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第0271日目 〈サムエル記上第4章2/2:〈神の箱、奪われる〉1/2〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第4章2/2です。

 サム上4:1 2/2 - 22〈神の箱、奪われる〉
 イスラエルとペリシテの間に紛争が勃発した。しかしペリシテ人は強く、イスラエルを圧した。イスラエルの民は、なぜ主は我々を打ち負かされたままにされるのか、と訝り、シロから契約の箱が戦地へ運ばれてくれば劣勢も回復するだろう、と考えた。
 やがてシロから契約の箱、神の箱、万軍の主の契約の箱が、運ばれてきた。イスラエルは大歓声をあげて、これを喜んだ。ペリシテは神の箱が到着したのを知っておののいたが、「ペリシテ人よ、雄々しくあれ。(中略)男らしく彼らと戦え。」(サム上4:9)と自分たちを鼓舞し、イスラエルの軍勢にぶつかっていった。
 ペリシテ人の勢いは強く、イスラエルは30,000の歩兵を失った。その最中、(契約の箱に従って戦地へ来ていた)祭司エリの息子ホフニとピネハスが死んだ。サム上2:34で主が神の人を介してエリに語った通りであった。
 そして、神の箱は奪われた。
 ━━ベニヤミン族の男一人が戦場から落ちのびてシロへ疲れ果てた様子で帰ってきた。彼は祭司エリに戦況を伝え、ホフニとピネハスの死を伝え、神の箱がペリシテ軍の手に落ちたことを報告した。
 それを聞いたエリは倒れて死んだ。彼が祭司の職にあったのは40年、その間彼がイスラエルを裁いた。
 一方ピネハスの妻は臨月であった。夫としゅうとの死を聞くと卒倒したが、やがて一人の男児を産んだ。子供はイカボド(栄光は失われた)と命名された。
 「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われた。」(サム上4:22)

 神の箱、契約の箱が奪われた。イスラエルにとってこれ以上のアイデンティティ喪失を象徴する出来事はないのではないか、と感じます。
 ……神頼みのイスラエル、雄々しきペリシテ。うーむ、結果はどうあれ、ペリシテの勝利も道理なのですけれどねぇ……。
 ピネハスは息子の顔を見ぬまま亡き人となりました。主の怒りが導き出した悲劇。その息子の名はイカボド。書題サムエルと対極の名前の持ち主といえましょう。
 ワシントン・アーヴィングの短編「スリーピー・ホローの伝説」の主人公、首なし騎士の幽霊に追われるあの主人公も、名前をイカボドといいましたね。



 ちかごろ新宿へ出ることが多い。23区内でいちばん嫌いで苦手な街、でも飲み食いするとなれば、たいていこの街。仕事でもいちばんかかわりのあった街。新宿。いやぁ、複雑な気分であります。
 で、関係ないけれど……あ~、俺やっぱりおぐゆーさんが好きなんだぁ。◆

第0270日目 〈サムエル記上第3章&第4章1/2:〈サムエルへの主の呼びかけ〉〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第3章、並びに第4章第1節1/2です。

 サム上3:1-21,4:1 1/2〈サムエルへの主の呼びかけ〉
 少年サムエルはシロにいて、エリの下で主に仕えていた。当時は「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(サム上3:1)時代であったため、少年サムエルは「まだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼には示されていなかった。」(サム上3:7)
 そんなサムエルを或るとき、主は三度続けて呼んだ。そのたびに少年は起きて、エリの許へ出仕した。エリが呼んだと思ったからである。が、エリは呼んでいないのでそのたびに少年を帰らせたが、三度目には、もしまた呼ばれるようなことがあれば、主よお話ください僕(しもべ)は聞いております、といいなさい、と助言した。━━果たして四度目にサムエルはその通りにした。
 サムエルに向かって主はいった、━━
 「見よ、わたしはイスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」(サム上3:11-14 サム上2:31-34,36参照)
 翌朝、サムエルは主の家、即ち臨在の幕屋の扉を開けた。エリのあと押しもあって、サムエルは昨夜聞いた言葉を隠すところなく話した。聞き終えたエリが、まさしくそれは主が話したのだ、といった。「主が御目にかなうように行われるように。」(サム上3:18)
 サムエルは成長し、主は彼と共に在り、その言葉は一つとして地に落ちなかった。
 イスラエルのすべての人々は「サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。」(サム上3:20)
 「主は引き続きシロで御自身を現された。主は言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」(サム上3:21-4:1)
 ※「御言葉」とはサム上3:11-14「見よ、わたしはイスラエルに」云々を指す。

 エリの家の没落は既に本人が予見し(サム上2:25)、預言者によっても予言されてきました(サム上2:31)。
 が、本章では遂に主自らエリの家滅亡を約束(?)します。
 彼の息子たちが子供の頃から犯してきた罪の深さを思うと共に、いったいエリはなぜ彼らを注意し、戒めなかったのか、と小首を傾げてしまう点でもあります。
 いずれにせよ、エリ、そして彼の息子たちは次の第4章で命を落とし、家は滅亡します。



 図書館から借りた資料をノートにまとめて、架空の樹海を着々と創造中……。◆

第0269日目 〈サムエル記上第2章2/2:〈エリに仕えるサムエル〉〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第2章2/2です。

 サム上2:12-36〈エリに使えるサムエル〉
 シロで祭司を務めるレビ人エリの息子たち、祭司の下働きたちは信仰を顧みず、民に蛮行を振るっていた。いけにえのための供物を掠め取って奪い、臨在の幕屋に侍る女たちと寝所を共にするなど、多くの悪とされることを行っていた。
 老いていたエリは息子たちを読んで、いった。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が取りなしてくれよう。」(サム上2:25)
 だが、息子たちは父の言葉に耳を貸さなかった。
 ゆえに、「主は彼らの命を絶とうとしておられた。」(サム上2:25)

 或るとき、神の人がエリの許を訪れて、こういった。
 「(出エジプトより前のこと)わたしは自らをあなたの先祖に明らかに示し、わたしのためにイスラエルの全部族の中からあなたの先祖を選んで祭司とし、(中略)わたしの前に立たせた。(中略)あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。」(サム上2:27-29)
 主は彼らに裁きを与える、という。
 「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(中略)あなたは、わたしの住む所がイスラエルに与える幸いをすべて敵視するようになる。あなたの家には永久に長命の者はいなくなる。(中略)あなたの家の男子がどれほど多くとも皆、壮年のうちに死ぬ。」(サム上2:30,32-33)
 但し、と主はいった、と神の人がいった。
 「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。」(サム上2:35)
 エリの家の生き残りは彼に物乞いして身を屈めるだろう、と主は言葉を結んだ、と神の人がいった。

 一方サムエルはシロにて下働きとしてエリに、主に仕えていた。母ハンナは息子のために毎年小さな上着を縫って、年に一度シロへあがるたびにサムエルにそれを与えていた。エリはそれを言祝(ことほ)ぎ、ハンナが今後も子宝を授かるよう祝福した。その後ハンナは三人の息子と二人の娘を産んだ。
 サムエルはすくすくと育ち、主にも民にも喜ばれる者となった。

 サム上2:35(引用箇所)で主がいったことに補足を加えます(なんて大それた事だろうねっ!)。
 ・「忠実な祭司」→サムエルを指します。
 ・「わたしが油を注いだ者」→後のサウル王とダビデ王を指します。
 ・「わたしが油を注いだ者の前を歩む」→サムエルが王を導くことを意味します。
 思い出していただきたいのは、サムエルが最後の士師(さばきつかさ)であり預言者であること、であります。従って彼が王を導くというのは、サムエルが今後は預言者として行動することを予告している、ということであります。
 こんな簡単なことがわかっていると、聖書を読み進む楽しみは増すと思います。



 ジム・トンプスンの『この世界、そして花火』(扶桑社海外文庫)とカフカの『流刑地にて』(白水社uブックス)を買ってきました。さあ、読むぞ……!◆

第0268日目 〈サムエル記上第2章1/2:〈ハンナの祈り〉〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第2章1/2です。

 サム上2:1-11〈ハンナの祈り〉
 サムエルの母ハンナはシロにて主に祈り、主を讃えた。
 「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。
  思い上がった言葉を口にしてはならない。
  主は何事も知っておられる神、
  人の行いが正されずに済むであろうか。」(サム上2:3)
 また、斯く、━━
 「(主は)弱い者を塵(ちり)の中から立ちあがらせ
  貧しい者を芥(あくた)の中から高く上げ
  高貴な者と共に席に着かせ
  栄光の座を嗣業としてお与えになる。」(サム上2:8)
 また、斯く、━━
 「主の慈しみに生きる者の足を主は守り
  主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。」(サム上2:9)
 エルカナ、ハンナはエフライムの山地ラマタイム・ツォフィムへ帰った。
 サムエルはシロの祭司エリの許にあって、主に仕えた。

 これが祈りである。頌(オード)である。とく噛みしめよ。
 本章を読んでいてつくづく感じました。ハンナの祈りはまさしく、現在では《第九》で有名なシラーの頌歌「歓喜に寄す」の神ヴァージョンではないか。シラーの頌歌とハンナの祈りは表裏一体の讃美の歌ではないか。
 これを見出したとき、如何に笑われようと誹られようと、思わず身震いがして胸奥で“歓喜”を覚えたことを、告白しておきます。



 酒の席でのボヤキ)生田先生のご著書の書評がいちばん難しいよ……。◆

第0267日目 〈サムエル記上第1章:〈サムエルの誕生〉&〈ハンナ、サムエルをささげる〉〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第1章です。

 サム上1:1-20〈サムエルの誕生〉
 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムの町にエルカナという男が居って、二人の妻を持っていた。一人は名をハンナ、子供はなかった。もう一人はペニナ、彼女には子供がいた。ペニナはハンナを、子供を授からぬ身ゆえに苦しめた。
 或る年、エルカナに従ってハンナもシロの町に下った。その夜、彼女は主に、はしための願いを聞け、と祈った。「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」(サム上1:11)
 当時シロで祭司として使えていたエリも、ハンナを祝福した。
 翌る日、エルカナたちは自分たちの町へ帰った。エルカナは或る晩ハンナを知り、ハンナは妊娠した。男の子が誕生した。主に祈願して授かった男の子であった。それ故に男児はサムエル(その名は神)と命名された。

 サム上1:21-28〈ハンナ、サムエルをささげる〉
 エルカナは例年通りシロへのぼろうとしたが、ハンナは同道しなかった。サムエルが乳離れしたら献げ物を持ってゆくから、というハンナを、エルカナは許した。
 サムエルが乳離れした。ハンナは供物を携えてシロへのぼり、祭司エリへいった。「わたしはこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(サム上1:28)

 士師サムソンと同じく、サムエルも最初から主にささげられた存在であり、ナジル人として生まれてきた男児でした。



 いちばん影響を受けた小説作法の本は何ですか、と、或る文芸関係のwebサイトからアンケート・メールをもらいました。
 いちばん影響を受けた? いちばんという程のものは、実はありません。というより、小説作法の類を読んだことが、殆どありません。
 為につらつら考えるまでもなく、答えは自ずと決まっております。
 スティーヴン・キングの『小説作法』(アーティスト・ハウス)、それ一冊のみあれば。
 そのキングの言葉じゃないのですが、とどのつまり、小説を書くことは一語一語の積み重ねでしかなく、よく読みよく書くことに尽きるのですよね。むろん、この「よく」とは「たくさん」を意味しますが、決して読み散らし書き散らすことではない。
 上のキングの言葉に付け足すとすれば、体力をつけて維持すると共に高めてゆく不断の努力を怠らないこと、でありましょうか。比喩的な意味でもあり、その通りの意味でもあります。よく読みよく書くためには、体力が必要です。心身共に健康であることです。それを怠ってはなりません。
 アンテナを張ることも大事ですが、そんなのは上の三点よりもあとに来ることです。
 家庭円満なら申し分ありませんが、これは各自によって事情も異なるでしょうから、さんさんかは口をつぐみます。いえ、言える立場でもないので……。◆

第0266日目 〈「サムエル記上」前夜 - 勝田文『プリーズ・ジーヴス』、意見修正。〉 [サムエル記・上]

 「ルツ記」以来ずっと横道に逸れていた(!?)本ブログですが、明日から本来の趣旨に戻って聖書の読書ノートを再開します。

 明日から「サムエル記・上」に入ります。続く下巻と共に、名前ぐらいは聞いたことがあるやもしれぬサウル王とダビデ王が活躍する書物、これまででいちばん歴史書らしい体裁と内容を持った歴史書、それが「サムエル記」であります。なお、書名にある“サムエル”はシロの祭司にして最後の士師、二人の王を導く預言者サムエルのことです。
 内容をかいつまんでいえば、サウル王とダビデ王によるイスラエル各部族の統合と統一国家(中央集権)の樹立が如何にして成されていったか、というものです。
 これは伝統的に上下(訳によっては第Ⅰ・第Ⅱ)に分かたれておりますので、本ブログでもそれに倣って「サムエル記・上」(サム上)、「サムエル記・下」(サム下)と称して、日々の更新を進めてまいります。

 わたくしは特にキリスト者というわけでは、まったくありません。先祖に僧侶を持つありきたりな仏教徒です。
 単に海外小説や映画、演劇、音楽に親しんでいるうちキリスト教に関心を持つに至り、創作の参考にもなれば、と思って、昨秋より聖書を一頁目から読み出した新参者でしかありません。
 ただ聖書へのアプローチの出発点に、若くして死んだ婚約者がキリスト者でありプロテスタントであった、という小さな事実があり、昨年の09月11日を前にしてどうにも心が乱されて落ち着かなかったのを鎮めるために巻を開いた、というきっかけめいたことがあった。それだけを、ここでは告白しておきたく思います。
 わたくしが聖書を読むにあたって導きとなった本があります。いのちのことば社から出ている内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』がそれ。聖書の構成や内容、読み方などについてコンパクトに書かれた、まさに、聖書に興味はあるがどう読んだらいいのかわからない、と悩む人のために書かれている本です。簡潔で要領を得た本なので、書店のコーナーで見かけたら読んでみてください。


 先日、勝田文の『プリーズ、ジーヴス』(白泉社)を俎上にのぼして、川原泉の方がより合っていたんじゃないか、と書きました。正直なところ、まだ川原版バーティー&ジーヴスを見たいという願いは変わりません。
 しかしながら改めて読み直せば、間の取り方や絶妙なコマ割りなどを含めて考え直せば、勝田文も適役であったな、と唸らざるを得ません。というわけで(偉そうないい方かもしれませんがご寛恕を)、いまは勝田版ウッドハウス・コミックにもわたくしは相当入れあげており、小説は小説、漫画は漫画と割り切って実に痛快に愉しんでおります。上手く原作を脚色しているのも好ましいですね。
 はぁ~、早く第2巻が出ないかなぁ……。
 コミックといえば、プルースト『失われた時間を求めて』の大判フルカラー・コミックも続刊が刊行される日を心待ちにしているのですが……。

 《ヴィーン・モデルン》を聴いています。◆
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