第2984日目 〈アフターCOVID-19の世界を見るために、新しい世界史の本が生まれることを望む。〉 [日々の思い・独り言]

 本日は03月31日水曜日(のはず)。2020年度/令和03年度、最後の更新となります。珍しくこんな書き出しで始めたのは、いうまでもありません、覚えておいででしょうか、あの日の約束を……なんて、思わせぶりな書き方をしました。特に意味はありません。なんとなく、いってみたかっただけです。相済みません。
 昔、柏原芳恵という歌手がいて、皇太子時代の天皇陛下にはアイドル的存在だった。オックスフォード大学留学中は鏡の隅にブロマイドを貼っていたことが話題となり、妃殿下候補なんて噂されたこともあったでな。その頃皇后陛下とはまだお会いされていないと思うから、まぁ微笑ましき青春の1ページと捉えましょう。
 天皇陛下といえば、これはTwitterで拝見したものだけれど、即位後にウルトラセブンと面会されている。ウルトラ・アイを装着して大変ご満足されているご様子で、この方が象徴として御座に坐す国の民でいて本当に良かったなぁ、と喜びに浸ったこともあった。太陽が出ている限り活動が可能な(3分という時間制限があるにせよ)ウルトラ一族と、天照大御神という太陽神を皇祖神とする天皇家は案外親和性が良いのかもしれないな、と思いながらそのあと、何年振りかで『古事記』上巻を読んだことでありますよ。
 天皇陛下といえば、オックスフォード大学留学中の出来事を綴った『テムズのほとりで』という新書サイズの著書を、学習院大学出版部から出されている。ディスコ初体験やハイドンの弦楽四重奏曲にまつわるエピソード(どうでもいいが、「弦楽四重奏曲」を変換したら最初、「減額し重奏曲」ってなったんだけど。変換がこういうときだけ正確にされるのはなぜだ?)、テムズ川の水運交通をめぐる考察や御所内を通る街道の跡など、専攻にかかわるお話などがてんこ盛りで読んでいて飽きないのだが、こちらは後日感想文のお披露目をさせていただきましょう。

 さて、では長くなったがマクラはここまで。え!? とかいうな。
 タイトルを見れば上の話がわずか一点を除いてのみ該当しないのはわかるでしょう。
 では、本題です。

 最近、日本史に関してはそれこそ渡部昇一の一連の著作や佐藤優の肝いりで復刊された『大学への日本史』改め『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』と『近代・現代 実用編』の2冊を核に通史を学び直した。それを契機に大学生協でバイトしていた時分に買い揃えていった『日本の近世』(中央公論新社)、子供の頃に買ってもらった『学習漫画 日本の歴史』(学研)を引っ張り出して、蟄居の閑暇に読み耽った。各時代の出来事や人物については中公新書が特に最近はイキが良いのでこちらに頼って、ぐちゃぐちゃの読書ライフを更にぐちゃぐちゃにしながら愉しんでいる。
 一通り通史についての再勉強にメドを立てると今度は、自ずと世界史へ目が向くようになる。実は世界史についてはいわゆる通史というもの、中央公論新社から1990年代に出た『世界の歴史』、単行本と文庫本でしか俯瞰したことがない。勿論、高校時代の教科書は別である。
 正直、これで満足しているので構わないのだけれど、ご承知のように21世紀になって世界は大きく変化した。20世紀には考えもつかなかった出来事が頻出している。毎年、ではなくほぼ毎時、世界史は書き換えられている。それに追いつくことは紙媒体であろうと電脳空間の記事であろうと不可能事に近い。
 それでも──というかだからこそ、最新のデータと報道と研究に準拠した21世紀版<世界の歴史>が必要だ。世界史は疾うに西欧中心のそれから逸脱して、アジア圏にページをたくさん割かなくては説明できない状況になっている。特定分野から見た21世紀の世界史も結構だが、却ってそれが為に、古代から現代につながる歴史の道が見えづらくなっているように感じられてならない。
 日を追う毎に世界情勢は混迷を極めている。COVID-19がもたらす不安からいつ解放されるのか、その気配はない。そんな未来をしかと見通せない”いま”だからこそ、わたくしは、そんな世界史を──ヨーロッパのみならずアフリカ、ユーラシア、アジア全域、アフリカ、ミクロネシア、オセアニア、そうして極地までをフォローした歴史書を求めたいのだ。歴史に刻まれた証言を基に明日を切り拓くヒントは必ずあるはず。希望を捨ててはならない。
 <賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>なんて愚かな諺があるけれど、賢者であろうとなかろうと歴史から学べることは沢山ある。それを正しく行うためにも、新しい世界史の本が誕生することを望む。◆

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第2983日目 〈もう浮気はやめにしたい。でも、二股は続けたい。〉 [日々の思い・独り言]

 やはり浮気はよくないね。悪しき行いだ。世人からどれだけ蔑まされて後ろ指さされたとしても、浮気している本人は反論できない。なにかいおうと口を開いた途端、世間様からの集中砲火を浴びて撃沈されるのがオチ。
 斯様なことを申しあげたのも、これを書いているわたくし自身が絶讃浮気中であるからだ。うぅん、浮気っていえばそれまでだけれど、その実態は二股どころか三つ股、四つ股……正直、自分でもどれだけの数と情を交わして同時進行させているのか、精しく把握できていないという有り様だ。えへ。
 渡部昇一を中心に日本史の本を耽読しているかと思えば、池上彰や佐藤優を軸に教養や勉強法についての本を集中的に漁読する。蓄財や不動産投資の本を付箋ペタペタ、メモを取ったりしながら読む一方で、就寝前の40分か50分ばかしは寝台の横の棚から山本弘や三上延、小山清や柴田宵曲の文庫を取り出してペラペラ目繰っていたりね。なんだか分裂症気味で、まるで集中できへんし、いつ1冊を読了できるのか見当つかへんわ。
 ……あの。まさか冒頭を読んでわたくしが女性相手に三つ股とかしてるなんてバカなこと、思い浮かべた人はいないよね? そも浮気というなら本命が別にいなきゃならんだろ。おらんわ、そんなの。付き合っているかどうかの自覚もない男性と「結婚しようかって話をしているんです」なんて一貫性がないというか突拍子がないというか進展の急激なる話を聞かされたあととなってはね。やれやれ。
 本命という単語が出たことで流れを元に戻せるな、と、実は内心安堵しているんだけれど、読書に於けるわたくしの本命って、じゃあいったい……ジャンルは? 作者は?
 ジャンル。ジャンルねぇ。読む本の冊数が多くなり、幅も広がって新たに好きになったジャンルもあれば、ちょっと気になって折に触れて新刊既刊を偵察するようになったジャンルもある。このジャンルとは一生付き合ってゆくことになるんだろうな、と思うているそれも(幾つか)ある。でも、本命となると、本命のジャンルとなると──考えすぎて頭がぐちゃぐちゃになってしまう。どれか1つを残して他は排斥するわけでもないのにね。
 みくらさんさんかよ、お前は真面目に考えすぎなのだ。あまりに無節操に本を読んできたがゆえお前の頭はごった煮状態で整理がついていないのだ。
 これが作者となると、答えは速い。スティーヴン・キング一択である。それ以外に誰がいるっていうんです?
 昨日から『不眠症』(文春文庫)を読んでいるんだけれど、なんだかねぇ、うれしくて涙が出てきちゃいますよ。王国への帰還、初読時の挫折、改めての愛慕の確認。この3点を以て『不眠症』はわたくしのなかで特別な位置を占めるようになる。
 帰還という点では、咨、廃都エルサレムへの途についた元捕囚民の心はこうしたものであったか、と想像したり。愛慕の確認という点では、咨わたくしはやはりこの人の紡ぐ物語に慰められ救われ教えられ、人生の杖としてきたのだなぁ、と実感したり。
 挫折については、省く。いつかお話しする機会あるやもしれぬから。そのときはあなたの耳のそばで甘ったるい声で、わたくしの抱えた闇をお話ししよう。その瞬間から覚悟を決めろ、お前はわたくしと一蓮托生、地獄の底まで道連れになってもらう。なぜなら、知ってしまったのだから。
 が、一方で現在は渡部『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)を読み進めている最中でもある(まだ? とかいうな)。いましばらくはこれまでの反省を活かして、うまく二股掛けて事を致すにはどうしたらよいか、模索しながら読書を進めてゆくことになりそうである。
 そういえばかつて林家正蔵が、まだ「こぶ平」時代であったか、<音の書斎>系のムックだか雑誌の特集であったか、まったく別の機会であったか忘れたが、こんなことをいっていた。曰く、大好きなジャズを聴きながら大好きなミステリ小説を読むの、ジャズに意識が集中して読書がおろそかになればジャズの勝ち、ミステリに熱中してジャズがちょっとうるさいなあって思うようになったら読書の勝ち、と。まぁ、大体こんな内容であった。
 この伝でゆくなら、渡部昇一とスティーヴン・キングを並行して読んでいて、やがてどちらかがおろそかになって巻を開くのが間遠になってゆけば、残った方の勝ちということになる。え、共にぶじ読了できたら? それはどちらが勝ちとか負けとかではなく、単に実験成功ということですよ?◆

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第2982日目 〈健やかな肉体に健やかな精神は宿る、とは誰の戯言だ。〉 [日々の思い・独り言]

 毎週1回はパーソナルトレーニングのため、もう1日休みの午前中にフリーでジム通いが続いている。体は頗る健常で、順調に体重も体脂肪も落ち、昨年までのような怠惰な生活サイクルからも抜け出せてきた。
 もっとも、毎晩の晩酌だけは欠かすことができずにいるけれど、仕事を終えてスタバで原稿を書いたあと、もうなにも書くものはないという状況を作り出しての晩酌だから、知的生産が下降線を辿ることはない。心おきなく日本酒を独りし愉しむことができるわけだ。
 然り、たしかに体は健康を維持できている。が、心は病んできた。昨晩03月24日宵刻の自分の行動を省みれば、それは明らかだ。もうすべては終わったのである。
 体はすこやか、されど心は病んでいる。「健やかな肉体に健やかな精神は宿る」とほざいた歴史上の阿呆はいったい誰だ。わたくしはそいつに公開尋問したい気分だ。如何にしてその論を展開し、発言するに至ったのか、と。そうして「健やかな肉体に健やかな精神は宿る」の実例を提示して見せ給へ、と。ハハハ。
 さて、わたくしは本ブログへ極めて個人的な1編を、後日投稿して江湖にお披露目するつもりだ。それはガイドラインである。不可侵条約の書面と言い換えてもよい。婚約とは流石に不意打ちであったが、その証言に基づいて起草される本ガイドラインは、相手を守るためにのみ書かれるものであり、わたくしを擁護する要素はなに一つ含まない。これ程先方にとって好都合なものはあるまい。渡した手紙が未だ手許に残っているならば、それと併せて身を守る武器とせよ。ボヘミア王の手紙と写真のように。
 ジムのラウンジから某文具メーカー生産工場の隅っこで花咲かせる桜の樹が見える。あの下に死体が埋まっているのかは知らない。人の養分を吸い取って咲いたにしては、花の色が薄くみえる。でも、あの花の下で命終わることを夢見て詠った西行法師の気持ちは、年齢を重ねるごとによくわかるようになってきた。わたくしもねがはくば、あの下で死体となって朽ちんことを……。
 ガイドラインはこれから作成する。今月中にお届けできるようにしなくては。急げ、時間はない。◆

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第2981日目 〈長編小説『ザ・ライジング』第5章&エピローグのまとめです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 本章にて希美の未来が一瞬、描かれます。それはやがて現実となるのですが、そこに至るまでの10年間、彼女は再び青木ヶ原樹海で苦境に立たされます。<旅の仲間>の一角は崩れてもはや昔のような結束は失われようとしていました。
 そうしてその後、出会った男性と結婚して一男二女をもうけます。娘の1人は紀伊半島で起こった事件の目撃者となり、希美自身も事件の中心となる夫婦と、その数年前に沼津市で邂逅していました。
 自分の家族を作ったとはいえ、希美は心からの幸せは感じていなかったと思います。夫は最愛の人とは言い難く、その心にはいつまでも17のときに死に別れた婚約者の姿があります。おそらくそれを払拭することは、誰にもできないことだったのでしょう。
 これはすべて以前思うていたことですが、ちかごろつくづくとわたくしは、自分の未来を既に小説のなかで予見していたのだな、と思うことであります。希美の、将来を約束した相手を永遠に失い、そのまま心は抜け殻のように生きてゆく……。そうしてわたくしは、自分の未来を希美の人生であらかじめトレースしていたわけです。
 わたくしも、人生で最期に心から思う女性とはけっして結ばれず、その人の幸せを祈るより他なく、独りで生きて、そうして死んでゆくことになるのです。でも希美の方が幸せかもしれません、曲がりなりにも看取ってくれる家族がいるわけですから。わたくしにそれは、ない。婚約者亡きあと独りで33年生きてきて、それを心底欲したのは〈フォーラムの可憐な花〉だけだった。あなた以外の誰とも家族を作りたくはない。もう誰も要らない。
 では、以下、第5章とエピローグのまとめです。2021年03月24日 20時53分

 第2541日目 〈『ザ・ライジング』第5章 1/24〉
 第2542日目 〈『ザ・ライジング』第5章 2/24〉
 第2543日目 〈『ザ・ライジング』第5章 3/24〉
 第2544日目 〈『ザ・ライジング』第5章 4/24〉
 第2545日目 〈『ザ・ライジング』第5章 5/24〉
 第2546日目 〈『ザ・ライジング』第5章 6/24〉
 第2547日目 〈『ザ・ライジング』第5章 7/24〉
 第2548日目 〈『ザ・ライジング』第5章 8/24〉
 第2549日目 〈『ザ・ライジング』第5章 9/24〉
 第2550日目 〈『ザ・ライジング』第5章 10/24〉
 第2551日目 〈『ザ・ライジング』第5章 11/24〉
 第2552日目 〈『ザ・ライジング』第5章 12/24〉
 第2553日目 〈『ザ・ライジング』第5章 13/24〉
 第2554日目 〈『ザ・ライジング』第5章 14/24〉
 第2555日目 〈『ザ・ライジング』第5章 15/24〉
 第2556日目 〈『ザ・ライジング』第5章 16/24〉
 第2557日目 〈『ザ・ライジング』第5章 17/24〉
 第2558日目 〈『ザ・ライジング』第5章 18/24〉
 第2559日目 〈『ザ・ライジング』第5章 19/24〉
 第2560日目 〈『ザ・ライジング』第5章 20/24〉
 第2561日目 〈『ザ・ライジング』第5章 21/24〉
 第2562日目 〈『ザ・ライジング』第5章 22/24〉
 第2563日目 〈『ザ・ライジング』第5章 23/24〉
 第2564日目 〈『ザ・ライジング』第5章 24/24〉
 第2565日目 〈『ザ・ライジング』エピローグ 1/1〉
 第2566日目 〈小説完結のお知らせと、これからの本ブログのこと。〉

 登場人物は作者を映し出す。それが真実であることを、執筆から20年近くたってようやく思い知らされましたよ。
 ──きっともう2度と、このような小説は書けないだろうなぁ。あらゆる意味で不可能。あらゆる意味で、奇跡。

 ご愛読、ありがとうございました。◆

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第2980日目 〈長編小説『ザ・ライジング』第4章のまとめです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 2021年03月24日 19時22分、宣戦布告。
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 土のなかに眠る物語を慎重に掘り進めながら書いていた第1章から、いつの間にか物語が勝手に動き始め、登場人物がやたら主張をし始めたのは第2章の途中からであったように覚えています。
 出勤前と帰宅後はかならず机に向かってだいたい2時間程、ひたすらレポート用紙にシャープペンを走らせ、心の眼に映るかれら彼女らの一挙手一投足を追い、会話を記録し、取り巻く風景を描いてゆく……やがて当初のプロットは大きく変化し、自死する筈だった少女をなんとか生き延びさせよう、と展開に悩んだ。
 第3章あたりで芽吹いたその気持ち、第4章の執筆に入る頃には彼女を救うことが至上命題のようにさえ思えていました。物語が一気に暗雲を纏う今日の第4章に、その苦心惨憺ぶりが刻印されているのですが、まぁ、バレなきゃいいや。多少、まぁ、アレな場面が目立つ章でもありますが、わたくしをそんな風に見るのは止めてくれ。
 最後の方で主人公が彷徨う夜の公園と大波轟く海の光景は、わたくしが子供の頃に馴染んだ風景を記録しています。死出の旅を描くに相応しい描写ができた、と、当時もいまもわたくしは自負している次第です。もっとも、死出の心境を斯くまで綴ることができた背景に、自宅の火事と父の死、そのあとに襲ってきた喪失感とそれでも生きなくてはならない役目を負わされたせいもあったかもしれません……。
 そうでした、この第4章を書いている途中で、あの事故は起こったのでした。わたくしを生の世界につなぎ止めたもう1つのものは、この物語を最後まで仕上げる使命感でもあったように、いまでは感じられます。

 第2481日目 〈『ザ・ライジング』第4章 1/46〉
 第2482日目 〈『ザ・ライジング』第4章 2/46〉
 第2483日目 〈『ザ・ライジング』第4章 3/46〉
 第2484日目 〈『ザ・ライジング』第4章 4/46〉
 第2485日目 〈『ザ・ライジング』第4章 5/46〉
 第2486日目 〈『ザ・ライジング』第4章 6/46〉
 第2487日目 〈『ザ・ライジング』第4章 7/46〉
 第2488日目 〈『ザ・ライジング』第4章 8/46〉
 第2489日目 〈『ザ・ライジング』第4章 9/46〉
 第2490日目 〈『ザ・ライジング』第4章 10/46〉
 第2491日目 〈『ザ・ライジング』第4章 11/46〉
 第2492日目 〈『ザ・ライジング』第4章 12/46〉
 第2493日目 〈『ザ・ライジング』第4章 13/46〉
 第2494日目 〈『ザ・ライジング』第4章 14/46〉
 第2495日目 〈『ザ・ライジング』第4章 15/46〉
 第2496日目 〈『ザ・ライジング』第4章 16/46〉
 第2497日目 〈『ザ・ライジング』第4章 17/46〉
 第2498日目 〈『ザ・ライジング』第4章 18/46〉
 第2499日目 〈『ザ・ライジング』第4章 19/46〉
 第2500日目 〈『ザ・ライジング』第4章 20/46〉
 第2501日目 〈『ザ・ライジング』第4章 21/46〉
 第2502日目 〈『ザ・ライジング』第4章 22/46〉
 第2503日目 〈『ザ・ライジング』第4章 23/46〉
 第2504日目 〈『ザ・ライジング』第4章 24/46〉
 第2505日目 〈『ザ・ライジング』第4章 25/46〉
 第2506日目 〈『ザ・ライジング』第4章 26/46〉
 第2507日目 〈『ザ・ライジング』第4章 27/46〉
 第2508日目 〈『ザ・ライジング』第4章 28/46〉
 第2509日目 〈『ザ・ライジング』第4章 29/46〉
 第2510日目 〈『ザ・ライジング』第4章 30/46〉
 第2511日目 〈『ザ・ライジング』第4章 31/46〉
 第2512日目 〈『ザ・ライジング』第4章 32/46〉
 第2513日目 〈『ザ・ライジング』第4章 33/46〉
 第2514日目 〈『ザ・ライジング』第4章 34/46〉
 第2515日目 〈『ザ・ライジング』第4章 35/46〉
 第2516日目 〈『ザ・ライジング』第4章 36/46〉
 第2517日目 〈『ザ・ライジング』第4章 37/46〉
 第2518日目 〈『ザ・ライジング』第4章 38/46〉
 第2519日目 〈『ザ・ライジング』第4章 39/46〉
 第2520日目 〈『ザ・ライジング』第4章 40/46〉
 第2521日目 〈『ザ・ライジング』第4章 41/46〉
 第2522日目 〈『ザ・ライジング』第4章 42/46〉
 第2523日目 〈『ザ・ライジング』第4章 43/46〉
 第2524日目 〈『ザ・ライジング』第4章 44/46〉
 第2525日目 〈『ザ・ライジング』第4章 45/46〉
 第2526日目 〈『ザ・ライジング』第4章 46/46〉

 かつてわたくしは本作に番外篇的な作品がある、と申しあげたことがあります。いつのことであったか、覚えていませんが。
 そちらはたしか、本ブログでは一度もお披露目したことがないはず。『ザ・ライジング』がキングの小説作法を自分なりに昇華して(模倣して、ともいう)書かれた作品であるのに対して、こちらは当時のめりこんでいたヘミングウェイの創作技法に影響された短編であります。
 この度こうして『ザ・ライジング』のまとめを果たしたことでもありますので、日を置いて読者諸兄にお届けしたく思うている次第。もっとも、実現するかどうか、わかりませんけれどね?

 それでは、明日の第4章まとめで、また。◆

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第2979日目 〈長編小説『ザ・ライジング』第3章のまとめです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 この小説を書いているとき、常に傍らにあってバイブルの如く霊感を授かり、道標となり、奮い立たせ、導いてくれたのは<わが神>、スティーヴン・キングの『ザ・スタンド』と『小説作法』でした。
 高校生の時分からわたくしは小説を書くとき、どこかでキングを意識していた。偉そうな物言いになってしまうが、事実そうだったのだから仕方がありません。段落の作り方や場面の切り替え方は専らキングの短編から学んだ。キャラクター同士の絡みやプロットの作り方なんていうのも、キングの小説に馴染んでゆくなかで自然と体得できてゆきました。
 それまでもずいぶんと小説を書き散らしてきましたが、『ザ・ライジング』はそうした創作活動で培った文章作法や小説技法の諸々を、当時なりに出し切った一作となりました。たぶん、ここまで力を出し切ったといえる小説を書いたことはそれまで、ただの一度もなかったかもしれません。むろん、今日の目で見れば拙かったり、ほころびの目立つ箇所も散見されるけれど、2003年当時としてはこれが限界でありました。
 烏滸がましくもいうならば、本作はキング読書の賜物というて良いかも。原作者のキングは勿論としてこの国に於いては翻訳家の方々、各出版社の編集者や校正・校閲担当者、営業部の方々、流通と取次に携わる諸兄、書店の担当者、そういった方々が労惜しまずキングの小説を1人でも多くの読者に届けてくれるための力を惜しまなかったから、わたくしは『ザ・ライジング』を書くことができたのだ、と本心から思うておるのであります。
 とりとめの無いお話になりました。
 以下、第3章のまとめとなります。

 第2445日目 〈『ザ・ライジング』第3章 1/28〉
 第2446日目 〈『ザ・ライジング』第3章 2/28〉
 第2447日目 〈『ザ・ライジング』第3章 3/28〉
 第2448日目 〈『ザ・ライジング』第3章 4/28〉
 第2449日目 〈『ザ・ライジング』第3章 5/28〉
 第2450日目 〈『ザ・ライジング』第3章 6/28〉
 第2451日目 〈『ザ・ライジング』第3章 7/28〉
 第2452日目 〈『ザ・ライジング』第3章 8/28〉
 第2453日目 〈『ザ・ライジング』第3章 9/28〉
 第2454日目 〈『ザ・ライジング』第3章 10/28〉
 第2455日目 〈『ザ・ライジング』第3章 11/28〉
 第2456日目 〈『ザ・ライジング』第3章 12/28〉
 第2457日目 〈『ザ・ライジング』第3章 13/28〉
 第2458日目 〈『ザ・ライジング』第3章 14/28〉
 第2459日目 〈『ザ・ライジング』第3章 15/28〉
 第2460日目 〈『ザ・ライジング』第3章 16/28〉
 第2461日目 〈『ザ・ライジング』第3章 17/28〉
 第2462日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 18/28〉
 第2462日目2/2 〈『ザ・ライジング』第3章 19/28〉
 第2463日目 〈『ザ・ライジング』第3章 20/28〉
 第2464日目 〈『ザ・ライジング』第3章 21/28〉
 第2465日目 〈『ザ・ライジング』第3章 22/28〉
 第2466日目 〈『ザ・ライジング』第3章 23/28〉
 第2467日目 〈『ザ・ライジング』第3章 24/28〉
 第2468日目 〈『ザ・ライジング』第3章 25/28〉
 第2469日目 〈『ザ・ライジング』第3章 26/28〉
 第2470日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 27/28〉
 第2470日目2/2 〈『ザ・ライジング』第3章 28/28〉

 物語は折り返し点に入りました。相手の男性の名前をムカつくから換えようかと思いましたが、それはあまりに主人公が可哀想なのでやめておきます。……他の小説にまで影響が出ますので。
 それでは、明日の第4章まとめで、また。◆

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第2978日目 〈長編小説『ザ・ライジング』第2章のまとめです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 動機に不純な点が混じっていると雖も、これまで書いたなかでおそらくいちばん愛着のある小説のまとめができた幸運に、感謝しています。あなたの存在がこれを為さしめたのだ。サンキー・サイ。
 何年振りかで読み返していると、次々に執筆当時のことが思い出されてきました。それは、フルタイムの作家として、ライターとして生活を成り立たせようと邁進していた頃。でも流石に、当時の状態ではまだ生活を成り立たせるのが厳しかったこともあり、新宿のレコードショップでアルバイトしながら、市ヶ谷の編集プロダクションや大手出版社に出入りして仕事をもらい、一刻も早くその日暮らしの悪循環から脱出しようともがいていた頃のこと。
 あの時分は、空いている時間があればこの小説のことばかり考えていたなぁ……。昼休憩で入った甲州街道に面する小さなダイナーの椅子で、ナプキンに出勤直前まで書いていた場面の続きを走り書きしたり、立ち食い蕎麦屋の片隅で小さな手帖に思いついた今後の展開を書き留めたりね。
 そんなもがきと情熱の結晶が、『ザ・ライジング』です。このとき程はっきりと、<なにか>に突き動かされて熱に浮かされるように書き継いだ経験はその後、したことがありません。
 途中で命にかかわる出来事に曝されたことから、もう生きてるの止めようかな、と荒波猛る夜半の相模湾や駿河湾を警官に咎められるまで見つめていたこともあったけれど、どうにか生き延びて小説のまとめ記事を書いていられる。あのとき、死ぬなんて考えを放棄して、泥水啜ってでも寿命を全うしてやる、と決意してどうにか生きてきた──ありがとう。サンキー・サイ。
 閑話休題。
 それでは以下、『ザ・ライジング』第2章となります。

 第2404日目 〈『ザ・ライジング』第2章 1/38〉
 第2405日目 〈『ザ・ライジング』第2章 2/38〉
 第2406日目 〈『ザ・ライジング』第2章 3/38〉
 第2407日目 〈『ザ・ライジング』第2章 4/38〉
 第2408日目 〈『ザ・ライジング』第2章 5/38〉
 第2409日目 〈『ザ・ライジング』第2章 6/38〉
 第2410日目 〈『ザ・ライジング』第2章 7/38〉
 第2411日目 〈『ザ・ライジング』第2章 8/38〉
 第2412日目 〈『ザ・ライジング』第2章 9/38〉
 第2413日目 〈『ザ・ライジング』第2章 10/38〉
 第2414日目 〈『ザ・ライジング』第2章 11/38〉
 第2415日目 〈『ザ・ライジング』第2章 12/38〉
 第2416日目 〈『ザ・ライジング』第2章 13/38〉
 第2417日目 〈『ザ・ライジング』第2章 14/38〉
 第2418日目 〈『ザ・ライジング』第2章 15/38〉
 第2419日目 〈『ザ・ライジング』第2章 16/38〉
 第2420日目 〈『ザ・ライジング』第2章 17/38〉
 第2421日目 〈『ザ・ライジング』第2章 18/38〉
 第2422日目 〈『ザ・ライジング』第2章 19/38〉
 第2423日目 〈『ザ・ライジング』第2章 20/38〉
 第2424日目 〈『ザ・ライジング』第2章 21/38〉
 第2425日目 〈『ザ・ライジング』第2章 22/38〉
 第2426日目 〈『ザ・ライジング』第2章 23/38〉
 第2427日目 〈『ザ・ライジング』第2章 24/38〉
 第2428日目 〈『ザ・ライジング』第2章 25/38〉
 第2429日目 〈『ザ・ライジング』第2章 26/38〉
 第2430日目 〈『ザ・ライジング』第2章 27/38〉
 第2431日目 〈『ザ・ライジング』第2章 28/38〉
 第2432日目 〈『ザ・ライジング』第2章 29/38〉
 第2433日目 〈『ザ・ライジング』第2章 30/38〉
 第2434日目 〈『ザ・ライジング』第2章 31/38〉
 第2435日目 〈『ザ・ライジング』第2章 32/38〉
 第2436日目 〈『ザ・ライジング』第2章 33/38〉
 第2437日目 〈『ザ・ライジング』第2章 34/38〉
 第2438日目 〈『ザ・ライジング』第2章 35/38〉
 第2439日目 〈『ザ・ライジング』第2章 36/38〉
 第2440日目 〈『ザ・ライジング』第2章 37/38〉
 第2441日目 〈『ザ・ライジング』第2章 38/38〉
 『ザ・ライジング』連載再開の挨拶(LLS風に始まり、曜ちゃんの台詞で終わる;沼津を舞台にした小説なら、『ラブライブ!サンシャイン!!』絡めたいよね、むりやりにでも!)※21/38-22/38
 『ザ・ライジング』連載中のご挨拶(LLS風に始まって曜ちゃんの台詞で終わるが、千歌っちのツッコミが入る;沼津を舞台にした小説だから、『ラブライブ!サンシャイン!!』絡めちゃうよ、むりやりだけど!)※36/38中途

 上記終いの2編について補足させてください。
 『ザ・ライジング』を本ブログにて連載終了後、noteにて再連載を始めた旨先達てお知らせしました。こちらは第2章の途中で週一の更新を停止しております。
 noteでは過去2回、これまでの粗筋と登場人物紹介を、某アニメ二次創作の助走として執筆したのですが、どうやら仲間内ではやけにウケがよく、わたくしとしても捨て置くには勿体ないな、と思うていたものですから今回、こちらのまとめ記事に挿入することと致しました。
 ※は本ブログでの掲載回数を指します。

 んんん、リンクを貼る作業ってこんなに大変だったかな……?
 カラヤン=VPO/1987年のニューイヤー・コンサートをYouTubeで観ながらでないと、とうてい耐えられない単純作業でしたわ(あ、失言)。作業中は殆ど”無”で過ごしましたよ。
 では、また明日、第3章のまとめ記事で。◆

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第2977日目 〈長編小説『ザ・ライジング』第1章のまとめです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 昨日お話したように、小説のまとめ記事です。が、始めてみたら想像以上に頭を悩ませる作業となりました。左側のカテゴリにある<小説 ザ・ライジング>をクリックしてもすべての回が表示されるわけではないことに気附かされたが為の悩ましい作業となったわけです。おまけに、章間のエッセイ群のなかに小説に関わるものがあれば、それもサルヴェージしなくては……。
 頭を悩ませるばかりか、実にメンドクサイ。非生産的な地味な作業をちまちま、ちまちま繰り返してようやっと1日分の原稿が完成。そこに至るまでのメンドクササったら……肉体的にも眼球は乾き、肩がこる。終わったあとの全身から噴き出す疲労感は、過去にこれ程の疲労を感じたことがあったか、本ブログを書く上で? と自問して、否、と答える類のそれ。ウクレレ弾きながら、♪あーああ、やんなっちゃうなぁ、あーああ、驚いた♪ って唄いたくなる程の、それ。
 「なんで俺、こんなことやってんだろ?」とふと我に返って空しくなる。けれど、このまとめ記事を書くことで再びかの小説が、新しい読者諸兄の目にも触れるようになるならば本望。本稿執筆の甲斐もあった、というものであります。

 『ザ・ライジング』
 2003年12月──深町希美は17歳、海沿いにある地方都市の女子高生(吹奏楽部所属)、教育実習で出会った年上の男性と交際中。そんな希美に、羨望と嫉妬で彩られた<悪意>が忍び寄り、それはやがて彼女を自死へと追いこんでゆく。希美を支えるのは友達と恋人、救うのは彼女を愛する死者……。そうして深町希美は人生でいちばん忘れられないクリスマスを迎えることになる。(note マガジン『ザ・ライジング』トップページより)

 第2379日目 〈明日から小説の連載を始めますね、っていうお知らせです。〉
 第2380日目 〈『ザ・ライジング』第1章 1/13〉
 第2381日目 〈『ザ・ライジング』第1章 2/13〉
 第2382日目 〈『ザ・ライジング』第1章 3/13〉
 第2383日目 〈『ザ・ライジング』第1章 4/13〉
 第2384日目 〈『ザ・ライジング』第1章 5/13〉
 第2385日目 〈『ザ・ライジング』第1章 6/13〉
 第2386日目 〈『ザ・ライジング』第1章 7/13〉
 第2387日目 〈『ザ・ライジング』第1章 8/13〉
 第2388日目 〈『ザ・ライジング』第1章 9/13〉
 第2389日目 〈『ザ・ライジング』第1章 10/13〉
 第2390日目 〈『ザ・ライジング』第1章 11/13〉
 第2391日目 〈『ザ・ライジング』第1章 12/13〉
 第2392日目 〈『ザ・ライジング』第1章 13/13〉

 明日から4日間、執筆にまつわる思い出等々戯れに、冒頭でお話しようか、と思うています。◆

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第2976日目 〈長編小説『ザ・ライジング』のまとめ記事を始めるだよ!〉 [日々の思い・独り言]

 かつてわたくしは本ブログにて、21世紀はじめに書いた長編小説の連載をしていたようであります。他人事みたくいっているが、勿論ちゃんと記憶にはある。チョットトボケテミタカッタンダ。
 本ブログ左側のカテゴリーをみていただくと瞭然だが、いちおう『ザ・ライジング』は他のエッセイ/読書感想文/小説がごった煮になった<日々の思い・独り言>から独立させてありますが、これね、問題が1つあるんです。このカテゴリをクリックすると、唐突にエピローグから逆時系列で30件ずつ表示されるようになっているのですよ。
 設定で変えられるんじゃない? そんなこと、知らないさ。運営元に質問しても返ってこない。これまでそうだったからね、今回が例外となろうはずはない。わたくしとブログ運営元との闘い、もといブログ運営元への愚痴は……お暇な方があれば果てしなくページを遡ってみるとよい。こればっかりはわたくしとてまとめる気は致しません。だって、面倒臭いもん。
 そんなことはさておき、ほぼ唐突に斯様な記事を執筆することに決めた理由は、もう1つあります。実は連載に先立って第1章の抜粋を2日に分けて掲載したり(海外の長編小説みたいだ!)、途中途中で作品にまつわることを書いてみたエッセイが本ブログのどこかに放り出したままだ。おまけに、もう更新を停めたけれど、noteでも本ブログでの連載終了から何年か経ったあとに多少手を加えたヴァージョン──誤字脱字を直し、ちょっとだけ文章の流れを整理したヴァージョンをお披露目。
 そこでは『ザ・ライジング』同様にわが第二の故郷、静岡県沼津市を舞台にしたアニメ『ラブライブ! サンシャイン!!』の登場人物にご出張いただき(完全に二次創作の領域に踏みこんだ、四半世紀ぶりのお遊び)、各回のオープニングをご担当いただいた回もある(登場人物一覧を書いたのは、そういえばこのときが初めてであったな)。これらをこの度、一堂に会してわたくしが最も大切な思い出を封じこめた作品に改めて陽の目を見させ、呼吸をさせたいのだ。
 とはいえ、左側のカテゴリーを改めてご覧いただけばおわかりの如く、『ザ・ライジング』は152日間にわたって連載(分載、かな?)された。聖書読書ノートブログが終わって、なんとなく空気が抜けたような気分のときにつらつらたらたら、のんびりぶらぶらと更新を続けた(日数稼ぎという側面があったのは否めない)。結果、半年以上という長期間、読者諸兄にお読みいただくこととなった。1つの、単独のカテゴリでここまで長い回を記録したのは、「詩篇」ぐらいのものであろう。
 整理のためとはいえ、152回分のまとめをやるには時間も労力も掛かる。というわけで、1日1章の原則で(何年振りだ、この文言を書いたのは!)『ザ・ライジング』のまとめを明日から行ってゆきたく存じます。
 どうぞよろしくお願いいたします。◆

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第2975日目 〈終局へのカウント・ダウン、始まる。〉 [日々の思い・独り言]

 そうですか、決まりましたか……。行くと決められたのですね。望んだ所なのだから、わたくしには止める権利も資格もない。おめでとう。あなたの望む未来を摑んでね。寿ぐ以外にいま、なにができる? 元よりその御心に入りこむ余地はなかった。却って棘となり障害となっていたのでは、と自分を責めるばかりです。
 残された時間を大切にしよう。どれだけ陰で嘲笑われようと、誹謗中傷の種にされたとしても、気持ちを殺すことなく封印することなく、終局へのカウント・ダウンは停まることなく着実に刻まれていると忘れることなく、最後と決めた想いを向け続けるしかないではないか。わたくしは毎晩、あなたを想って泣いています。
 どんなに離れても、あなたを忘れない。あなたと過ごした昨夏からお別れの日までの時間とお話ししたことのすべて、そうしてあなたの姿は、これから終生色褪せることなく消えることもない宝物。
 想いあうのを祈ることも、未来の幸を願うことも、許されないのでしょうか。すべてはうつしよの夢? 祈りは踏みにじられ、願いは空しく散らされるの? 永遠を求めてはいけなかったでしょうか?
 それでもわたくしは、一縷の希望を託して、あなたにこう伝えたい。即ち、──
 I PROMISE I WILL PULL YOU THROUGH.
 I PROMISE THAT I WILL LOVE YOU FOREVER.◆

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第2974日目 〈日本史の本が書きたいなぁ。〉 [日々の思い・独り言]

 歴史絡みの話題が続いてそろそろ飽きてきている読者諸兄もおられることと思う。わたくしも正直、そろそろ一旦離れた方が良いのではないか、と思うている。
 ならばどうして懲りずに書き続けるのか、と訊かれたら、「言わずにはおれんからですよ」ではなく「書くネタはあるけれど時間が限られたなかで第一稿を書きあげられる自信がないからですよ」と極めて内輪な本音を伝えよう。
 のっけからのそんな冗談はさておき、前々から日本史に関することでわたくしは書きたいことがあった。日本史の特定の話題に関することではなく、どちらかといえば未来の展望に含まれることだけれど……。
 有り体にいえば、わたくしは日本史の本を書きたいのだ(タイトルは疾うに決まっている)。かつて構想して全体の半分ぐらいまで書いたところで棚上げとなった20世紀音楽史の本と、まるで同じ構造を持つ日本史の本。企画を思いついたのは日本史の方が先で、学生時代に遡る。大学生協で勤労学生やっていた頃です。
 編年体であるのは勿論だが、単純に古代から現代までの歴史を綴るのではなく(これをやって教科書の右に出るものはない)、それぞれの時代の歴史小説を取り挙げながらかの時代の歴史を述べてゆくのだ。
 ゆえにここで取り挙げる小説は、歴史上の事実を扱った小説でなくてはならなかった。殆ど情報のないなかでこうした小説を集めてゆくのは骨の折れることであった。自宅が火事になってそうして集めた小説を処分せざるを得なくなるまでの約6年間に手許に集まった小説は、それでも50作を超えた……そうして時代的にも古代から幕末に至るまで揃いつつあった。
 いまでもふと、この本を書こうと企むことあるけれど、もはや資料となる歴史小説が自由に取り出せる体力的・空間的余裕に貧しいとなれば、重い腰はあがりそうにない。ならば次の次代を担う人たちに託すとするか、資料と一緒に。
 ……ええ、勿論この本では、嫌いなシバリョウも取り挙げますよ。仕方ないじゃん。ぷん。◆

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第2973日目 〈酒が入ると歴史の本がよくわかる。〉 [日々の思い・独り言]

 Twitterでフォローさせていただいているうちのお一人、北海道から現在上京中の女性が今日(昨日ですか)池袋のバーにて<変態文学を語り合いながら、美味い日本酒をたらふく呑み耽る会>を主催される。2年近くその方のツイートを拝見しているが、語彙力の確かさと文章の組み立て方、そうして内容の変態ぶりと真性飲んだくれッぷりに、投稿のたび感銘を受けているのだ。
 是非いっぺんオフ会でお会いして、お話を傾聴したく望んでいたのだが、残念ながら今回お会いすることはできない。いやぁ、10日程度とはいえしばらくTwitterから離れていたら、上京されるという情報を摑み損ねていただけなんですけれどね。本日お休みなのに、既に予定は入っており、しかも休日は多摩川を超えること頑なに忌避する体質ゆえ、無念を心のなかで弄びつつ山手線もしくは湘南新宿ラインの乗客となるのは諦めた。明日は仕事だしね。
 それはさておき。
 現在、みくらさんさんかは地元の市民酒場(市内に3軒しか残ってないの!)で蜷局を巻いている。※蜷局を巻く→或る場所に腰を据えて、動かないでいる様子。
 聖書を読むのに飽きるとコップのなかの宮城の酒を飲み干した後、新たに注文したモツ煮を食べながらおもむろにMBAを開き、あたりに配慮して(といっても客はわたくし以外に2人しかいない、しかもその2人はお仲間で既に相当デキアガッテイル)極めて静かにキーボードを叩きながら、本稿を書いているのだ。
 あら可笑しいね、逞しいね、オッペケペッポーペッポッポー。
 酒を呑みながら読む聖書は最高だ、と過日の本ブログにて喚いた記憶がある。も少し具体的にいえば、より相応しく思うのは歴史書だ。モーセ五書も歴史書の性格を備えるが、こちらは酒呑みながら読んでいてもまったく面白くない。なぜか? 説教臭くて胡散臭くて押しつけがましく、やたら優等生的な面が障るからだ(個人の感想です)。まぁ、それでも読んでて面白いと感じられるのは、「創世記」のソドムとゴモラのエピソード、「レビ記」にある神聖法典の件かしらん。
 対して「ヨシュア記」以後は人間臭いドラマの釣瓶打ちである。アブラハムの神の言葉を錦の御旗に侵攻と殺戮が繰り返すイスラエルの民。王制を求める民の声に負けて渋々王を選ばざるを得ないサムエル、ダビデの人望に嫉妬して相手を陥れようとするサウル王。ダビデとソロモンはどうでもよくて分裂後の北王国と南王国の辿る波瀾万丈……北には善を積む王は終ぞ現れず、南も似たようなものだが思い出したように出現する「神の目に正しいと映る行いをした」王たち。列強国の軍事衝突に巻きこまれて、時代の波に翻弄されて遂には瓦解する2つの国家。バビロン捕囚を経験して父祖の地に戻ったユダヤ人たちのエルサレム再建劇。ディアドコイ戦争の覇者たちによるシリア支配に反旗を翻して民族復権を果たすまでのドラマを描いたマカバイ一族の歴史。
 正直なところ、オリエント史に関心を持つ人は1冊の良き概説書を読み通したあとは、旧約聖書と旧約聖書続編に直接当たった方が得るところは極めて多いと思うんだよな。今日の学者先生方が書かれる中東史の出発点は、すくなくともシリア・パレスティナ地方の歴史について第一級史料の一つとなるのは、この2つであるからだ。しかも時間的に長期にわたり、言及される地域もシリアのみならずオリエント全域、エジプト、「マカバイ記」の頃には地中海世界にまでその対象が拡大されるからだ。
 頻出する類似の名前、或いは同名異人に悩まされることはあるやも知れぬが、まぁそこは一遍とはいえ読み通してその後も何度か部分的に読み返しているお陰もあるかな、あまり混乱したことはない。とまれ、酒呑んでる頭でそんな細かい点を一々考えていられるはずがない。そんな風に考えると、酒の入った頭の方が歴史をうまく俯瞰して大局を捉えられるのかもしれない……とは都合が良すぎか? 自分勝手に過ぎるかな?
 酒が入った方が<歴史>の全体像をうまく把握できるなんて、可笑しいね。灰色の脳細胞が活発化するのかしらね、モナミ? ♪オッペケペッポーペッポッポー♪ なんだか『新古今殺人草子』の藤原定夫講師みたいな気分になってきたぞ。◆

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第2972日目 〈司馬遼太郎はどこが面白いんだ?〉 [日々の思い・独り言]

 時代小説? 歴史小説? 好きですよ。そう答えると8割ぐらいが「じゃぁ司馬遼太郎読んでますか? 面白いですよね/オススメ教えてください!」と返してくるのは、どうしたわけか。なんでシバリョウ読んでる、って決めつけるのさ。自慢じゃぁないがこのみくらさんさんか、シバリョウの歴史小説に感銘を受けたことなんて、ただの一度もないのだ。えっへん。
 どうして、どうして? とか阿呆なこと訊くな。趣味の問題である。嗜好の問題である。品性の問題である。わたくしはシバリョウの小説に、自分の好みとはあきらかに断絶した<なにか>を感じる。後年になればなるだけ、物語の柔軟性を失って、資料に立脚したリポートを読まされているように感じられてならない。
 はじめは小さな違和感だった。『梟の城』(新潮文庫)を読み進めながら、なんだか心のなかが段々とささくれ立ってくるのを感じた。これが物語に起因するのか、当時の自分の環境によるものなのか、或いは……。回答を見出せぬまま、わたくしは有楽町にあるコンベンション・ホールで副業のアルバイトを始めた。GWに開催されるクラシック音楽のイヴェントにスタッフとして朝から晩まで働いて、最終日の打ち上げのとき隣に坐った男がシバリョウ崇拝者で、なにげなく『梟の城』を読んで感じたことをバカ正直に打ち明けたものだから、そのあと「それはダメでしょ、みくらさん!」といきなり叫ばれ、「僕がいまから挙げる作品を読んでください。後日感想を訊かせてください!」と何作かのタイトルを列挙したメモ紙を渡された。恐るべきことにこのとき、かのイヴェントスタッフにはシバリョウ崇拝者がかれの他にもいて、いつの間にやらネットワークを作りあげていたのだ……
 シバリョウの小説の出来映えの素晴らしさ、そうしてあの<司馬史観>を誉め讃える衆がまわりに湧いて出たせいで、古本屋の見切り棚で何冊か、ご意見賜りながら購い休みの日など読んでみたけれど、「これは面白くない」と心の底で呻く自分がいた。とはいえ、読むね、感想いうね、と約束してしまったばっかりに──まぁ、かれらとの人間関係もあったしな──ただ機械的にページをめくり、眼球は1行1行舐めるようにではなくページの右上から左下まで対角線上に動くことが専らで。
 生田耕作先生は、著者への最大の侮蔑は読んだ本を途中で抛り投げることである、なんて仰っていたように記憶するが、わたくしも司馬遼太郎の本を抛り投げたかった。できればそのまま資源ゴミに出してしまいたかった。が、いちおうは書物への崇敬を持つ身ゆえ、それはしないで砂を噛む思いで読み終えた……そのときに感じたのは、もうこれで読まずに済む、という大いなる開放感! その当時読んだのはなにか、と訊くのだね、君は? 教えてあげよう、偉そうだけれど。順不同で『坂の上の雲』『龍馬がゆく』『燃えよ剣』(いずれも新潮文庫)『この国のかたち』(文春文庫)、あとは『街道を行く』(朝日文庫)を何冊か……。
 どれもこれも、シバリョウファンたちに当たり障りのない感想を伝えて疎遠になった瞬間に、馴染みの古本屋へ売り払った。二束三文で引き取られたけれど、わたくしはそれで満足だった──天邪鬼のようだけれど、これは事実なんだ。
 とはいえ、それから十数年。わたくしもだいぶ角が取れて丸くなった。読書の趣味にも変化が生じた。『ビブリア古書堂』を契機に、何作か久しぶりに読んでみた。そのとき、ちょうど長野県小諸市にまつわるエッセイを書いていたので、『街道を行く』で小諸が取り挙げられている巻を購い相も変わらぬ(あたりまえか)資料の羅列に閉口しつつ参考文献としてありがたく拝読したり、新聞記者時代に本名で刊行された『サラリーマン論語』を読んだりして、むかしとは違う味わいを楽しんだ。『サラリーマン論語』は『ビブリア古書堂』人気からか、『ビジネスエリートの新論語』(文春新書)として復刊された。これはとても面白かった。まだ無名時代のシバリョウが等身大で語りかけてくる、或いは自分の感情を生のまま吐き出してきた、優れたエッセイ集であった。わたくしが読んだのは勿論、復刊されたものだけど、これは一時期相当に耽読しましたよ。これをきっかけに、またシバリョウ読んでみようかな、と思って購った幾冊かのなかでは、『ペルシアの幻術師』(文春文庫)が特に面白かった。なんだろう、シバリョウらしからぬこの優れたるエンタメ小説は。その後、例によってシバリョウは気持ち良く処分させてもらったが、ここに挙げた2冊だけはいまだ書架に収まり、しばらくはこのまま居坐り続けるだろう。
 でも、やはり司馬遼太郎は嫌いです。あの人が書いているのは小説ではない。怨嗟が塗りこめられた紙の束にしか過ぎません。だれている。読んでいて、厭味を感じる。そこに人間はいない。時間は流れていない。
 歴史小説・時代小説であればわたくしは、学生時代から愛読する岡本綺堂/野村胡堂に横溝正史を加えた<捕物帳三羽がらす>を鍾愛する。松本清張や池波正太郎、葉室麟や朝井まかての小説に読み耽るときが、わたくしはいちばん幸せだ。シバリョウは……いいや、別に。◆

第2971日目 〈裏切りとかには馴れているはずなのに、ちょっと今回のはキツいかなぁ。〉【2021/03/19改題・差し替え済み】 [日々の思い・独り言]

 一部に誤解と誤認を拡散していることを承け、本来のヴァージョンへ差し替えを行いました。
 ご自身のことと思われてしまった方には、結果的に心痛を与えてしまったことを心よりお詫び申しあげます。けっして本意ではないことをご理解いただけば、と思います。ムシのいい話ではありますが……。
 どうしてわたくしが隷属を誓ったあなたに斯様な発言ができましょうか?

 気の滅入ることがあった。社会に出て相応の歳月を経ていれば、裏切りとか背反なぞ日常事とやり過ごすこともできるだろう。わたくし自身を省みても幾度となく経験してきたことで、ちょっとやそっとじゃ気持ちが揺らいだり感情が動かされたりすることはない、と、そう思うていたのだが……今日の出来事はこちらの気持ちを知っていながらわざと翻弄する類のそれであったがため、こうして最後通牒を突きつけざるを得なくなった次第だ。
 今日はまともな文章でエッセイを綴れるとは、これっぽっちも考えていない。なにを書いても、どれだけ自分を偽って優しげに書いたとしても、負の感情がほとばしり出て、いらぬ誤解を招くように思える──というか、そうさせる自信がある。きっとあの人は最初にお披露目された本稿を見て、ご自分を指していると思われてしまったかもしれない。
 そんな誤解を与えても可笑しくないぐらい、感情がストレートに、第三者への配慮を欠いたまま書き殴って、そのまま投稿してしまった。ああ、どうか誤解されていませんように。傷ついたり、泣かせたり、憤らせたりしていませんように。願わくばあの人が本ブログを読む初めての日が、原稿を差し替えた今日、2021年03月19日以後でありますように。
 ──かつて渡部昇一は或る程度の年齢になったら人間関係の整理も必要、と説いたことがある。いまのわたくし程それを実感して、かつ断行するに苦痛を味わう者だ。さらば、知己よ。
 もはやこの戦い、どちらかが倒れるまで続く。行き着くところまで行くしかない。殺るか、殺られるか。選べるのはどちらか1つだけ。殺るは勝利、殺られるは敗北。それだけのことだ。
 改めて、布告する。【戦闘開始】。君よ、覚悟を固めよ。味方以外はすべて敵と嘯くわたくしに、敵対者に対する感情は一切ないのだ。どちらが先に地面に倒れて血を吐くか、さあ、まずは皆に双方の力がどの程度のものか知ってもらうため、エキシビジョン・マッチでも始めてみないか?◆

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第2970日目 〈渡部昇一『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 大島淳一はジョゼフ・マーフィーの翻訳者としてのみ知られ、マーフィー理論を日本に初めて紹介した人物としてのみ知られる。その大島淳一が実は渡部昇一であると知ったときの衝撃は、大袈裟ではあるけれど計り知れぬところがあった。その一方で、さもありなん、と思わしめる部分もあった。
 著作をずっと読み通してゆくうちだんだん強く感じるようになったことだが、渡部昇一は基本的に楽観的な物の考え方をしている。カトリックゆえ新約聖書の「明日のことは明日思い煩えばよい」てふイエスの言葉を実践しているのだろう、ぐらいにしかはじめは思わなかったが、どうもそうとばかりは捉えられなくなってきたのである。
 この楽観さはもっと底が深い。そうして或る種の信念に裏づけられている。どうしてだろう? 疑問を心の片隅で転がしながら答えをなかなか見附けられぬまま時間が過ぎてゆくなか、偶然からマーフィーの本を購い、そのあとがきで大島淳一=渡部昇一と知ったことで「ああ、なるほど」と膝を打ったのである。
 規則正しく願いを心のなかで唱え、具体的なイメージを思い描き続けていれば、それはかならず実現する。遅かれ早かれ、しかし当人の望む形で。渡部氏は願望の実現を絶えずイメージし続けることで、最期の時まで充実した知的生活を実現することができたのだろう。
 余談ではあるが、教え子たちの間では最初のマーフィー本が出たときから既に、大島淳一=渡部昇一説が囁かれており、確かめに行こうと決めたはいいがなかなか行動へ移せぬうちに渡部自らがそれを告白するに至った、という(『学びて厭わず、教えて倦まず』P 辰巳出版 2020/08)。
 渡部氏の口癖の一つは「ムシのいいことだけを考える」だったという。没後になって長男や教え子の口から紹介されるようになった。これを思い出しながら読んでいたのが、『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』(三笠書房 2003/12)。アラン『幸福論』から適宜引用しつつ、<運のつかみ方>10のルールを開陳した本である。これ以前も、これ以後もさまざまな場面で渡部氏はここで披露されるルールを説いてきたが、本書はおそらくそれらが一堂に会してもっとも純度の高い1冊であることは疑うべくもない。
 <10のルール>とは、では何か。端的にその核となる部分をいえば、このようになる、──
 第1章:目に見えず、しかも常に形を変えてわれらの前を通ってゆく”運”をどのように摑まえ、願望実現のために使ってゆくか。
 第2章:濃縮された夢や成功のイメージを育むことでアンテナは敏感になり、願望を実現させる具体的な方法がわかるようになる。
 第3章:常に目配りを怠らずにいれば他人にはわからぬカリスマ性を見抜くことができ、またそういう人の下で働くならば自ずと幸運はその人のところに訪れるだろう。
 第4章:一旦強い意志持てやると決めたことは断固としてやり続ける、時にはこれまでの鎧を脱ぎ捨てて自分のためになることをやることも必要となる。
 第5章:〆切1日前のルール遵守で他人からの信用を得、「借り」のある人生から脱却して本当の自由を得る。
 第6章:思い通りにならずとも一つのことを続けていればいつしか手応えを感じられるようになり、それが面白さにつながって困難を困難と感じなくなる(結婚も同じ!)。
 第7章:裏表のない父であれ、尊敬できる人を見附けて徹底的に真似よ、悪習は己の意思次第でどうにでも操れる。
 第8章:知力、殊に記憶力と体力(健康)を常に鍛えあげることで、脳の活動も活発化して”知”という真理に裏打ちされた自由な発想を生むことができる。
 第9章:お金の貯め方・使い方に敏感であれ、使うべき場面ではバンと使え、清貧の思想にだまされるな。本多博士に倣え。
 第10章:常に次のステップ、上の位を見据えて勉強に励み、その位置に就いたときを想定せよ。その工程表をあらかじめ作成して実行することで余裕が生まれる。
 ──要するに、如何に”運”を摑まえ、自分を向上させてゆくトレーニングを欠かさず生きるか、そのための基盤となる経済と健康については常に堅実で正直であれかし、ということだ。
 雨に濡れて小口がゴワゴワになった1冊ではあるけれど、これはたぶん、ずっと繰り返し読むことになるだろうな。ここに書かれてることは渡部昇一が自分の体験や、豊富な読書経験と人間観察に基づいた、<本当のこと>なのだから。
 もっとも、仕事に関する箇所には、「ああ、会社組織を内側から見たことがなく、人間関係に揉まれたことのない、即断即決しなければならない立場で現場の指揮をすることとは無縁で終わった人の、内容空疎な戯言だな」と思わざるを得ない部分もあるけれど、まぁ、これは致し方のないところでしょう。会社員はこの部分については読み飛ばしたって構わないと思います。
 人生に手応えを感じたくば、まずは自分にとってムシの良いことを考えよ、然る後に<10のルール>に基づいて願望を実現させるための筋道を作って実行せよ、さすれば結果は自ずと己の望む形で現れる。でもこれ、変奏されてこそあれ、根本はマーフィー理論なんですよ。やはり渡部昇一はマーフィー理論の実践者でありました。◆


なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール

なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2021/03/16
  • メディア: 単行本




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第2969日目 〈渡部昇一の日本史が面白い!〉 [日々の思い・独り言]

 『ワインズバーグ、オハイオ』を遂に通勤カバンから取り出した日、代わって入れたのが渡部昇一の『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社 1989/05)である。いつだったか、集中的に渡部昇一の本を読みたくなって未架蔵未読のものを片っ端から買い漁ったなかにあった、1冊だ。
 渡部昇一は文筆活動の最初期から亡くなる直前まで、日本史にまつわる多くの著書を世に送り出した。本書はその発端となった記念すべき著作だ。
 刊行当時、地下街の書店のいちばん上の棚に置かれていた本書は、高校生だったわたくしには憧れの書物であった。お小遣いとわずかなアルバイト代から書籍購入費をを捻出する身に、1,000円以上の単行本は買うに勇気がいり、また他に欲しい本、読みたい本があるゆえにどうしても本書は優先順位が低くなっていたのだ。
 本書は渡部氏の著作の例に洩れず、出版社を変え、判型を変え、時にタイトルが一部変更されて、書店の棚に供給され続けた。わたくしはたぶん、そのどこかの段階で刊行されたものを読んでいる。祥伝社文庫であったか、新書であったか、そのあたりの記憶はまるで曖昧だけれどね。いずれにせよ、かつて高校生だった自分が書店の棚に刺さる背表紙を仰ぎ見ていたその本が、いまはわたくしの通勤カバンに収まり、通勤時だけでなく昼休憩のときにも読み耽っている。
 わたくしもある程度の日本古代史や天皇の系譜、記紀万葉には知識を持っている為なおさらに感じるのだが、渡部氏の著す日本史は実に瑞々しい。いつ読んでも新鮮である。そうして毎回、なるほど、と思わしめる箇所がある。なかでもやはり本書、『古代編』に始まり『鎌倉編』、『昭和編』へ至る三部作は渡部日本史の中核をなすメモリアルな著作である、といわざるを得ない。
 誰もが疑問に思いながら等閑視してきた問題を、著者はなんのしがらみも忖度もない立場から、自由闊達に話題を広げてゆく。日本武尊を存在を傍証する資料や建築物、宝物はあっても肝心の悲劇の皇子を抹殺する<科学的な立場から作られた日本史年表>に疑を呈し、陵墓があるにもかかわらず年表から抹消された仁徳天皇や応仁天皇に触れ、或いは中華民国を指す<中国>と古代日本や古代ゲルマンでこの世を指す<中国(なかつくに)>について考察し、その流れで中華民国を<シナ>と呼ぶことの根拠を記す。そうして避けて通れぬ<カミ>の語源、日本人の特異なる点を揺るぎなき態度で読者に伝えてくる。
 この本を高校生の頃に読んでいたら、わたくしは古典学者ではなく日本史の研究者を志していたかもしれない。それだけ本書は卓見に満ち、思考と想像を刺激してくれる優れた1冊なのだ。
 以後、渡部昇一は日本史の本を、昭和史にまつわる本を、たくさん書いた。上智大学の教え子が、どうしてそんなに日本史の本ばかり書くんですか、と疑問をぶつけたとき、渡部氏は、いわずにはいられないからですよ、と答えた由(『学びて厭わず、教えて倦まず』P114 辰巳出版 2020/08)。戦前戦中を知っている身としては、戦後生まれの学者が無責任に垂れ流す無節操かつ無知蒙昧な発言に我慢ができないのですよ、という意味だ。
 でも、それゆえに1人の読者として捉えた場合、渡部氏が身内に燻るルサンチマンをこのように解放してくれたことを感謝する。日本史にまつわる多くの著書を持つということは、内容が重複していたとしても発言したことが山ほどある、ということの証左であろう。
 これ程に次のページを繰るのが楽しみでならない日本史の本を、渡部氏以外の誰が書けるというのか。どの本を読んでもハズレはないけれど、やはりこの1冊から始めるべきだろう。◆

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第2968日目 〈本に命を奪われるのは、まっぴら御免だ。〉 [日々の思い・独り言]

 はなはだ嫌気がさしてきた。わが財産を喰い潰す勢いで増殖を企み、わが陋屋の空間という空間を埋め尽くす気満々な”やつら”の存在に、わたくしは気が狂いそうだ。かつては増えてゆくことに得もいわれぬ喜びと欲望の充足を感じ、片時も傍らから離すことなく生涯の伴侶とまで定めた”やつら”。即ち、書物の存在がちかごろは頗る邪魔っ気に思えてきて、いっそのこと殆どすべてを売却してしまいたい、とさえ思うようになったのである。この本がいつか、わたくしの命を奪うことになるかもしれない、と恐怖に駆られた出来事もあったから。
 廊下を塞ぎ、部屋の入り口を半分ばかし塞ぎ、机の前とベッドに行くまでの空間は獣道というた方が正確だ。荷物を持って部屋を出入りするとき、布団を干そうと階下まで運ぶとき、必ず本にぶつかり雪崩を起こし(否、山崩れというべきか)、ぷんすかぷんすかしながら崩れた本をまた絶妙な具合で積みあげる。先程恐怖に駆られたことがあった、というたがそれは過日の夜──東北地方で震度6強の地震が発生して関東も結構な揺れを観測したあの晩、ご推察の通り部屋に積みあげられた本も倒壊したことを指す。
 しかし面白いことに、絶妙な具合に積みあげられた本の山は耐震性に優れているらしく、ゆらゆら揺らぐことはあっても崩れ落ちるには至らなかったのだ。倒壊したのは寧ろ、中途半端な高さできちんと積まれた山だった。それが崩れて地滑りを起こし、隣の山、そのまた隣の山に波及して連鎖的に崩れてゆき、連峰は姿を消した。それを高みから見おろすアルプスの峰峰……。いやぁ、その晩は足の踏み場もなくなり、翌日は仕事だというのに片附けのため夜の2時頃まで起きていましたよ。えへ。
 それが切っ掛けだったのかしらん、本を棄てよう、と思い立ったのは。終活じゃぁないぞ、予めいっておくよ。いつだったか、最近よく利用する阿佐ヶ谷の古書店にメールして、推理小説(文庫・新書・単行本)と純文学(単行本)を売却する予定だとお話した記憶が確かにあるが、それに加えて、床を埋め尽くす本は片っ端から処分対象にすることにしたのだ。勿論なかには必要であったり、読むため書くために引っ張り出してきたものもあるから一概に全部、というわけではないけれど、基本的に床に積んである本は棄てることにした……潔く。
 処分するためにはまたダンボール箱を持ちこまなくてはならないから部屋はまた狭くなるけれど、空間を維持しながら処分してゆくなんて芸当、わたくしの部屋ではほぼ不可能なので仕方のないことだとこればっかりは諦めている。床がさっぱりしたらこの機会に、棚に収まる本も2年ぶりに点検してみようと思う。残すべき本と不要な本に二分できたら良いのだけれど、そうも上手くいかない。迷いが必ず生じる。近藤麻里子のようにときめきを基準にするなんて、殊本についてはふざけた考えだ。それを基準にしていたら、最終的には減らせるだろうけれどそこに至るまで一体何10年掛かると思ってるんだ、って話。
 さて、再び本が崩れる前に、重い腰をあげましょう。有事のとき、命を守る行動が取れるように。◆

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第2967日目 〈或るストーカーの死。〉 [日々の思い・独り言]

 ストーカーが自殺した。留置所で先週の朝、首を吊って死んだ。来月の初公判を前にして、すべてを洗いざらい語ることなく、勝手に死んだ。
 13年間、付きまとった割には最後の逮捕劇は拍子抜けする程、あっさりしたものであった。夜、相手のマンションに押し掛けてドアをどんどん叩き、大声で喚き散らし、隣室の住民に噛みついた──ここまでは、これまでもあった光景だが、その日、かれはやり過ぎた。たまたま廊下に姿を現した男にまで、難癖つけて己を正当化して摑みかかったのである。それが、かれの年貢の納め時となった。
 もっと相手をよく観察するべきだった。それは、挑んではいけない人物だったのだ。風采を見れば察しはついたように思うが、不幸なるかな、かれはその時へべれけだった。
 そこに連絡を受けた警察とやがて彼女の夫になる男性、そうしてわたくしその他が次々と到着し、ストーカーがお縄に掛かる瞬間を目撃した。喚き散らすストーカーが連れてゆかれた後、インターホンを鳴らした。怯えながら扉を開けた彼女が、あたり憚ることなく大泣きしながら夫になる男性の胸に飛びこんでいった様子を見るのは、辛かった。が、心からの安堵をも覚えた。もう大丈夫。13年間偽りのカレシを演じて当時はまだ姿の見えなかったストーカーから彼女を守り続けたわたくしの役目は、終わった。もう暗がりに紛れて襲撃されることもない。
 今年になって彼女は結婚して、JR沿線から地下鉄沿線のマンションに転居した。時々、かれらから夕食の誘いを受けて、のこのこ出掛ける。困ったことに部下と同じ路線ということでバッティングしたことが何度かあるけれど、その都度わたくしは彼女に付きまとったストーカーの心理に思いを馳せることしばしばであった。
 冒頭で述べたように、そのストーカーは自殺した。卑怯者、と思った。ろくでなし、とも思った。説明責任を果たすことないままこの世を去った彼奴に、わたくしは生涯複雑でダークな感情を抱えたまま生きるだろう。
 一応、通夜は営まれた。誘われたが、行かなかった。最初は彼女と2人で列席するつもりだったが、その日の昼間に彼女が電話してきて、「写真であっても彼奴の顔は見たくない」と宣言したことで、予定はキャンセルした。仕事の帰りに彼女らのマンションに赴いて、形ばかりとはいえメンタルケアを施すことにはなったけれど。
 顧みて彼女と知り合ってからの約20年、その間彼女があの晩ほど怯えた姿は見たことがない。普段は強気で、心を許した相手の前でだけだらけるような子だけれど、それでもあすこまで怯えて、恐怖に体を震わせて、弱々しいところを曝け出すとは思いもよらなんだ。
 いま、彼女たちは幸福である。今週、妊娠3ヶ月と知らされた。良かった。もうわたくしの役目は完全に終わった。道の果ての開拓地を目指して、飄然と彼女たちの前から去るとしよう。サンキー・サイ。
 なお、本稿は彼女の希望によって書かれた。
 ……本当にこれで良かったのかい?◆

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第2966日目 〈酒呑み、聖書読み。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろのマイ・ブーム(もはや死語?)は日本酒を呑みながら聖書を読むことである。
 日本酒を呑みながら聖書を開き、ふむふむ、なるほど、と頷きながら読んでいる様子は傍から見ると、相当滑稽に映るらしい。然る後に読んでいる本が聖書と判明するや、滑稽な場面は畏怖の感情を呼び起こすことはまずなく、寧ろ危険視されたりする。『法の書』とか『ネクロノミコン』とか読んでいるわけじゃないんだから良いのではないか、と思うのだけれど、まぁ、酒呑みながら宗教の本読んでいる奴ぁ、警戒されて仕方ないかもしれないですな。
 けれどモナミ、聖書を読みながら飲むに相応しいのは、コーヒーと日本酒ですよ、やっぱり。
 単に自分の嗜好ゆえではあるが、思索のため己を沈潜させるにこれら程効果のある飲み物はないのではないか、と本気でわたくしは信じているのだ。
 コーヒーは専ら創作時に効能を発揮する飲み物であるが、カフェインがどうとかそんな小難しいことは考えたことはない。経験から実感しているに過ぎない。経験とは本ブログにてお披露目された聖書読書ノート、或いはエッセイの過半がコーヒーを飲みながら(=マックス・ブランド風にいえば、”絶えず燃料を補給しながら”)書かれたことを指す。脳ミソが活性化したか、と問われれば、常に限られた時間のなかで書きあげることができた事実を以て回答とせざるを得ない。
 日本酒の場合は? これはもう体質的に合っている飲み物ゆえ、どれだけ呑んでも平然としていられる。流石に一生分4本半空けたあとは筋の通った文章を書くことも、なにかについて考えることもほぼ不可能だったけれど……。
 能動的/受動的知的活動と日本酒を呑んでいるときの脳ミソの活動について書かれた論文やブログ記事などたまに探して、見附かると読んでみるのだが、そのなかに納得できるような内容のものは1つもなかった。せめてハマトンが『知的生活』で知的活動とワインの因果関係について触れたと同じようなものがあれば良いのだけれど……観察を続けて自分で書くしかないか。
 そんな風に未来のテーマが出来たところで、擱筆。
 さぁ、今宵も一献、傾けて飲むとしよう。◆

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第2965日目 〈いまの御時世、トロロープを範と仰ごう!〉 [日々の思い・独り言]

 アンソニー・トロロープというイギリスの小説家がいた。とにかく長い小説を書いた人である。いまはお馴染み、街角に立つ赤い郵便ポストの発案者でもある。この人程機械的に執筆する技法を、崇めるが如くに遵守し、信奉した小説家もいなかったのではないか。そうして或る意味で、会社に勤めながら物書き業に勤しんでいる人たちにとっては、仕事術の手本となるような人物でもある。
 自伝に曰く、毎朝午前5時半から執筆を始めてきっかり3時間それに費やして時間になると、どれだけ興が乗っていようが、どれだけ中途半端なところであろうが執筆を切り上げて朝食にして、郵便の仕事に出掛けたという。15分で250字を書くことを維持することに努め、1つの作品を書いている間も出版を待っている作品が常時、1作か2作はあったという。おお、なんてこったい。これがどれだけ凄まじく、実現困難・継続至難な行為か、働いている人ならおわかりになるはずだ。
 時代が違うよ、とかいうな。なにも変わらない。トロロープの執筆作法についてわれらが学ぶべきは沢山ある。時間を無駄にするな、限られた時間を最大限有効に使え、そのなかで最高のパフォーマンスを発揮して、能う限りクオリティの高い作品を残せ、せめて斯く心がけよ。──これがトロロープからわれらが学ぶべきことだ。
 現在この国は緊急事態宣言で、飲食店を中心に20時までの営業が当然となっている。社会人よ、その傍ら趣味でも生業でも文章を書く人々よ、あなたはどこで執筆を行う? まっすぐ帰宅して家で書きます、っていう人はここではお呼びではない。そうではなく、帰る前にどこかに──喫茶店に寄って書くことにしています、という人と、わたくしはお話がしたい。
 仕事がたとい18時ぴったりに終わって退勤したとしても(まぁ、そんな社会人、そうそう多くはないと思うが)、残された時間はわずか2時間弱。執筆に割ける時間は1時間半あれば万々歳であろう。その限られた時間で目に見えるような一定の成果を出すには、集中力と思い切りの良さ、そうして有限の時間を最大限に活かす計画性が必要だ。
 いま、わたくしは退店勧告をされた。しかし、なんとかこうして原稿を仕上げることができている。あとは自宅に帰って、推敲をしよう。ひとまず、落着。◆

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第2964日目 〈完成したものしか他人は読んでくれない。〉 [日々の思い・独り言]

 凪の状態である。どう頭をひねくってみても、ネタが出ない。俺が欲しいのはたったひとつの言葉、たったひとつの光景、たったひとつの想い。
 取っ掛かりさえ摑めれば、あとはどうにかなる。これまで培ってきた馬鹿力でブルドーザーの如く前へ進み、最後の一文字までこぎ着けて、無様な形であってもあるものに仕上げる。これからも、ずっとそうしてゆく。
 まずは最初の1文字を原稿用紙に書き、あとはひたすら筆を動かして最後の1文字にまで辿り着くこと。これが大事だ。内容にどれだけ感心させられたとしても、文章がどれだけ練られていても、未完成品ならば世人の目に触れることなく埋もれてゆくしかない。然り、<未完の傑作より1つの凡作>なのだ。
 ヒルティは仕事を始める大事さは説いた。漱石は機械的に仕事する大切さは説いた。が、それを1個の作品に仕立てあげる重要性を語らなかった。出来映えはどうでも完成した作品でなければ、他人に読んでもらうというスタート・ラインには立てないのだ。
 斯くして本稿、完成。◆

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第2963日目 〈「本当の自由」を手に入れるため、経済再生を断行する。〉 [日々の思い・独り言]

 いま読んでいる本に、こんな一節があった。曰く、──
 「ところで自由とは、いまさらいうまでもなく、外に対して「借り」のない状態でもある。もし、今、何かの「借り」があるならば、それを返済しない限り、本当の自由にはなれない。自分の意思を十二分に発揮できない」(渡部昇一『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』P125 三笠書房 2003/12)と。
 読んでいて、心にぐっさりと突き刺さった。
 先週の金曜日、わたくしは抱えていた負債をすべて返済した。「借り」を抱えていた長い歳月、わたくしは本当の意味で<自由>を堪能したことがない。何者にも束縛されない、完全無欠の自由と縁を結ぶ日が果たしてくるのであろうか。そんな猜疑に駆られて、不安に苛まされて、殆ど眠られずに過ごした夜は数えきれぬ程だ。
 一体どれだけの負債を抱えていたのか、と訊いてくるのは然程親しくない人、もしくは刹那袖すり合わせた程度の関係の人たち。親しき友らはおおよその全貌を知っている。幾許かなりとも援助を、そっと申し出てくれる友もいた。が、かれらの友情に裏打ちされた申し出を、わたくしは片っ端から断った。
 なぜ? なぜ、と問うか、君よ。理由は単純である。即ち、これはわたくしがわたくしの甘さと放埒が生んだ負債であり、その返済の責任とはわたくし一人に帰せられるべきものだからだ。カッコいいことをいうな、と陰口を叩かないでくれ。その負債を背負った瞬間から、これは1人で返さなくてはならないお金だ、と自覚があったのだ。最終的には揺らいで、家族の援助を仰ぐことにはなったけれど……情けないなぁ。
 援助を断ったとき、自分の心のどこかにサー・ウォルター・スコットの逸話がちら、と掠めたことは否めない。スコットは連帯保証人になっていた友人の負債をすべて背負いこむことになり、著作の版権売却や土地を切り売りするなどしてまずは返済の目星を付け、その後はひたすら筆一本で稼ぎ続けて死ぬ頃には殆ど返済が終わっていたという、例によって渡部昇一『続 知的生活の方法』(P62-64 講談社現代新書 1979/4)で知った逸話が。
 それを気取ったわけではけっしてなかったけれど、まぁ結果的にはそうなったね。
 でも、返済期間中は苦しかったよ。最低限人並みの生活はできたけれど、「本当の自由」は満喫できなかったなぁ。その月の返済を終わった直後に感じる小さな安堵が精々だったか。何度となく緊縮財政を断行し、支出を切り詰め、収入を増やすため仕事量を増やして睡眠時間を減らすような生活を強いられたことが、何度もあったっけ。いまとなっても思い出すのは厭わしい。
 斯様なことはありと雖も、長い時間を掛けてわたくしは毎月遅れることなく返済を続け、ようやっと最後のまとまったお金を先日、お金を借りてはいけない金融機関に1円の単位まで支払い、完済証明と残高証明をもらった……解放された気分であった……歌おう、感電する程の歓びをっ!!
 とはいえ、今月は負債を完済したに過ぎない。本格的な経済再生はこれからだ。ランニング・コストの遅滞なき支払いは勿論として、かつて申しあげた「よくない遊び」と縁を切り、以前のような健全なる投資と貯蓄に精出すことができる環境を復興して、それが持続可能な財政状況を生み出すこと。それが本当の意味でのわが経済再生であり、本当の自由の堪能であろう。
 まだ見ぬ未来のために、実現したい未来のために、この再生計画を断行してゆこう。◆

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第2962日目 〈池上彰の本の感想文、ここにまとめてみました(リンク付き)。〉 [日々の思い・独り言]

 本稿は後日、執筆とお披露目を予定している<<まとめサイト>風の記事の準備である。まぁ、とっ散らかった過去記事の目次みたいなものです。
 さて。
 クラブの馴染みにこの前、池上彰の本のことを訊かれた。発端はいま読んでいる渡部昇一の『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』(三笠書房 2003/12)を話題の俎上に上したこと。
 直前に本ブログにて読みやすい文章を書く人の一例として、渡部昇一を挙げたこともあり、専ら話の中心はその文章の読みやすさ、明解さに置かれた。うれしいことに本をぱらぱら目繰って同意してくれたこともあり、「もう1人挙げるとすれば池上彰さんだね」みたいな話をして、扱うテーマによってはこちらの不勉強ゆえ分からぬ所もあるが文章に限っていえば一箇所たりとも不分明な所はない、という話をした。
 その人は、わたくしが感想文を書いた池上さんの本のことは覚えていたがタイトルは覚えていなかった。わたくしもウィスキー水割りを数杯呷っていたときでもあったため、すぐに正確なタイトルは思い出すことかなわず、間違ってまだ読んでいない『伝える力』(PHP新書)を挙げるなどもうね、どうかしておったよ。地下の店舗のせいかスマホの電波の入りも悪くってさぁ、てふ言い訳が、唐突に本稿執筆を思い立ったのである。
 はい、というわけで、みくらさんさんかが昨年12月に集中的に読んで書いてお披露目した、池上さんの本の感想文の一覧です。どうぞご参考になさってください。
 第2914日目 〈池上彰『相手に「伝わる」話し方』を読みました。〉
 第2915日目 〈池上彰『わかりやすく〈伝える〉技術』を読みました。〉
 第2916日目 〈池上彰『〈わかりやすさ〉の勉強法』を読みました。〉
 第2918日目 〈池上彰『学び続ける力』を読みました。〉
 第2923日目 〈池上彰『なぜ、読解力が必要なのか?』を読みました。〉
 第2940日目 〈池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』を読みました。〉
──以上である。ああ、こんなものか。あと2冊ぐらいあったような気がしたんだが……そうか、講談社現代新書に入るものを集中的にやっつけたから、こういう結果であるのか。納得した。
 ちなみにこの記事は月を追うにつれて、ゆっくりとではあるが更新してゆく必要がありそうだ。というのも、まず佐藤優との共著『僕らが毎日やっている最強の読み方』(東洋経済 2016/12)の感想文を書き忘れている。加えて、現時点で未読で待機中の池上さんの本が、今日買いこんできたのを含めてちょうど10冊あるからだ。
 読むたびごとに感想文を書いて、お披露目してゆきます。◆

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第2961日目 〈負債を完済したよ!〉 [日々の思い・独り言]

 タイトルの通りである。咨、ここまで長かった。支えてくれた家族と友どちに、感謝。
 事業のためとはいえ、お金を借りて良い金融機関と借りてはいけない金融機関があることを、今回程痛烈に思い知ったことはなかった。詳細は省くけれど、まぁ、端的にいえば当日審査で借りられるところ、審査書類が身分証と直近3ヶ月程度の給与明細ぐらいの会社から借りるのは、阿呆の所業ですよ、ということかな。
 今回の一件でこれまで以上に「お金」というものについて、深く考えることになりました。イマノボクナラ、センセイ、お金ニツイテノ処世訓ミタイナ本ガ1冊、書ケルカモシレマセンヨッ! いや、マジで(石塚運昇さん風に)。
 本多静六博士の<四分の一天引き法>に基づいて貯金・運用してゆくことの賢明さ、金持ち父さんの空疎ぶり、これまで自分が経験してきた種々の痛みや放蕩について真正直に書き、お財布事情から見たみくらさんさんか伝っぽくしたいですね。
 そんなことをいうておるが、いまはまだまだ夢物語。取り敢えず当面は、毎月の債鬼から逃れ得た(縁が切れた)ことを喜びたい。
 もうわたくしの前にはあたたかな光に満ちた世界しか広がっていない。Things I found out through hard times and good time(厳しい時代と良い時代を経験して知ったこと)を生涯の戒めとして、道を正しく歩いてゆこう。誓う、あなたのために。◆

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第2960日目 〈賢明な判断を下せ。〉 [日々の思い・独り言]

 iPhoneに保存している写真を昨夜、日本酒を呑みながら眺めているうち、哀しくなってきた。
 そこにいるのは、もう2度と会うことも話すこともない人たち。知り合った場を離れて縁が自然消滅したのではない。否、去ったあとも以前と同じ密度の交わりを続けてきた。この絆は鉄で結ばれたもの、避けられぬ事態によってでない限りわれらはいつだって顔を合わせることができる──そう信じて疑わなかった。
 が、鉄は経年劣化して錆び、鉄の鎖はそれによって輪が壊れてゆめ修復できないことがある。そんな単純明快な摂理を、わたくしはすっかり忘れていた。かつて仲間たちとの縁が途切れたのは、かれらとわたくしの間に起こった出来事による。かれらにいわせればわたくしの多情多恨であり、わたくしにいわせればかれらが事実を知ろうとしなかったことへの呆れが原因である。序でにいえばかれらは、かれら自身の行為によって人1人を死に追いつめたことを知らない。いつかお話しよう。
 かれらを思い出すのは苦痛でしかない。ならば写真を削除せよ。仰るとおりだ。が、斯く反論しよう。それができたら苦労しない、と。写真を消すことであの頃の思い出の一切がわたくしのなかから消えてしまうように思えて、怖いのだ。
 結果がどうあれ、あすこで知り合った人々との交流があらゆる面で、これまでの社会人生活でいちばん濃密で、充実して、幸福であった。しかし、過去をなかったことにして、それを修復することはできない。前に進むより他ないのだ。そんな流れで久しぶりに、ノーノの作品のタイトルを引きたい。即ち、──<進むべき道はない、しかし、進まなければならない。>
 そうしていま(まさしくjust now!)、わたくしは過去を反省材料としなければならないとじゅうぶん承知しつつも衝動に駆られて、同じような過ちを犯そうとしている。いちばん大切に想う人から、一時のメランコリーに流されて離れようとしている。離れたが最後、もう2度と──かつての仲間とはまったく違う意味で、それこそ文字通りの意味でもう2度と、逢えなくなってしまうとわかっているのに。連絡先も知らないままなら、偶然に縋ることもできまい?
 咨、どうかそのときのわたくしが感情に流されることなく賢明な判断を下し、その人を哀しませたり失望させたり怒らせたりすることがありませんように。
 それを、わたくしは祈る。光の世界を与えてくれる人への、二心なき想いをこめて、祈る。◆

 ※お知らせという名の追記
 明日から当面の間、23時メドでの更新となる予定です。ご了承の程願います。□

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第2959日目 〈わかりやすく、読みやすい文章を書く人たち──赤川次郎や渡部昇一。〉 [日々の思い・独り言]

 多量の本を世に送り出した人程文章が読みやすい、というのは事実なのでしょうか。これを検証するにはちと時間が足りず、また参考資料となるべき本も殆どない。出先で──というか会社帰りにブログの原稿を書く弊害だな。
 それはともかく、たとえば赤川次郎。数多の老若男女に知られて読まれ、世代を超えて読み継がれている理由の1つは、文章の読みやすさ、わかりやすさ、という点にこそあろう。読みやすい文章というのはイコール、含みがなくて純度が高い、しかも等身大の言葉で綴られた文章である、ということだ。要するに、一度読み始めたらページを繰る手が止まらない、ということ。即ち読みやすい文章とは読書への没頭に直結するわけである。
 東野圭吾をわたくしは好かないが、それでもあれだけ読まれている秘密の1つに、文章の明晰さがあることは否定できないと思う。ただ東野圭吾の場合、赤川次郎と異なるのはその文章に仕掛けがたっぷり施されている場合があって、うっかり読み流したりできない、ということか。
 赤川次郎の文章が体のなかから自然体で流れてきたものだとすれば、東野圭吾の文章は本能的に作り出された彫心鏤骨のそれで、しかもそこに使われている言葉の一つ一つは単純だけれど一個の文章としてまとまったときにまるで違う装いを見せるという、アクロバティックな文章なのだ──熱狂的な東野ファンにいわせれたらば大いに反論、雑言を浴びるところだろうけれど……。
 小説家は文章が命なのは当たり前の話だが、それは本を書く人皆に等しく課せられることでもある。読めない文章で埋められた本を書く輩は、パルプを無駄に消費し地球環境悪化の手助けをしている者と見做しても構わないと思う。
 学者で読みやすい文章を書く最右翼は誰か、と見渡せば、渡部昇一の名を挙げるに如くはない。渡部昇一は本当にわかりやすく、読みやすく、裏のない文章を書く。深い学識と洞察を背景に書かれた文章は、自分に偽りのない言葉で満ちあふれている。
 このわかりやすい、読みやすい文章が生み出される秘密は、『クオリティ・ライフの発想』(講談社文庫)で語られている。曰く、ものを書くとき方言で亡母に語りかけて、亡母を納得させられるようであればその考えは本物だ、と。渡部の母は特に学歴などもない女性であったが、経験に裏打ちされた言葉はどんな学者や政治家の言葉よりも真実を突いていた、と渡部は述懐する。
 こんな方法で綴られた文章がわかりやすく、読みやすいのは当たり前である。が、その一方で渡部昇一が教壇に立つ人であったこともけっして見逃せない。教える立場になった人ならば誰しも経験するように、小難しい言葉で自分を飾るのは簡単だが、その言葉は絶対に聞いている人の胸には響かない、届かない、残らない。池上彰も同様の発言をしていた、と記憶する。平易な言葉であることが第一、作為をこらさぬことが必須、素直であること・正直であることが鉄則。
 渡部昇一の本を読んで、不勉強ゆえテーマについて理解及ばぬことはあれど、その文章を不明と感じたことは一度もない。知的正直に裏打ちされた文章の見本というて構わないだろう。弟子たちが渡部の学究としての業績を顕彰した『学びて厭わず、教えて倦まず ”知の巨人”渡部昇一が遺した学ぶべきもの』(辰巳出版 2020/08)でも触れているように、渡部昇一の本を読んでいてその文章が理解できなかったという人は、おそらく誰一人いないと思うのだ。
 わたくしは赤川次郎や渡部昇一のようなわかりやすく、読みやすい文章を書きたい。……このエッセイの文章は、どうかしらん?◆


知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

  • 作者: 渡部昇一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: Kindle版




学びて厭わず、教えて倦まず

学びて厭わず、教えて倦まず "知の巨人" 渡部昇一が遺した学ぶべきもの

  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2020/08/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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第2958日目 〈ソフトとしての音楽から永遠に離れて……。〉 [日々の思い・独り言]

 突発性難聴がいちおうの収まりをみせた頃に滲出性中耳炎を患い、わたくしは聴力を失った。
 それを悲観して八つ当たり気味に、音盤連合へCD/LP/DVD/Blu-ray/音楽書籍、様々取り混ぜて宅配便で送りつけたダンボール箱は優に20箱を超えていた。過去最大級の処分枚数である。
 それを積みこんだ宅配便のトラックが家の前から去ったとき、足許の地面が割れて裂けて砕けて自分が消えてしまいそうな気分に襲われた。事実、これまで自分の人生を構成していた割と大きなものが確実に、わたくしのなかから永遠に失われたのだ。
 かつてCDが大量に収まっていた書棚には代わって、書物が一分の隙もないぐらいに詰めこまれている。そこに音盤がない事実に、ようやく馴れてきた。が、すべてを手放したわけではない。処分することがどうしてもできなかったCDを、1つのダンボール箱にしまいこんだ。そのダンボール箱は1年以上、開梱していない。iTunesへ取りこんであるから、という理由以上にその箱を開けるのが怖いのだ。その恐怖についてわたくしは言葉を与えることが出来ない。
 部屋のなかにあって顔を見せているCDはたった2枚。シノーポリ=チェコ・フィルのブラームス《ドイツ・レクイエム》とヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの最新アルバム《Weather》である。前者はドイツ・グラモフォンからリリースされてタワーレコードが復刻した盤。わたくしが初めて聴いた《ドイツ・レクイエム》だ。ヘレヴェッヘ、カラヤンと並んでわたくしのマイ・ベスト3の1枚である。とはいえ、こちらも久しくCDプレーヤーのトレイに載せたことがない。
 むかしのように音楽に満ちあふれた生活を送っていた頃に較べれば、いまは途轍もなく彩りに欠けた侘しい生活である。なによりも潤いがないよね。しかし、案外平気だ。この状況に最早不満を感じることがない。
 強がるな? 否、そんなことはない。モナミ、本当のことなのだ。
 これまで蓄積してきた音楽の数々──クラシックであれ洋楽であれ、J-POPであれジャズであれ、いまのわたくしは好きなときに好きな音楽を心のなかで奏でることができる。記憶の襞にこびりついた音楽を再生することで、わたくしは平安と慰撫のなかに浸ることができている。もっともその行為に記憶力の維持という目的があることは否定できないけれど。
 かつては当たり前のようにそこにあったせいで、有り難みも幸福も稀薄だった。が、聴力を欠いたいまだからこそ、音楽の素晴らしさを実感している。音楽が人に与える力を実感している。
 聴力を失ったいまでも音楽を愛することができることは、なんと幸せなことだろう。病患ってそれを知るとは、如何にも皮肉なことだけれどね。◆


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第2957日目 〈みくら国、経済再生宣言;厳しい時代の終わり。〉 [日々の思い・独り言]

 先程、iCloudストレージの容量をアップグレードした。従来の5GBから200GBへ。これでしばらくは容量不足に悩まされる必要もなさそうだ。アップグレードの直前も、本稿のタイトルを付けただけで「iCloudの容量が足りません」てふメッセージが出た。
 過日、この件でAppleサポートに電話して申し訳程度の不足解消を果たしたばかりなのに、その記憶癒えぬうちにまたこんな、神経を逆撫でするようなメッセージ。
 まぁ、冷徹な眼差しでそのメッセージを見つめましたよ。次の瞬間にはシステム環境設定を開いて、iCloudの購入手続きをしていましたけれどね。2TBにするかで悩んだけれど、取り敢えずは200GBあれば当面はなんとかなるか、容量不足のメッセージが出るようになったらそのときに改めて考えよう、と云う次第で200GBを購入したのだ。
 増えたストレージ容量のなかで、以前逼迫していた「書類」が占めるものは小指の爪の縦半分ぐらいでしかない。気分が良い。思わずスクリーンショットを撮ってしまったよ。容量が増えたことが関係しているのかわからないけれど、アプリケーションの立ちあがりや保存がサクサクできること、できること……精神衛生的にも極めて快適である。ああ、至福。
 ──
 さて、それでは本題。
 本日;2021/令和3年03月01日を<経済再生宣言>が発令された歴史的な日として、わが個人史に記録しよう。
 またいつもの大袈裟な表現……と呆れるなかれ。今度ばかしは結構本気だ。逆にいえばわりと、これまで以上に危険な状況にわたくしはあった。先日の「よくない遊び」のエッセイで文面に滲ませたことだけれど、再生計画を具体的にスケジューリングして(リスケ厳禁、如何なる理由であろうとも)実行してゆかないと、負債が生活を逼迫するどころか下手人の手に掛かっても可笑しくないレヴェルにまで達していたのである。
 国を滅ぼすにいちばん効率的な方法は戦争でもテロでもなく、ハイパー・インフレーションを起こすことだというのは経済学の原則かつ真実である。これは実は個人にも当て嵌まるということが、この度よくわかったわけですよ。身を以て経験したねぇ……しみじみ言ってるけれど、この心境に達するまでどれだけの不安と恐怖に苛まれたことか!?
 まぁいずれにせよ、今月、というか今週中に負債は完済されてわたくしの抱えていた負債額はめでたく<0>になる。数年振りに好転するわが経済。ゼロだよ、ゼロ! どれだけ希求しても望み得なかった数字である。いやぁ、安堵したとか肩の荷が降りたとかいうよりも、負債完済の事実に脳ミソが追いついていない、というのが正直なところ。
 完済以後は、まだまだ続く人生だもの、一時的な苦境に立たされるかもしれないが、もう大丈夫、わたくしは立ちあがれる。Come on up for the rising.
 これでわたくしは再び前を見て、未来を夢見て歩けるようになった。わたくしの歩く道に行く手には、おだやかであたたかな光だけが射している。その光のなかを、道から外れることなく正しく歩いてゆくことができる。
 Things I found out through hard times and good
 I wrote 'em all out in ink and blood
 Dug deep in my soul and signed my name true
 And sent it in my letter to you
 (厳しい時代と良い時代を経験して知ったこと/それらすべてをインクと血で手紙にしたためた/自分の魂を深く掘り下げ、名前を正しく署名した/俺の手紙にそれを入れて君に送ろう)
 ブルース・スプリングスティーン「Letter To You」(『Letter To You』所収)の一節だ。
 わたくしは今月を経済再生の月と定める。負債の完済がすべてを良き方向へ誘う分岐点となる。
 再び、ブルース・スプリングスティーンの歌から、本ブログのタイトルにもなった「Let’s Be Friends(Skin to Skin)」から、──
 I know we’re different you and me
 Got a different way of walkin’
 The time has come to let the past be history
 Yeah,if we could just start talkin’
 (君と僕が違うことはわかっている/歩き方が違うこともわかっている/“過去”を“歴史”にするときがきたんだ/そうさ、僕らが言葉を交わすことができたなら)
 〈フォーラムの可憐な花〉よ、これからのわれらの前には希望に満ちた明るい前途だけがある、と信じよう。◆


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  • アーティスト: ブルース・スプリングスティーン
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2002/07/31
  • メディア: CD




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  • 出版社/メーカー: SMJ
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第2956日目 〈ちかごろブログを書くのが二義的になりつつある理由。〉 [日々の思い・独り言]

 這々の体でブログ用の原稿を書いていることが多い。殊今月に入ってからお披露目したのは大概が時間に迫られ、ない知恵を搾り、一気呵成に仕上げたものが過半。が、問題はそんなところにはなく寧ろ、自分のなかでブログ原稿を書くのが二義的な作業になりつつあることだ。
 かつてはここにお披露目された原稿、刻まれた数々の言葉はわが墓標とまで言い切り、先達ても毎日書くための(わたくしなりの)必須要項をここで公にしたばかりなのに、舌の根も乾かぬうちに「二義的な作業になりつつある」とは、これ如何に? その心を忌憚なく申しあげれば、──
 どちらも本音、どちらも事実、なのである。
 本ブログはこれからもずっとわたくしの生きる縁となるだろう。文章を書いてここにお披露目して、その数極めて微少ながら毎日読みに来てくださっている読者諸兄に”わたくし”という人間が存在していることを覚えておいてもらえたら、いつの日かここに置いてきた幾つかの文章が誰かの目に留まって陽の目を見たら嬉しいな、という気持ちで書いている。これは本ブログを開設した当時から抱いている、揺らぐことなき希望だ。
 にもかかわらず二義的なものになりつつあるのは、書く作業に於いてわたくしの意識がもっと他のところへ向いているため。先月なかばに話していた、未完の長編小説のことかな? そう考えるのは当然だ、無理もない。されど君、否、なのだ。実は昨年の11月から書き続けて、現在も執筆進行中のものがある。擱筆の日がいつ来るのかは不明だ。本心をいえば、そんな日が来てほしくはない。
 この前400字詰め原稿用紙に換算してみたら、1,200枚を優に超えていた。これまでわたくしが完成させた小説やエッセイ、論文のすべてを足せば、枚数的にこれを超えることは可能だ。が、単独でこれを超える枚数の作品を、わたくしは書いたことがない。3本ある未完の長編小説のどれかが完成したらば、もしかしたら……と考えるが、それは所詮妄想の域を出ることがない。絵に描いた餅、とらぬ狸の皮算用。
 ──ここまで書いてきていうのも何だが、昨秋から営々と書き続けているその作品は小説ではなく、まぁ一種の日記なのだ。一種の、というからには通常の日記ではない。フルトヴェングラーの手記の如き代物でもない。荷風のように虚実綯い交ぜの日記でもない。いうなれば、思い出の記憶である。しあわせとかなしみの記録、と言い換えてもよい。
 行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って(Va, pensiero, sull'ali dorate)……わたくしの千々に乱れた心を統一し、安寧を与える愛を運んできておくれ。障害の一つ一つを崩してゆき、わが両の腕にあの人のあたたかな体と心をもたらしておくれ。
 おそらく両想いと云いつつ未だ交際始まらぬあなたを、いつまでも待っている。あの日の言葉に偽りはない。日記の底を流れる通奏低音は、それだ。
 この日記の終わりが幸福の報告でありますように。◆

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