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第1492日目 〈出エジプト記第15章:〈海の歌〉&〈マラの苦い水〉with本当にここまで来られた!〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第15章です。

 出15:1-21〈海の歌〉
 このことがあって後、イスラエルの民はこの御業を起こした主を讃える歌を唄った。エジプトを海の藻屑と為さしめた主に感謝し、威厳と力と慈しみを以て民を導く神なる主を讃美する歌を。
 アロンの姉なる女預言者ミリアムが、彼女に続いて女たちが、小太鼓を手に取って踊りながら唄った。威光を示して追っ手を海へ沈めた主を讃える歌を。

 「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。/誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。」(出15:11)
 「あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。/主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造られた所/主よ、御手によって建てられた聖所です。/主は代々限りなく統べ治められる。」(出15:17-18)

 出15:22-37〈マラの苦い水〉
 荒れ野に入って3日、一滴の水を得ることなくイスラエルは進んだ。ようやく到達したマラで得た水は、苦くて飲用に耐えられなかった。マラとは<苦い>という意味である。ゆえに民はモーセに不平を口にし、モーセは主に祈った。主が一本の木を示したのでそれを水へ投げこむと、苦かった水は甘くなった。
 そのマラの地で、主はモーセに掟と律法を与える。また、かれは試される。そうして、いった、――
 「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病いをあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」(出15:26)
 ――主により導かれる民の行く手には、エリムというオアシスの町があり、かれらはそこへ宿営した。

 主を讃え、主に感謝する一方で、間接的に主に対して反感を示し、その決定に異を唱えるようになったイスラエルの民の姿が、まるで合わせ鏡のように語られる章であります。偶然とはいえ、イスラエルの過去が集約され、栄光と悲惨に彩られた未来を暗示する言葉の並べられた第15章で本ブログの旧約聖書編が終わることは、なにやら皮肉と感じられてなりません。
 マラの事件は後々まで尾を引くことでもありますので、<こんなことがあった>ぐらいに覚えておけばよいと思います。



 ――12小預言書が終わり次第、聖書読書ブログの欠落部分を補う旨、予告した。あの瞬間は本気でも、不安だった。本当にそこまで辿り着くことができるのか?
 でも、なんとかここまで来られた。偏に読者諸兄の声なき支持のお陰と勝手に思うております。ありがとうございました。この瞬間、この文章を書いているのが奇跡のようだ。
 残すはこのあと約4年を掛けることになるであろう、続編と新約。それでも旧約とほぼ同じか少し足りない分量です。ここまで来たら「ヨハネの黙示録」の最後の節を目指して前進しましょう。
 この命が終わるのはそれまで待ってほしい。それまで迎えに来るな。◆

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第1491日目 〈出エジプト記第14章:〈葦の海の奇跡〉with2014年の読書目標〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第14章です。

 出14:1-31〈葦の海の奇跡〉
出エジプトを果たしたモーセとイスラエルの民は、主に命じられた通り、ピ・ハヒロトのそばで、バアル・ツェフォンの葦の海を望む場所に来て、宿営した。エジプト人が、ヘブライ人は大慌てして出発したのでろくに行程を計画することもままならなかった、だからいま荒れ野に行く手を遮られて立ち往生しているのだ、と思いこませるためである。
 策は練られ、功を奏した。心変わりしたファラオに率いられたエジプトの軍隊が、イスラエルを追ってくる。
 「しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出14:4)――斯く主が予告したままにファラオとエジプト軍は行動した。そうしてバアル・ツェフォンの近くに迫った。
 イスラエルの民が嗟嘆し、モーセを非難した。それに対してかれは、嘆くな、といった。神がわれらのために戦ってくれる、この先われらがエジプト人を見ることはないだろう。
 主はモーセの態度に立腹し、促した。急いでイスラエルを出発させよ。手を海に向かって伸ばし、目の前の葦の海を2つに割れ。露わになった海底を進んであなたたちは行く。が、追うエジプトは海底に沈んで死ぬ。――「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ暗な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」(出14:19-20)
 主に命じられたように海へ高く手を伸ばすと、終夜にわたって激しい東風が吹いた。海は大いに荒れ、波が高く立ち、やがて生まれた一本の筋を中心に徐々に海面は下降してやがて谷の如くになり、間隔を広げていった。そうやって露わになった海底は乾いて人が歩けるようになり、押し広げられた水の壁を左右に見ながらイスラエルの民は対岸目指して進んで悠希。
 夜明け前、すべてのイスラエルの民が渡り終えたのを確認すると、モーセは再び手を海へ向けて伸ばした。すると水の壁は崩れてあるべき姿へ戻ろうとした。エジプト軍は上下左右から襲いかかる水塊に呑みこまれて嬲られ、断末魔の悲鳴を残して一人の例外もなく死に、滅びたのである。
 無事に葦の海を渡ったモーセとイスラエルの民は、詳さにこの光景を目撃した。それは、かれらの神なる主がエジプトに対して行った大いなる御業であった。

<葦の海>が実際どの海をいうのかは定かではありません。紅海(スエズ湾)というのが一般的ですし、また苦湖やバルダウィル湖ともいいます。
 ピ・ハヒロトは「運河の河口」の意。葦の海をどこと定めるかによってその位置は変わりますので、現在ではどのあたりにあったのか未詳という他なさそうです。また、バアル・ツェフォンは「北のバアル」の意味で、バアル神殿があった地であろうと推察されます。
 本章は疑いなく「出エジプト記」のヤマ場の一つであり、デミル監督の『十戒』でも雄渾に描かれた場面であります。非キリスト者でも大概は知っている挿話でありましょう。が、モーセがこのときに及んでへっぴり腰になったことは、意外と知られていないようであります。チャールトン・ヘストン演じるモーセからはちょっと想像できませんね。



 わたくしが早く村上春樹の長編小説を読み終えたいのは、ドストエフスキーと太宰治の読書に戻りたい一心からゆえに他ならない。ド氏は『未成年』を読み直し、『カラマーゾフの兄弟』を読む。太宰は新潮文庫で約1/3が未消化。これを終わらせないことにはキングに戻ることも、クリスティに戻ることもできないのだ。
 2014年の読書目標、ド氏と太宰の完読消化ですね。昨年も叫んでいたようなような気がする、まず実施されねばならぬ読書の悲願でした。◆

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第1490日目 〈出エジプト記第13章:〈初子の奉献〉、〈除酵祭〉&〈火の柱、雲の柱〉with手持ち無沙汰なスタバでの時間〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第13章です。

 出13:1-2〈初子の奉献〉
 主の言葉;人であれ家畜であれ、イスラエルのすべての初子をわたしに献げよ。それはわたしのものである。

 出13:3-10〈除酵祭〉
 この過越を記念しなさい。あなたたちはアビブ(ニサン)の月のこの日、エジプトを出発した。その主の言葉をモーセが民へ伝えた。続けて、――
 “乳と蜜の流れる地”カナンへ導かれて入ったら、アビブの月に過越の儀式を行うように。即ち、酵母の入っていないパンを7日間食べ、7日目に主のための祭りをする。イスラエルの家と領土のどこにも酵母があってはならない。
 あなたたちは子孫に語り継ぎ、訊かれたら教えなさい。わたしがエジプトを出るとき主の行ったことがこれである。「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。」(出13:8-10)

 出13:11-16〈初子について〉
 イスラエルの人々で初めに胎を開く者はすべて、初子を主にささげなくてはならない。家畜についても然り。その場合、雄の初子はすべて主のもの、ろばの場合は小羊を以て代替として贖う。首は折れ。
 あなたの初子として生まれた男児は皆主のもの。将来子供たちに、なぜか、と問われたら、エジプトを見舞った最後の災い、即ち〈主の過越〉について語って教えよ。それゆえ、自分の息子の初子は全員主に犠牲としてささげ、必ず贖うのである。
 あなたはこの言葉を刻みなさい。

 出13:17-22〈火の柱、雲の柱〉
 さて。神なる主は出エジプトを果たした民をカナンへ導くにあたって、遠路を選び、歩ませた。というのも、大海を西に望むペリシテの街道にはエジプト軍が駐留していたからである。ゆえに主は民を迂回させ、葦の海に通じる荒れ野への道を歩かせた。
 モーセは宰相ヨセフの遺言を守り、かれの遺骨を携えていた(ex;創50:25)。
 ストコを発った一行は荒れ野の端のエタムに宿営。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(出13:21-22)

 整理すれば、除酵祭は過越祭のあと7日間続けられる祝いの祭り。この期間は酵母なしのパンを食べて出エジプトに際して主の行った御業の数々を忘れるな、エジプトでの奴隷生活を忘れるな、というのが趣旨です。
 ちなみにユダヤ教の三大祭りとは、過越祭と仮庵際、刈り入れの祭りを指す。除酵祭は入っていないようなので、くれぐれも混同されませぬように(自分への言い聞かせです)。



 変な気分であります。旧約聖書のノートは終わり、続編についてはまだしばらく時間がある(=休みたい、の同義)。間もなく閉店を迎える伊勢佐木モールのスターバックスにいても、本を読む以外することがなく正直手持ち無沙汰。
 これまで何年も当たり前のように行ってきた、聖書を読む何遍も読む、調べる、文章を書いて一編のブログ原稿に仕立てる、という作業がなくなってしまったことに違和感がある。奇妙な思いがする。突然仕事を奪われて閑職に回されるのはこんな気分なのだろうか、と、ありがたくもないシミュレーションを試みて暗澹とする。
 閉店時間が早くなって夜も7時を過ぎると、店内は閑散としてくる。空席も目立ち始め、夕方からいた客は消えてしまっている。マグカップに入っていたコーヒーは残りわずか。――ここで過ごす時間ももうすぐ永遠に終わる。しかし、生きる時間はまだまだ続く。◆

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第1489日目 〈出エジプト記第12章2/2:〈初子の死〉、〈エジプトの国を去る〉&〈過越祭の規定〉withがんばりますよ!?〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第12章2/2です。

 出12:29-36〈初子の死〉
 真夜中、主はエジプトの国ですべての初子を撃った。身分の貴賤に関わらず、エジプト人で子のある家庭から初子が撃たれた。国の遠近から大きな叫び声があがり、夜半の静寂を乱した。
 これを承けて遂にファラオがモーセとアロンを召し、とっととこの国から出てゆけ、民のすべてと家畜のすべてを連れて望み通りにこの国を出てゆけ、と命じた。エジプト人はこれ以上の災難が起きぬうちに、と、国内に寄留するイスラエル人に出発を急き立てた。
 このとき、イスラエルの民は酵母の入っていないパンの練り粉とこね鉢を携え、エジプト人には金銀の装飾品や衣類を求めて贈られた(かれらは斯様にしてエジプト人の物を分捕り品としたのである)。

 出12:37-42〈エジプトの国を去る〉
 遂に――遂にイスラエルの人々はエジプトの国を去る。そも最初の寄留から430年後のことだった。ちょうど430年目の日、かれらはラメセスからストコに向かって出発した。一行は総勢約60万人。但しこれは壮年男子の数であり、妻子は除いてある。これに雑多な人々が加わった。
 その瞬間の訪れはある意味、突然であったので、イスラエルの民は道中の食糧をまともに準備できなかった。件の酵母の入っていないパンの練り粉とそれ用のこね鉢だけを携え、肩に担いだが精々である。
 その日、主の部隊の全軍がエジプトを出発した。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」(出12:42)

 出12:43-51〈過越祭の規定〉
 主の過越を祝う過越祭の掟について、主がモーセとアロンに語ったこと。
 ・外国人や寄留者は過越の犠牲を食べることはできない。
 ・但し、割礼を受けてイスラエルの民と同じうなれば、、食べることができる。
 ・一匹の羊は一つの家族で食べ、肉の一部を持ち出すこと、その骨を折ることは駄目。
 ・過越は、イスラエルの共同体全体で祝わなくてはならない。
 ――人々は皆、モーセとアロンを通して主が語ったこれらのことを守り、従った。

 イスラエルは目的を果たした。最後の大きな災いが決定打となった。イスラエルにとって過越は感謝の祭りであろうが、エジプトには悪夢以外のなにものでもない。エジプトの歴史に出エジプトは記されていない、といいます。
 確かにイスラエルの出国はエジプトの為政者にとって不名誉な出来事でありましょう。と同時に、思い返すも忌まわしい出来事がそれに深く関わっているとなれば、歴史を隠蔽し闇に葬ることも当時に於いては是でありましたでしょう。歴史の記述とは起こった出来事をすべて正しく記すものである、というのは、今日を生きるわれらの勝手な思いこみでしかないことを、この事例を契機にして、よく肝に銘じるべきかもしれません。
 イスラエルの民以外で過越の犠牲を食べられる者については出12:43-45に、過越祭を祝える者は出12:48-49に、それぞれ記されております。
 ――荒れ野に出たイスラエルは飲み水の不足と食糧の乏しさに不満を募らせ、不平を口にし、モーセを責めるようになります。それが慌ただしくエジプトをあとにすることで満足に食糧も水も用意できなかった、ということが、〈エジプトの国を去る〉で説明されています(出12:39)。荒れ野を彷徨っている場面を読むときに思い出していただければ嬉しいです。



 2013年は一つの区切りがついた年なので、来年は<前進>をテーマに過ごしたいと思う。
 満身創痍になるのは承知している。それでも前に進むしかないときって、ありますよね。もう立ち止まったりしない。たとえ孤立無援になろうとも、長く続いた哀しみの末に生涯を終わることになったとしても、プラスマイナス0の人生を送るのだ。<君>はいらない。
 せっかくこうして生まれて来られたんだもの、なにかを残せなくても生まれてきて良かったな、と最後に思う人生を過ごしたい。LOVEがあふれ出すEVERYDAYが舞い降りなくても、ふん、淋しくなんかないもんネ。SMAP「This is love」聴いてがんばるモン!?◆

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第1488日目 〈出エジプト記第12章1/2:〈主の過越〉with町の記憶が消えてゆく〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第12章1/2です。

 出12:1-28〈主の過越〉
 最後に降る災いからイスラエルが免れるにはどうすればいいか。――それを教える主の言葉。
 ・この月を一年の初めとし、正月とせよ。
 ・家族ごとに子羊を用意せよ。それは傷のない1歳の雄でなくてはならない。
 ・子羊が用意できなければ山羊でも構わぬ。
 ・羊或いは山羊はその月の14日まで生かしておくこと。
 ・その月その日の夕暮れ刻、共同体の会衆が皆でそれを屠り、その血を取れ。
 ・犠牲の血をイスラエルの人々の家の入り口にある2本の柱と鴨居に塗れ。
 ・同じ日の夜、焼いた(犠牲の)肉と、苦菜を添えた酵母なしのパンを食べよ。
 ・羊か山羊の肉はどの部位も残さず食べよ。余り物は翌日焼き棄てよ。
 ・肉とパンを食べる際は腰帯を締めて靴を履き、杖を手にして、急いで食べよ。
 主の曰く、――
 「これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭として祝い、代々にわたって祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。
 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして行わなければならない。」(出12:11-17)
 ――モーセはイスラエルの長老全員を集めた。そうして主の言葉を伝え、斯く行うよう命じた。続けて、イスラエルはこのことを子孫に伝えて永遠に守らなくてはならない、といった。また、主が与えてくれると約束した嗣業の地に入った後も、この儀式を守らなくてはいけない。後の世代の子供たちにこの儀式の意味を訊ねられたら、「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われた」(出12:27)のだよ、と教えてあげなさい。
 民はこれを聞いてひれ伏して礼拝し、いまモーセとアロンを通じて語られた言葉を行うため、皆、自分の家に帰っていった。

 黙して傾聴せよ。わたくしが申し上げられるのは、その程度です。なんの感想や意見が必要でしょう?
 ヒソプという植物が出12:22にありますが、これは清めの儀式などに用いられるシソ科の植物。イスラエルの山野に自生し、『新エッセンシャル聖書辞典』に拠れば「夏から秋にかけて小さな淡紫色のくちびる状の花をつける」(P812)とのことであります。ダビデ王が詩にこの植物のことを歌っております(詩51:9)。



 子供の頃から馴染み親しんだ風景が消えてゆくのは淋しいものであります。
 街並みがいつまでも変わらないなんてことは望んでも不可能なのですが、なんだか自分の思い出が奪われてゆくような気がして、やるせないことこの上ない。嗟嘆しつつ、壊されてゆく過去を傍観するしかないのですね。
 再開発の名を借りた合法的な破壊行為に対抗する、フィニィの小説のような不思議な力がこの町にあれば良いと思う。再開発の済んだ端から転居してくる余所者が我が物顔でのさばり、秩序と落ち着きを奪い去ることもないのにな……。◆

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第1487日目 〈出エジプト記第11章:〈最後の災い〉withわが身わが心を強く律することがなによりも重要。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第11章です。

 出11:1-10〈最後の災い〉
 第十の災いは最後の災いとなる。それは最も恐ろしい災いとなった。
 主がモーセに、なおもう一つの災いをファラオとかれの国に降す、と告げた。災いを目の当たりにしたファラオはあなたたちを一人残らず追い出す。イスラエルの人々に伝えよ、そのときあなたたちは隣人なるエジプト人に金銀の装飾を求めなさい、と。
 ――主は自分の民が、エジプト人の好意を得られるように慮った。またモーセその人もエジプト人から尊敬されていた。
 モーセはファラオの前に立ち、主の言葉を告げた。曰く、――
 わたしは真夜中近く、エジプトのなかを進む。それによりエジプト国中の初子は皆、死ぬ。王の子であろうと奴隷の子であろうと関係なく、すべての初子は死ぬ。嘆きと哀しみの叫び声が国中から聞こえてくることだろう。これは、後にも先にも経験することのない災いである。以上、主の言葉。
 但し、イスラエルの人々に対しては番犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても吠えたり唸ったりしない。「あなたたちはこれによって、主がイスラエルとエジプトを区別しておられることを知るでしょう。」(出11:7)――王よ、あなたのすべての家臣がわたしにこういってお願いするでしょう、どうかイスラエルは全員エジプトの国から出て行ってください、と。そうしたらわたしどもはこの国から出て行きますよ。以上、モーセの台詞。
 そのあと、主がモーセにいった。ファラオは耳を傾けない、わたしはエジプトへ大きな奇跡(わざわい)を起こす。
 心を頑なにするばかりのファラオはこれを聞かされても、まだイスラエルを去らせない。

 主/モーセからの最後通牒です。それでもファラオは心を頑迷にするばかりだ。
 最早モーセは出エジプトの近いことを、それが確かに行われる、と知っている。モーセの台詞にそうした察知を滲ませてみたのですが、どうでしょうか? 失敗しているかな。
 次章が過越について語られる章ということで、まだイスラエルは酵母なしのパンについてなどなにも知らされていない状況ですが、このあと慌ただしく物語内の時間は経過してゆきます。



 今日から「トビト記」を読み始めました。書きこみしたりメモを執ったりはせず、まずは最後まで読むことが最優先事項。旧約聖書続編は見たところ過半が歴史書に分類できそうなので、そうした点では旧約聖書後半よりは進めるのが楽かな、と早合点しております。
 順調に進めば続編は2014年中に終わるのでしょうが、そうは問屋が卸さないことを誰よりもわたくし自身が知っている。怠惰と欲望に搦め捕られぬよう、わが身わが心を強く律すること。そうでなくては終わらせられるものも終わらせられなくなってしまう。「わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。」(イザ24:16)◆

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第1486日目 〈出エジプト記第10章:〈いなごの災い〉&〈暗闇の災い〉with映画『クロユリ団地』を観ました。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第10章です。

 出10:1-20〈いなごの災い〉
 第八の災いは、いなごの災いである。それに先立ち、主がモーセにいった。わたしが王の心を頑なにするのは、かれが頑迷になったがゆえにエジプトが如何なる災いに襲われ、エジプト人が如何に苦しんだか、あなたによって後の世代へ伝えさせるためである。さあ、行ってファラオに告げよ。いつまでわたしの前に身を低くするのを拒むのか、わが民イスラエルを去らせぬならばわたしは明日お前の領土の全域へいなごの群れを送りこむ、と。かつて雹によって荒れ果てたものの未だ健やかであるエジプトは、いなごの群れに覆い尽くされて滅びよう。
 モーセとアロンはファラオの前に行き、主の言葉を伝えて飄然と去った。誰もあとを追わなかった。が、一人ファラオの家臣が主君に進言した。曰く、「即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」(出10:7)
 これを承けてファラオはモーセとアロンを呼び、去って荒れ野でヘブライ人の神に仕えるがいい、といった。お前たちの前途には災いがあることを覚悟せよ。そうして行くのは男たちだけだ。それがお前たちの望んだことだ。――そういって王は、兄弟を追いだした。
 斯様なことがあったあと、主がモーセにいった。手をエジプトの大地へかざし、いなごを呼び寄せよ。モーセはそうした。すると東風が一昼夜にわたって吹きつけ、翌る日、風に乗っていなごが大量に飛来した。それはかつて経験したことのない程の数でエジプトを覆い、全域に留まり、地のあらゆる草、雹害を免れたすべてのものを喰い尽くした。いなごによってエジプトの大地は黒くなった。
 この事象を前にファラオはモーセとアロンを呼んで、いった。曰く、――
 「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。」(出10:16-17)
 モーセはファラオの許を退出すると、主に、このいなごの災いを退けてやってほしい、と祈った。主はこれを聞いて風を西から吹かせ、いなごの群れを葦の海に追い払った。斯くして国土は荒れ果てたけれど、それでも国は残った。災いが去ったせいで王は再び心を頑なにし、モーセたちとの約束を破った。

 出10:21-29〈暗闇の災い〉
 第九の災いは、暗闇の災いである。主がモーセに命じて、エジプト全土へ3日間にわたる暗闇を臨ませた。目の前の人も、眼前にかざした自分の手も見えず、居場所を立って離れることもできないぐらいの深い暗闇。が、イスラエルの人々がいるところには、どこにでも光があった。
 ファラオがモーセとアロンを呼びつけ、去れ、妻子も連れてゆけ、といった。但し家畜、羊と牛は置いてゆけ。モーセはこれに「否」をいい、こう答えた。いいえ、エジプト王よ、あなたからもいけにえと焼き尽くす献げ物を頂戴します。つまり、あなたの羊と牛、あなたの家畜です。荒れ野にはわれらの家畜もあなたの家畜も連れてゆきます。というのも、どれを献げ物とすればよいか、そのときになってみないとわからないからです。
 心を頑なにしたファラオが兄弟を立ち去らせようとした際の台詞;二度とわたしの前に姿を現すな。次に会ったら生かしてはおかぬぞ。
 「モーセは答えた。『よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません。』」(出10:29)

 主はモーセを媒介にして、巧みにファラオを操り、自分があらかじめ定めた未来へと導く。次が最後(の災い)になる、とモーセも察していたのだろう。或いは記されていないだけで、既に教えられていたのかもしれません。ファラオも本心か、操られてか、斯く口走った。ゆえにモーセも強硬な態度を取ることができたのだろう。モーセが放った一言は短くも強烈である。



 『クロユリ団地』を観ました。2013年最凶ホラーと散々公開時のCMで煽られていましたが、実際のところ、これ程肩の力を抜いてのんびり観られるホラーはまさしく<珍>。出演者の演技について語るべき言葉は持たないけれど、物語の進む先が予測でき、その期待を裏切らぬ様は珍重すべき滑稽ぶり。
 クリスマスやお正月にみんなでコタツに入り、ミカンとお茶で楽しく団欒しながら鑑賞するには最適の一本といえます。レンタルするなら在庫切れにならぬうちに、お早めに確保いただきたい。でも、序章って必要あるの?◆

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第1485日目 〈出エジプト記第9章2/2:〈雹の災い〉with別離、カウントダウン続行中。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第9章2/2です。

 出9:13-35〈雹の災い〉
 第七の災いは、雹の災いである。主はモーセにファラオ宛の言葉を託した。曰く、――
 「今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害を降す。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。あなたはいまだに、わたしの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしない。」(出9:14-17)
 わたしイスラエルの神は明日の同刻、エジプト全土に、国が始まって以来経験したことのない甚だ激しい雹を降らせる。さあ、人を遣わしていま野にいる下僕と家畜を避難させよ。家に連れ戻されない者は皆、雹の犠牲に遭って死ぬことだろう。――以上、主の言葉。
 これを聞いていた家臣の一人が、ヘブライ人の神を畏れて自分の下僕と家畜を屋根のあるところへ避難させた。
 主はモーセに、手を天に向けよ、と命じた。すると稲妻が大地へ向けて走り、落ち、甚だ激しい雹が降り始めて大地を打った。雹は野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。勿論、雹も雷も、主の民イスラエルが住まうゴシェン地方には降らなかった。
 ファラオはモーセとアロンを呼んで、神に祈ってこれを降り止ませるよう頼んだ。お前たちを望むままにこの国から去らせよう。今度ばかりは自分が間違っていた。
 モーセは諾い、主に祈ることを請け負った。が、かれは王の言葉を信じなかった。「しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるには至っていないことを、わたしは知っています。」(出9:30)
 ――斯くして雹と雷は止んだ。穂の出る時期を迎えていた大麦と、ちょうど蕾が開く時期であった亜麻は、いずれも壊滅した。ファラオはまたもや過ちを重ねて、心を頑なにして、イスラエルを去らせなかった。主が予告した通りである。

 エジプトという国に雹が降る、というのは、ちょっと想像しがたい光景である。本章の記述に疑問があるわけではない。稀には降るだろう。生きている間、一度も見たことのない人だっているだろう。そんな人が生まれて初めて雹を見て、草木を打ち砕き、大地を穿つ様を見たら、この世の終わりがやってきたと思ってしまうかな、と想像します。
 「わたしは憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。」(エゼ13:13)――雹は神なる主の怒りを示す。



 かの婚約者とは別離を決意した。職業に偏見を持っていないわけではない、といえば嘘になるだろう。口ではなんといおうとも、指さされて斯く非難されれば言葉を継ぐことは出来ない。
 でも、いまはまだ関係継続と相成っている。顔と顔を付き合わせて話し合わねばならぬ事がある。受け取らねばならないものもある。すべてが終わるのはそれからだ。カウント・ダウン続行中……。◆

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第1484日目 〈出エジプト記第9章1/2:〈疫病の災い〉&〈はれ物の災い〉withちかごろの事情〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第9章1/2です。

 出9:1-7〈疫病の災い〉
 第五の災いは、疫病の災いである。主はモーセに、ファラオに告げよ、といった。イスラエルを去らせぬなら、主の手が極めて恐ろしい疫病をエジプト全土に臨ませる。これにより、エジプト人の家畜は死ぬ。しかし、イスラエルの家畜が疫病に罹って死ぬことはない。わたしは明日、時を定めてこの地でこの災いを実行する。
 モーセとアロンはファラオの前に出てこれを伝えたが、王はこれを無視した。――果たして翌る日の朝、エジプト人の家畜――馬、ろば、らくだ、羊、牛――は死んだ。それでもなお、ファラオは心を頑なにしたままだった。主の予告通りである。

 出9:8-12〈はれ物の災い〉
 第六の災いは、はれ物の災いである。主はモーセに、竈(かまど)の煤(すす)を両手一杯に持ってファラオの前に出、それを宙に向かって放れ、といった。それはエジプト全土を覆う細かい塵となり、エジプト人とかれらの(前の災いを免れた)家畜の皮膚に生じるだろう。
 モーセとアロンはファラオの前に出て、主の命じた通りに実行した。するとそれは確かに塵となってエジプトの国を隈なく覆い、膿が生じるはれ物となってエジプト人と、前の災いを免れた家畜に降り注ぎ、皮膚に膿を生じるはれ物となって襲ったのだった。王の魔術師も秘術を以てこれに対抗するところがやはりはれ物に襲われて、なにも出来ず倒れた。
 それでもファラオは心を頑なにしたままである。まさに主の予告通りであった。

 疫病は主の降す災いのなかでも、比較的われらがこれまで目にしてきたものであります読むたびに思うのは、それが主の計画を阻む――それの前に立ちはだかる存在を排除するために行われる審判の一手段であろうな、ということ。たぶん、本章がイスラエルの敵役が疫病という災いに見舞われる最初でありましたでしょう。
 とはいえ、勿論まだ敵の本丸に降されたわけではない。が、それは或る意味で本丸に降されるよりも手痛いものであった。家畜に災いが見舞うということは、即ち国の経済や労働に直結する痛みであるのですから。
 最近よく読んでいる『聖書大百科[普及版]』に拠りますと、このような神の手による疫病は天からの全面戦争の宣告であり、こうした争いは神盟裁判と見なされる、という(P77)。神盟裁判とは神の証しにより審判が下される裁判のこと。それを踏まえて旧約聖書を読んでゆくと、全編がこの神盟裁判に彩られた書物であることがわかりますね。時としてその矛先は、如何なる形を取るにせよ、敵のみならず自分の嗣業の民へも向けられる。成る程、かの時代に於いて<神の前に万人は平等>とはいいもいったりであります。



 ちかごろ一書を分割して更新することが多いのは、単に分量の問題ゆえだ。おまけにこのところ遅く帰る日が多いため、その方が明日に負担をかけずに済む、という利点もある。ご理解いただければ幸いです。もっとも、以前の状態――歴史書に差し掛かっていた時分?――に戻っただけだ、といえばそれまでですが。ハイ。◆

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第1483日目 〈出エジプト記第8章2/2:〈ぶよの災い〉&〈あぶの災い〉withメタボな生活から簡素な生活へ!〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第8章2/2です。

 出8:12-15〈ぶよの災い〉
 第三の災いは、ぶよの災いである。主によりモーセはアロンにいった。杖を取れ。土の塵を打ってぶよに変え、エジプト全土へ散らせて広げよ。かれはそうした。
 例によって王の魔術師が秘術を以てこれに対抗した。が、まるで為す術はなかった。魔術師は王に進言した、これはヘブライ人の神の指の働きです、と。
 けれどもファラオが心を頑なにしたままなので、イスラエルの神は次の災いを用意した。

 出8:16-28〈あぶの災い〉
 第四の災いは、あぶの災いである。水辺に来たファラオを前にモーセが、王よ、われらの神なる主からあなたへの言葉です、といって曰く、――
 「もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別して、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる」(出8:17-19)と。
 そうして主は予告通り、翌る日にこれを実行した。斯くしてエジプト全土は荒れ果てた。
 ファラオがモーセとアロンを呼んで、いった。お前たちの望み通りに去らせたりはしない。が、国内でお前たちの神のため犠牲をささげることは許そう。
 否、とモーセは堅く拒んだ。われらの献げ物をエジプト人はとても厭います。それが理由でエジプト人がわれらを殺さないなどとどうして保証されるでしょう。われらは3日の道程を行き、荒れ野で主のための犠牲をささげねばなりません。これは譲れぬ要件です。
 ファラオが諾い、去れ、行って神に献げ物をせよ、但しあまり遠くへ行くことはならぬ、お前がお前の神に祈るとき、わたしのためにも祈願してくれ。
 モーセは諾い、ファラオに念押しした。祈りますが、約束は違えないでください。そうしてかれは主に祈る。翌日、あぶはエジプトから飛び去った。
 しかし勿論、ファラオがイスラエルをエジプトから出すつもりはなかった。あぶが飛び去ったことで災いは一段落した、と判断したファラオはまたしても心を頑なにした。主が予告した通りである。

 「掌を返すように」なる表現があります。主によりそうさせられていた部分なきにしもあらずですが、このときのファラオの態度がまさしく斯く表現するに適したものであることはいうまでもないでしょう。でも、案外と為政者にはそうした部分があるかもしれない。うーん、人間って複雑で単純だ。



 CDを10,000枚から200枚に減らすことに成功した現在、次なる企みごとに着手する準備を淡々と進めている。むろん、蔵書の処分だ。
 企むことは楽しい。実作業は楽しくない。悩みと怒りと諦めばかりが心を重くする。でも、やらなくてはいけないんだ。メタボな生活から簡素な生活へ。外見は身軽に快適に、内面は汲めども尽きぬ泉に。
 そんな未来の自分を思い描くのは悪いことではない。どう?◆

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第1482日目 〈出エジプト記第7章2/2&第8章1/2with永井荷風『珊瑚集』より。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第7章2/2と第8章1/2です。

 出7:14-24〈血の災い〉
 第一の災いは、血の災いである。主はモーセに、アロンへこう伝えよ、といった。「杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい。」
 ナイルの岸辺にてモーセとアロンは、ファラオとその家臣と会った。かれらの前で件の杖を持ってナイル川の水面を打つと、水はたちまち血に変わった。魚は死に、川は悪臭を放ち、民は飲み水を失った。
 王の魔術師も秘術を用いて、同じことをやってみせた。それゆえファラオは心を頑なにし、またこの災いについて気を留めることもなかった。
 エジプト人は飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。これまで使ってきたナイル川の水が飲めなくなったからである。

 出7:25-8:11〈蛙の災い〉
 第二の災いは、蛙の災いである。主はモーセに、アロンへこう伝えよ、といった。「杖を取って、河川、水路、池の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの国に這い上がらせよ。」(出8:1)
 アロンはそれらエジプトの水の上に手をかざした。すると、蛙が這い上がってきて、エジプト国中を覆った。蛙はファラオの王宮を襲い、寝室に侵入して寝台に上がった。家臣や民の家も同様に襲われた。蛙は王にも家臣にも民にも襲いかかった。
 王の魔術師も秘術を用いて、同じことをやってみせた。それゆえ、ファラオはモーセとアロンに、お前たちの神に祈ってこの蛙の群れを退かせよ、といった。そうしたら望み通りヘブライ人は国から去らせ、荒れ野で犠牲をささげることを許そう。その代わり、明日には蛙の群れを退かせよ。
 モーセは諾い、祈った。蛙は建物からも土地からも死に絶えた。国中に悪臭が満ちた。
 災いが一段落したのでファラオは心を頑なにして、言を翻し、イスラエルを去らせなかった。主が予告した通りである。

 ファラオは自分に直接害が及ばぬと見るや、或いはそれが去ったとわかると、すぐさま翻意して約束を違えた。もっともそれがファラオにとって、<約束>という軽んずべからざるものであったかは甚だ疑問だけれど――。
 ここからしばらく災いに関する挿話が続きます。同工異曲でときには退屈になるかもしれないけれど、しばらくお付き合いください。正直、ここのノートを書くのは気が重かったです。



 ちかごろ永井荷風の訳詩集『珊瑚集』を寝る前に読むことが多くなっている。就寝前の一服の清涼剤、現実逃避。幾らでも形容できよう。読むたびに胸打たれる詩に出会うのだが、昨夜は伯爵夫人マチユウ・ド・ノワイユの「ロマンチツクの夕」の一節に吐息を洩らした。曰く、――
 「われ小暗(おぐら)きリラの花近く、やさしき橡(とち)の木陰に行けば、見ずや、いかで拒むべきと、わが魂はさゝやく如し。/よろづの物われを惑わしわれを疲らす。行く雲軽く打顫(うちふる)ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来(きた)る。」
 無性に狂わせられる詩です。定家卿の言を借りれば、まさに<握玩>の一篇。
 『珊瑚集』には『海潮音』や『月下の一群』同様、こんな風に愛唱したくなる詩が沢山あって、なかなか巻を閉じることが難しく、つい夜更けまで読み耽ってしまう。困った一冊であります。◆

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第1481日目 〈出エジプト記第6章3/3&第7章1/2:〈アロンの役割〉&〈アロンの杖〉withレンタルしても観られないDVDがある。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第6章3/3と第7章1/2です。

 出6:28-7:7〈アロンの役割〉
 主がモーセに、ファラオにわたしの言葉を伝えよ、といった。
 しかし、かれは、唇の割礼を受けていない者がどうして王に神の言葉を伝えられましょうか、といって未だ抗ったのである。
 重ねて主がいった。曰く、――
 あなたの代弁者としてアロンを立てよう。兄にわたしの言葉を教えよ。そうすれば、かれはエジプト王にわたしの言葉を伝える。
 さりながらわたしが王の心を頑なにするから、説得はそう容易いものではないだろう。それゆえ、わたしはこの国に大いなる災い/審判を起こす。イスラエルは、あなたに先導されてエジプトを出る。そのとき、エジプトの人々は、わたしが主であることを知る。
――と。
 モーセ(80歳)とアロン(83歳)はファラオの宮廷に向かった。

 出7:8-13〈アロンの杖〉
 モーセとアロンはエジプト王ファラオへ頼んだ。エジプトに寄留するイスラエルを、歩いて3日の道程にある荒れ野へ行かせてください。荒れ野でわれらの神のため犠牲をささげさせてほしいのです。
 が、ファラオは首を縦に振らない。3日と雖も貴重な労働力をその間削がれるのが惜しかったからである。
 アロンが進み出て、所持していた杖を投げた。それは蛇に変わった。王の魔術師も秘術を用いて自分の杖を蛇へと変えてみせた。すると、アロンの蛇が魔術師の蛇に近附き、これを呑みこんだ。イスラエルがエジプトを喰らったのである。
 「しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。」(出7:13)

 ――斯くして主による10の災いが、このあとエジプトを見舞うことになる。

 荒れ野へ行かせた奴隷は二度とエジプトへ戻ってこないだろう。だからファラオはなんとしてでも貴重な労働力を手放すまいとした、幾度もの災いにエジプトが襲われようとも。
 それが主の采配であるのをわれらは知っている。が、そうでなくともファラオには、国を安定させるために安価で潰しの効く労働力を常時必要だった。労働力はあればある程いい。多量の人員を投入して大きな事業を行うことも可能だ。外国との戦争になったときも数の論理で勝利を収めることもできる。むろん、犠牲となるのは使役されるイスラエルだ。
 イスラエルの奴隷時代を為政者や政府の側から見てみると、また違った物語が紡がれることでありましょうね。



 TSUTAYAで借りるDVDは3枚が限度です。けっきょく、ガンダムSEEDは観ずに返却することになった。それはともかく、3泊4日で1枚100円ならもっと頻繁にかつ有効に利用できるのになぁ。
 利用のし易さという点について、各店舗の方にはもう少し熟慮いただきたい。テナント料など頭の痛い事情があるだろうことは重々承知の上で、敢えて一言お願い申しあげる。◆

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第1480日目 〈出エジプト記第6章2/3:〈モーセの使命〉with昔の歌を聴くと理由なく情が揺すぶられるときがある――〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第6章2/3です。

 出6:2-13〈モーセの使命〉
 神はいった、――かつてわたしはアブラハムとイサク、ヤコブの前に現れて、当時かれらが寄留していたカナンを所有地として与えると約束した。そうしていまわたしは異邦の地で重労働に苦しむわが民の叫び声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
 モーセよ、イスラエルの人々にいいなさい。主であるわたしは過酷な重労働からかれらを解放する。約束したかの地へ導き、そこを所有地としてかれらへ与える。
 「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(出6:6-8)
 ――モーセは主にいわれた通りイスラエルの人々に語った。が、かれらは重労働に精力も意欲も削がれていたので、モーセの話に耳を傾ける余裕がなかった。
 主はいった。――ファラオのところへ行き、わが民を国から去らせるよう説き伏せよ。
 ――モーセはこれに抗い、訴えた。同胞でさえ耳を傾けようとしないのに、どうしてファラオがわたしの話を聞き入れましょうか。わたしは唇に割礼を受けていないのです。
 それでもなお主はモーセとアロンに語った、イスラエルの人々とエジプト王ファラオに関わる命令を。即ち、イスラエルの人々をエジプトから連れ出してかの地へ導け、という。

 出6:14-27〈モーセとアロンの系図〉
 兄弟の系図は以下の通り。
 モーセとアロンの父はアムラム、母は父の叔母ヨケベド。アムラムはケハトの子で、ケハトの父はレビ。即ちヤコブ/イスラエルの息子である。アムラムもレビも137年生きた。
 アロンはアミナダブの娘エリシェバを妻とし、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという子供を作った。内、エルアザルはプティエルの娘の一人を妻とし、2人には息子ピネハスが生まれた。
 ――主がイスラエルの人々を(部隊ごとに)エジプトの国から導き出すよう命じ、これを実行するためファラオを説得する役に任命したのは、このモーセとアロン兄弟であった。

 <そのとき、かれらはわたしが主であることを知る>(出6:7)――預言書を既に読んできたわれらにはお馴染みの表現、お決まりの台詞ですね。
 この言葉が記される本書と預言書の当該箇所に共通するところがあるとすれば、不従順な民に対して<御業>を示すことで、<わたし>がイスラエルの神なる主であるのを問答無用で理解させる点でしょうか。不思議とこの一言には懐かしさと畏れの念を抱かされます。
 そのモーセとアロンの系図ですが、ここにはルベンやシメオン、メラリの系図も記されております。が、煩雑になるばかりと判断して省略したことをお断りしておきます。ゆえにモーセ兄弟の系図に絞って記した次第ですが、さて、ここで疑問が一つ。なぜ姉ミリアムの名が「出エジプト記」には記されず「民数記」には記されるのでしょうね?



 なぜなのか、吉田拓郎の「落陽」を聴いていると自然と涙が流れてきて、やたら人生に対してハングリーになるのは? おまけに、無性に空へ向かって叫びたくなるんだ。
 みやげにもらったサイコロふたつ/手の中でふれば/また振り出しに戻る旅に/陽が沈んでゆく(吉田拓郎「落陽」)◆

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第1479日目 〈出エジプト記第5章&第6章1/3:〈ファラオとの交渉〉withあなたのお願い事を聞かせてください。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第5章と第6章1/3です。

 出5:1-6:1〈ファラオとの交渉〉
 イスラエルの長老たちを説得したモーセとアロンは、そのあとファラオの前に出て、いった。イスラエルの神がわたしの前に出現して、こういいました。わたしの民を3日の道程にある荒れ野へ行かせて、わたしのための献げ物をささげる祭を行わせよ、と。それができないと、わたしたちは疫病か剣で滅ぼされてしまいます。
 ヘブライ人の神なぞ知ったことか。ファラオは憤って、そういった。どうして奴隷を労働から引き離さねばならぬのか。エジプトの人口が増えているのに、どうしてヘブライ人に労働をやめさせようか。さあ、お前たちも早く自分の仕事に戻れ。
 その日、ファラオはイスラエルの民を追い使う者と下役の者に命じた。今後、ヘブライ人にレンガ作りのための藁(わら)を支給するな。藁はかれらに探させよ。一日の仕事量を減らすことなく、生産性を落とすことなく、かれらにレンガを作らせよ。連衆は根が怠け者にできているのだ。だから仕事をサボリ、どうか自分たちの神に献げ物をささげさせに行かせてほしい、などと戯れ言を抜かすのだ。厳しく当たれば偽りの言葉に心を寄せることもなくなるであろう。
 ファラオの命令はただちにイスラエルの民へ伝えられた。一日の仕事量が予定に達しないと、イスラエルの人々の下役の者は(エジプト人の)追い遣う者に打たれた。
 それは過酷な重労働であった。或るとき、下役の者らが立ってファラオの前に出た。
 どうして王様は僕にこんなことをされるのですか。かれらはファラオに訴えた。間違っているのはあなたの民の方です。
 これにファラオは憤怒した。この怠け者どもめが。いますぐ戻って働け。割り当てられた量のレンガは必ずその日のうちに仕上げることは忘れるな。
 ――このファラオの言葉で、下役の者らは自分たちが苦境に陥ったのを知った。かれらは宮廷から出たところに立っていたモーセとアロンに駆け寄り、抗議した。あなたたちのせいだ。あなたたちのせいで、われらは王にも家来にも嫌われてしまった。われらを屠る剣を渡したも同然だ。
 モーセは主の許へ帰り、いった。ファラオはますますわれらを苦しめているというのに、なぜあなたはご自分の民を救おうとはされないのですか。
 あなたはもうすぐわたしがファラオに降す災いを見ることになる。そう主が答えた。わたしの強い手により、かれはわが民を国から追い出すことだろう。

 このあと何度も続くファラオとの交渉の最初であります。このまま読み進んでいけば、基本的にモーセ&アロンとファラオの立ち位置、態度に変化はないことにお気附きいただけましょう。
 イスラエルの下役の者たちがいうた台詞、かれらにわれらを屠る剣を渡したも同然、とは、逆にいえば、この先われらイスラエルはエジプト人になにをされても可笑しくない、ということ。
 つまり、生殺与奪権を相手方に与えてしまった。イスラエルの人々が置かれていた状況を余すところなく語り得た台詞であるように、さんさんかには思われてなりません。



 あなたのいちばんのお願い事はなんですか? 振り向いて笑ってくれたなら、それはとってもうれしい出来事に違いない――歌おう、感電する程の幸せを!!
 お願い事、……わたくしは<再会>です。この季節になると必ず思い出す人、
 生涯添い遂げたく思うたった一人の存在。シューベルトの年に出逢ったかの人との。

 ――僕らずっと共に生きよう、永遠なんていわないからさ、鼓動止むそのときまで。SMAP「STAY」より◆

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第1478日目 〈出エジプト記第4章2/2:〈モーセ、エジプトに戻る〉with〈結縁〉、〈家庭〉、〈幸福〉について、一言だけ。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第4章2/2です。

 出4:18-31〈モーセ、エジプトに戻る〉
 モーセは舅の許可を得て(「無事で行きなさい」とエトロ/レウエルはいった)、妻子を伴いエジプト向けてミディアンの地を発った。
 もうあなたの命を狙う者はエジプトにはいない、皆死んでしまった、と主がいった。続けて、――
 わたしがあなたへ授けた数々の奇跡を、心してファラオの前で行うように。しかしわたしは王の心を頑なにするので、かれは容易に首を縦に振らないだろう。そうしたらあなたはファラオに、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子らを去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう」(出4:22-23)と伝えなさい。
 ――旅は続いた。或る場所に泊まったとき、主がモーセを殺そうとした。それを妻ツィポラが制した。傍らに眠る息子の包皮を石刀で切り取って夫の足に巻き付け、かれはわたしの血の花婿です、と叫んだ。それにより主はモーセを離した。ツィポラはそのとき割礼ゆえに<血の花婿>というたのである。

 主がアロンに命じた。荒れ野に行って弟と再会せよ。アロンは従い、兄弟は神の山ホレブで再会した。
 モーセは主の言葉と、命じられたしるしについてのすべてを兄アロンに伝え教えた。かれらは連れ立ってエジプトへ戻り、イスラエルの長老を集めた。そうしてアロンがモーセに代わって、かれらの父祖の神なる主の言葉を伝えた。はじめ長老たちは信じなかったけれど、モーセの行う数々の奇跡によって信じるに至ったのである。
 「また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」(出4:31)

 よかった、と安堵させられる描写が最後にあります。ヨセフ逝って約300年が経ち、重労働を課せられてその日の生活に追われる身となろうとも、エジプトのイスラエル人たちは自分たちの父祖の神なる主を、それを敬う心を忘れてはいなかった。もっとも、そのためにはモーセが行う幾つかの奇跡を見なくてはなりませんでしたが……。この信仰の復活があってこそ、初めて出エジプトが可能となるのです。
 ミディアンを出発したモーセに主が語りかけた言葉はこのあと、ファラオとモーセが出エジプトの交渉をするにあたって基調となるところでもあります。為、頭の片隅で結構ですので留めておいていただければ幸いです。
 ツィポラの割礼の件については正直よくわかっておりません。今一つ理解し切れていないところがある。ここは宿題としてしばらく考えてみようと思います。



 <結縁>、<家庭>、<幸福>。望んでもゆめ手に入れられぬ3つを並べてみた。◆

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第1477日目 〈出エジプト記第4章1/2:〈使命に伴うしるし〉with新しいノートを使い始めました。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第4章1/2です。

 出4:1-17〈使命に伴うしるし〉
 召命を受けてなおモーセはためらい、これに抗った。イスラエルの同胞がどうやって信じましょう、わたしに主なる神が現れて斯く命じたなどと?
 逡巡するモーセに主がいった。杖を地面に投げてみよ。すると杖は蛇に変わり、モーセが触れると杖に戻った。懐へ手を入れて出してみよ。するとモーセの手は重い皮膚病に罹っており、もう一度懐へ手を入れてみるとそれは治っていた。――主がいった。民の前でこうすれば、かれらは確かにあなたがイスラエルの神に会ったのだ、と信じるようになる。
 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。」(出4:8)
 が、それでもかれらが信じぬなら、かれらの目の前で、ナイル川の水を乾いた地面へ撒くがよい。すると水は血に変わるだろう。斯様にしてかれらはあなたの前に、かれらの先祖の神なる主が顕れて語ったことを信じるようになる。
 主にそう説かれてなおモーセはためらい、これに抗った。わたしは弁が立つ者ではありません。イスラエルの同胞を如何に説得しろというのですか。わたしは口が重く、舌が重い者なのです。
 逡巡するモーセに主がいった。人間に口と耳と目を与えたのは誰か。他ならぬこのわたしではないか。行け、わたしはあなたと共にある。語るべき言葉をあなたに教えよう。
 ――それでも態度の煮え切らぬモーセに主が怒って、いった。曰く、――
 なにをためらうのか。あなたにはレビ人の兄アロンがいるではないか。かれはいまあなたに会おうとエジプトを発ち、ここへ向かっている。かれは弟との再会を喜ぶであろう。再会したらあなたはかれに、よく話して語るべき言葉を託しなさい。わたしはあなたの口、かれの口と共にある。為すべきことをあなたたちへ教えよう。
 アロンはモーセに代わってイスラエルの民に語る。アロンはモーセの口となり、モーセはアロンに対してわたし主なる神の代わりとなる。モーセよ、あなたはこの杖を手に取り、(先程見せた)しるしを行うがよい。――主の言葉。

 モーセは慎重な人物なのでしょうか? それとも、臆病が先に立つ人なのでしょうか? たぶん、石橋を叩いて渡らず、その前に考えに考えすぎて結局渡ることができなくなってしまうタイプの人であろう、と推測できます。それだけにひとたび決意したら硬い意思と不屈の信念でもって事に当たり、責任を果たすタイプでもある。
 神は成る程、最善の人選を行ったわけであります。かれでなくては出エジプトは果たされず、その後の歴史はいまわれらが知るような形では存在しなかったでありましょうね。



 昨日の分の原稿を書き終えたところでノートが終了した。無印良品のダブルリング・ノートB5サイズ、80枚の表紙が厚手のボール紙で出来ている――本ブログでも何度か言及したことのあるものです。それが昨日で終わった。ちょうど切りのよいところであったのが幸いかな。
 ノートが後半1/3になったあたりから、左ページに書いているとリングが邪魔に思うときがあったから、次こそは無線綴じのノートで原稿を書く、と決めていた。それは固い決意であるはずだった。が……いざ無線綴じのノートを使ってみたらどうにも勝手が異なり、却って書きづらい。こんなはずじゃぁ、なかったんだけれどな。
 結局桜木町の無印良品に飛びこんで、同じダブルリング・ノートを買いましたよ。そうして再びカフェに籠もって原稿の続きを書きました。右手にリングが当たってやっぱり、いらっ、とすることはあるけれど、馴染んだノートがいちばんということなのでしょうね、きっと。
 ――と、こんな風に書きましたが、一点だけ嘘をついています。どこでしょう? ……わかるわけないですよね、ごめんなさい。「同じ」ノートじゃないんです、買ったのは。無印良品のダブルリング・ノートではあるのだが、枚数が違うのよ。もっと薄い奴です。おまけに罫線入り。
 これまでのノートが品切れしていたわけではないのです。ただ、罫線入りノートで同じように原稿が書けるのかな、と試してみたい気持ちに駆られたのです。それだけ。消しゴムも使わずシャープペンでどんどん書いてゆく、間違ったり訂正したいときは二重線を引くか塗り潰すかして、とにかくぐちゃぐちゃ書いてゆく。それも結構小さい字で。
 ――こんな風な書き方を罫線入りのノートで試してみたくなった。それが真相です。
 たぶん新しいこのノートは旧約聖書続編の前半1/3に満つか満たないか、というあたりで終わることと思います。そうしたら、たぶん性懲りもなくこれまでの表紙が厚手のノートに戻るのでしょうね。取り敢えず聖書のブログ原稿を書くためのノートはこれからもずっと無印良品のダブルリング・ノートを用いてゆく予定です。だから、欠品にしたりしないでください。◆

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第1476日目 〈出エジプト記第3章:〈モーセの召命〉withこんな夢を見たい;「2014年の初夢」編〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第3章です。

 出3:1-22〈モーセの召命〉
 モーセはホレブ山で父祖の神に会った。舅レウエル(エトロ)の羊の群れを追って荒れ野の向こう側まで来たときのことである。ホレブは神の山であった。かれは山中に入り、燃える柴を見た。燃えているのに燃え尽きない柴に興味を惹かれて、そちらへ近附いた。すると神が柴の間から声をかけ、それを押し留めた。履物を脱ぎなさい、あなたが立っている場所は聖なる土地だから。そうして神は、自分がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることをモーセに伝えた。モーセは神の顔を見ぬよう自分の顔を覆った。
 主がいった。わたしはエジプトにいるわが民の苦しみを見、叫び声を聞いた。それゆえわたしは降り、イスラエルをエジプトから救い出し、“乳と蜜の流れる地”カナンへ導き上る。モーセよ、いま、行きなさい。あなたをファラオの前に遣わす。あなたはわが民イスラエルを約束の地に導く者だ。
 モーセは、わたしが何程の者だというのでしょう、そうしてファラオの前に行き同胞をエジプトから導き出さねばならないのでしょう、と訊いた。
 主がいった。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出3:12)
 エジプトへ戻りイスラエルの人々のところへは行きますが、とモーセがいった。続けて、いったい誰が、なんという名の方が同胞をすばらしい土地へ導き上る、と伝えればいいのでしょうか、と。
 主がいった。わたしはある。わたしはある、という者だ。そのわたしがわが民、汝が同胞を“乳と蜜の流れる地”へ導き上る、といいなさい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神があなたをかれらの許へ遣わすのだ。わたしがあなたを遣わしてかれらを、イスラエルを導き上るのである。
 「これこそとこしえにわたしの名。/これこそ、世々にわたしの呼び名。」(出3:15)
 続けて主の曰く、――
 「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、3日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。/そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。」(出3:16-21)
 あなたたちがなにも持たずにエジプトを出ることはない。女は隣近所のエジプト女から金銀の装具や外套を求めよ。それらは自分の息子、娘に身に着(つ)けさせ、エジプト人からの分捕り品とせよ。――主の言葉。

 歴史の転換点になる章です。推敲して短くすることも考えましたが、転換点である重要性を鑑みて、敢えて字句の修正に留めて原稿をお披露目することに決めました。
 地図を広げてほしい。なければインターネットで地図を探してほしい。モーセはミディアンにいて舅の羊の群れを飼った、そうして群れを追ってシナイ半島へ入った。アカバ湾をぐるりと廻って半島へ入り、バランの荒れ野に足を踏み入れたわけです。荒れ野の入り口に立ったモーセにとってホレブ山は「荒れ野の奥」(新共同訳)というよりも、「荒れ野の向こう側」(原稿)とした方が適切であるように思うたため、斯く記した。
 このモーセの行動は、後にモーセがイスラエルの牧者となって民を導き、この畏れ多きホレブ山を通ってカナンへ上るかれの姿を先取りする、と指摘する資料もあります(バリー・J・バイツェル監修『地図と絵画で見る聖書大百科[普及版]』P75 創元社 2013.10)。 出3:19「しかしわたしは、強い手を用いなければ」云々とはこのあとに出る、主による10の災いを指しますが、その窮極にして決定打が第12章で語られる〈初子の死〉。過越祭の起源であり、エジプト王がイスラエルを去らせる事件ですが、これが出3:22、上の本文では「女は隣近所のエジプト女から」云々という箇所につながるのであります。
 預言者、或いはなんらかの役割のため召命される者が羊飼いである場合、その仕事中に役割を担うケースが目につくように思うのは気のせいでしょうか。いまちょっと調べてみたら、モーセ、ダビデ、アモスぐらいなのですが、詩篇も含めれば牧者への特別な指示というのは、もう少し増えるような気がします。



 仕事帰りにオペラを愉しむことができる環境で暮らす。――2014年はそんな初夢を見たいと思います。◆

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第1475日目 〈出エジプト記第2章2/2:〈エジプトからの脱出〉with一週間も休めるの?〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第2章2/2です。

 出2:11-25〈エジプトからの脱出〉
 斯くしてモーセはファラオの王女の子として宮廷に育ち、成人した。その頃である、重労働に服している同胞がエジプト人の監督役に虐げられている現場を目撃したのは。モーセは周囲を見渡して誰もいないのを確かめると、そのエジプト人を殺害して砂漠に埋めた。
 それはイスラエル人同士の喧嘩が端となって発覚し、ファラオの耳に達したのである。王はモーセを処刑しようと捜索したが、既に遠く離れたミディアンへ逃れたあとだった。
 逃れたモーセはミディアンの、と或る井戸の傍らに坐りこんでいる。そこへミディアンの祭司レウエルの娘たちがやって来た。父の羊の群れに水を飲ませようとしてである。が、羊飼いの男たちがそれを邪魔した。モーセは彼女らに代わってこれを退け、娘たちの羊に水を飲ませてやった。そうして彼女らは家に帰った。
 父レウエルはいつもより早く帰宅した娘たちを不審に思い、訊ねた。或るエジプト人がわたしたちを助け、代わって羊に水を飲ませてくれたのです。彼女らは父にそう答えた。レウエルはモーセを迎えにやり、食事を出して歓待した。
 エジプトでの殺人のほとぼりが冷めるまでの間、ミディアンへ留まる決心をしたモーセ。そんなかれにレウエルは娘ツィポラを妻に与えた。やがてツィポラはゲルションという男児を授かった。モーセが自身を異国の寄留者(ゲール)と称したからである。
 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25)

 モーセ逃亡、エジプトからミディアンへ――。これは長い長い道程です。実際に地図を繙いていただければ、と思いますが、ミディアンは現在のサウジアラビア北西部、アラビア高原の一帯を指す。モーセの出発地はわかりませんが「創世記」終盤でイスラエル人に与えられたゴシェン地方、即ちナイル・デルタ北東部とするならば、シナイ半島を沿岸沿いに廻るにせよ、荒れ野を通過して半島中央を横断するにせよ、相当の距離を移動したことになりましょう。
 いったい何日ぐらいかかる距離なのか、ちょっと定かでありませんが、お尋ね者である以上悠長に旅しているわけにはいきません。それにこのあとモーセ率いるイスラエルの民がカナン目指して旅する行程と重なる部分もあることから、出エジプトの行程と日数が割り出せればモーセのミディアン行についても詳しくわかるようになると思います。
 引用箇所にある「それから長い年月がたち」は、「使徒言行録」7:30に拠れば40年。が、“70”という数字同様に実際の年数ではなく、「長い年月」を指す抽象表現でしょう。出エジプトからカナン入植までの40年(荒れ野の40年)と合わせたのかも。
 出2:23-25は神がイスラエルと結んだ契約が、本格的に稼働した最初といえましょう。



 年末年始は一週間も休めるらしい。こんなに長い休みが取れるなんて夢のようだ。そう、不動産会社在職中以来の出来事、ざっと10年強も前のこと。そこでさんさんかは、はた、と思い当たり、悩むのである。……なにしよう?
 こういうとき、独り身だと予定に困りますな。待ち合わせて初詣に行くでもなし、港へ出掛けて年越しの汽笛を聞くわけでもなし、年越しのジルヴェスターコンサートへ行くつもりもなし。家に引きこもって、部屋の隅っこにしゃがみこみ、ぼんやり過ごしてホコリでも被っていようか。或いは……短期バイトでもするか?
 現実的な話をすれば、TSUTAYAで借りたり映画館に出掛けたりして映画を観て、『アフターダーク』と旧約聖書続編の資料を読んだりして過ごすんだろうな。味気なくて涙が出ちゃいます。変化ある生活をおいらにください。◆

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第1474日目 〈出エジプト記第1章:〈エジプトでのイスラエル人〉、〈男児殺害の命令〉&〈モーセの生い立ち〉with久しぶりかな、こんな年末は。〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第1章と第2章2/2です。

 出1:1-14〈エジプトでのイスラエル人〉
 エジプトに生活の場を移したヤコブの子らは、結婚して家族を持った。かれらの子孫は世代を重ねるごとに数と力を増してゆき、エジプト国中にあふれた。
 その頃、宰相ヨセフを知らぬファラオが即位している。王は国民へ警告した。寄留者ヘブライ人はあまりに数が増え、強力になりすぎた。これ以上かれらを増加させるな。もし外国と戦争になったら、ヘブライ人はそれに乗じてエジプトを乗っ取るかもしれない。
 そこでエジプト人は強制労働の監督役を置き、イスラエル人に数々の重労働を課した。生活を脅かす程、過酷で熾烈なものであった。かれらが建てた町に、ファラオの物資貯蔵を目的としたピトムとラメセスがある。
 が、イスラエル人の人口は増える一方で、エジプト人をますます嫌悪させた。

 出1:15-21〈男児殺害の命令〉
 とはいえ、エジプト国民はファラオよりもイスラエルの神を畏れた。新しく生まれたヘブライ人の男児は生かさず殺めよ――このファラオの命令に背き、ヘブライ人の新生児皆を生かしたのはエジプト人の助産婦シフラとプアである。
 事態を知ったファラオが2人を呼び出して、どうしてわたしの命令を実行しないのか、と詰問した。彼女らはそれに答えて、ヘブライ人の妊婦はわたしたちエジプト人の妊婦と違って、助産婦が駆けつける前にお産を済ませてしまうのです、と。――エジプトのイスラエル人はこうして人口を増やしていった。
 神は彼女らに恵みを与えて、子宝に恵まれるよう配慮した。というのも、シフラとプアが自分たちの王ファラオではなくイスラエルの神を畏れ、尊んだからである。

 出1:22-2:10〈モーセの生い立ち〉
 新しく生まれたヘブライ人の男児は皆残らず殺せ、但し女の子は生かしておいてよい。――ファラオは改めて国中に命令した。
 ――その頃、レビ族の族長の一人に男児が生まれた。その子は生まれて3ヶ月間は隠れて育てられたが、いよいよ隠しきれなくなった或る日、パピルスの籠に乗せられてナイル河畔の葦の茂みの間に置かれ、折しも水浴びにやって来たファラオの王女に保護される。
 その様子を見ていた男児の姉の進言によりイスラエル人の乳母、実は男児の母が連れてこられた。王女の命令により男児は、乳母を必要とする間は実母の許で、成長してからは王女の養子として宮廷にて育てられる。
 男児は王女によりモーセと名附けられた。ナイル川のなかから王女自身が引き上げた(マーシヤー)、という謂われからである。

 「そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」(新約聖書「使徒言行録」7:22)

 モーセには兄アロンがいたことがわかっています。が、本章でモーセは両親の第一子と紹介される。おそらくモーセ誕生がトピックとして扱われるため、それを踏まえての恣意的な改変と思われますが、それでも疑問が一つ残る。
 モーセはエジプト人の目を避けて育てられ、それが出来ぬとわかると逃がされた。では――兄アロンは如何にしてエジプトの目を逃れ、成長したのだろう。それとも、アロンが生まれ育った時代は、まだファラオの命令が出されていなかったのか?
 イスラエル人が建てた町の一つ、ラメセスは、創47:11に出ました。



 久しぶりに、苦みも迷いも憂さもない年末を迎えられそう。こんな無垢な喜びに満ちた師走も良いね。乱れもなにもないわが心は、なにものにも代え難い歓びに彩られている。
 この時期になると決まって思い起こす人がいるけれど、もう決して逢えない人であることがわかっていると、却って気分は清々しいね。悠久の希望だけを我は切に求める者なり。
 「いかに恵まれていることか。/妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。/食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」(詩128:2-3)
 「有能な妻を見いだすのは誰か。/真珠よりはるかに貴い妻を。」(箴31:10)

 「確かに未来はある/あなたの希望が断たれることはない。」(箴23:18)◆

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第1473日目 〈「出エジプト記」前夜〉 [出エジプト記]

 <イスラエル人のエジプト脱出>と<十戒>の挿話をご存知でしょうか。セシル・B・デミル監督、チャールトン・ヘストン主演映画『十戒』(1956)でドラマティックに描かれた場面を、たとえ映画全編は知らずともホレブ山(シナイ山)の山頂で雷が石板に十戒を刻んでゆく場面だけでもご覧になった方は多いのではないしょうか。そんな<エジプト脱出>と<十戒>は明日から読む「出エジプト記」で語られます。
 「出エジプト記」は物語と規則が渾然一体となった書物です。物語についてはともかく、規則とは? 本書のあとの「レビ記」は聖書に於ける六法とでもいうべき、イスラエル人が神の民として正しくあるための規則が細々記されたものでしたが、では、「出エジプト記」でいう規則とはどのようなものか。それは十戒の補足と、臨在の幕屋を建てるにあたって守らねばならない諸々の指示であります。
 <律法>と呼ばれ、<モーセ五書>とも呼ばれる5つの書物の一角を占める「出エジプト記」。これは<律法>の人的主役を務める預言者モーセが、初めて登場する書物であります。モーセなる人物はいったいどのような生涯を歩んだ人でありましょうか?
 かれはレビを祖とする家系に生まれた者で、父はアムラム、母はヨケベド。ミリアムという姉とアロンという兄を持ちます。生誕地は勿論エジプト。かれが生まれた頃、ちょうどエジプトは数を増し続けるイスラエル人(ヘブライ人)を脅威とみなし、殊に当時王位に在ったファラオは、イスラエル人の新生児(男子のみ)を虐殺するよう命じていました。モーセは母の手によって殺害の魔手を逃れ、ファラオの王女の子として宮廷で育てられました。
 やがてモーセは同胞がエジプト人に虐げられているのを目撃、衝動的にエジプト人を殺してしまいます。そうしてはるかミディアンの地にまで逃れ行った。ミディアンで家族を得、遊牧をして暮らしていた或る日、かれはホレブ山で神の召命を受けました。そうして、エジプトへ戻った。というのも、イスラエル人をエジプトから脱出させて、かれらを約束の地カナンへ導くよう役目を仰せつかったからであります。
 戻ったエジプトで兄アロンと協力してイスラエル人を説得し、ファラオにはイスラエルの神の御業を数々体験させて苦汁を舐めさせた。そうして遂にエジプト脱出を果たすのです。このときにユダヤ教の3大祭の一つである過越祭(除酵祭)と七週際(刈り入れの祭とも)の起源が語られ、有名な葦の海を割っての脱出行(エクソダス)が語られる。その後、モーセはホレブ山にて十戒を受け取り、不満をくすぶらせる民の咎により40年荒れ野を彷徨うことになり、カナンを目前にして身罷りました。その意志を継いだのは、モーセの従者でエフライム族出身のヨシュアです。――以上が「出エジプト記」の記述を中心としたモーセの略伝であります。
 この「出エジプト記」を含めた<モーセ五書>は古来よりモーセの筆に成る、と伝承されますが、正確なところは勿論わかりません。ただそこにモーセの言行録に類するもの、モーセに由来する文書がなんらかの形で成立に寄与しているであろうことは、信じてよいと思います。
 ――ヤコブの子ヨセフが逝って約300年後とされるエジプトを開巻の舞台とする「出エジプト記」第15章までを、明日から読んでゆきます。本ブログは「出エジプト記」第16章からスタートした。2008年10月06日午前00時27分のことでありました。◆

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第0026日目 〈出エジプト記第40章:幕屋建設の命令・主の栄光〉 [出エジプト記]

 出エジプト記も最後まで来ました。
 最終章にあたる40章です。

 第一の月の第一日目に、主がモーセにいいました。
 臨在の幕屋を建ていっさいを整え、アロンとその子らを聖別して祭司に任命しなさい、と。

 第二の月の第一日目に、モーセと民らは、主から指示された仕事を終えました。
 臨在の幕屋が建ちいっさいは整い、アロンとその子らは聖別して祭司に任命されました。

 臨在の幕屋を建てると、主の栄光が幕屋に満ちました。
 栄光の印である雲が幕屋を離れて昇ると民は出発し、
 雲がそこに留まっているときは民もそこに留まりました。
 「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲のなかに火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたから」(出40:38)です。

 出エジプト記は終わりました。
 このあたりは、皮膚の下で肉がごりごり動くような感覚に満ちた文章と描写が続きました。
 躍動感を感じます。

 数日後から、ノートはレビ記に入ります。


 古本屋でセリーヌの『懺悔』(倒語社)を買いました。訳者はもちろん、生田耕作先生。さっそく読んでいます。◆

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第0025日目 [出エジプト記]

出エジプト記を読み始めて約一ヶ月半、あと少しで終わります。


今日は39章を読みます。

民は臨在の幕屋を建設したあと、アロンとその子らのための祭服と装飾品一式を作りあげました。
それらをモーセの元へ運んできます。
モーセは主に変わって、作業を完遂した民に祝福を与えました。


出エジプト記を読み始めて約一ヶ月半。ゆっくり読んできました。
人には「ゆっくり過ぎない?」といわれました。そうかもしれません。
しかし、こうやってゆっくり読んできたことで、これまでの読書では得られなかった類の酩酊と、
背筋をピン、とまっすぐにさせられるような緊張感を覚えました。

この経験と記憶は、
聖書を読み続けてゆく上で、大きな力になるかも……
と、勝手に思っております。


バルトークの《ミクロコスモス》のCDを、第1巻から第6巻まで順番に聴けるよう、オリジナルのCDを作成しました。◆

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第0023日目 〈出エジプト記第38章:〈祭壇〉、〈幕屋の建設材料の記録〉他with『キングコング対ゴジラ』を観ました、〉「臨在の幕屋の建設」 【2021年11月07日21時07分タイトル改訂】 [出エジプト記]

出エジプト記、38章のノートを取りました。
シナイ山で主に指示された指示を元に、ベツァルエルとオホリアブが作業責任者となって幕屋建設や祭具一式の制作を行ってゆきます。

38章で民が作った物は、以下の通りです……、

・アカシヤ材で作った、中を空洞にしてある、献げ物の祭壇と、(出38:1-8)
・幕屋を囲む庭と門、柱などと、(出38:9-20)
・臨在の幕屋。

臨在の幕屋建設はモーセの特別な命令によって、祭司アロンの子イタマルの監督でレビ人が担当した、と記録されています。
これは民がかつて、主の他に崇める対象を作って主の心に反したのを、レビ人が粛正したことに起因してのことなのでしょう(出32:9)。


夜中にCSで放送されて録画しておいた『キングコング対ゴジラ』を観ました。この時代のゴジラが昭和シリーズではいちばんかっこいいですね。◆

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第0022日目 [出エジプト記]

出エジプト記の37章です。

イスラエルの民は粛々と、主の指示通りに臨在の幕屋に収める物を作ってゆきます。
彼らが作った物は……

・十戒を収める掟の箱(契約の箱)、(出37:1-5)
・ケルビム像を据えた贖いの座、(出37:6-9)
・供えのパンを置く机と、そこで用いる皿、ひしゃく、水差し、小瓶、(出37:10-16)
・六叉の燭台とともし火皿、芯切りばさみ、火皿、(出37:17-24)
・香を焚くための祭壇と、聖別の油、純粋な香草の香(ナタフ香・シェヘレト香・ヘルベナ香)、(出37:25-29)

以上のような物でした。

新刊書店で買おうか買うまいか悩んでいた漫画を、帰り道の古本屋で発見しました。高野文子の『黄色い本』です。◆

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第0021日目 [出エジプト記]

出エジプト記は36章に入ります。
ここでは、幕屋建設が始まったことを、読者は知らされます。


幕屋(聖所)建設に必要な献納物を、民が持ってきました。
しかし、指定されたよりも多かったので、モーセはこういって民をねぎらいました。
「男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」(出36:6)
もう十分に(献納物は)あったので、持ってくる必要はなかったのです。

主がモーセに伝えた指示に従って、
・幕屋をおおう幕を織りあげて留め金で綴りあわせ、(36:8-19)
・幕屋の壁板を並べて横木を添え、(36:20-34)
・至聖所とを分かつ垂れ幕と、幕屋入り口に掛ける幕を作って、(36:35-38)
民は幕屋の外観を仕上げました。

信仰の中心となる幕屋の建設が実際に始まり、活気に満ちてきた様子が背景に見える章です。


半日図書館にこもって、コーヒーに関する本をいろいろ読んでいました。◆

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第0020日目 [出エジプト記]

出エジプト記、35章です。

モーセは主の言葉を民に伝えます。
これまで作り方を教えられてきた幕屋、祭具一式などの建設・製作が、実際に始まるのです。

モーセは作業の始まりに先立って、イスラエルの民にいいました。
一週間休まず働くことがないよう、必ず安息日を第7日目に設けなさい、と。

献納物の内容、作らなくてはならない物が、モーセの口から民に伝えられました。
人々は献身的に作業に従事します。
【みなが粛々と作業に勤しむ様子が記されています。でも、怠ける人は一人もいなかったのでしょうか?】

続いて民の前で、ベツァルエルを作業全般の監督に、オホリアブを助手に任命しました。
民みなが二人の指示に従ってそれぞれの作業を行うよう、モーセは伝えます。
【この一行は36:1にまたがります。】


1週間分を録り溜めている『ブラザース&シスターズ』。午前中ずっと観ていましたが、「デート・サービス」の録画を忘れていました。うーん、残念。
おまけに途中で止めていた「バレンタインは大騒ぎ」の回を、半分消してしまいました。DVDがレンタル店に並んだら、借りに行かなくては……!◆

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第0019日目 [出エジプト記]

出エジプト記は34章まで進んできました。
34章は、大まかにいうと、次のような内容です。


・二枚の掟の板が再授与される。早朝のシナイ山で主は、主の御名を宣言される。

・契約内容の再確認。20章から23章までの契約のなかで、特に重要な部分のダイジェスト。「わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ」(出34:27)

・シナイ山を下ったモーセの顔が光り輝いている。民が近づけないので、彼は顔をヴェールで覆い、主と会見するときだけそのヴェールを外す。

民が背き、粛正されたあとで、ふたたび契約が交わされます。
この契約が代々に渡って有効となり、のちに二枚の掟の板は聖櫃に収められます。


横浜伊勢佐木町の松坂屋が、いよいよ明日で閉店します。野沢屋呉服店の時代から数えて144年の歴史が、閉じてしまうのです。
個人的にも多くの思い出が残る百貨店の最後の日を、この目と心にしっかり焼きつけてきます。◆

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第0018日目 [出エジプト記]

昨日はノートを中途半端に終わらせてしまったせいで、なんだかすっきりしないまま一日を過ごしました。
出エジプト記33章の続き(残り)です。


臨在の幕屋にてモーセは、主の栄光を示してください、と懇願します。
主はモーセの前で「自分は主である」と宣言し、人は自分を目にして生きていることはできない、と告げられました。
これすなわち、主の姿を見たものは生きていることを許されない、ということでしょう。
これまでにもそうした記述はありましたし(出3:6、出)、今後も増えてゆくそうです。

出33:21-23、モーセが岩のそばに立って主がそのそばを通過するとき、主は岩の裂け目にモーセを押し込め通り過ぎるまで出さない旨の記述があります。
ぼくはここを読んでなんのことか、すぐにはわからなかったのですが、何度か読み直し、ノートを整理したことでようやく意味がわかりました。
モーセに自分の姿を見せて死なせまい、とする主の心からだったのですね。と同時に、モーセとて例外ではない、というのもわかりました。
こんな理解の遅い人間が、聖書を読んで、キリスト者からみれば赤面するようなブログを書いています。

「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出33:19)
これはじつに簡素で良い言葉(句)だと思いました。


読書に用いているの聖書は新共同訳、旧約聖書続編が付いたものです。
これを自分一人の力で読み進められるか。いまからそんな要らぬ心配をしています。◆

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第0017日目 [出エジプト記]

出エジプト記33章であります。
いよいよ旅立ちのときが近づいています。


・主はモーセに、民を率いて、かつてあなたの父祖に「与える」と約束した「乳と蜜の流れる土地」カナンへ上りなさい。
 先住者たちは、わたしの遣いが追い出す。悪い知らせを聞いた民は一様に嘆き悲しみますが、主の言葉、モーセの導きに従います。

・モーセが臨在の幕屋へ入り、主の証しである雲の柱が立つと、民はみな家から出て起立して、そちらに向かって礼拝をするようになりました。
 モーセが幕屋から出て宿営に戻っても、従者であるヌンの子ヨシュアだけは幕屋から離れません。
 主はカナン行きを不安がるモーセに対して、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」(出33:14)と約束しました。

ここを読んだとき、なぜ民はカナン行きを「悪い知らせ」と受け取ったのだろう、と疑問でした。何遍も読み返してようやく、この地を去ってカナンへ移動したことを後々後悔するようになる民にとって、このカナン行きの指示は「悪い知らせ」以外のなにものでもないのだ、と合点しました。


「モーセは主に行った。『もしあなた御自身が行ってくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。いったいなにによって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることがわかるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。』
主はモーセに言われた。『わたしは、あなたのこの願いをもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。』」(出33:15-17)
この件り、主が随伴してこそのイスラエルの民、とさんさんかは解釈しました。


33章にはあともう一段落あるのですが、それはまた明日にします。



図書館へ寄った帰り道、デパートで買い物をし、人と待ち合わせてそのまま帰りました。大雨に祟られ、まったくひどい一日でありました。◆ 

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第0016日目 [出エジプト記]

出エジプト記の32章です。


32章は5つの大きな段落に分けられます。
40日40夜経っても、モーセはシナイ山から下りてきません。

・不安になったイスラエルの民たちがアロンに、われらを導く神を与えよ、と乞い、金の雄牛像を鋳造させ、崇めるようになります。
【これは十戒で示された異神の崇拝、偶像制作の禁止に抵触します。】

・民の背反行為を知った主は、民を滅ぼさんといきりますが、モーセは必死に説得、翻心に務めます。

・シナイ山から下ってきたモーセは留守をまかせたアロンに問い詰め、アロンはそれを民の願いからやったことです、と弁明します。

・モーセに従ったレビ族(人)は背反者たちを粛正して、祭司へ任命されます。

・主は自ら民に臨まんとし、モーセはふたたび翻心を試みますが主は受け容れない。主の怒りが民を打ったのです。

初めてこ32章を読んで1週間ほどですが、たびたびこの章へ戻りじっくり読みます。
十戒で定められた規律に民が違反して、初めて主に裁かれるシーンの出てくる32章は、読んでいて思わず震えが走りました。

32章の引き締まった構成と緊密な描写に惚れ惚れします。これは史上もっとも力の漲ったショート・ショートではないか。
〈聖書は砂と風と石からできた言葉、砂漠の言葉、ごつごつした手触りの言葉で書かれている〉(『禁煙の愉しみ』新潮OH!文庫、『もっと、狐の書評』ちくま文庫)という山村修氏の言葉を、32章ほどはっきりと意識したことはありません。



聖書は、少しずつであっても毎日読み続けています。昨晩の就寝前に出エジプト記を約1ヶ月かけて、読了しました。
引かれた言葉に下線を引っ張ってあったり、言葉のメモなど書きつけてあったり、なかなかにぎやかな様子を呈しています。◆

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