第2943日目 〈丹羽宇一郎『若者のための仕事論』『リーダーのための仕事論』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 変則的に2冊の本を俎上にあげるのは、個々に1つの感想文を認める程の理由がないからだ。それをまずお伝えした上で、本題に移ろう。曰く、──
 著者はかつて伊藤忠商事の社長。会長を務めた人。既に10数冊の著書を持つが一部を除いて、言い方は失礼だが同工異曲の感を免れず、井戸の底が浅いというよりも清水を汲みあげる井戸が1本しかない貧しさを感じた。同じことを何度も何度も、手を変え品を変えて語るのも見ようによっては或る種の芸能である。
 が、お金を払って読まされる側にしてみればタマッタものではない。出る本出る本、これはあの本で読んだぞ、またこの話題か、とウンザリさせられては見切りのタイミングも近附いたというものだ。その点、渡部昇一も同工異曲という点では同じだが、底が知れぬ井戸を何本も持ち、しかもそれを常時汲みあげ続けたので、どの本を見ても些かなりとも発見がある。が、丹羽宇一郎の本にはそれがない。
 勿論、丹羽の哲学、信条、人生論、仕事観がぎゅっ、と詰まった本はある。『仕事と心の流儀』(講談社現代新書)がそれだけれど、これは速読ではなくじっくり腰を据えて読むに値すると思うているので、こちらの感想はしばらく先とさせていただきたい。
 直近数週間の傾向として抜き書きノートを作っていること、感想は専らこのノートに拠っていることは既にお伝え済みだが(あれ、伝えているよね?)、標題2冊の感想もすべてここから拵えるとしよう。
 「私はつねづね、「人は仕事で磨かれる」と思っています。がむしゃらに、それこそアリのように働いていると、その経験が自分の血となり肉となるのです。すると、「俺は絶対に負けないぞ」という自負心が生まれてきます。この自負心が、仕事における人間の「底力」となるのです。
 底力をつくるのは、「労働×時間」です。たかだか三十分や一時間、苦労したところで、自信にはつながりません。もっと長期的に、苦しくても仕事を「何くそ」と思って歯を食いしばりながら続けてゆくことに意味があるのです。」(『若者のための仕事論』P89)
 これを丹羽哲学の真骨頂というてよい。結局、丹羽の(人生論、仕事論にまつわる)著書の出発点は常にここであり、他の部分はいずれもこれを主題とした変奏曲、パラフレーズ、或いは付け足し品にしか過ぎない。因みにこの「人は仕事で磨かれる」、書名にも採用されており、こちらは文春文庫に収められていまも新刊書店の棚に並ぶ。
 社会人経験を或る程度積んだ人であれば、この丹羽の言葉、首肯できるのではないか。すくなくともわたくしは間髪入れずに大きく首を縦に振った1人である。
 チラシを封筒に入れる作業であっても、広告代理店とプレゼンの場へ臨むにしても、顧客獲得のために泥啜って這いずり回って契約を獲得するのも、裏社会の方々の前で土下座して「申し訳ありませんが、あなたのこの家を売ることはできません」と命の危険を覚えることがあっても、組織整理のためにリストラされても、コールセンターで理不尽なクレームの電話を延々何時間も聞かされひたすら謝罪の言葉を繰り出しその後はのらりくらりと攻撃をかわし、謂われなき誹謗中傷の集中砲火を浴びたと思えば能力を実際以上に高く買われて就いたポジションで自分がこれまで経験してきたことが十全に発揮されてわれながら自身の成長を実感できたり、エトセトラエトセトラ。こんな仕事をして、わたくしは生きてきた。そうして成長してきた。結果として、わたくしは仕事で磨かれた。
 業界限定で恐縮だが、コールセンターで働くオペレーター諸氏も同じことを感じているのではないか。与えられた資料とスクリプトとFAQを研修中から読みこみデビューした後はそれをバイブルのようにして、入電者との他流試合に臨むことになる。ここで(結果的に)かれらが行うのは、『知的再武装』にて佐藤優が言っていた「反復」という行為に他ならない。反復こそ知識の定着の根本かつ王道なのだ。
 丹羽の著書は既に何冊も読んでいる。が、どれを読んでも感銘を受けるのは、やはりこの部分──人は仕事で磨かれる──であり、ゆえに逆説的に申せばこのフレーズを含むお気に入りの1冊があれば他はすべて処分したって構わないのだ。
 他に取り挙げるべき点はなにか、と考えたが、そういえば『リーダーのための仕事論』にこんな一節があった。リーダーが就任してまず最初に行うべきは(部下となる人々)個人の履歴を頭に入れることだ、と。続けて、──
 「半年くらいかけて、じっくりと一人ひとりの部下が歩んできた歴史、そして今ある環境について頭に入れていく。部下は、上司のそういう姿勢をちゃんと見ています。上司は自分のことをきちんと見てくれていると部下が思えば、信頼も生まれてきます。」(P23)
 要するに会社の資産となる<人>、リーダーとしての自分の資産となる<人>を、よく見てよく知り、かれらを活躍させられるシーンを作り出せ、そうしてかれらに自信を与えよ、かれらの成長のため背中を押してやれ、というのだ。
 これはわたくしも実行したな。そんなに大所帯でないからできたことかもしれないけれど、1人1人との面談だったときもあれば、皆との雑談に交じってのこともある。人事部や総務から送られてきた入社書類や前職場で書かれたレポート類に目を通してのこともあった。そうして作りあげたのは、そのときそのときでわたくしが最強と自負したチームである。残念ながらチームは現在のものを除いてすべて解体されてしまったけれど(コールセンターなんてそんなものですよ)、それでもゼネラリストとして、管理者として、どこへ行っても通用するスキルはかれらのなかに埋めこめた。お陰様でかれらの現在について悪いことは、どこからも聞いたことがない。
 つまり、わたくしにとって丹羽の著書というのは、自分がこれまで会社員としてやって来たことは概ね間違っていなかった、と再確認させてくれるエビデンス代わりである。
 冒頭に書いたような理由から著者はけっして、出る本出る本を追っ掛けて都度新たな発見をさせてくれる類の書き手ではない。残念ながらそれが、これまでの著書の過半を読んで到達した結論だ。が、本書の如く初期に著された本については、時々著者の本音が剥き出しになった箇所があるので、そんなところを探して、文脈を摑みながら拾い読みしてゆくのも一興であろう。◆

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第2940日目 〈池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 10年近く前になると思うけれど、フェイク映像を製作してSNSやLINEに投稿したことがある。真夜中の井の頭恩賜公園、玉川上水脇を通る電灯もなく舗装もされていない一本道を歩いたときの映像だ。足許が泥濘んでいた記憶があるから、前日か前々日に雨でも降ったのだろう。
 東京にも漆黒の闇がある。ほんの数10センチ先に差し出した手が見えないのだ。一本道を撮影しながら歩いていると、不安な気持ちに駆られた。あとでこれを観直したとき、この世ならざる存在が映りこんでいたり、そうでなくとも所謂怪奇現象とされるものが記録されているのではないか、と柄にもなく怯えながら。
 勿論、こちらが怖がりつつも期待していたものは、記録されていなかった。が、途中スマホを持ち直したことで画像がぶれた瞬間がある。心霊動画の文法の1つである「横パン」「縦パン」だ。見ようによっては、或いは観る人の思いこみ乃至はこちらの誘導次第で、ここに霊が映っている、怪奇現象が記録されている、と信じこませるのは容易だ。もしくは、斯様な誘導なくとも殺家場所と時間帯だけ提供すれば、あとは観る人が勝手に<記録されていないものを(思いこみゆえに)見出す>だろう。
 そうして結果は、こちらの思う壺であった。何分何秒の場面になにか映っている、ラップ音のようなものが聞こえる、等々。それに気を良くして某心霊動画の編集部に投稿したら、フェイクと承知されつつ採用された。わたくしはその回をいまも観ていない。
 こんなお話しを長々とさせていただいたのは、本書『知的再武装 60のヒント』でフェイクニュースに踊らされない為の心構えのようなものが、池上彰と佐藤優によって開陳されていたからだ。引用するのは池上さんの発言だが、曰く、──
 「フェイクは見極めが非常に難しいものになってきていますが、読む者の教養や一般常識が問われているのだと思います。(中略)(フェイクを疑えるだけの)ちゃんとした常識を持っているかどうかが日々試されている」(P192)と。
 Facebookのアカウントは疾うに廃したから、どのようなフェイクが出回っているか知らないが、Twitterを見よ。タイムラインへ流れてくるツイートを注意して見ていると、あきらかにフェイクニュース、デマ情報と思しきものが日常的に存在している。これに如何に踊らされないようにするか。
 それを池上さんは「一般的な常識」を持つことだ、という。更に補強すれば、「常識を常識たらしめるための教養を持て」と説く。もっと違う言い方をすれば、地に足着けてまわりの世界を見なさい、疑問が生じたら自分で調べなさい、本を読みなさい、歴史と道徳と倫理と論理を学びなさい、ということだ。そうすることで己のなかにフェイクをフェイクと見破るだけの目が養われ、容易に踊らされない術が身に付けられる。
 別の箇所で佐藤優はこの見極めに関して、「立ち止まることが必要だ」という趣旨の発言をしている(P111)。直前の「教養とは何かと言えば、適切な場面で立ち止まれることです」を踏まえての言である。短い(断片的な)ネットニュース、○分で分かるニュース解説といった類の危険性を見極めるためには教養が必要であり、そのためには一旦立ち止まって「この情報は本当なのだろうか」「出典はどこか、信頼出来るソースからなのか」と考える作業が必要となるのだ。
 むかし、当時2チャンネルの管理人であったひろゆきの言葉は、SNSユーザーばかりでなくネット利用者のすべてが虚心坦懐に耳を傾け、自戒とすべきと思う。ひろゆき曰く、「2ちゃんは嘘を嘘と見破れる人でないと扱えない」と。SNSを中心にして形成された世論によって、全世界がネガティヴな方向へ舵を切ることだってあり得る。それを阻止するためにも、フェイクをフェイクと見破る教養や常識が求められている時代は、現代を措いて他にあるまい。
 誰もがフェイクニュースを作ったり、疑うことなく脊髄反射的にリツイートして拡散できるお手軽かつ厄介な時代に生きていることを、われらは自覚すべきであろう。教養や常識は自分を守るための武器であり、他人を傷附けないための<立ち止まり>の方法なのだ。
 本書は他にも「4つの対話の術(型)」や『KGBスパイ式記憶術』(カミール・グーリーイェヴ/デニス・ブーキン:著 岡本麻左子:訳 水王舎 2019/2)を基にしての記憶術とその定着のさせ方などあるが、正直なところこれらの点については目新しく感じるところは殆どなかった。というのもこの程度のこと、コールセンターでは研修とOJTの段階で叩きこむからだ(むろん、筆者の会社、筆者の部署では、という限定条件下の話だが、コールセンターを運営する会社がこの程度のメソッドを就業者に行っていないのは、極めて問題視すべき事柄であると断言する)。
 一方で、死を想定した知的再武装の話(P166)、組織に於ける老廃物の話(P235)、敵あらばかれより長生きして歴史を上書きせよという佐藤優の力説(P168-171)には、思わず膝を叩いたことを報告しておく。
 これらについてはまた別途、機会あるときに紹介させていただくとして、知的再武装の根幹を成す印象的な会話が本書のお終い近くで交わされているので、最後に少々長くなるがそこを紹介して筆を擱きたい(引用部分に著作権的なものが引っ掛かってくるかもしれないが、なにか言われたら削除して圧縮する予定)。池上さんの「本当に怖いのは記憶力の衰えではなくて、好奇心の衰えですよ」(P245)という発言から発展して、──
 「池上:朝きちんと着換えて、面倒くさくてもちゃんとヒゲを剃る。これはすごく大事。それから一日に一度は必ず外へ出る。あるいは居場所を作るなり、行く場所を作る。
 佐藤:そう。喫茶店代とかドトール代とか、それをケチらないで、外で一杯ぐらいはコーヒーを飲む。
 池上:だから、私、行きつけの本屋があるから、そこで本を買って、すぐ横のタリーズでコーヒーを飲んで、ちょっと本を読んで帰る。タリーズはちょっと高いから、ドトールなら安くていいですよ(笑)。
 池上:こういうのは本当に重要です。そうじゃないと、ほんとに一週間、十日、外に出なくなるでしょ。そしたら、そのうち一ヵ月外に出なくなります。
 池上:足腰はどんどん弱くなるしね。だから、着替える、ヒゲを剃る、外に出かける。これが「知的再武装」だっていうことなんです(笑)。
 佐藤:形から入ることは大事です。いろんな知的なことへの関心が薄れていって、好奇心も薄れてゆく。生きることがマニュアル処理になってしまって。流れ作業で物事を処理することになってくる。まずは、流れ作業を崩すことです。ルーティンになっちゃうと考えなくなるから、ルーティンが崩れるような事態が起きたら対応できなくなってしまいます。
 池上:外に出ないと足腰が弱まるでしょ。足腰が弱まると、知的意欲や好奇心が薄れてきますから。足腰をあえて鍛えなくてもいいけど、弱くならないようにするってことも大事です。
 佐藤:私は五百十二日間、獄中にいたでしょ。足腰が弱まるということを実体験したんですが、出てきてから、駅の階段が上がれないんですよね。筋力が完全に落ちてしまって、だから、もう必死にリハビリと一緒のことをしました。」(P247-249)
 この箇所を読んでいて、いろいろ思い出したことがある。本を読むためであり明確に体力維持や居場所作りとは断っていないけれど、渡部昇一が毎日必ず散歩に出て喫茶店で海外の雑誌や本を読む習慣を作っていたこと。三浦しをんが、確か直木賞を取る前に発表したエッセイだと記憶するが、自宅ではジャージで過ごしているがそのうち近所に出掛ける程度なら着替えることせずジャージで平気になり、やがてその格好で新宿まで出ることにも抵抗がなくなってしまった旨読んで、脳ミソと思考と常識を疑ってしまったこと(フィクションだとしてもよくこんな恥ずかしくて人格疑うことが書けるな、という蔑み)。或いは最近読んだ久世芽亜里『コンビニは通える引きこもりたち』(新潮新書 2020/9)の内容を思いだし、現場を肌で知る人の考えとの相違に考えこんでしまったり。
 ここでの池上さんと佐藤優の対話から導き出されることは、なにか?
 「知的再武装とはなにか」を問うとき、勉強法や勉強へのスタンス、教養と常識を身に付けることも大事である。が、その根幹を成すのは生活習慣、生活スタイルであり、健康と体力(筋力)なのだ。だらしなく過ごすのではなく、毎日をこれまでと同じように律して着る服もきちんと選び、地に足着けて正しく生きてこそ、「知的再武装」の意味がある。
 本書の〆括りが教養ではなく体が資本/生活習慣の重要性という当然かつ必然の結論に落ち着いた点に、新鮮さと魅力を感じ、同時にこの本は信用できる、と強く感じた。ここは本書の最重要部分というて良いだろう。◆

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第2939日目 〈もう国産ミステリ、(殆ど)全部処分したるわ。〉 [日々の思い・独り言]

 年が明けているはずなのだが、まるでそんな気がしないのは、どうしてなのか(「が」が多いなぁ)。箱根駅伝をテレヴィで観ながら、そんなことを考えた。新型コロナウィルスで活動に制限が掛かっているためか。大掃除や年賀状作成、松飾りの準備など年末お約束の行事をまったくしなかったからか。年末年始のテレヴィとは無縁の日常を送っていることも、感じぬ理由の一端にはなりそうだ。sigh,good grief.
 以下に綴るのはあくまで「呟き」に過ぎぬ。特段中身のないものであることを、あらかじめお伝えしておく。よろしいか。
 大掃除絡みの話である。限りある空間を圧迫する本の山に憎しみを抱いて、発作的に大処分作業を開始することにした。筆頭ターゲットは未読の積ん読本、お隠れ本。次にダンボール箱に入った国産ミステリの山、山、山。前者は基本的にブックオフオンラインに、後者はミステリ小説等をよく購う都内の古書店に、引き取ってもらう予定。
 前者については有象無象のジャンルが含まれるので備忘なぞ作る必要を感じない。が、後者については備忘の必要を感じている。後日手放したことを後悔すること必至だが最早それを購い読む機会はお前にゃないんだぜ、と自らへ突きつけるためにも、備忘は必要だ。
 では始めよう。処分するミステリの内訳を、ざっと。
 まず、鮎川哲也の作品を文庫単行本含めて、犯人当て小説集1冊を除いたすべてを。取り除いた小説集に思い入れがあり、好きな作品が収められているという理由から残して、あとは全冊、問答無用、よく検めもしないまま見送ることにしよう。
 続けて、連城三紀彦を光文社文庫の3冊を脇に取り除けた他は、こちらもあとはよく検めることはしないで、サヨウナラ。一々点検していたら、棄てられる本も棄てられないじゃないか。だから、検めないのだ。正直なところをいえば連城三紀彦には、<花葬>シリーズ以外には殆ど思い入れがない。だからこんなこともできるのだろうか。
 新本格やその周辺の作家で1冊も書くことなく残しておきたいのは、綾辻行人だけだ(元日のツイートで「今年の仕事目標」として館シリーズの執筆を挙げてきたのは嬉しかった。もっとも、執筆開始、執筆終了のツイートが出ない限り新作に接することへの期待はできないが)。
 島田荘司、辻村深月、我孫子武丸、二階堂黎人、有栖川有栖、法月綸太郎、竹本健治、乾くるみ等々、まとめてダンボール数箱に押しこんで、集配の手続きを昨日夜中に行った。
 もうね、空間が本で見えなくなっているのは厭なんだ。
 できれば古典関係の本も綺麗さっぱり処分したいけれど、これはねぇ……実行できそうもないな。これらが書架から消えたら、もうわたくし、きっと魂抜けた粗大ゴミに等しいですわ。でも、いちばん嵩張っているジャンルであるのも事実。さて、どうすればいいだろう? いよいよ書庫代わりのアパートを借りることを、真剣に検討せねばなるまいか……。◆

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第2938日目 〈池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』を読了しました。感想はこれから!〉 [日々の思い・独り言]

 対談本は読むのに時間を要す。単独著書のように流れに乗って読み進めることが難しく、読み流そうとするとどこかでバイアスが掛かることが常であるからだ。あ、これはあくまでわたくし個人のケースである。
 いつかの池上彰のようにその日のうちに感想文を書きあげてお披露目する、という芸当、対談本ではできなかった。たとえば池上彰+佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方』、池上彰+竹内政明『書く力』は内容は面白く、考えさせられること学んだこと「否」を唱える箇所相応にありと雖も、かれらの単独著書を読むときのようにチューニング完了後の、勢いに乗ってどんどん前に進むような読み方はできなかった。理由はなぜか、と夜道を歩きながら考え考えしていて思い至ったのが、前段の内容である。
 微妙なニュアンスに引っ掛かって前に戻ったり、いまいちど双方の対話を点検してみたり、なんてことをしている間に時間は経過し、数日掛けて読了と相成る次第。言い方を換えればじっくりと、腰を据えて読むに値する対談本しか、まだ読んでいないのかな、と都合の良い解釈をしているが、さて、果たして実際はどうなのか。
 先程わたくしは池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』(文春新書 2020/3)を読み終えたところだ。これもまた有意義な読書の時間と思考の機会を与えてくれた良書で、数日以内に読書感想文を書きたいと望んでその準備をしている。
 対談本の感想を本ブログにて公にするのははじめてだから、些か謹聴している。これを別の角度から検めて簡単なフローにすれば、こうなる。即ち、〈感想を書くための読み直し作業を実施→ポイント/トピックの洗い出しと固定→精読と比較を反復徹底→(モレスキンでもMBAでもiMacでも構わないけれど)うんうん唸りながら初稿を書きあげ、その後は納得ゆくまで推敲→お披露目〉と。
 『知的再武装 60のヒント』の前半部分にはページの折や線引き等が目立たない。どうしてか、それは分析するまでもなく、池上彰+佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方』と佐藤優『読書の技法』で既に語られていることのマイナーアップグレードだからだ。それゆえに、ああ、そういえばこのあたりに関しては読み流したな。「前に読んだことの繰り返しや」なんて心中呟きながら。
 本書のお披露目はいつ? さてねぇ。わたくしが知りたい。◆

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第2937日目 〈『CSI:マイアミ』カリー・デュケーンの言葉。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年末からAXNにて『CSI:マイアミ』S1 #1から二カ国語版が絶讃リピート放送中。HDDの容量を相当に喰いつつも毎日録画して、1週間分をまとめて視聴しております。
 覚えているエピソードや場面、台詞等が思っていた以上にありました(逆にいえばどれだけ過去に飽きることなく繰り返し観て、淫していたか、という証左になる)。意外なところで記憶に残っていた台詞に出喰わして、「お、この台詞はこの回だったのか」と確認させられることも。
 今回久しぶりに、「『CSI:マイアミ』の台詞の紹介」として筆を執ったのも、今日偶々観ていて懐かしさと悲しみから是非取り挙げたい、と思うた台詞であります。
 『CSI:マイアミ』S1 #17「似て非なる殺人」から、では、──

 ジョン・ヘイゲン(殺人課)「奴の行く道は孤独だぞ」
 カリー・デュケーン(CSI)「だから一緒に歩くの」
 ──否応なく記憶に刻みつけられる台詞であります。古今東西のドラマから名セリフ・ベストなんてものを編むとしたら、個人的にはトップ5に推したい。さて、そこに「俺は繊維の神様だ」は入るかどうか。
 戯れ言はともかく、はじめて聞いたときよりもいまの方がずっと心に、ぐさり、と突き刺さってきます。それも相当に深いところまで……。今回この台詞に接して、知らず涙腺がゆるみましたよ。羨望と憧憬と絶望の衣をまとった思いが、自分のなかで暴れまわっているように感じます。
 ホレイショ・ケインの歩く道は、その正義ゆえに孤独である。理解者得ること少なく、組織の上層からけっして歓迎されないかれは、まさしく孤高の存在。そこにカラヤンの姿を重ねてしまっている、とは余計なお喋りでありますが、僭越ながら敢えて白状するとわたくしはそこに自分自身の姿、行く末をも重ねてしまっているのであります。
 自分がこれからもずっと独りなのは承知している。隣に誰もいないまま最後まで生きることも知っている。だからこそ、カリーの台詞が深くわたくしを抉る。(いまはまだ)同僚たる****さんがいてくれれば良いのに、というのは妄想でしかない。あなたしか求めていないのに、欲していないのに、愛していないのに。
 「だから一緒に歩くの」
 そういって、信じて付いて来てくれる人がいるホレイショは、その正義を理解して全力で支えてくれる人がいるホレイショは、とても幸せだ。『CSI』シリーズの主任としてはいちばん部下からの信頼が篤い人物ではないか、ホレイショ・ケインは。まァ、対抗馬はマック・テイラーしかいませんね。
 「奴の行く道は孤独だぞ」
 「だから一緒に歩くの」
 ……わたくしは人生の最後まで独りぼっちだ、歩いてくれる人が欲しかった。そんな人を探していたら、いつの間にやら黄昏時だよ。◆

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