第2899日目 〈ドストエフスキーの短編集を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 【凡例】
 以下に挙げるのは、ドストエフスキーの未読の長編、即ち『未成年』『カラマーゾフの兄弟』へ手を着ける前に、いわば肩ならしのような気分で読むことを決めた短編集5冊に収録された各編の感想及び各巻読了報告他である。
 これらはいずれもTwitterで公とされ、ここに編集の手を殆ど加えることなくまとめた。但し、「他人の妻とヘ?ット?の下の夫」は既に本ブログにてお披露目済みの感想を抜粋したものであることをお断りしておく。
 基本的にいずれも読んだ順番、収録された順番であるが、一部の作品に関しては当時、感想を呟いていないこともあり、この数日で読み返して改めてツイートしている。為、日時に関しては当該作品についてのみ前後と隔たりがあることも、ここでお断りしておきたい。
 感想の前段に各短編集のデータを目次とあわせて載せた。興味ある方はこれを参照の上、新刊書店/古書店をまわるなり電脳空間で買い物するなりしていただけると、わたくしはとっても嬉しく思う。
 「▽」はそれがスレッドを用いた投稿であることを意味する。
 なお、「ドストエフスキー」「作品タイトル」「読了」「読書中」の頭に付せられていたハッシュタグは、残してみたは良いけれど検めてみると煩雑のため、1ヶ所を除きすべて削除した。
 まとめてみたら思いの外長くなってしまったが分載はせず、本日お届けさせていただくことにする。



『鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集』
沼野充義/編・解説 小椋彩/年譜・翻訳作品
「九通の手紙からなる小説」(小沼文彦・訳)
「他人の妻とヘ?ット?の下の夫」(小沼文彦・訳)
「いまわしい話」(工藤精一郎・訳)
「鰐」(原卓也・訳)
2007年11月 講談社文芸文庫

ドストエフスキー「九通の手紙からなる小説」を読了。
ドストエフスキーのユーモアとは腹を抱えて笑ったり、我慢できずクスリ、と笑うそれではなく、価値観の逆転・挙句の本末顛倒に起因するか。必死になってNTRをひた隠そうとする亭主の足掻きは、読者をして哀れを催させるのです。
午後8:08 ・ 2020年7月25日

タイトル通り書簡体小説故相当の脱線、寄り道、道草があるが(ピョートル・イワーヌイッチの妻が寝込んだとか赤ちゃんがどうした等)、そんな点も本作へユーモアの彩りを添える要素の1つ。相手のイワン・ペトローヴィッチが苦言を呈しても、ピョートルはまるで意に介さない。その不遜がまた可笑しい。
午後8:14 ・ 2020年7月25日

ドストエフスキー「他人の妻とヘ?ット?の下の夫」を読了。
 解説などで指摘されるように、たしかにボードヴィル劇である。
 が、笑い、滑稽などよりも先に退屈、苛々が来るのはどうしてか。イワン・アンドレーヴィチの無作法と短気と会話の脱線具合と媚びへつらいに、口から出て心に積もるのは溜め息ばかり。刹那の会話劇に苦笑して、ぷっと吹き出したことはあるけれど。
 たといロシア語からの英訳を底本とする重訳で構わぬから、浅倉久志や大森望の訳で読みたかった。かれらの訳ならきっと、アパートの一室に介しての男女の4重唱も適切に処理されて読みやすかったろうし、日本語でもじゅうぶん愉しめる<ユーモア小説>に仕上がっていたであろうことは疑いない。(第2890日目より)
2020-06-02 02:00

ドストエフスキー「いまわしい話」を読了。
集中いちばんのお気に入り。でも流石にこれを"ユーモア"小説と呼ぶのは抵抗がある。部下の婚礼の席にふと気が向いて顔を出した上官が、種々の失態や誹謗の末に倒れてしまうたり、部下は部下で初夜のために用意された寝台を奪われたりで散々だ。
午後8:40 ・ 2020年7月25日

四等官イワン・イリイチは虚栄心が手伝って部下の婚礼へ乱入するが、斯様に人を傷つけ笑う傾向に、私は嫌悪を抱く。
本作をお気に入りてふは誰かを想うての善意の行動が時に相手の不興を買ったり、面目を潰すことがあるのだ、という事を(改めて)伝えてくるから。ハイ、わが身にも覚えがあるのです。
午後8:40 ・ 2020年7月25日

ドストエフスキー「鰐」を読了。
鰐の腹のなかに入りこんじまった夫の夢想と、外界へ取り残された妻の現実的享楽的な発言のギャップに、却ってこの夫婦はこうなった方が良かったのでは、と得心させられたりもする。
ユーモアというよりペシミスティックな笑いに彩られた短編でした。
午後8:43 ・ 2020年7月26日

ドストエフスキー『鰐』(講談社文芸文庫)、沼野充義編。
笑えるドストエフスキーをどこまで捉えられたか分からないけれど、過剰なユーモア、滅裂な展開を堪能することはできたように思う。
ベストは「いまわしい話」、次点が表題作の「鰐」かな。
午後9:42 ・ 2020年6月7日



『白夜/おかしな男の夢』
安岡治子/訳・訳者あとがき 年譜
「白夜」
「キリストの樅ノ木祭りに召された少年」
「百姓のマレイ」
「おかしな人間の夢」
「一八六四年のメモ」
2015年4月 光文社古典新訳文庫

ドストエフスキー「白夜」を読了。
10年前に読んだ時より、好きになっている。侘しい。胸がつまる。
この中編(少し長めの短編?)、オペラ向きの作品では?
午後7:45 ・ 2020年6月13日

ドストエフスキー「キリストの樅ノ木祭りに召された少年」を読了。
ロシアの文豪が書いたクリスマスストーリーにはこうした味わい深い掌編が多い印象があります。実際どうなのでしょう。
また、ソ連時代にはどんなクリスマスストーリーが書かれたのだろう。
午後10:45 ・ 2020年6月14日

ドストエフスキー「百姓のマレイ」を読了。
徒刑生活のなかでふと思い出された幼き頃の、或る農奴との邂逅。
本集のベストというて良い。
掌編ながらドストエフスキーの全てが発揮された逸品であります。
安岡治子の翻訳も良い。
午後8:00 ・ 2020年6月15日

ドストエフスキー「おかしな人間の夢」を読了。
別天体での楽園喪失劇が中核にあって、それが語り手の思想を転換させることになる。
これは読み逃すこと能わざるドストエフスキーの傑作。色々な人の翻訳で、読みたい。
午後1:30 ・ 2020年6月18日

ドストエフスキー「一八六四年のメモ」を読了。
『地下室の手記』「おかしな人間の夢」を読む際の、補助テキストとして捉えるのが良いか。
反復読書を要求する、わずか10ページ程度の小品ながら読み応えある一編でありました。
午後4:33 ・ 2020年6月18日



『やさしい女/白夜』
井桁貞義/訳 山城むつみ/作家案内 小椋彩/翻訳作品目録
「やさしい女」
「白夜」
2010年10月 講談社文芸文庫

ドストエフスキー「やさしい女」を今日から読みはじめました。講談社文芸文庫/井桁貞義の訳で。
まだ導入に過ぎないけれど、これも良作の予感。楽しみです!
週明けかなぁ、読了は。
午後7:40 ・ 2020年6月19日

ドストエフスキー「やさしい女」を読了。
意識の流れが文体を不安定にさせている。これは妻を自殺で失った夫の精神の不安定さをも意図するのだろうか?
訳文に小首傾げるところがあるので、米川訳や明後日届く新潮社版全集に入る訳で読み返してみます。
午前4:40 ・ 2020年6月23日

ドストエフスキー「白夜」を読書中。この短期間で3冊目の「白夜」ですよ。
しかし、既読の翻訳とはやはり随分と印象が違います。特にナースチェンカ。
安岡訳や小沼訳ではロマンティックな少女という風だったのが、今度の井桁訳は冷静で、ぐっと大人の女性に感じられます。
翻訳は面白い。
午後8:29 ・ 2020年6月24日

ドストエフスキー 読書
昨日届いた新潮社版『ドストエフスキー全集』全28巻を積み上げてみた。写真撮ったら、時間帯の関係でか後光がさしてる感じに……。
各社にて現役の文庫に漏れていた作品は勿論、作家の日記や裁判録、創作ノートなど読めるのが嬉しい。
さて、寄り道しながら、読みますか。
午後0:13 ・ 2020年6月25日

ドストエフスキー「白夜」を未だに読書中。
私の場合、これが初めて読む『白夜』でなくてよかったかもしれない。
小沼の情緒纏綿さと格調の高さが調和した訳文や、安岡の映像的かつ読みやすい訳文に比べて、こちら井桁氏の訳は全く響いてこないのです。
残り、あと※※ページ……。

文章は読みやすくて、(おそらくは)正確で、そういう点では文句の付けようも無い筈なのに。
たぶん心に響いてこないと感じるのは、そういった次元とは別種のことなんだろうな。と、そんな風に思うております。
午後7:55 ・ 2020年6月27日

ドストエフスキー「白夜」を読了。
「僕の頭の中では数万数千というバルブが開いて、僕は川があふれるように言葉を語り続けないではいられないんだ。そうでないと息が詰まりそうなんです」
「おお、神よ! 至福に満ちた一瞬! それだけでも、人間の一生を照らすのに十分なものではないか?」
午後8:04 ・ 2020年6月27日

少なくともこれは、僕が好きな『白夜』ではない、という感じが近いかも。
午後11:01 ・ 2020年6月27日



#30daysbookchallenge
30 今まさに読んでいる本 → ドストエフスキー/米川正夫・訳 『ドストエフスキー前期短編集』 福武文庫 ※<第二次ドストエフスキー読書マラソン>前哨戦、短編でまずは感覚取り戻して、そのうちに『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』。
午後6:50 ・ 2020年6月30日

『ドストエフスキイ前期短編集』でしたな。
午後6:51 ・ 2020年6月30日



『ドストエフスキイ前期短編集』
米川正夫/訳 江川卓/解説
「初恋」
「クリスマスと結婚式 無名氏の手記より」
「ポルズンコフ」
「弱い心」
「鰐 パッサージュにおける突拍子もない出来事」
1987年5月 福武文庫

ドストエフスキー「初恋」を読了。
新訳が渇望される、ほろ苦セピア色な少年ときめき物語。
大人の世界を垣間見たときの心の揺れと高まりを巧みに掬いあげた、奇跡の一品と言えます。
ペトラシェフスキイ事件に連座しての判決待ちの間に書かれたのが、逆に本作を一際瑞々しいものにしている。
午後7:15 ・ 2020年7月27日

5大長編しか読んだことのない人、「貧しい人々」「白夜」路線の作品を求める人には是非にもオススメな短編。
刊本によって「小さな英雄」などのタイトルもあるが、「初恋」という方がより本質に近く思うのは、本書で初めてこれを知ったがゆえの身贔屓でしょうか?
午後7:18 ・ 2020年7月27日

ドストエフスキー「クリスマスと結婚式」を読了。
ユリアン・マスタコーヴィチは愛ゆえにその少女を娶ったか。多少はそんな感情も生じたろうが、莫大な持参金に目が眩んでの婚姻と見るのが普通。が、かれの少女を見る眼差し、接するときの声音、態度に、まァ所謂アレなものを感じてしまいます。
午後7:41 ・ 2020年7月27日

将来の持参金を胸算用する姿に、空白の5年間にユリアンが結婚への道筋を付けていった周到さ・忍耐強さに、ちょっと怖くなったり呆れてしまったり。
語り手の結びの台詞、「それにしても、胸算用が鮮やかにいったもんだな!」(P87)が、全てを物語っていましょう。
が、決して嫌いになれない短編でした。
午後7:48 ・ 2020年7月27日

ドストエフスキー「ポルズンコフ」を読了。
4月1日のジョークがまるでジョークにならぬ結末を迎える、腹を抱えて笑いたくなる1編。〆のセリフがまたふるっている。
ユーモア小説というより、「他人の妻とベッドの下の夫」同様ドストエフスキー流笑劇、ヴォードヴィルと呼ぶが相応しい様です。
午後9:50 ・ 2020年7月3日

翻訳は米川正夫。前に読んだ「初恋」なんかよりはずっと読みやすく、すらすら前に読み進むことのできる訳文……やっぱり作品との相性って、あるのかもしれませんね。
改めて「初恋」と「クリスマスと結婚式」の感想ツイートを流します。
午後9:55 ・ 2020年7月3日

ドストエフスキー「弱い心」を読んでいるが、アルカーシャとヴァーシャの会話に出る"ユリアン・マスタコーヴィチ"。
かれは「クリスマスと結婚式」に登場して、見事持参金50万ルーブリを持つ少女と結婚したユリアン・マスタコーヴィチと同一人物なのだろうか?

まだ読み始めで佳境に入ったかどうかのところなので、実施とのところはまだ不明。このツイートは備忘、ってことで。真相判明されるならばこれからか。
午後1:03 ・ 2020年7月4日

Желаю удачи! Я тебя люблю.
がんばってね! 応援しています。
午後10:43 ・ 2020年7月4日

ドストエフスキー「弱い心」を読了。
短編でベスト・ワンに挙げたいのがこの「弱い心」です。
とはいえ、本作の感想を呟くのは難しい。あまりに気持ちが入り込んでいるし、なかなか冷静になれないから。
主人公のヴァーシャが自分自身のように、或いは自分の影のように思えてならないのです。
午後8:08 ・ 2020年7月27日

でも何かに憑かれたように快活さを失い、暗い想念に搦め捕られるヴァーシャの姿に心魅せられる人は多いのでは。
少なくともわたくしのなかでは、かのスタヴローギンやラスコーリニコフと同じ位、鮮烈な印象を残してなかなか消えてくれない人物なのであります。
少し経ったら、また読み返そう。
午後8:11 ・ 2020年7月27日

キリンシティでドストエフスキーを読むのは、最高だ。殊にそれが米川正夫の訳で読むユーモア小説「鰐」となれば。
黒生飲みかけで、すまぬ。
午後7:14 ・ 2020年7月9日

ドストエフスキー「鰐」を読了。訳者は米川正夫。
以前の江川訳に較べて米川訳はペーソスやメランコリーっていった部分がより際立っていて、正直ユーモア小説、滑稽小説なんて呼べない地点へ達している様に思った。訳者の性格とか原作との相性とか色々あって、翻訳って難しいけど面白いね。
午後3:08 ・ 2020年7月11日

訳者を変えて2度目の読書とあって全体の流れはわかっているというのも、今回の米川へ没頭できた理由なのかもしれない、という自己分析。
午後3:09 ・ 2020年7月11日

もう一つ言うと、米川正夫訳『ドストエフスキイ前期短編集』(福武文庫)読了。正味6日の愉しい読書時間でありました。
午後3:11 ・ 2020年7月11日



『ドストエフスキイ後期短編集』
米川正夫/訳 江川卓/解説
「やさしい女」
「ボボーク」
「キリストのヨルカに召されし少年」
「百姓マレイ」
「百歳の老婆」
「宣告」
「現代生活から取った暴露小説のプラン」
「おかしな人間の夢」
1987年7月 福武文庫

ドストエフスキー「やさしい女」を読了。
厳格を旨とするチトSな男とメンヘラ気味な娘の歳の差夫婦。
それまでの愛し方を精算して再出発を誓う夫と、その変わり様に却って重苦しさを感じて耐えきれなくなった妻の対比が鮮やかに描かれるクライマックスは凄惨と言える。
内的独白文の終着点。
午前0:02 ・ 2020年7月17日

休みの午後を費やして、ドストエフスキー後期の短編、「おとなしい女」を読み比べ。
米川正夫訳で意味の?め塗り部分の確認から始まった読み比べでしたが、言葉の選択に訳者はどんな苦心をしたのか、あるいは易々と選び得たのか、興味は尽きず。
が、読めば読む程感想から遠ざかってしまう……。
午後11:38 ・ 2020年7月16日

訂正
× ?め塗り部分の
○ ?めぬ部分の
午前0:04 ・ 2020年7月17日

ドストエフスキー「ボボーク」を読了。
沼野充義編『ロシア怪談集』でも思ったが、本作はもっと笑いの要素がクローズアップされて良い筈。腹を抱えて笑い転げられる筈の作。が、未だそんな翻訳に出会えないでいる。ここでの米川正夫の訳は全く感心しない。横の物を縦に置き換えただけの代物。
午後8:27 ・ 2020年7月17日

テンポが悪い。ポリフォニーもカーニバルも、米川訳にあっては何故か一掃されている。
墓場を舞台に死者たちの言いたい放題な会話を記録した陽気な作品……であるのに。バフチンの提唱したポリフォニーやカーニバル性の絶妙なるサンプル作品であるのに。嗚呼!
午後8:37 ・ 2020年7月17日

このドストエフスキーの実験精神が溢れたユーモア小説の快作、「ボボーク」の新たな日本語訳について叶わぬ願いと分かっちゃいるが敢えて言う、浅倉久志や大森望に英訳からの重訳で良いから手掛けてほしかった、と。
午後8:41 ・ 2020年7月17日

ドストエフスキー「キリストのヨルカに召されし少年」を読了。米川正夫訳。
ああ、自分はこの手の作品に弱いことを改めて実感。だれの訳であっても(今更ながら失礼だな、と思う)少年のいじましさはきらきら輝いている。
この掌編には〈フランダースの犬〉系なラストしかあり得ない。好き。
午後7:40 ・ 2020年7月18日

ドストエフスキーの優しさやあたたかさが伝わってくる、或る意味で『作家の日記』に収められた創作のうち、作者の人間性をじかに感じられる一編といえるかもしれません。
午後7:43 ・ 2020年7月18日

ドストエフスキー「百姓マレイ」を読了。米川正夫訳。
シベリア生活で回想されるからこそ、本作の郷愁や幸福感が強調され、追憶のなかの人たちがより愛おしく想えるのかな。
そういう人が誰にも何人かはいる。この掌編を読んでいると愛すべき死者たちの想い出が溢れてきて、泣けてしまう。
午後8:23 ・ 2020年7月18日

「わたしが寝板から下りて、あたりを見まわした時、今でも覚えているが、忽然として、『今こそ自分はこれらの不幸な人々をぜんぜん別な目で見ることができる』と直感した。そして、急になにかある奇跡によって、あれほどの憎悪と毒念がわたしの胸から、残りなく消えたような気がした」(福武文庫P154)
午後8:48 ・ 2020年7月18日

『死の家の記録』とあわせて、次は読もう。
午後8:49 ・ 2020年7月18日

一読「なんだかなぁ」っていう外国小説にそれ以外の翻訳があるならば、まずは探して読んでみるのが良い。違う感想を持つことが必ずできる筈。もしかするとそれは、生涯の伴侶となり得る作品であるかもしれない。放り投げないで、もういっぺんチャレンジしてみよう。
午後8:29 ・ 2020年7月18日

ドストエフスキー「百歳の老婆」を読了。
肩に手を置かれた人物は「勘弁してくれ!」と言うかもしれないが、この老婆の様な最期を迎えるのは理想かもしれない。家族や知った人と最後に会い、彼らのいる中で静かに、まるでまだ生きているかの様な表情で逝く事は。こんな臨終だったらなあ。
午後9:07 ・ 2020年7月19日

ドストエフスキー「宣告」を読了。
何遍読んでもさっぱり分からず、新潮社版全集『作家の日記』(川端香男里・訳)でようやっと、そういうことが書いてあったのか、と合点する。
意識の問題を通じて己の存在に義を呈し、挙げ句己の中から自然を殲滅するために自殺する男の独白。
午後10:53 ・ 2020年7月21日

『地下生活者の手記』以来の意識の問題が晩年に至るも継続されており、未だ決着を見ていないことを知らされる。
これにどう決着をつけ、或いは小説に開花させるつもりだったのか、など考え始めるとどんどん想像が広がってゆきます。

──米川正夫は斯様な理詰めの文章を訳すのは不得手だったのか?
午後10:57 ・ 2020年7月21日

なお、「宣告」が載る直前の記事に「やさしい女」の典拠になった自殺事件が取り上げられています。
『作家の日記』1876年10月「二つの自殺」新潮社版全集第18巻P161
午後11:04 ・ 2020年7月21日

ドストエフスキー「現代生活から取った暴露小説のプラン」を読了。
栄達を見込めぬ官吏が昏い楽しみに耽る一編。初めの珍妙な日本語につまづいたが、読み進めれば身につまされる話であった。
形を変えて名分を変えて、自分もこの官吏と同じ事をしているかもしれない。そう思うと身慄いがする。
午後7:01 ・ 2020年7月21日

前述の「珍妙な日本語」ですが、「わたしはまだ匿名の悪口者のことを終わってはいないのだ」というのがそれ(P182)。
新潮社版全集を紐解いて解決したのは、『作家の日記』で「現代生活から取った暴露小説のプラン」が直前のエッセイ「悪口を書いた匿名の手紙について」を承けたものであった事。
午後10:46 ・ 2020年7月21日

これは或る意味で結構怖い小説(?)です。
午後11:06 ・ 2020年7月21日

ドストエフスキー「おかしな人間の夢」を読了。米川正夫。
流石に馴染んだ所為か、読むに際して刹那の停滞も無し。とはいえ、光文社古典新訳文庫の印象をなぞる形での読書となった。
〈汝自分を愛するが如く隣人を愛せ〉の実践伝道に身を捧ぐ語り手に、パウロの姿を重ねるのは私だけですか?
午後1:03 ・ 2020年7月22日

因みにどうした理由か「おかしな人間の夢」は、古典新訳文庫も新潮社版全集も今回の福武文庫も、中央線で西荻窪へ向かう車中で読み始め、読み終わっている偶然(?)をご報告しておきます。
まぁ、もう一つ偶然を挙げれば、読み終わるまで降りないと決めて実際降りた駅が常に武蔵境である事ですか。
午後2:55 ・ 2020年7月22日

このあと、光文社古典新訳文庫のD『貧しき人々』へ進む前に(作品としては読み直す前に)、ゴーゴリ『外套』とプーシキン『ベールキン物語』を読んでおきます。
午後7:20 ・ 2020年7月22日

米川正夫訳『ドストエフスキイ前期短編集』と『ドストエフスキイ後期短編集』(福武文庫)を読了。
『後期短編集』については『前期』同様、正味10日の読書でした。
午前1:32 ・ 2020年7月23日



ドストエフスキーの短編集に載る作品すべてについて、『前期短編集』「弱い心」(米川正夫・訳)を以て感想の呟きを完了しました。
明日更新予定のブログで、ツイートした感想を取り纏めます。長くなるけれど、現在鋭意編集作業が進行中。
……というて過去のツイートの削除を行うわけではないので、予めご了承の程を。
午後8:15 ・ 2020年7月27日◆

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第2898日目 〈読書量と感想の数は、必ずしも比例しない。(ミステリ小説の場合)〉 [日々の思い・独り言]

 どうにも書く材料が見附けられず、サテドウシタモノカ、と、〆切間際になっても原稿があがっていぬ往年の文豪よろしく、突き出した上唇と鼻の間にペンをはさんでぼんやり虚空を見つめ、そうしたあとモレスキンのノートや大学ノートをぱらぱら目繰り、なにかエッセイの材料になるものはないか、清書に至らず終わったなかで手を加えれば使えるようなものはないか、と考えているうち目に付いたのが、連城三紀彦の短編集と相沢沙呼の長編の感想と、グラナダ/NHK地上波版のドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』ヘの私見と、そのときは書く意欲の高かった小説のプロットであった。
 『ホームズ』のドラマについては気の向くままに書き綴っている、話題をホームズに集中したノートに収めるつもりなので割愛するとして、幾つかの連城作品についてはわたくしなりの感想文を認めて、本ブログに遺しておきたい。殆ど下書きの域を出ず第一稿と称すには足らぬ形でノートにあるのは、『変調二人羽織』と『夜よ鼠たちのために』、『戻り川心中』『夕萩心中』の〈花葬〉シリーズと『宵待草夜情』、つい先達て復刊された『運命の八分休符』である。
 書評にあらず感想なり、というてはみるが、けだしミステリ小説についてなにかしら発言することの難しさに変わりはない。ネタばらしにならぬよう留意しつつ如何にその作品の魅力を伝えるか。それに腐心し始めるともういけない、途端に筆が鈍り思考もドツボにはまり、<負のスパイラル>へ陥る羽目に。特にストーリーとトリックが蔦のように絡まりあい両者をそれぞれで考えることが困難な小説の場合、もうすっかり筆を投げて諦めて、Twitterに「#読了」でツイートすればいいか、なんて気分になる。そんな作家の代表格が、わたくしには連城三紀彦なのだ。斯様な次第でノートには残骸が溜まってゆく。あと1人、該当するミステリ作家があるとすれば、そうね、泡坂妻夫かしらん。
 倩考えてみると、わたくしがミステリ小説について、まぁそこそこ読むに耐える、そうして夢中になって取り組みその作業を愉しむことができた、本ブログにお披露目済みの感想文の最初は、綾辻行人『十角館の殺人』ではなかったか。“あの一行”の驚きに導かれてその後立て続けに綾辻作品を読み耽り、就中『暗黒館の殺人』の感想を書くにあたっては相当の気合いを入れたっけ。……おお、そういえば『霧越邸殺人事件』と『深泥丘奇談』シリーズの感想文も、上記連城作品と同じような状態でノートに埋もれたままだ。『館』シリーズの感想文でも、既に述べたが如きミステリ小説についてなにかしら発言することの難しさは感じていたはずだが、ふしぎとそのあたりに関して悩んだという記憶はない。<愉しさ>が<難しさ>を意識させなかったのか。
 ということは、難しさを感じ始めたのはそれ以後のこと、ということになる(「こと」が1つの文章で3回も!)──連城三紀彦を読んだのも泡坂妻夫を読んだのも、綾辻以後であるがゆえに。記憶に頼った発言となるが、綾辻以後に読んだ数多あるミステリ小説で感想を本ブログで公にしたのはアンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』とイーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』、乱歩の長編短編集、そうして読んだすべてではないものの横溝正史ぐらいのものだ(思い出した、ミルン『赤い館の秘密』もこの時期に再読して感想をあげたのだった)。クロフツもクイーンも、ダンセイニもルヴェルも、小栗虫太郎も大阪圭吉も、鮎川哲也も北村薫(一部再読)も、島田荘司と<新本格>とそれ以後の面々も、愉しんで読んだあとは刹那、感想文を書くつもりになったものの早々に見切りをつけ、既読本のダンボール箱へ詰めこんだ。もういちど引っ張り出して読み直したとしても、あらためて感想を書く気になれるかわからない。Four Chords & Several Years Ago.すべてはここに尽きている──なんてカッコつけてみたりして。
 Let’s call it a Day.みくらさんさんかよ、そろそろ本稿を結ぶ準備を。そんな風に誰かがいうのが聞こえる。了解した。
 これからのわたくしがどれだけのミステリ小説を手にし、夢中になって読み耽り、ワクワクドキドキを味わうことになるのかわからない。すくなくとも生きて目が見える限り、道楽としての読書は続けられるはず。と同時に、今後、どれだけのミステリ小説の感想の筆を執り、お披露目にまで至るかもわからない。わたくしは勿論、評論家ではないから、好き勝手に読み、好き勝手に書くだけだが、記述のホームズばかりでなくミステリ小説の感想文も1冊のノートにまとめておきたいな、と思う。自費出版できたとしても、果たして誰がそれを買ってくださるというんです?
 今日の話題を探してノートをあちこち目繰って、ふと目に付いた過去の文章を点検していたらいつの間にやら手が動き、この作物ができあがっていた。大体いつもこんな風だ。Simple as that.
 結論;わたくしはミステリ小説を「読む」ことが大好きだ。これ程愉しい道楽が他にあることを知らない。

 ちなみに本稿の元のタイトルは、「〈稼いだらその分だけ、ミステリ小説に消えてゆく。でも書くものが多くないのは……〉」というた。長いのを理由に現行のタイトルへ変更したのである。あまり大差ないけれど。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2897日目 〈時代を超えて読まれる米川正夫の翻訳。〉 [日々の思い・独り言]

 前回はちょっと言葉が走ったような感もあるので、本日慌てて修正というか弁解というかそんなものをさせていただきたく筆を執った次第。
 たしかに今日のイキの良い翻訳に較べて米川正夫のそれは古風がかった、けっして取っ付きやすいとは言い辛いものである。文語混じり、時代がかった表現を孕んだ訳文を読み進めるのは、読者の側に若干の忍耐が要求されるだろう。おまけに今日の新訳は(ドストエフスキーに限った話ではないが)息長く描写濃密な段落を、訳者や編集者の判断で適宜改行せられることも珍しくない;これは勿論、読者サイドが長い段落を読むのに困難を感じていることに概ね起因する。
 何だ彼だいうても米川正夫の翻訳は、半世紀以上前の作物だ。今日の時流にピタリ、とそぐうものではない。だからこそ海外文学の古典はいつの時代も新訳が求められている。そうして出版されると、論旨の正当か否かにかかわらず賛否両論を巻き起こすことに。現在陸続と過去の翻訳に代わって新訳が登場しているのは、いまがまさに日本語の転換期にあたっているから、と、そう考えてよいのだろう。いい換えれば、21世紀中葉にはいまの新訳は古びて新たな翻訳が求められるようになる、ということだ。
 一方ででかつての翻訳が──多くは翻訳者のネームバリューにより──ふたたび脚光を浴びて持て囃されたり、新しい世代によって大事にされてゆく現象もあるが、これは新訳ばかりが<正>ではあり得ないということを示す好例かもしれない。川端康成訳バーネットの『小公子』や片山廣子/松村みね子訳すダンセイニ卿、イエイツ、マクラウドを始めとするアイルランド文学が、いまわたくしの脳裏には浮かんでいる。が、それはさておき、米川正夫の翻訳が今日なお新刊書店の棚に現役として並んでいるのはなぜか──。
 名訳と謳われることに異論はないが、それのみによって生き残り、版を重ねているわけでは決してあるまい。当時としてはあたりまえであった文語混じりの訳文が却って、いまの読者の目には新鮮かつ格調高いと映るのが、米川役をいまなお生き永らえさせる主たる理由であろうか。──米川正夫の訳したロシア文学といえばやはりドストエフスキーであり、(文豪の方の)トルストイである。続けてツルゲーネフやアルツイバーシェフが、メレジュコーフスキーやショーロホフが思い浮かぶ。
 斯様に並べて気附かされるのは、米川が多く翻訳した作家の過半が19世紀に活躍した人々であることだ。かつて生田耕作先生の『るさんちまん』が世に出た際、沢名恭一郎が寄せた書評の一節に基づくならば、特定の作家について翻訳点数が多いことは即ちその作家への愛着や共鳴の度合いが高く、また作品への愛着や読みこみの、理解の深さに比例する。生田先生に於けるバタイユやマンディアルグ、セリーヌ。平井呈一に於けるハーンとマッケン。紀田順一郎のM.R.ジェイムズとブラックウッド、荒俣宏のダンセイニ。平井肇に於けるゴーゴリ。神西清に於けるチェーホフ。延原謙に於けるコナン・ドイル、就中シャーロック・ホームズ・シリーズ。etc,etc.
 これは皆、肌の合った、気質を同じうする原作者と翻訳者の幸福な出会いであり、理想的なパートナー・シップの実例である。米川正夫の場合はそれがドストエフスキーであり、トルストイであった、というお話。
 その訳業のなかでもどうしても合う作品、合わない作品はあるのは仕方ない。<玉>ばかりを生み出す作家はいないからだ(自己批判が嵩じて<玉>だけ遺して他を処分する作家はいるけれど)。前回は「初恋」(ドストエフスキーのね)を読んで触発されて、その訳をアンティークといい、退役を義務づけられた巨艦と曰うたけれど、『ドストエフスキイ前期短編集』を読了し、『罪と罰』と『白痴』をそれぞれ休日に読み直してみて思うのは、斯様な認識は一部の作品については<正>かもしれぬが大局的に見ればそれは少数意見に成りさがる、ということ。むろん、個人の見解。「初恋」は他の人の訳で読んだら目から鱗が落ちるような思いを味わうのかもしれないし、逆に「鰐」は前回の他の訳よりもずっと愉しく読書してお気に入りの短編の1つとなった。「ポルズンコフ」と「弱い心」に至っては他の人の訳で読むのがちょっと怖いぐらいの感動を、米川正夫の訳から蒙ったことも、ついでに告白しておく。米川訳すところの5大長編のうち、既読作でまだ触れていないのは『悪霊』となるが、こちらも是非目を通してみたく思うている。そうして、『カラマーゾフの兄弟』を読み終える頃には米川訳D全集を購うか、否か、真剣に悩んでいる自分の姿が容易に想像でき……。
 本稿を書くにあたってあらかじめ用意していたメモが、実はある。それを活かすことが殆どできなかったこともあるので弔いも兼ねて、恥を曝すようだけれど最後に転記させていただく。原本から翻字はするが校訂はしないので、ちと文意が乱れる箇所あるやもしれぬがどうかご勘弁の程願いたい、──
 「米川正夫の翻訳を等しく斯くいうのではないし、そんな愚挙暴挙を犯して地雷踏みに行くつもりもない。顧みれば学生時代、佐野努先生の露文ゼミにて「クロイツェル・ソナタ」を読んだのが馴れ初めで、途中例の平井発言をはさんで『復活』の他『イワン・イリイチの死』『光あるうちに光の中を歩め』、ツルゲーネフの『初恋』と、薄い本が多くを占めるのはともかく、ドストエフスキーの、いまは角川文庫で復刊された『罪と罰』や岩波文庫にあった『白痴』は一読、新潮文庫の翻訳とは異なる端正かつ整然とした訳文に膝を叩いたものだ。(ドストエフスキー)「初恋」はこちらのチューニング不足が主原因だろうが、それでも米川と作品のミスマッチは否めない。学生時代、米川正夫といえばトルストイの訳者てふイメージがあざやかに刻印されていて、ドストエフスキーの訳業は知ってこそあれ未だこちらにDヘの感心が薄かったせいもあってつい最近まで意識にのぼらなかったのが偽りのなき正直なところ。」
 ──以上。お粗末さま。◆

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第2896日目 〈ドストエフスキー中短編の新訳を望む。〉 [日々の思い・独り言]

 砂を噛むような思いでようやっと、ドストエフスキーの短編「初恋」(「小英雄」)を読み終えたとき、ゆくりなくも心に浮かんだのは平井呈一が米川正夫の翻訳を評した台詞であった。曰く、「トルストイのものでもぼくは英訳で読んだんだけれども、『復活』にしても、それはすごいもんなんだよ。米川正夫の訳だと、春の始めの草が萌えて来て陽炎がグラグラするような、あの冒頭の描写なんか、全然感じられないな。……モード訳の英訳でも陽炎がたつようなんだよ。文豪だもの、味もそっ気もないものなんか書いてる筈がないんだよ」(「対談・恐怖小説夜話」生田耕作との対談 『幽霊島』P470 創元推理文庫 2019/8)と。
 『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を読むための、いわば前哨戦のようにして文庫にまとまったドストエフスキーの短編を読んでいるのだが、意外にその期間が長引いてしまっている。嵌まったのだ。ちょうど、かつて福武文庫から出ていた米川正夫・訳『ドストエフスキイ前期短編集』『ドストエフスキイ後期短編集』のセットを、比較的安価で入手できる幸運に恵まれたのに後押しされて、この2冊も好い機会だから読んでしまおう、と、数日前から通勤電車のなか、仕事帰りのスターバックスやパブ、寝しなの床のなか、巻を開いて活字を辿っているが、まったくというてよい程物語へ入りこめないまま今日、ようやっと最初の1編を読了できたところ。
 わたくしはロシア語が読めないから「おそらくは」と留保附きでいうのだが、米川正夫の翻訳は原文にひどく忠実であるのだろう。能う限りドストエフスキーの文章にこめられた熱気を損なうことなく、日本語へ移し替えることに粉骨砕身したのだろう。それが最終的に結実したのが1969年から1971年にかけて刊行・完結した河出書房新社版『ドストエフスキイ全集』全20巻別巻1であり、更にそれを底本にして出版された幾種もの文庫なのだろう。
 古くからのドストエフスキー読者、ロシア文学ファンにとって米川正夫の翻訳は<名訳>と讃えられて然るべき存在であり、またそれが同作異訳の出来映えを検討する一種のバロメーター役を果たしている様子。新潮社版『決定版 ドストエフスキー全集』第2巻月報で作家、真継信彦は若い頃のドストエフスキー読書を回顧して、当時の自分はドストエフスキーの作品というよりも米川正夫ら(の訳文)に影響を受けた面が多いのではないか、と述懐する。斯様に米川正夫の翻訳を<名訳>とし、またその訳文を良しとする人々はずいぶんと在る。否定はしない。とはいえ、──
 米川正夫の翻訳は既にアンティークの域にあり、サビがそこかしこに浮かび出た、機関に深刻なダメージを抱えてもはや動かすことかなわぬ退役を義務づけられた巨艦に等しい。珍重する者があるとすれば、およそ2つの種別に分けられよう;1つはそこにノスタルジーを覚えるがゆえ愛でる者と、1つはその訳文に日本語の滋味を感じて愛す者と。が、こんにちの読者に果たしてそれは受け容れられるものであろうか?
 受け容れられる、とはチト誤解されるやもしれないが、現代を生きる老若男女が米川訳ドストエフスキーなりトルストイなりを手にして、訳者が選んだ訳語、綴った文章に異を感じるところなく没入でき、その世界に生きることができ、未読の人たちへその魅力の様々を説きかつ奨めることができる、経年劣化の誹りを跳ね返して第一線に立ち続けることが可能な翻訳であるかどうか、ということだ。
 わたくしは残念ながら、否、だと思う。繰り返しになるけれど、これは疾うに現役の任を負うことが不可能になった、退役艦である──艦籍を除かれた、記念艦として余生を送ることを決定せられた……。いまとなっては生気に乏しく色彩を欠いた、時代の波に打ち克つことかなわなかった、かつて名訳と讃えられた時代の徒花。言い過ぎ? 済まぬ、わたくしは本気でそう思うている。勿論、米川正夫の訳業、読書界にもたらした功績、それらを否定するつもりはまるでない。紀田順一郎いうところの。「その時々の考え方や立場に左右されない、<零度の書物>」(『書斎生活術』P187 双葉社 1984/5)の任を担っているのがこの場合の米川正夫の翻訳である、というに過ぎぬ。
 が、これは実は米川正夫に限った話でない。すくなくともドストエフスキーに関していえば、前述の新潮社版全集に収まる、或いはむかし単独で翻訳されたような中短編群については概ね同じことがいえるはずだ。近年出版されたうちでも安岡治子が訳した『白夜/おかしな人間の夢』(光文社古典新訳文庫)を除けば、繰り返し読むには向かぬような日本語訳が未だ新刊書店の棚に並んでいる。
 有り体にいって、目につく限りでもう10種近くになんなんとする中編『白夜』以外のドストエフスキーの中短編は、いまこそ新訳が渇望されるべきものではあるまいか。5大長編や『死の家の記録』『地下生活者の手記』などの新訳もうれしいが、それ以上にわたくしは長編以上に内容の充実した、作風も振り幅の大きい中短編群を生命力に満ちあふれた日本語で読みたい。むろん、ゴーゴリを腰砕けの落語調で訳して悦に入っているような人の登板はご遠慮願いたく──。
 実現したら大いに歓迎、狂喜に乱舞し、鏡花じゃぁないが「夜が明けると、多勢の通学生をつかまえて、山田が其吹聴といったらない。鵺が来て池で行水を使ったほどに、事大袈裟に立至る」(「怪談女の輪」 『鏡花怪異小品集 おばけずき』P73-74 東雅夫・編 平凡社ライブラリー/平凡社 2012/6)と苦笑しつつ揶揄されても構わないとさえ思う(註して請う、山田をどうぞブログ主に脳内変換されよ)のは、光文社古典新訳文庫が全5巻ぐらいでドストエフスキーの中編集、短編集を、相応しい訳者を採用して充実した解説を付し、5大長編に代表される深刻深遠なるドストエフスキー、『貧しき人々』や『白夜』に代表されるリリカルなドストエフスキーのイメージを刷新するような、それの出現によって、よりこの文豪の多面な創作活動を伝えるような傑作選が編まれることだ。実現したら大いに歓迎、狂喜に乱舞して、あちこち吹聴して回ろう。
 『作家の日記』に含まれる短編は既に満足できる翻訳があるから良しとして、わたくしは『プロハルチン氏』や『弱い心』、『ネートチカ・ネズワーノワ』や『伯父様の夢』、エッセイ『ペテルブルグ年代記』『ペテルブルグの夢』、就中丸谷才一激賞のユーモア小説、ラブコメ小説『ステパンチコヴォ村とその住人』を新訳で読んでみたい。もしくは、新潮社が自社の全集から短編をセレクトして2冊か3冊の文庫にまとめてくれるか、だ。これらが出版の暁には絶対、新たなドストエフスキー像の形成に大きく益あるはずなのだが……。
 咨、いったいそんな日は来るだろうか?◆

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第2895日目 〈しばらくは毎日更新に戻すことは難しそうだなぁ、という、いったい何度目だという溜め息交じりの告解。〉 [日々の思い・独り言]

 すっかり週一更新が常態となっている本ブログですが、近日中にもうすこし更新スピードをあげて、秋の暮れ頃には毎日の定時更新へ戻すつもりでいます。
 さりとてそれだけの話題があるわけでもなし。週に幾日かの更新であればどうにか毎回、新稿であっても格好はつくが、毎日となれば以前のように自由気儘に、節操なく書き散らせるようになるには、話題をキャッチして1編へ仕立てるだけの妄想力と日々筆を執り続けるだけの体力の回復を待たねばなりません。それまでの間、どうやって書き溜めた文章でつないでゆくか……。
 正直なところを告白すると、ストック原稿はどれも聖書にまつわるものです。その殆どが統一されたテーマ(各書物の〈前夜〉)で書いた文章。それゆえ、ひとたびお披露目となったらそのあとは集中して、一気にそのストックを吐き出してしまいたい、と考えているのです。聖書絡みのその他の、統一されたテーマから外れた種々の原稿に関しては、適当なタイミングでお披露目することになるでしょう──。
 日々の徒然に思うた諸事全般を、倩書き垂らす程の胆力がいまの自分にはまだ、ない。これが毎日の定時更新に復せない、踏み切れないいちばん大きな理由といえます。過去の記事を読み返してみると、よくもまぁ飽きることなく疲れることなく嬉々としていろいろなものを書いていたな、とわれながら感心するやら呆れるやら。そんな風に思うこと頻りなのであります。……え、同じことを何度も何度も書いているじゃァないか、今回のこのエッセイだって以前の作物のいったい何度目の焼き直しだ、ですって? ああ、君、それは言ってはいけない。
 わたくしはふて腐れた。もう、プンスカプン、である。
 毎日会えるようになるまで、もうちっとだけお待ちいただきたい。そう言い残して、じゃぁ、と去る。
 当面の間は本ブログ、読書感想文を主軸として運営を続けてゆくより他に手立てはない。good grief.◆

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