICTIONS)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




黒猫館・続 黒猫館 (星海社FICTIONS)

黒猫館・続 黒猫館 (星海社FICTIONS)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)





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第2891日目 〈先週と同じようなことを、今週も書きます;ロシアのDのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 気持ちがたるんでいるのを実感している。社会人としてでは勿論なく、むしろ読書する人として。
 昨年の夏あたりから今年の先月まで太宰治にどっぷり浸かって、それ以外の小説を新しく読むことは殆どなかった。例外が松本清張と東川篤哉の2人だが、それぞれ数冊程度でしかない。しかも病床のなかにあったか、どうしても寝つけぬ時の睡眠誘導剤(これ、褒め言葉であるとご理解いただきたい)。文字通りのそれは<ちょっと気分転換>以外のなにでもなく、本道は常に太宰、太宰、太宰……。
 そうして気持ちがたるんだ原因は、まさしくここにある。いままでは1冊が終わると自動的に次の1冊にカバーを掛けて、通勤カバンにしのばせていたものだから、「さて、次はなにを読もうかな」と悩む必要などまったくなかった(あろうはずもない)。感想を書くにあたって少しく間が開くことはあったけれど。明確な意図の下、目的達成のためのフローが作られていたから可能だった技である。<第二次太宰治読書マラソン>てふ意図、新潮文庫版太宰治作品集全18冊読了てふ目的の達成。
 それを果たしての反動であろう、ここしばらく小説を手にすることがない。寝しなに三上延や山本弘、或いはウッドハウスなど持ちこむことはあったとしても。──否、次に取り掛かるべき作家は決まっているのだ、こちらも10年越しの読破を目指している、姓に太宰と同じイニシャルを持つロシアの文豪。
 なかなか踏ん切りがつかないのだ。まだ自分のなかには、太宰の残り香がうっすらと、ある。これを完全に消してしまえるまでわたくしは、件の文豪へ手を着けぬつもりだ。まぁ、2週間程度でせう。それに、見切り発車的なスタートであってもいったんそれを手にしたらばやがて残り香なんぞ霧消してしまうと、わたくしはこれまでの経験でじゅうぶん承知している。
 ──というのが先月中葉まであたりの所感。
 お話しすべき順番が前後してしまうたが、ゆやっと金木の”D”の呪縛より自由になり、ペテルブルグの”D”の文庫をカバンのなかへしのばせるようになった。10年前、未読で残した長編にいきなり取り組むのではなく、まずは初挑戦の短編でチューニング。
 取っ掛かりの2編は、殊長めの短編の方はじっと我慢しての読書となってしまうたのは残念だが、3作目でやっと体が馴染んできたと感じている。体が馴染んだ、というのはチューニングが終わったことを意味することに他ならない。進め、進め、全身だ、Go with it, Go with it, JAM. さぁ、これでもう他の作家に目移りすることなく、世界文学史に名を残す最後の長編までじっくりゆっくり、読書に耽ることができるぞ。
 本ブログの愛すべき読者諸兄よ、わたくしはここに謹んでご報告しよう。ドストエフスキー『鰐』(講談社文芸文庫)の読書は順調であり、福武文庫の短編集2冊は間もなくわが許に到着する。ハレルヤ。◆

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第2890日目 〈<第二次ドストエフスキー読書マラソン>開会宣言;併せて短編「他人の妻とベッドの下の夫」読了に寄せての意見。〉 [日々の思い・独り言]

 首都圏で緊急事態宣言が解除されたその日、ようやっと太宰治『ヴィヨンの妻』の感想を書きあげたことで全冊読了の宿願を果たし、これで「太宰治を読んだか?」と訊かれたら、「読んだよ」と胸を張って応えられる。おおげさを承知でいえば、呪縛から解き放たれた気分である。ハレルヤ。それが昨日のこと。
 数日前から、こちらもかねて宿願のドストエフスキーを読み出した。当初の予定から変更した点があるとすれば、残りの長編2作に手を着ける前に短編集でウォーミング・アップ(チューニングと言葉を置き換えてもよい)を図ったことである。
 途中で放り出した(とはいえ、それでも上巻の2/3までは読んでいた)『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』だけでなく、このような機会が巡ってくることはこの先、ゆめあるまいから書架の奥行き調整に徴用されていた『二重人格』を原隊復帰させて(代わってその任に充てたのは、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』初版単行本である)、不要不急の外出自粛が叫ばれていた4月末、有用のため豊洲−有楽町−東京エリアへ出掛けた際に立ち寄ったオアゾの丸善にてド氏の短編集3冊を購い、人の姿稀なる京浜東北線に乗って帰宅した。<第二次ドストエフスキー読書マラソン>の開始に備えての短編集購入である。1990年代に福武文庫から出ていた前期後期の短編集もこの機会に入手したく思うていたが、それは間に合いそうもない。
 通勤時間が大幅に短縮されてしまった──東銀座や新宿御苑、六本木一丁目や豊洲時代に比べると、現在の通勤時間はわずか1/3程度なのだ!──ことに伴い、読書の時間もすこし減ってしまった。よって、果たして今週はおろか年内のマラソン完走も叶わぬのではないか、と、少々不安を抱いているのだ……。 
 わたくしは読むのが遅いのでこんな厳しい見積もりを出さざるを得ない。
 まぁ、焦らず慌てず惑わされず、ゆっくりのんびり着実に1作1作、1冊1冊を読んでゆきます。

 いまは短編集、『鰐』(講談社文芸文庫)である。<笑えるドストエフスキー>像を求めて沼野充義がこの文庫のために編んだ。ちょうど2番目の作品、「他人の妻とベッドの下の夫」を読み終えたところ。
 解説などで指摘されるように、たしかにボードヴィル劇である。
 が、笑い、滑稽などよりも先に退屈、苛々が来るのはどうしてか。イワン・アンドレーヴィチの無作法と短気と会話の脱線具合と媚びへつらいに、口から出て心に積もるのは溜め息ばかりなり。
 小沼文彦はドストエフスキー作品の個人全訳を果たして有名だが、この小説を訳しているときかれは、いま自分が訳しているのはドストエフスキーがユーモアを前面に打ち出した作品であることを意識していたであろうか。5大長編と同じようなスタンスで、訳筆を揮ってはいなかったか。
 どうした所以かわたくしは、この小説にまるで心を動かされなかった。刹那の会話劇に苦笑して、ぷっと吹き出したことはあるけれど、その行為の背景に「いま自分が読んでいるのは、ドストエフスキーのユーモア小説なんだ、ボードヴィル劇なんだ……」という、無理に気持ちをそちらに引き寄せて斯く笑んだことはなかったろうか……?
 これまでに読んだことのある、海外のユーモア小説を思い返してみる。ウッドハウスはちょっと特殊な事例ゆえ考慮に入れぬとするが、やはりわたくしはこの作品を、たといロシア語からの英訳を底本とする重訳で構わぬから、浅倉久志や大森望の訳で読みたかった。かれらの訳ならきっと、アパートの一室に介しての男女の4重唱も適切に処理されて読みやすかったろうし、日本語でもじゅうぶん愉しめる<ユーモア小説>に仕上がっていたであろうことは疑いない。◆

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