第0852日目 〈詩編第150篇:〈ハレルヤ。〉&ドストエフスキー『永遠の夫』;身につまされる小説。そうして、あなたに。〉 [詩編]

 詩編第150篇です。

 詩150:1-6〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 神を讃美せよ。どこで? 何のゆえに? 如何にして? それを教える詩篇である。
 単純にして明瞭なものだが、「詩編」の終着点として、或る意味これ以上ない程の高揚感に満ち、歓喜の思いで沸き立っている。シンプルな言葉、シンプルな表現、シンプルな思い。まさに「詩編」全150篇の最後に置かれるに納得の作物であろう。
 「偉大なものはすべからく単純である」という、フルトヴェングラーの言葉を捧げるに相応しい。ハレルヤ。

 「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。/ハレルヤ。」(詩150:6)



 「詩編」全150篇、本日を以てつつがなく終了する。読者諸兄よ、根気よくお付き合いくださり、心よりありがたく思うています。本ブログが「箴言」の扉を叩くまではまだ若干の時間の猶予がある。それまでの別れを、聖書に!
 「詩編」開始当時は太宰治の『ろまん灯籠』を読んでいたそうだ(第0691日目参照)。それは確かドストエフスキーを一時中断して、太宰を何冊か、気分転換に読むつもりでいた時期であった。それがどうやらすっかりはまってしまったようだが、記憶が確かなら、そろそろドストエフスキーに戻らなくちゃならんなぁ、機を見て勇を決さないとこのままドストエフスキーとは永の別れとなりかねないぞ、と心配し始めた時期でなかったか。書架に放ったままな『白痴』が気になり、目に付き、仕方なくなってきた時期でも、あった。
 あれから約半年。現在はなにを読んでいるのか、といえばドストエフスキーに戻って『白痴』を経て、いまは『永遠の夫』。既に申しあげたとおりだ。これはなにやら身につまされる小説である。トルソーツキーにしろヴェリチャーニノフにしろ、彼らはわがドッペルゲンガーではないのか。周囲の人々も、彼らの反応も、わたくしには経験がある。リーザの件とかザフレビーニン家での出来事とか、……そんな諸々が昔の傷を疼かせるのですね。
 小説なんて絵空事。そう割り切れればどれだけ楽か、と嘆息混じりに、このドストエフスキーの小説を、でも楽しんで読んでいるところであります。
 聖書読書ノートを再開する頃には読み終えているだろうが、次が『悪霊』なのか否かは正直決めかねている。いずれにせよ、明日からの「日々の思い・独り言」でこの件について(ドストエフスキーについて、次に読む小説について)、何度か言及することであろう。そこでは加えて、予告のみであった『シネ響 マエストロ6』やオペラ《カルメン》、観た映画や読んだ本、日々の断想などが語られるであろう。
 明日からまた仕事。年度内、みんなと一緒にいられる時間を大切にしたい。新年度は……いや、まだ語らないこととしよう。それまでにちゃんと、伝えられればいいのだけれど、果たして受け入れられるのかな?◆

共通テーマ:日記・雑感

第0851日目 〈詩編第149篇:〈ハレルヤ。〉&晴れた休みの日にはお散歩しよう。〉 [詩編]

 詩編第149篇です。

 詩149:1-9〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 主により喜ばれ、救いの輝きで装われたイスラエル。その栄光を歌う詩篇だ。もちろん単なる自画自賛でなく、イスラエルの栄光が主の慈しみ、主の愛おしみ、主の庇護によってもたらされている、という自覚は忘れていない。それは即ち、主と民の調和である。
 ━━さあ、もう多弁は慎もう。読者諸兄は直接これにあたり、その声へ静かに耳を傾ければよい。是非。「イスラエルはその造り主によって喜び祝い/シオンの子らはその王によって喜び躍れ。」(詩149:2)

 「主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み/伏していても喜びの声をあげる。/口には神をあがめる歌があり/手には両刃の剣を持つ。」(詩149:5-6)

 「これは、主の慈しみに生きる人の光栄。/ハレルヤ。」(詩149:9)



 冷たい雨に打たれた翌日、早い時間に起きてコーヒーを飲んでいたら、あたたかな陽射しにムズムズしてきて居ても立ってもいられなくなり、午後からお散歩へ繰り出した。
 新しくした携帯電話にステップカウンターなる機能がある。一日の総歩数や消費カロリーなどをカウントできるのだが、その日、歩いた距離によって、シルクロードを西安からローマ目指して進むようにもできている。こんな楽しい、散歩好きの心をくすぐる機能あればこそ、いつもより少し遠い場所まで足を伸ばしてみようか、と思い立つのだ。
 そこで今日、栄えある第一回目の休日散歩に選んだ目的地は、嗚呼代わり映えのしない目的地で申し訳ない、スターバックスなのであった。が、単にスターバックスと笑うなかれ。今日行くスタバは初めて行くスタバであり、バスで前を通り掛かるたび気になっていた場所でもあったのだ。地図でおおよその場所を確認したら、さあ、歩いて行こう。
 丘を越え、谷を縫い、てくてく歩く。丘の天辺(てつぺん)に立って眼下を見れば斜面に連なる戸建ての屋根、屋根、屋根。風にはためく洗濯物、遠くの国道から聞こえる車の音、揚げたてメンチの香ばしい匂い、喉を潤すミネラル・ウォーター、中学のグラウンドから落ちて来て投げ返したボール。━━こんな、自分の知らない場所にも人はいて、それぞれに生活している。散歩の楽しさの一つはそれを自分の五感で確かめられる点だ。地図を見ているだけではわからぬ情報が、そこに立つ自分のまわりにあふれかえっている。素晴らしいよね?
 件のスターバックスは国道から少しあがった場所にあり、ウッドデッキがすてきな印象を醸している、広くはないがちょっとよさげな感じの店。窓際の席で「詩編」のノートを終わらせ、ドストエフスキーを読んだ。休みの日にはまた来てみたいな。次はあなたと?
 13,414歩、約10.1キロ、約4.5時間のお散歩でした(どこかで聞いた〆の言葉だ)。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0850日目 〈詩編第148篇:〈ハレルヤ。〉&ターフェル「英国歌曲集」を聴いたそのあとは……、〉 [詩編]

 詩編第148篇です。

 詩148:1-14〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 森羅万象、あらゆる創造物、生きとし生けるもの、すべてよ、主を讃えよ、主の御名を讃えよ。もちろんこれは文字通り<主を讃える(ハレルヤ)>詩篇だが、あまりに純化されすぎている、という感じがする。悪い意味ではないが、呼び掛けのなかにそれっぽい表現がある、そんな印象を抱くのだ。
 言葉で動く/動かす神に、あらゆる存在を言葉で挙げ、<讃えよ>と具体的な行為を言葉で示す━━聖書の神に手向ける頌歌としては、実に教科書的な詩篇といえまいか。

 「主の御名を賛美せよ。/主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。/主はご自分の民の角を高く上げてくださる。/それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。/主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ。」(詩148:13-14)



 英文学好きのさんさんかだが、なかでも英詩には身震いするぐらいの畏敬と親しみを感じてならない。学生時代に毎週1コマ、みっちりと英詩に取り組まされ、果ては課題で好きな英詩を回り持ちで、受講生全員の前で暗唱させられる、なんて地獄のような経験があるにもかかわらず、英詩が好きでたまらないのだ。
 なぜか、と考えてみるに、そこにクラシック音楽と或る映画の存在があるのは否めない。映画とはロビン・ウィリアムス主演の『いまを生きる』だが、これについてはまた後日に触れよう。そうして……そう、音楽!! LPで何枚かの英国歌曲集を中古で購入して、これを何度もうっとりしながら聴き耽ったものだが、残念ながら、歌手や伴奏者、収められていた作曲家の作品など、具体的なところはまったくわからない。
 CD時代になって、やがて輸入盤も都内の大型店に行けば手に入るようになった頃から、再び英国歌曲の音盤を少なからず目にするようになった。そうした前段階を経て、間もなく20世紀も終わろうか、という時代にわたくしは一枚のCDと出会うことになる。
 英国━━正確にはウェールズが生んだバス・バリトン歌手、ブリン・ターフェルによるイギリス歌曲集が、そのCDであった。レイフ・ヴォーン=ウィリアムスやジェラルド・フィンジなど、英国歌曲を語る際に忘れてはならない極めつけのリート作品が、現在最も望み得る最高の歌唱で収められている。入門者には必須アイテム、玄人なら持っていなくてはならない一枚といえるはずだ。
 個々の作曲家たちが拠り所としたのは、ハーディ、ハウスマンなど、イギリス近代詩を代表する詩人たちの作物。いずれも古くから日本でも愛されてきた詩人である。素朴で含蓄ある言葉の一語一語を噛みしめるように、ターフェルがいっぱいの愛情と誠実さで歌いあげる。オススメはバターワース作曲の二つの歌曲集。第一次大戦で夭折した作曲家の純粋なる魂の響きをとくとご堪能あれ。
 静かな夜の一刻に耳を傾けてほしい一枚、季節に関係なく。1995年2月ロンドンでの録音(DG UCCG-3096)。
 補足すると、現在、NAXOSから英国歌曲シリーズが継続リリース中。ターフェル、或いはボストリッジの歌曲アルバムでこのジャンルに味を占めたなら、ぜひNAXOSのシリーズにも手を伸ばしてほしい。そこには芳醇かつ魅惑的、なお底なしの如き豊饒の世界が広がっている。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0849日目 〈詩編第147篇:〈ハレルヤ。〉&新海誠『星を追う子供』のチラシを前にして。〉 [詩編]

 詩編第147篇です。

 詩147:1-20〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 嗣業の民にのみその慈しみを注いでくれる神を讃える詩篇。捕囚解放後、どれだけの歳月が流れているのかわからぬが、帰還し、エルサレム再建後の歌であるのは本文中に見える通りだ(第二神殿の記述のないことがヒントにはなるかもしれない)。
 主の御業に打ち震え、主の御言葉に従う人。そんな人を主は好む。この一篇は、主の民であるにはどうしたらよいか、を諭す詩篇でもある。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」(詩147:11)━━この詩句はそうした意味で、トドメの一言、極言である。
 惹かれる箇所は幾等もあるが、第16-18節もその一つ。寒さに耐え得ずとも主の息吹はそれをゆるませる、とは、意固地になって頑なな者の心をも主は見捨てず、大切にされる、ということでもある。わたくし自身がそういう者だからここにはやはり感銘を受けるのだが、同時にわれら聖書を読んできた者はヨブを思い出してもよいかもしれない。
 これは非常にあたたかく、慈愛に満ちた詩篇である。

 「エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。/主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。/あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくれる。」(詩147:12-14)

 「主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。/どの国に対しても/このように計らわれたことはない。/彼らは主の裁きを知りえない。/ハレルヤ。」(詩147:19-20)



 いま一枚の、GW上映予定の映画のチラシを前にしている。「本格ジュブナイル・アニメーション」と銘打たれたこの映画、題を『星を追う子供』といい、監督は新海誠。以前、ここでもご紹介したことのある『秒速5センチメートル』を監督した氏の最新作である。
 レンタル・ヴィデオで『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』を観てその純粋さに胸打たれて以来のファンであるのだが、今回の『星を追う子供』は心の支えどころを失った人々、<喪失>を経験した少女と少年、大人が織りなす「2010年代に描かれるべき冒険譚」(チラシより)。
 過去の作品と若干似通ったテイストの作品のようだが、そこは新海監督のこと、同じテーマを扱っても一作毎にその純度は増す一方で、深化するばかりだ。扱い馴れたテーマでも切り口、語り口を少しだけずらすことで見えてくる物語の新しい断面。その断面の見せ方というのを、この人は非常に心得ている。その素朴で不器用なまでのストーリーテーリングを愛せるのは、偏にそんな魅力に取り憑かれているからだろう。
 なににせよ、いまから公開が待ち遠しくて眠れない。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0848日目 〈詩編第146篇:〈ハレルヤ。〉&パーヴォ・ヤルヴィ=ドイツ・カンマー・フィルのベートーヴェンSym Nr.3,6-9[NHK-FM]〉 [詩編]

 詩編第146篇です。

 詩146:1-10〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。詩146-150は〈小ハレルヤ詩集〉と称される。

 有限の命の人間に頼むなかれ、われらが依り頼むはただヤコブの神のみ。「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人」(詩146:5)主は自分の民に慈愛の眼差しを手を以て臨み、抗う衆には怒りと戒めを以てその道をくつがえす━━ゆえにわれらは主に感謝し、主を讃えよう。ハレルヤ。
 「主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる」(詩146:8)なんて詩句に接すると、わたくしのような者でもなんだか救われた気分になる。それは一つの恩寵であり祝福である。「詩編」の━━聖書のメッセージは、宗教や思想、人種や文化の別なく訴えかける類のものが多い。だから、こんなわたくしの心をも打つのだ。

 「とこしえにまことを守られる主は/虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。」(詩146:6-7)



 パーヴォ・ヤルヴィ=ドイツ・カンマー・フィルのベートーヴェンを聴いた。NHK-FMの『サンデー・クラシック・ワイド』という番組。昨年2010年3-4月にポーランドのワルシャワで開かれた〈ベートーヴェン復活祭音楽祭〉でのライヴ録音、放送曲目は交響曲第3番〈英雄〉、第6番〈田園〉と第7番、第8番と第9番〈合唱〉の計5曲であった。
 第3番は第1楽章の前半を聴き逃してしまったけれど、どの曲も無駄な贅肉や脂肪を刮ぎ落とした筋肉質な演奏で、悪くないな、と思います。でも、それ以上の感想がどうにも持てないのですね。決してクリアな音質で聴いていたわけでないし、そのせいでか演奏そのものもくぐもっていたような気がしたのです。透明度が若干高い磨りガラスのような演奏、といえばよいでしょうか。もしどなたか録音していたら、ダビングしてお恵みを。
 瞬発力とスリムなスタイルがウリの、ヤルヴィのベートーヴェン。この演奏が良かった、と思う1曲を敢えて挙げれば、第7番かな。もともと躍動感に漲った曲だから、却ってヤルヴィの演奏スタイルに合致したのかもしれない。読書しながら放送を聴いていたのだが、第7番がかかっている間だけは集中できなくて困った。これだけでこの曲の演奏のテンションの高さ、緊張感と集中力が途切れることなく突き進む勢い、というのをご想像いただければ幸甚であります(無理か)。
 逆に第9番はフンドシのゆるい演奏だった。あまりに長閑(のどか)で、第2楽章の途中から第4楽章の途中まで眠ってしまった程。CDやDVDもこんな感じなのかなぁ。購入を検討しているのだけれど、二の足踏んじゃいますよ、これを聴くと。
 でも、貴重なライヴを聴くことができたことにじゅうぶん満足。FMっていいですよね。
 話は変わるが。重苦しい気分で床に入り、明日の訪れを不安いっぱいで待つ。明日の太陽が昇るのが怖い。ぼくは人附き合いも他人ウケも「良い」とは言い難いからな……。ああ、みんなと顔を合わせるのが怖くて不安でならない。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0847日目 〈詩編第145篇:〈わたしの王、神よ、あなたをあがめ〉&MJ「クライ」補記〉 [詩編]

 詩編第145篇です。

 詩145:1-21〈わたしの王、神よ、あなたをあがめ〉
 題詞は「(アルファベットによる詩)」

 主の御業を語り継ぎ、主による<とこしえの主権>と永遠の統治を讃える詩。第四ダビデ詩集の掉尾を飾るに相応しく、外へ向かうよろこびと感謝の想いに満ちあふれた作品である。数あるダビデ詩篇のうちでも最上の一篇、と断言してよかろう。
 イスラエルという主により選別された嗣業の民で構成された国家の王として、またサムエルによって頭へ油注がれて神の主権・統治を代理する者として、臣下・国民にして主の御言葉を胸へ刻む会衆を率いて、自分たちの神、万軍の王たる主を讃えるダビデ。その信仰が十全に吐露された詩篇として、なによりもこの詩145を尊びたい。そうでなくともこの詩は、神への讃歌として非常に心のこもったものである。優れた詩、とはこういう詩だ。
 マイケル・ジャクソンに「クライ」という歌がある。特にそのうちの一節が問いかけとなって詩145の祈りの詩篇を想起させること、こんな読み方も近頃わたくしはよくやっている。牽強付会(けんきようふかい)と揶揄されようけれど、斯様にゆるいつながりを思うての鑑賞が許されることも、「詩編」の懐の深さの証しといえるのでないか。そのMJの歌詞とはこうだ、━━「And will the sun ever shine/In the blind man's eyes when he cries?」(光を失った人が涙を流す時/その頭上にも太陽が降り注ぐんだろうか? [泉山真奈美・訳])

 「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ/あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。/その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。/あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。」(詩145:1-13)

 「主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。/主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし/主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。/主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。/わたしの口は主を賛美します。/すべて肉なるものは/代々限りなく聖なる御名をたたえます。」(詩145:17-21)



 「クライ」は生前最後のオリジナル・アルバム『インヴィジブル』の13曲目だが、当時はあまり注意の向かない歌であった。火事のあとでしみじみ耳を傾けてすごく気に入った。いまでもこの歌を聴くと、涙が出て来る。そうでなくとも、想いは沈潜してゆく。
 「ユー・ロック・マイ・ワールド」や「バタフライ」などに較べると霞みがちな「クライ」。が、それらよりもこの歌を偏愛している。すっかり歌詞も暗記しているぐらいだ。それゆえか、詩145を幾度も読んでいるうちにその世界がわたくしのなかに浮かびあがり、しっくり馴染んだのは。よければ聴いてみてください。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0846日目 〈詩編第144篇:〈主をたたえよ、わたしの岩を〉&連載中に報告できなかったこと。〉 [詩編]

 詩編第144篇です。

 詩144:1-15〈主をたたえよ、わたしの岩を〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 思うのだが、「詩編」には同工異曲の作品が多く、毎日一篇ずつ読んでいると流石にげんなりすることもあるのに、それでも毎日それらを(そのときなりに)真剣に取り組み、読み終えノートを認め終えるごとに、静かな余韻とさわやかな満足とあたたかさに満ちあふれた幸福を覚えるのは、なぜなのだろうか。
 それはおそらく、すべての詩篇が読者へ直接語りかけてくるからだ。どこかしらに必ず琴線へ触れる箇所がある。或いは共鳴し、或いは慰めてくれる箇所がある。だから、毎日読み続けられるのだ。それは信徒であるか否かを一蹴し、超越した普遍の事実である。
 前置きが長くなったが、詩144についてもやはり過去に読んだ作品群に同傾向のものがあった。
 しかし、ここでわれらの心を惹くのは、主の教えに従わない衆が討たれることを望むのではなく、<人間>というちっぽけでなににも足らぬ存在へ主が目を配り、思いやってくれることへの感謝についてである。そのような主をわれらは讃え、幸いと思う。
 結びの一節にすべての感謝の想いが凝縮されている、そうわたくしは信じて揺るがない。そこに曰く、━━「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」(詩144:15)
 いとやんごとなき詩(うた)、と申せよう。

 「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。/人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」(詩144:3-4)

 「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫びもない。」(詩144:14)



 小説を連載している間に思うておったことを書く。
 まず、予告通りドストエフスキーは『永遠の夫』(新潮文庫)を読み始めた。でも、日々のあれこれにかまけて、短い作品なのに、否、短い作品ゆえの気楽さか、数ページずつぐらいしか読み進められていない。ようやく前半1/3を消化、というところだ。いつものペース、と開き直ればそれまでですが。たっぷり楽しみ、堪能するとしよう。
 携帯電話を新しくした帰りに寄った書店で村上春樹の新刊『雑文集』(講談社)を発見。即買いした。これまで単行本に収録されなかったエッセイなど収めた本だが、やはり、ヤスケンについて書いた文章と、ジャズ喫茶店主時代に一問一答形式で書かれた開業にあたっての指南(?)はありませんでしたね。これらがあれば、個人的には完璧だったのに……でも、日本初のスティーヴン・キング研究読本に書いていたなんて気が付かなかった━━高校時代に買って耽読していた本なのに。いま確かめてみたら、本当だ、寄稿している(当たり前だ)。この際だから、1980年代前半のキング受容を振り返る意味も兼ねて、ベッドへ持ちこんで読み直そう。
 一昨日の《カルメン》と昨日の『シネ響 マエストロ6』の感想は後日。『相棒2』は……どうしようかな、と思案中であります。
 おお、そうだ、リン・カーター『クトゥルー神話大全』(東京創元社)とP.G.ウッドハウス『お呼びだ、ジーヴス』(国書刊行会)が刊行されて購入した、ということもメモとして付け加えておこう。
 他にもいろいろあるが(なんといっても1週間ぶりの通常エッセイだ)、今日はここまでとしておこう。追伸;来週月曜より以前の職場へ戻ることと相成った。以上。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0845日目 〈詩編第143篇:〈主よ、わたしの祈りをお聞きください。〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」あとがき。〉 [詩編]

 詩編第143篇です。

 詩143:1-12〈主よ、わたしの祈りをお聞きください。〉
 題詞は「賛歌。ダビデの詩。」

 四面楚歌に陥った者が主の力に依り頼んで敵が滅び、(自分の)魂が救われることを望む詩篇。
 太古から今日までに揮われた数々の御業へ思いを馳せ、「乾いた大地のようなわたしの魂」(詩143:6)に恵みと慈しみを与えてほしい。━━主は普遍に臨在する、という前提ありきだが、本当に困難に遭って苦しむ者ならではのすがりつく想いが炸裂した一篇である。剥き出しになった感情が斯く言わしめたのか? おそらくそうであろう。だからこそ、言葉に力がこもっているのだ。
 もう一つ、ここで作者は、主を信じる者たちをどうか正しく導いてほしい、とも願う。この詩篇を同傾向の作物よりも一段高い位置に押しあげているのは、、この<正しい道へ導いてほしい>という希望ゆえだ。そうだ、助け出された後に来るのは感謝と讃美。主を崇め、主を讃え、主の御言葉と御教えを、しっかり心に刻んで生きてゆく。「恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」(詩143:10)という詩句が意味し、諭すのは、そういうことであろう。

 「行くべき道を教えてください。/あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」(詩143:8)

 「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。」(詩143:11)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」あとがき。
 やや無謀な挑戦が終わり、今日(昨日ですか)は浮き立つ気分でビゼーのオペラ《カルメン》を観てきました。
 以前ご紹介したことのあるLivespireシリーズ、「ワールドクラシック@シネマ2011」の第一弾となる作品。上映終了までわずか、ということもあってか某映画館はそれなりの活況でした。嗚呼、でも寝不足の体を引きずってでも出掛けてよかった! 至高の体験でした……とは言い過ぎか、さすがに。
 これの感想は既に(初稿ながら)認めてノートに蓄えてありますので、「詩編」が終わったら、時期を窺って公開します。このあたりは「シネ響 マエストロ6」と同じですね。
 さて、小説ですが、これは一種の挑戦でした。概ねお察しかもしれませんが、「人生は斯くの如し」は完成作品を適当にぶった切って公開していたのではありません。大まかな見通しがあっただけで、悪くいえば見切り発車に近いものがありました。それだけに、連載の重圧には苦しみましたが(斯様に未熟な掌編であろうとも)、一方で、次はどうなる、次はどう来る、と、いろいろ楽しんで書くこともできたのです。或る意味、スリルはあったかもしれない……。
 全体の見通しが立ったのは、第3回のプロットを作っていたとき。いつも行くLMのスタバで白紙のノートを前にうんうん唸っているとき、ピカーッ、ピコーン、と頭の上でランプが光り、ベルが鳴ったのです(いや、マジですって)。それからは躓いたり悩むときもあったけれど、割にすいすい書けた━━ような気がする。記憶は美化されるものですね。
 とはいえ、ブログへ公開したのは謂わば初出稿です。改訂の手は緩められません。新しいヴァージョンが仕上がったら、その旨ご報告します。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0844日目 〈詩編第142篇:〈声をあげ、主に向かって叫び〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第8回(終)〉 [詩編]

 詩編第142篇です。

 詩142:1-8〈声をあげ、主に向かって叫び〉
 題詞は「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り」

 過去に読んできたと同様、ダビデ伝承に基づいた詩篇の一つ。並行箇所はサム上22:1,サウル王に追われたダビデがアドラムに潜んだ挿話である。
 窮地へ追いこまれて魂は萎え、頼る相手もない者が、主に救いと憐れみを乞うて叫ぶ。生き長らえて、無事に主の御名へ感謝することができますように、と。
 彼(ら)にとって主は唯一の救い手、唯一の頼り手なのだ。

 「主に従う人がわたしを冠としますように。/あなたがわたしに報いてくださいますように。」(詩142:8)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第8回(終)
 「こんな日に限って客が来る……」
 チャイム・ベルが来客を知らせました。メイドは一頻り涙を流したあと、顔を洗いに行っていましたが、その音を聞くと奥へ通じるドアから顔を覗かせて、いらっしゃいませ、と入ってきた学生3人に笑顔でお冷やを出しました。3人はどうやら野菜カレーを注文したようでした。
 そういえば今日のランチは野菜カレーである、と外の黒板にありました。わたくしもそれにすればよかったな、と反省しましたが、あとの祭りです。注文を聞いたときにメイドが少し眉間に皺を寄せた理由が、今更ながらわかりました。わたくしはオムライスを頼んんでしまったのでした!
 カウンターの向こう側でカレーを作りながら、メイドが鼻歌を歌っているのが聞こえてきます。店内の音楽に紛れてすぐにはわかりませんでしたが、それはわたくしにも聴き覚えのあるオペラのアリアだったのでした。<誰も眠ってはならぬ>、プッチーニ最後のオペラ《トゥーランドット》で王子カラフが朗々と歌いあげる愛の告白の歌でした。バロック音楽を背景にプッチーニとは、なんと面妖な組み合わせでしょうか。
 それでもわたくしは、これを聴きながら、少し安堵していたのです。最前まで留まることのないように泣きさんざめいていたメイドが、いまは鼻歌をハミングできるまでに気を取り直したように思えたからです。後年になってそれを伴侶へ問わず語りに話すと、まったくあなたは女をわかっていないねぇ、と蔑みの目で、憐れむような眼差しで、見下されたものですが。
 冒頭の台詞は、カレーを平らげて出て行った彼らを見送り、わたくしの後ろを通り過ぎ様に放った彼女の愚痴です。「こんな日に限って客が来る……」
 これからオムライス作るね。そう続けていうと、再びカウンターの向こうへ引っこみました。顔を伏せたまま、「自分が食べる分は自分で作ってほしいんだけどねぇ、ウッド氏の場合は」と、さらり、といわれると、本当にそうした方がいいのかな、と疑念に駆られ、思わず椅子から腰が浮きかけました。冗談に決まってるでしょ、と呆れたような視線が投げかけられなかったら、カウンターの向こうへ足を踏み入れていたかもしれません。
 「手料理、ご馳走するんじゃなかったな」
 苦笑混じりにせめてもの反撃を試みました。が、それは無言で流されました。完敗です。そもそも彼女に勝とう、という発想自体が悪かったかもしれません。<女性は男性の偉大な教育者である>(アナトール・フランス)といいますが、われわれはそれを地でゆく2人かもしれません。
 ねえ、とメイドが呼びかけました。ぼく? 他に誰かいたっけ? いや、いないな。店内を見廻してそう答えて、なに? と訊ねました。
 「ケチャップでなにか書いてほしい?」
 それはまさしく小悪魔の口調でした。任せておくと、ろくでもないメッセージや絵記号を書きかねません。いいや、とわたくしは断りました。「なにも書かなくていいよ。書かないでね」
 しかし、━━「もう遅いぃ」と返ってきたのは、まあ、想定内といってよいでしょう。
 運ばれてきたオムライスに書かれたメッセージ、否、日附、という方が正確でしょう、それの意味がどうにもわかり難く、「これはなに?」とぽかん、とした顔で脇に立つメイドを見あげました。
 ややあって、ごめんねウッド氏、と囁くような、やっと吐き出すような調子で、薄く開かれた唇の間から声が洩れました。これまでに見たことのない、思い詰めたような表情をしています。まだ少し赤い眼が、再び濡れてきていました。
 「この日附って……」まさか、と或る考えが閃きました。考えたくないことでした。「違うよね?」
 頷くことも頭を振ることもなく、うつろな眼差しでメイドは片手をカウンターに突いて、「その日にね、お店を閉めることにしたの」と、事情をかいつまんで話してくれました。
 「これまで来てくれて、ありがとうね。ウッド氏」
 ━━オムライスを食べ終えてもなお去り難かった。まだ1週間あると雖も、ひとたび席を立ったら、もう二度と彼女に逢えないような気がしてならなかったのです。「それこそ」とやっとの思いでわたくしは吐き出しました、「それこそ、なぜ昨夜いってくれなかったんだよ」と。
 言葉で答える代わり、でしょうか。背中からメイドが、包みこむようにわたくしをかき抱きました。亡き婚約者への、まだわずかに残ってこのまま陰府へ持ってゆくであろうと思っていた、わずかばかりに残った亡き婚約者への想いは、メイドの心のあたたかさと肌のぬくもりに取って代わられ、わたくしのなかから、すーっ、と消えてゆくのを感じました。でも、もうお別れなのでした……。
 それから1週間後に喫茶店は閉まり、商店街の人々と喫茶店の常連が集まって、お別れ会が催されました。わたくしも呼ばれていたのですが、取引先の上役に引きずり回されて行くこと叶いませんでした。でも、行かなくてよかった、と思っています。行けば淋しさは増すばかりで、たぶん、彼女の顔を面と向かって見ることはできなかったでしょうから。
 ━━慌ただしく1年が過ぎました。喫茶店だった場所は蕎麦屋になりました。主人がかつて管理部にいた石田さんなのには驚きました。会社にいた人間はみな、そうだったようです。残念なことに、開店の際に顔を出して以来、足を向けたことがありません。帰ってくる頃にはもう暖簾が仕舞われていますから。でも、石田さんと近くの居酒屋で一緒になることはよくあります。
 新しい職場にも馴染み、てくてくコテージへ帰ってくると、1階の電気が灯っていました。最近よくあるのですが、どこかしらの電気を点けたまま、ばたばた出勤することが多く、そろそろ玄関ドアの内側に、<電気全部消したか確認しろ>、なんて貼り紙でもしておこうか、と考えています。先月など電気代がふだんのほぼ倍にまでなった程です。幸い、今日は金曜日。明日、否、今夜にでも書いて貼ってしまいましょう。
 あれ、と思いました。鍵が開いているのです。これだけは間違いない、出勤するとき鍵はちゃんと掛けた。闇雲にドアを思い切り開いて、屋内へ足を一歩踏み入れる━━まるで海外ドラマの登場人物になったような気分でもありました。が、部屋にいる人物と目が合った途端、へなへな、とその場に坐りこんだのは、或る意味で当然のことだったでしょう。
 彼女が、そこにいました。1年前と変わらぬ童顔で、髪も肩にかかるかどうかぐらいの黒髪で、あの懐かしいメイド服も着ていました。おかえり、と片手をあげて、にっこりと出迎えてくれました。
 おかえり。そう小さな、震える声でいうと、わたくしは彼女を、正面から抱きしめました。抵抗にも躊躇いにも遭いませんでした。「逢えると信じていた」
 「ここにいて、いいよね?」もちろん、とわたくしは頷きました。よかった、と呟いて、彼女は私の背中へ腕を回し、体をより強くすり寄せてきました。「人生は斯くの如し、だよ。ウッド氏?」◆

共通テーマ:日記・雑感

第0843日目 〈詩編第141篇:〈主よ、わたしはあなたを呼びます。〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第7回〉 [詩編]

 詩編第141篇です。

 詩141:1-10〈主よ、わたしはあなたを呼びます。〉
 題詞は「賛歌。ダビデの詩。」

 主はいつもでわれらの傍にいて、われらを見守ってくれる。━━詩139にあった信頼の祈りを前提にして、詩141の作者は呼びかける、主よ、すみやかにわたしに向かい、耳を傾けてください、と。
 本詩は、誘惑に屈することのないように心を強く、確かに保つことを約束し、悪を行う者が主の網にかかって投げ落とされることがあっても、どうかわたしだけは免れることができますように、と願う詩篇である。心が弱まれば誘惑に支配され、行動してしまう。それを諫め、戒める作物でもあるわけだ。
 一点だけ疑問がある。第7節、骨を陰府の入り口に散らされた「わたしたち」。それは即ち、悪を行う者であろう。彼らが作者の祈りを聴き、喜び、自分たちの骨が陰府に散らされた、というのは、一種の逆説的表現と捉えてよいか。最初読んだときはわからなかったが、何度か読んでゆく過程で、もしかすると、と考えるに至ったわたくしなりの解釈であるが、良しや悪しや?

 「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。/わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。/悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。/彼らの与える好餌にいざなわれませんように。/主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。」(詩141:3-5)

 「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。/わたしの魂をうつろにしないでください。/どうか、わたしをお守りください。/わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。/主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」(詩141:8-10)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第7回
 カウンターの椅子に坐らされてわたくしの上に雷が落ちました。不安は的中したのです。
 雪を除けた喫茶店の入り口で、足が躊躇いました。軒先を行ったり来たりしている内に不安は成長してゆきました。
 ブルーの日除けの下に並ぶレンゲツツジの枝が、中からも外からも視線を遮り、あまり見通しは効かないはずでした。初めてここへ入ったときに気附いて、物騒だな、と他人事ながら心配した覚えがあります。
 しかし、さすがに何度も行ったり来たりを繰り返していると、中にいる人は往復するシルエットに怪しさを覚えるようであります。ドアに付けられたチャイム・ベルが、からん、と軽やかな音を鳴らしました。振り向きざまにメイドと目が合いました。仁王立ちして腰に拳を当て、頬をぷっくら膨らませて、こちらを見据えています。振り返ったまま、その場に立ち竦みました。蛇に睨まれた蛙。そう形容するのに相応しい状況でした。
 「入ったら? 寒いでしょ?」
 仏頂面のままでしたが、いつもと同じくほんわりとした口調。それに幾許かの安堵を覚えました。
 先客が1組、ありました。伝票を持ってレジへ歩いてきます。カシミヤのコートとマフラーに身を包み、背筋を伸ばした白髪の老人と、痩身で取り立てて美人ではないが男好きのする顔立ちをした、化粧の薄い女性でした。メイドは、ありがとうございました、といいながらカウンターの内側にまわり、会計を済ませて、彼らを送り出しました。またどうぞ。つられてわたくしも同じ言葉を口にしました。扉を閉めたときのメイドの目が、ちょっと怖かったですね。
 さて。わたくしとメイド以外、誰もいなくなりました。途端、視界が灰色に染まるような感覚に襲われました。これから始まるであろうメイドの尋問を思うと、天井のスピーカーから流れているバロック音楽は、やけに皮肉たっぷりのBGMに感じられます。まさしく<いびつ>としか言い様のない組み合わせでした。
 「では、ウッド氏━━」
 彼女は隣りに腰をおろすと、カウンターへ背を向けて、凭(もた)れ掛かりました。自然と上半身を反らす格好になり、胸のラインが強調される姿勢となりました。わざとらしくならないよう目を反らすのに、少しばかり努力が必要だったことは申すまでもないでしょう。
 「来てもらった理由、わかるよね?」
 ああ、とわたくしは頷きました。説明の前に落ち着こうと思いました。コップに並々と注(つ)がれた水を呷って口を湿らせると、向き直って彼女を真正面から見据え(額から髪の生え際あたりに視線を固定させました)、口を開きました。が、━━
 「おっと、その前に」とメイド。「注文もらって、いいかな」
 気勢を削がれました。出鼻を挫かれる、というのは、こんな風な場合をいうのでしょうね。おたおたしながら、無難に<晴れの日ブレンド>を注文しました。━━。
 「あなたの口から聞きたかったな」と、カウンターの向こうから、ぽつり、と彼女がいいました。「ウッド氏の会社の内情なんて、私も知ってるんだから、隠す必要なんてなかったのに」
 「隠したわけじゃない。つい言いそびれたんだ」
 「同じことよ」鼻を啜る音がかすかに、でも確かに聞こえました。「非道いよ」
 思わず椅子から腰を浮かしました。でも思い留まってすぐに坐り直した、カウンターの向こうでコーヒーを淹れている彼女が「あっ」と小さく声をあげたからです。再び鼻を啜る音。ねえウッド氏、と呼びかける彼女の声がわずかに震えているのに、そのとき気が付くべきだったかもしれません。
 「失敗しちゃった。すぐに淹れ直すね」
 ━━ややあって運ばれてきたコーヒーは、少ししょっぱい味がしました。隣りへ坐り直した彼女は先程と同じようにカウンターに背を向けて、しばらく俯いたまま指先でエプロンの皺をいじくっていました。
 長い、長い時間が流れたように思います。お互い、何一つ言葉を交わすこともなく黙りこくっていました。やたらに明るい曲調のバロック音楽がわれわれの間に、あたかも野次るように流れ続けている。彼女がわたくしへ凭れてきて、さめざめと涙を流し始めた━━斯くしてその長い時間は終わりを告げました。そうして、噎び泣くその声は一時(いつとき)ながら音楽を退けたのです。(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0842日目 〈詩編第140篇:〈主よ、さいなむ者からわたしを助けだし〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第6回〉 [詩編]

 詩編第140篇です。

 詩140:1-14〈主よ、さいなむ者からわたしを助けだし〉
 題詞は「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」

 出陣にあたって歌われたのであろうか。自分を、われらを包囲する敵から救い出してほしい、主はわれらのように貧しく乏しい者の叫びへ耳を傾けてくださる。「主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。」(詩140:9)
 わたくし自身何度も書いてきて、ああまたこの類の歌か、と思う。が、ふしぎとこの詩篇には惹かれるものを感じる。イスラエルに攻撃の手を伸ばす諸国の敵、即ち彼らの神なる主の道を歩むのをよしとしない衆が、他ならぬ主の御手、主の御力、主の御業によって滅びてしまうのを望む詩篇であるのだけれど、詩140が他と少し異彩を放つのは、篇中にて敵対者の徹底的な滅びを求めている点である。
 この徹底ぶりは状況がなさしめたものであろう。出陣にあたって、と冒頭に記したのはそうした理由による。怖じけがちな兵の士気を統一・鼓舞して、主に逆らう者、不法の者へいざ立ち向かいこれを討たん、という場面に於いて、この詩篇がもたらす効果は、この詩篇が果たす役割は、如何ばかりであったか。━━王朝と王国の存続が雄弁にそれに応えている。

 「主にわたしは申します/『あなたはわたしの神』と。/主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。/主よ、わたしの神よ、救いの神よ/わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。」(詩140:7-8)

 「わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。/主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。」(詩140:13-14)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第6回
 昼過ぎ。メイドを見送って扉を閉めた、まさにそのときでした。昨日の出来事━━リストラの件を彼女へ伝え忘れたのに気附いたのです。一瞬悩みましたが、あの子のことだからそのまま引き返してくるとも限りません。メールであれ電話であれ、連絡は控えました。
 リビングへ戻ると座卓に、マグカップが二脚、肩を寄せ合うように置いてありました。帰る前にコーヒーを淹れてくれたのです。屈んでマグカップの取っ手が指に触れるや、午前中のあれこれが際限なく思い浮かび(プルーストの主人公もこんな風だったのでしょうか)……いわれようのない侘びしさと淋しさに襲われ、その場に頽(くずお)れてしまいました。
 半日程度の時間でしたが、それは一人暮らしの限界を痛感させるにじゅうぶんな時間でもありました。一緒に暮らす相手がいたら、同じ所作であっても斯くも潤いのあるものになるのか。びっくりはしましたが、今朝だって隣で寝ているメイドを見ていて、とても安らいだのです。このままこの子がここにいてくれたら、と考えないわけではありませんでしたが、一歩を踏み出す勇気を欠く男というのは、こんな場面に於いても積極的な行動には移れないもののようです。
 コテージのなかを見廻すと、室内のあちこちにまだメイドの気配がはっきりと、濃密に刻印されていました。キッチンで朝食を準備し、コーヒーを淹れる彼女の後ろ姿が、脳裏から離れそうにはありませんでした。耳を澄ませば、どこかから不意に、彼女の声が聞こえてくるような、そんな錯覚さえしたのです。
 ━━サイド・ボードの上の、例の婚約者の写真が目に止まりました。自然とそれに手が伸びました。細長い溜め息がフォト・スタンドのガラスを曇らせ、婚約者の微笑を覆い隠しました。……そろそろ、前に進んでもいいのかな? そう口のなかで呟いてみましたが、踏ん切りが付くには至りませんでした。
 自分の態度の曖昧さに呆れながら自分の部屋へ戻って、パソコンを立ちあげました。なんとか転職先の目星をつけておきたかったのです。幸いなことに、と申すべきか、電車で1時間程行った海辺の街にあるリース家電の会社でルート営業を募集していました。給料は少し安くなりますが、家賃を払うわけでもなし、ローンを払わなければならぬわけでもなし。生活費と貯金ができればまずは異存ありませんので、取り敢えずwebサイトから自己PRや職務経歴など、所定フォーマットに記して応募を済ませました(他にも、最終的に9社へ応募して2社から内定を頂きました。時系列を乱すようで申し訳ありませんが、結局、最初に応募したこのリース家電の会社に転職して、なんとか元気に働いております)。
 そのあとも幾つかwebの求人サイトを閲覧していたら、すっかり日は暮れて宵時になっていました。<その日の行動記録>になってしまっていますが、どうかご勘弁ください。これもわたくしを知っていただく一助となるか、と思いますため。米を研いでご飯を炊き、カツレツを揚げて付け合わせの自家製ポテト・サラダを皿に盛って、その晩の食事としました。テレヴィでは特に観たい番組がなかった、諦め半分でつけたラジオはジャズの番組を放送中。これは、いい、と思いました。たまたま、好きなアーティストの小特集が組まれていたのです。
 昨夜のワインをちびちび飲んでいたら、メイドの肢体が目の奥に浮かびました。むろん、実際に見たわけでなく想像の肢体でしかないのですが、むっちりと肉附いた、されど均整の取れた体つきで、滑らかで艶やかな肌と床(とこ)に散らされた黒髪がエロティックなまでのコントラストを放っていました。クラシカルなメイド服に隠された彼女の肢体は、その童顔も含めて、なににも増して美しい、と思いました。そこへ加えて、彼女がこのコテージで過ごしていたときの残像が被さり、なかなかベッドへ入る気分とはなりませんでした。思っていた以上の存在感を、どうやら彼女はわたくしのなかに残していたようです。
 ━━欠伸が連発して、出ました。時計の針は10時を回ったばかり。が、どうしようもなく眠気が襲い来たって抵抗するも空しい状態です。ぼんやりする頭で部屋へ戻った途端、携帯電話が鳴りました。慌てて取ると、誰あろう、かのメイドからのメールでありました。
 文面はシンプルに、「あした、店に寄ってね」とのみ。本来ならちょっと浮き足立つ場面でしょうけれど、却ってその素っ気なさに不安を覚えたのも、事実でありました。(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0841日目 〈詩編第139篇:〈主よ、あなたはわたしを究め〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第5回〉 [詩編]

 詩編第139篇です。

 詩139:1-24〈主よ、あなたはわたしを究め〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」

 イスラエルの神の普遍性とそれに伴う臨在を喜ぶ詩篇。
 主はいつ如何なる時、場所にも存在し、われらの声に耳を傾け、われらを苦境から救い出す。わたしが生まれる前から主はわたしをご存知である。どこにいても、どんな目に遭っていても、あなたはわたしを導き、わたしを照らしてくれる。
 「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。/曙の翼を駆って海の彼方に行き着こうとも/あなたはそこにいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩139:7-10)
 「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。/神よ、いかにそれは数多いことか。/数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」(詩139:17-18)
 どうも引用が長くて済まないが、一行一行きちんと嚙み締めて読むと、すこぶる感動させられる詩篇だ。奇妙なまでの明るさと揺らぐことなき信仰が同居していて、個人的に大好きな詩編なのである。それゆえに原稿も少々乱れた箇所があるけれど、どうかご寛恕願う次第だ。読者諸兄よ、ぜひ直接原文にあたられよ。

 「神よ、あたしを究め/わたしの心を知ってください。/わたしを試し、悩みを知ってください。/御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。/どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」(詩139:23-24)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第5回
 「仕事で、なにかあったの?」わたくしは重ねて訊ねました。
 刹那の後、彼女は、くすん、と鼻を啜り、目を指で拭ってから、顔をあげました。充血して、真っ赤になった目でした。ウッド氏、とか細い声でわたくしの名を呼んでから、彼女の視線はそのままわたくしの肩の向こうへ据えられました。
 その視線の先には、壁際のサイド・ボードの上に置いたフォト・スタンドがあります。写真? 指でそちらを示すと、彼女はこくん、と声もなく頷きました。
 「どなた?」抑揚のない声でした。「元カノ?」
 元カノ、というてよいか判断に迷いますが、まあ、同じような存在です。なにか一杯飲みたい気分に駆られました。甦ってきそうな哀しみを紛らわせたかったのです。そうすれば、少なくとも自暴自棄にはならなくて済む。過去の経験からそれをよく知っているのです。
 ただ、彼女にそのまま伝えてよいものか、悩みました。包み隠さず、ありのままに白状すればいい。でも、気まずい空気になってしまうのが嫌だったのです。楽しい気分のまま、今日一日が終わってほしかったのです。
 じーっ、とメイドの視線が固定されているのが、否応なく感じられます。なにか説明されない限りあきらめない、そんな断固とした決意も、その視線には込められていました。諦念の境地に至った感があります。真実を伝えることにしました。何年も通って馴染みになった喫茶店のメイドに、今晩仕事をするためと雖も泊まりに来た彼女に、素直に心を開いて、ありのままの自分の過去を曝すことにしたのです。
 「この女性ね、ぼくの許嫁だった人だよ」
 ひゅっ、と喉の鳴る音がしました。メイドの表情が硬くなっていました。
 「病気で死んじゃったんだ。もう10年以上になるかな」
 案の定、重たい沈黙がリビングに落ちました。予想はしていたのです、こうなるであろうことは。メイドは俯いてしまい、わたくしはなにも映っていないテレヴィ画面を眺めました。どれだけの時間が流れたか、よくわかりません。壁時計の針の動く音が実際以上に大きく聞こえ、エアコンの唸る低い音は無為な心をささくれ立たせるようでした。鼻で呼吸する音さえ、一時の沈黙を破るためにのみしているようではないか、とさえ思えてなりませんでした。
 ……でも、この重たい沈黙を破ったのは、彼女でした。渡りに船、という感じでした。彼女がそのとき、くしゃみをしなかったら、沈黙はいつまで続いていたかわからなかったのですからね。
 わたくしは立ちあがって、「お風呂を沸かしてくるね」といって、リビングを出ました。ついでに、隣の和室に彼女の布団を用意して、寝支度を整えさせました。英国ではこんなとき、来客のベッド・サイドに誰だかの短編集を用意する、と仄聞します。これに倣ってわたくしも、今世紀になって脚光を浴びた女性作家のデヴュー短編集と、前世紀の英国で活躍して女王陛下もご愛読された最強のユーモア作家の短編集を、それぞれ用意しておきました。ちょっとキザであったかもしれませんが、この選択にわたくしは自分の気持ちをこめたつもりでおります。
 安堵したことに風呂あがりのメイドは、いつもと変わらぬ天真爛漫で屈託のない女性に戻っていました。それが演技であったとしても、男はそれに素直に騙されていればよいのです。それが、関係を円滑にするための努力なのです。
 「ワインでも飲む?」と訊いたら、すぐさま「もっちろーん!」と返事がありました。
 あんまり強くないんだけれどね。彼女はそう断りながらもグラスに4杯ぐらい飲んだのでした。目がトロンと落ちていました。唇を半開きにして両頬をすっかり染め、座卓に突っ伏すような姿勢でこちらを見あげました。「ねぇえ?」
 眠くなったの、お嬢ちゃん? 寝床はあっちだよ。
 「あー、いやらしいこと企んでるぅ」
 けらけらと、締まりのない顔で笑ってそういわれました。確かに、濡れた長めの黒髪とほのかなシャンプーの香りにそそられはしましたが、理性をなくす程ではありません。
 「私はさぁ、かなえたい夢があってずっと働いてきたのね。その夢も翻訳家の肩書きをもらってからはどこかに忘れてきちゃったようでぇ。ひっく。で、んーと、あれ、なんだっけ? 私、なに話そうとしていたのかなぁ、わかる? わかるわけ、ないか。ウッド氏だもんなぁ」
 ウッド氏だもんなぁ、とはどういう意味だ。そう、ふだんなら返しているところですが、今夜は彼女の話すべてに耳を傾けていたい気分です。ツッコミはやめておきました。
 だけどね、とメイドがいいました。「いまの私があなたに伝えたいことは一つだけなの。聞いてくれる?」
 ああ、とわたくしは頷きました。どきっ、としました。それも宜なるかな、というところでしょうか。このまま奈落の底へ突き落とされてもいい気分になってきました。
 「ううん、やっぱりいいや。この関係が壊れちゃいそうだから」それからわたくしを見て、「━━でも、いつの日か、聞かせてね。亡くなったあなたの許嫁のこと」
 その眼差しに一瞬、怯みました。「その内に、機会があればね」というのがやっとでした。
 ずるいよ、ウッド氏。こんなに━━、
 言葉の途中で彼女は、ごちん、と額を座卓にぶつけて、そのまま寝息を立て始めました。
 やれやれ、というところでしょうか。ワインとグラスを片附けて、よっこらしょ、と布団まで運んで寝かせると、さもしい気分にならぬ内に、とその場を撤退しました。
 でも、彼女の寝顔は、可愛かったのです。
 風呂を出てから和室を覗くと、自分の部屋へ引っこんで早々にベッドへ潜りこみました。明日は土曜日、どの企業もお休みですが、webで求人情報を探すことは出来る。気になるのがあったら、吟味して(そんな余裕もないのは承知ですが)、応募しよう。どんな会社でも、というわけではないが、或る程度の当たりをつけておくに越したことはありません。
 今日は、生活を大きく揺るがすような体験を2つ、しました。リストラの知らせと、メイドの来訪。<±0>━━否、+が-を上回った日でした。至福、という表現は大仰ですが、間違ってはいない、と信じております。一つ屋根の下に誰かが一緒にいる幸せ。それを噛みしめながら、満ち足りた気分でわたくしは休みました。
 だのに、━━目覚めてみたら、この状況はいったいどうしたことなのでしょう。ぼんやりした頭でカーテンの隙間から外を見やると、寝ている間に降り積もった雪に朝の陽光が照り返していました。そのせいでか、室内はふだんより幾分明るく感じられます。
 明日のことを思い煩うな、と、古来よりいわれてきました。が、今日は━━その日はまだ始まったばかりで、土曜日の、まだ午前7時です。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。福音書にある有名なこの一節を敷衍すれば、つまり、いま眼前に広がるこの情景について一日たっぷり思い悩みなさい、ということでしょうか?
 嗚呼、それにしても、まったく記憶がありません。
 なぜメイドがわたくしの寝床にいるのでしょう。しかも、なぜ彼女はすやすやと小さな寝息を立てて、Tシャツとショーツだけの、斯くも無防備な姿を曝してぐっすり寝ているのでしょう。
 嗚呼、わたくしには、まったく記憶がないのです。(…to be continued…)◆

 ○さんさんか追記
 昨日〈第0840日目〉の小説第4回を改稿しました。併せて再読などしていただけるとうれしいです。

共通テーマ:日記・雑感

第0840日目 〈詩編第138篇:〈わたしは心を尽くして感謝し〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第4回〉 [詩編]

 詩編第138篇です。

 詩138:1-8〈わたしは心を尽くして感謝し〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 これまで読んできたなかで、ダビデの信仰が、いちばん純粋な形で結晶した詩篇に思う。
 苦境にあって主の言葉に導かれた者がささげる感謝。イスラエルの神への信仰は、諸国へ広く、あまねく浸透するだろう、という確信。それが、詩138の柱である。「呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました」(詩138:3)という詩句に、そのあたりの感情が余すところなく盛りこまれているのではないか。わたくしは、そう考える。
 ただ、ダビデ詩篇にしては━━ダビデ作として━━引っかかる言もある。第2節「聖なる神殿に向かって」云々というのがそれだ。ご承知のように、ダビデの御代に神殿は存在していない。造営の準備が進んでいる、というだけの話だ。そう考えると、この神殿とは、神の箱が安置された幕屋をいうのか。或いは━━ダビデを作者と仮託した後世の作物?
 斯様に些細な疑問はあっても、この詩138、なかなかどうして、大して優れた詩篇である。哀しみの詩篇であった詩137のあとにこうした力強い詩があるのは、ずいぶんと気持ちの良いものだ。改めて「詩編」の奥深さを実感させられた次第である。

 「わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。/御手を遣わし、右の御手でお救いください。」(詩138:7)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第4回
 帰宅して大急ぎで作った檸檬ソースのパスタを口へ運ぶメイドを見ていたら、胸のずっと奥の方がぬくもってゆくのを感じたのです。わたくしはふだん、なんと物侘びしい生活をしていることでしょう。誰かと一緒に食卓を囲む、というのが、斯くも気持ちを充足させてくれるものであったことを、すっかり忘れてしまっていたようです。
 だからこそ、
 「料理、上手だねぇ。知らなかったよ」
なんていうメイドの何気ない一言が、わたくしの心に触れて新しい感情をかき立てたのも、いまにして思うとまったくふしぎでありませんでした。
 「こんな美味しいパスタを食べたのなんて、久しぶりだなぁ」
 社交辞令とわかっていてもうれしいものです。わたくしは弾む声を抑えられぬまま、「独り暮らしが長いから。履歴書に<趣味・料理>って書いたこともあるよ」
 ふんふん、と頷きながら、「転職先が見附からなかったら、うちの喫茶店で働きなよぉ」とメイド。
 「料理人として? なら、調理師免許をがんばって取ることにするよ」
 メイドがこちらを見て、「本気でいってるんだけど?」と不服そうにいいました。
 「あ、そう……じゃあ、そのときはよろしくね」
 ウィ・ムッシュゥ、と頷いて、再びパスタを食べ始めるその表情には、得も言われぬ幸福感が貼りついていました。これを至福の表情といわず、なんというべきなのでしょう。
 すっかり空っぽになった皿を差し出されました。お代わりを、というのです。が、残念ながらそれは用意していません。そう伝えると、うなだれた。かと思えば、すぐに手を伸ばしてわたくしの皿から堂々と、フォーク一巻き分のパスタをかっさらってゆく。
 可愛いな、と思いました。この子と結婚できる人は、きっとどれだけ貧乏していたりしても毎日を笑って過ごせるんだろうな、と羨ましくなり、一方で、まだ現れぬ彼女の結婚相手を想像して嫉妬の感情もわずかながら覚えたのは、否定できません。
 ━━家庭を持っていたら。そんな夢想を弄ぶわたくしを、メイドの一言が現実へ引き戻してくれました。「ねえ、このパスタのソース、どうやって作ったの?」
 試行錯誤の末のレシピなのでここには記しませんが、特別に彼女には教えておきました。こうしておけば、もし万が一わたくしの身になにかがあっても、彼女の店でこの檸檬ソースは生き続けてゆくことになるのですから。どうしても知りたい向きがあれば、彼女のいる喫茶店を探し当てて、檸檬ソースのパスタを注文してみてください。
 ━━「いやぁ、食べた、食べた。ごちそうさま、ウッド氏。たいへん満足したぞ」とメイドがいいました。「今度は私がなにか作ってあげよう━━こう見えてもいちおう、調理師免許は持っているんだからね」
 昼間、喫茶店に入るや見せたあの、ぶふふ、という笑顔(っぽいもの)を浮かべる彼女に、思わず「小悪魔」といってやりたい衝動に駆られたけれど、思い留まりました。ごちそうさま、と椅子から立って、わたくしの横を通り過ぎて食器を運んでゆく彼女の横顔に、一瞬間とはいえ、似合わぬ影が射しているのを認めたからです。
 その影の理由については、あとでわかりました。でもそのときのわたくしにはそれについてあれこれ考えるよりも、、誰かと一緒にプライヴェートな食事をした、という数年ぶりに経験した喜びの方が、ずっと優っていたのです。まったく、非道い話であります。
 洗い物を終えてリビングへ戻ると、メイドは座卓の上に広げたままの原書(アメリカの作家が書いた郷土小説、ということでした)に目を落としていました。でも、読んでいるのでない、というのはすぐにわかりました。ただ、目を落としていただけなのです。
 なんだか落ちこんでいるような、悩みを抱えているような、そんな雰囲気です。先程の明るい彼女とは打って変わった様子が引っかかりました。
 わたくしは斜め前に坐って、そっと訊ねました。「なにかあったの?」
 しばし無言、やがて彼女が小さく顔をあげました。垂れた前髪から透けて見える瞳が濡れているように見えました。しかし、それはわたくしの気のせいであったかも知れません。(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0839日目 〈詩編第137篇:〈バビロンの流れのほとりに座り〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第3回〉 [詩編]

 詩編第137篇です。

 詩137:1-9〈バビロンの流れのほとりに座り〉
 題詞なし。

 文句なしに「詩編」所収の全篇の内、最も感動的な詩編である。一方で、最も有名な詩篇であるのも事実で、パレストリーナやドヴォルザーク、リスト、アルヴォ・ペルトなど、多くの音楽家がこれに付曲した。ドヴォルザークの場合、《聖書の歌》Op.99/B.115という歌曲集の第7曲に、この第137篇が収められている。県立図書館クラスになれば『ドヴォルザーク大全集』を収蔵する所もあるかもしれない。探してみて、あれば、一聴されてみては如何か。
 詩137はバビロン捕囚期に詠まれた。<望郷の詩篇>と一言では片付けられぬほどの激しい哀しみが、この詩の底には流れているように思う。囚われの地で主の民は嘲られ、蔑まれる。君らの歌をうたえ、と。が、それはできないのだ、捕囚の地で、そこに住まう民のために、われらの神のための歌をどうしてうたえようか。━━ここに、すべての哀しみの情が詰めこまれているように思うのだ。
 連行されてきたユダの民は、しかし斯様なことからおわかりになるように、異郷に在っても自分たちの神を信じて従い、その道から外れるようなことはなかった、かの地の民が崇める神を退けて。鋼のように固く、絹のようにやわらかな信仰は、捕囚を経験することでより強く、信念に満ちたものとなった。逆境のときに抱く信仰程、心をたくましくするものはない。それが哀しみに裏打ちされたものであるなら尚更だ。
 この哀切な調子の詩篇は、さりながら最後で一条の希望をもたらす。バビロンという破壊者を倒す存在が現れることを予告するのだ。これが、やがてバビロン王国を滅亡させるペルシア帝国の登場を指すのは、まずいうまでもあるまい。
 本稿を閉じる前に、読者諸兄よ、詩137が、おそらくは預言者エレミヤ-エゼキエルの時代の作物であろうことを指摘し、併せて、「歴代誌・下」36:15-21の読書をお願いしておく。

 「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。」(詩137:1)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第3回
 その日、会社に戻ると、リストラされていました。正確にいうならば、例のMFD社━━北朝鮮の核開発に一役買っているらしい、とメイドがいっていました━━がわが社を吸収することとなり、従業員100名余のうち、8割近くの社員が解雇されることとなったのです。そのリストに自分の名前を見出すのは容易でした。
 珍しく定時で退社後、商店街の居酒屋へ行く連中と別れて、街灯がぽつん、ぽつん、とあるばかりの上り坂(いちおう、バス道路)を歩いていました。ウッドさん、と後ろから声をかけられたとき、わたくしは行く末について結論のなかなか出ない考え事をしていたのです。足を停めて振り返ると、管理部の石田さんが息を弾ませて小走りに駆け寄ってきました。彼も、リストラ対象として挙げられた人物でした。
 「行かなかったんですね、ウッドさんらしい」
 「誘われたんですけれどね。石田さんはてっきり……」
 そこまで飲んべえじゃありませんよ、と苦笑いしながら、石田さんは頭を振りました。そうしてからやっと、そういえば一昨年の秋に入院したんだよな、と思い出して、すみません、と謝りました。
 「いや、いいんですよ。でも、急でしたね。まったく噂もなかったのに」
 「事前にそれらしい気配があるものなんでしょうけれど……」わたくしはそういって、まだ半分ほどある坂道を見やりました。なんだか人の一生みたいだな、そんな風に思ったのを覚えています。「リストラなんて初めてだから、どうにも実感が湧かないですね」
 「ウッドさんは独身ですよね、まだ?」と石田さん。「あれ、結婚してましたっけ?」
 今度はわたくしが苦笑いをする番でした。実は30歳になろうという頃、縁談がありました。当時の営業部長のご令嬢でなかなかの器量良しだったのですが、こちらには病弱とはいえ交際中の女性がいましたので、出世と昇級を犠牲にしてお断りいたしました。解雇は免れたものの、部長の怒りと陰湿ないじめは避けられませんでした。そんな部長もそれから一年と経たぬうちに胃潰瘍で倒れ、退職を余儀なくされました。
 ああ、そんなことがあったんですか。石田さんはぽつり、と呟いて、頷きました。「私がこの会社に来たのは、じゃあ、その直後だったんですね」
 そうだったかもしれません。
 あれ、そういえば、と思い至りました。「石田さんはご結婚されていますよね。確か、息子さんが夏休みに倉庫のアルバイトに来られていた?」
 「そうです。あれも来年、大学を卒業ですよ」
 「他にお子さんは?」
 「いません」と石田さんがか細い声でいいました。「女房がね、息子を産んだあとはもう駄目な体になってしまって」
 でも、石田さんの御子息からは育ちの良さが感じられました。昨年の夏休みに倉庫の棚卸しで一緒したことがありますけれど、そのときのハキハキした様子にはまぶしささえ覚えたものです。きっと石田さんと奥さんがきちんと育てたのだろうな。それを伝えたときの石田さんのはにかんだ様が、いまでも思い出されます。
 そうこうするうちに、坂を登り切った場所にあるバス停へ着きました。石田さんはここからバス、わたくしはまだもうちょっと歩きです。バスを待っているのは、石田さんを含めて3人だけ。時刻表を見ると、到着予定時刻はもう過ぎています。それをいうと彼は笑って、そんなのしょっちゅうですよ大抵3,4分遅れてくるんです、と教えてくれました。
 ほら、見てごらんなさい。
 石田さんが指さした方、つまりわたくしが歩いていく方向を見ると、宵闇のなかからバスがのっそりと姿を現しました。大寒を過ぎたばかりの街の闇に浮かぶ車内からもれる灯りは、どういうわけだか、子供の頃に浮世絵で見た狐の嫁入りを思い出させました。さすがにそんなこと、石田さんには━━というより、誰にであっても話すのは憚られます。というのも、この街が他ならぬ狐の嫁入り伝承の色濃く残る場所だからです。
 「今度、一杯やりましょう。約束ですよ?」
 「約束を守るのが営業の唯一の美点です」
 笑いあって、別れました。その場を去るのがなんだか名残惜しくて、わたくしは石田さんが乗ったバスの去ってゆくのを、視界から消えるまでずっと見送っていました。寒さに頬や耳が冷たくなり、髪の毛が固くなってくるまで、厚着しているにもかかわらず全身がひんやりしてくるまで、その場に立ち呆けていました。
 携帯電話がどれだけの時間、鳴っていたのかわかりません。かじかむ手でコートの内ポケットから苦労して出すと、液晶画面にはメイドの名前と写メが表示されていました。昨夜のメールで、明日の晩(つまり今夜)泊めてほしい、と強請(ねだ)られていたのをすっかり忘れていました。さっき、喫茶店を出るときに念押しされていたにもかかわらず、です。断っておきますが、色恋が絡む話ではありません(少なくともこのときは、そう信じて疑いませんでした)。
 しまった。舌打ち序でに口のなかでそう呟くと、通話ボタンを押して受話口を耳にあてました。……いますぐ帰ります。鍵の場所を教えるから、入っていてください。「あと、暖房付けておいて━━」
 「当たり前でしょ!」
 すこぶる怒り気味な調子でメイド。電話はがちゃり、と切られました。明日、隠し場所を変えよう。そんなことを考えながら、帰途を急ぎました。
 雲が重く垂れこめ、いまにも雪が降り出しそうな空でした。(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0838日目 〈詩編第136篇:〈恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。〉&掌編小説「人生は斯くの如し」第2回〉 [詩編]

 詩編第136篇です。

 詩136:1-26〈恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。〉
 題詞なし。

 アプローチこそ若干ちがうが、詩135とほぼ同じ内容の詩。退屈と思うか、否か、それは読み手次第だ。が、事実を淡々と述べ並べている点、よくいえば、ストレートな讃美の詩篇とは申せるかもしれない。
 われらが唯一の神、イスラエルの神、万軍の主を讃えよ。━━「ただひとり/驚くべき大きな御業を行う方に」(詩136:4)、エジプトの初子をことごとく討ちわれらの祖先を「力強い手と腕を伸ばして導き出した方に」(詩136:12)、荒れ野を経てカナンへ行かせアモリ人の王シホンとバシャン人の王オグを滅ぼして「彼らの土地を嗣業として与えた方に」(詩136:21)、「僕イスラエルの嗣業とした方に」(詩136:22)感謝し、ほめ讃えよ。
 ひたすら神に、主に感謝し、その恵みと慈しみに感謝をささげる詩篇であった。
 ところで、不勉強で申し訳ないのだけれど、16世紀のフランスで活躍した音楽家、ギョーム・シャティヨン・ド・ラ・トゥールと、ジャン・マルティノンというフランス人指揮者で作曲もした人に、それぞれこの詩136に付曲した作品がある由。ぜひ音盤を探して聴いてみたいものだ。まだ他の作曲家にも、この詩篇に曲を付けた作品はあるだろう。むろん、それらも。

 「低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。/慈しみはとこしえに。」(詩136:23)

 「すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。/慈しみはとこしえに。/天にいます神に感謝せよ。/ 慈しみはとこしえに。」(詩136:25-26)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第2回
 「こんな時間に珍しいねぇ、ウッド氏?」
 喫茶店に入るや、あのメイドが近寄ってきました。ぶふふ、といまにも笑い出したいのをこらえられない様子です。ご丁寧に目尻まで下げています。一体、わたくしが彼女になにをしたというのでしょう? なにもやっていません。「なに、サボリ?」
 サボリじゃないってば。そういって、いつものテーブルに座を占めました。「商談が終わってね、会社へ戻る途中の息抜きですよ。━━コーヒーをくださいな」
 「<晴れの日ブレンド>でいいよね? ちょっと待っててね。……あ、水、自分でお願い」
 「うん、わかった」腰をあげると、カウンターに置かれた水挿しより先、そこらへ広げられた本やノートが目に入りました。「邪魔したかな?」
 気にしないで、と彼女は答えました。「ちょっと急ぎで一冊上げなくちゃならなくなったからさ、ここの仕事の合間にやってるの」
 一体どっちが本業なんだい? 苦笑しながら訊ねると、にっこりと笑顔で「翻訳に決まってるじゃん」と、ほんわかした口調で答えました。
 このやわらかな口調と心蕩けさせられる笑顔が、この喫茶店が今日まで営業できた秘密だ、という人がいます。おまけにこの店、webではちょっと有名なようで、喫茶店マニアが作るHPで紹介されている程なのです。でもなぜか雑誌の取材は、彼女、頑として断り続けています。まぁ、わたくし共のような常連にはありがたい限りです。
 「ハイ、お待たせ」彼女お気に入りの香蘭社のカップに淹れられたコーヒーが置かれました。湯気が立ちのぼり、鼻腔をかぐわしい香りがくすぐります。「心して、ありがたく飲み給えよ」
 いつものままです、何も彼もが。このままなに一つ変わることなく、永遠にいまと同じ時間が流れ続ければいいのに。そう思いながら、反対側の椅子に坐りこんだ彼女を見て、口許が弛みました。「頂戴いたします」
 「でもさ、見附かっちゃ駄目だよ、ウッド氏。ただでさえあんたの会社、傾いてるんだからね」袖のカフスをいじくりながら、彼女はそういいました。「クビになっちゃうぞぉ?」
 まったくこの子は……。でも、うれしいのです。ありがたくて、涙が出そうなのです。<純真>という言葉は、いま目の前にいるメイド服姿の喫茶店の女の子のためにあるに違いありません。
 しばらく無言の時間が続きました。でも、この店で知り合って何年にもなると、こんな無言の時間さえなんだか当たり前の風景に思えてきて、とても心地よいものになるのです。彼女も、わたくし以外に客はいないのだから翻訳の仕事に戻ってもいいのに、そうしようとしないのは、彼女なりの気遣いであったのかもしれません。
 やがて、彼女が、チラッ、とこちらを見ました。刹那の後、あ、という小さな声がしたかと思うと、口がOの字の形になり、こちらを見据えるのです。
 「ウッド氏、ちょっとそのままでいてね……」
 彼女はテーブルの上に乗り出して、両の眼を細めてこちらへ顔を近づけてきます。唇に塗られたラメ入りの口紅が妖しく艶を放ち、うっすらと化粧がされた頬が薄桃色に染めあげられているように見えました。気のせいか、眼も潤んでいるようでした。一瞬、去っていった同僚の顔が浮かびましたが、形のない圧倒的な衝動の前に雲散霧消してしまいした……む、むろん、想いが消えたわけではありません、が……なのですが……。
 彼女の両手が、すっ、とこちらへ、頸元へ伸ばされました。がさがさ、と、なにやら覚えのある感触が、頸元でします。やがて、溜め息混じりに彼女がいいました。
 「相変わらずネクタイの結び方が下手ですなぁ」
 ━━やましいことを考えました。ごめんなさい。
 「早いとこ、ネクタイ結んでくれる女性(ひと)を探しなさいよ?」
 そんな人、いません。
 お礼をいって、あとはしばらくテーブルの木目から目を上げられませんでした。おわかりいただけるでしょうか、この居たたまれなさを? 
 どれぐらいの時間が経ったでしょう、好い加減会社に戻らないとな、と思い至ってカップをソーサーの上に戻したときです。そうだ、と、左掌を右手で、ポン、と打って彼女はいったのです。
 「ねえ、ウッド氏。半導体メーカーのMFDって会社と取引、ある?」
 わたくしは頷きました。もちろん、知っています。いちばん大切な取引先です。もっとはっきりいえば、この会社あってこそ、零細に等しいうちの会社もなんとか持っているのです。それに、この喫茶店に立ち寄るまでわたくしは、その会社へ行っていたのです。でも、なぜ彼女がMFD社のことを?
 そう訊ねると、うんうんもっともな質問だねぇワトスンくん、とパイプをくゆらす仕種をして、しばしホームズを気取ってから彼女はぐっと、わたくしへ顔を近づけました。不覚にも、またドキリ、としました。
 「あの会社ね、裏でとんでもなく物騒なことやっているらしいよ」(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0837日目 〈詩編第135篇:〈ハレルヤ。〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第1回〉 [詩編]

 詩編第135篇です。

 詩135:1-21〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 歴史回顧を交えた感謝の詩篇で、岩波版『詩篇』解説では次の詩と併せて<大ハレル詩篇>と括る(P443)。主の御名をほめ讃え、主の御名を記念せよ、という内容であるからだろう。
 天地の営みと嗣業の民の導きを讃える詩はこれまで幾つも出てきたが、それらと同様、詩135についてもこれというべき<核>を欠いていて、正直なんとも感想の言葉もない、というのが本音だ。が、こういう詩はむしろ、こんな風に淡泊であっていいのかもしれない。合間合間に挟みこまれる主を讃美する言葉によって、神の御旨、神の御業がより強調され、、会衆の心にじんわり、じんわり、と染みこんでゆくであろうからだ。
 そう考えると、単純に、主が行う自然営為の讃美と主が導き来たった歴史の回顧というだけの詩、とは言い切れないのかもしれない。とは雖も、なんとも言葉を捻り出すのに苦心惨憺する詩篇であった、というのは動かし難い事実。それは、次の詩136も同様である。

 「主はヤコブを御自分のために選び/イスラエルを御自分の宝とされた。/わたしは確かに知った/主は大いなる方/わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。」(詩135:4-5)

 「主よ、御名は永久に/主よ、御名の記念は代々に。/主はご自身の民の裁きを行い/僕らを力づけられる。」(詩135:13-14)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第1回
 相変わらず、わびしい毎日を送っております。
 わたくしは、と或る電器部品の卸会社で働いています。職種は営業でして、毎日、町工場やメーカーに出向いて商品の売り込み、契約の取り付けを行っております。もう10年以上この仕事をしていますが、最近は成績も芳しくなく、いつ解雇されてもふしぎではありません。会社の経営状態も良くないそうです。社長の恋人(男)がそう申していました。
 そんなわたくしの楽しみといえば、仕事帰りに馴染みのパブで黒ビールを2杯飲むぐらいです。あとは、そうですね、月に1回程度、知り合いのホステスが働くクラブに1時間ばかり寄るのが関の山です。小説も読みます。最近はフランス文学にハマっています。というのも、最近まで同僚だった画家志望の女の子がフランス文学に造詣が深く、実は彼女に惚れていたからなのであります。
 直接、面と向かって告白することは出来ませんでした。退職する日にプレゼントと一緒に手紙を渡しました。そのなかでしか、気持ちを伝えられなかったのです。臆病な男なのです。ちょっとの勇気すら、当時のわたくしは持てなかったのです。おーい、HALさん、わたくしのアルウェン、わたくしのイゾルデ、あなたはいま、どこでどうしているんだい?
 ときどき、会社の帰りなどにふっと、星が瞬くこの田舎町の夜空を見あげます。自分の臆病さ加減に呆れ、あったかもしれぬ未来を夢想して無聊を慰めます。灰色の自分の未来を見やって、いつまでいまの会社にいられるのか、と不安になり、もう齢40を迎えた自分がいまさら転職して雇ってくれる会社があるのか、と考えては深くて長い溜め息を洩らします。仕方ありません。
 虚栄心だけは一丁前のわたくしですが、希望はただ2つだけなのです。あの人に逢って今度は自分の口から想いを伝えること、どうにか生きていけるだけの収入がある働き口をこのまま持ち続けられたらいい、というだけです。相変わらず、独りのわびしい生活をしているわたくしには、こんなささやかな望みすら過ぎたる贅沢なのでしょうか。
 「この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。/善人がその善ゆえに滅びることもあり/悪人がその悪ゆえに長らえることもある。/善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。/悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。」(コヘレトの言葉7:15-17)
 ━━安く購入して自分で手入れをしているコテージのポーチにいて、ぼんやりビールを飲んでいたら、携帯電話がブルブルと震えました。メールが到着したのでした。その相手というのが……。(…to be continued…)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0836日目 〈詩編第134篇:〈主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。〉&2011年LFJのテーマは後期ロマン派(「タイタンたち」)。〉 [詩編]

 詩編第134篇です。

 詩134:1-3〈主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 レビ人よ、主を讃えよ。あなた(方)を主が祝福してくれるように。
 おそらく、と思うのだが、ここで対象となっているのは、祭司職にあるレビ人━━即ち、アロンの子孫に限ることはないだろう。日夜、神殿に奉職するレビ人たちを含めての詩篇、と考える方が自然に思う。
 神殿を舞台背景とする一連の詩群━━詩120以下の<巡礼の歌>、<宮詣で詩集>の〆括りに、その神殿で働くレビ人を対象に据えた詩篇があるのは、「詩編」編纂の過程で生まれた意図であったかもしれない。そこには一種の清々しささえ漂っていよう。
 そうしたことを踏まえていえば、詩134は、日ごと夜ごと神殿にて神なる主に仕えて奉職し、国家の心臓ともいえる聖所を守るレビ人をねぎらう歌ともいえるのではないか━━。

 「主の僕らよ、こぞって主を讃えよ。/夜ごと、主の家にとどまる人々よ/聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
 天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。」(詩143:1-3 全)



 今年のLFJのテーマは後期ロマン派、総題を<タイタンたち>という。作曲家としてはリスト、ブラームス、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルクの5人の名がある。━━後期ロマン派の音楽が好きな者には堪らないプログラミングで、さんさんかいまから胸を高鳴らせている一人でありますが、今回の発表を承けて、「なんだかなぁ……」と嘆息したのも事実であります。
 安い値段と質の良い演奏で彼らの曲が聴けるのはもちろんうれしい。が、斯様な括りは、一人の作曲家を一会期で取り挙げるにはプログラミングと集客が困難である、でも彼らは偶々「後期ロマン派」のキーワードで括れるではないか、という本音の裏返しでもあろう。
 とはいえ、それは、後期ロマン派が如何に爛熟の時代であったか、活躍した作曲家たちが如何に巨大な業績と大きな変革を達成して後世に計り知れぬ影響を与えたか、そうしてなによりも重要なのは、この時代にどれだけの作曲家が百花繚乱の如く現れて、大輪の花を咲かせたか、という時代の奇跡を物語ってもいましょう。
 でも、この時代を取り扱うからには、と思うのであります。この時代を取り扱うからには、リストやブラームス、マーラーたちだけで俯瞰できようはずもなく、それならば彼らの周囲にいた作曲家はどう扱われるのか、と。
 たとえば、さんさんかが愛してやまないワーグナーについてはどの作品/曲が演奏されるのか━━やはり、《ジークフリート牧歌》と《ヴェーゼンドンク歌曲集》の他は例の如く有名曲の大盤振る舞いに終始するのか。
 或いは、ブラームスが賞讃したシュトラウス・ファミリー、殊に2世の作品はどれだけの曲が紹介されるのか。ニューイヤー・コンサートでも聴けないような秘曲は登場するのだろうか。
 シェーンベルクが俎上にあげられる以上、ではウェーベルンとベルク、ツェムリンスキーやストラヴィンスキーはどの程度まで紹介されるのか(考えれば考える程LFJにそぐわない作曲家たちであるな)。加えて、シェーンベルクの合唱曲は上演されるのか。いっそのこと、ブーレーズを呼んじゃえ。
 ……まったく以て興味と疑念は尽きない。ワーグナーとベルクについていえば、演奏会形式でオペラ一作、上演しちゃえばいいのにね。個人的には《リエンツィ》と《ルル》原典版を、当然、全曲で熱望する! ここまで来たら、シュトラウス2世のオペレッタ《こうもり》も!!
 それはさておき。
 いずれにせよ、参加者はこの機会を見逃さず、出来る限り多くの公演を梯子して、それぞれの作品が如何に同じ後期ロマン派のなかで熟成し、変化していったのか、或いは彼らがどのように刺激しあっていたのか、と把握するに如くはありません。そのための安価で上質の演奏が楽しめるLFJなのです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0835日目 〈詩編第133篇:〈見よ、兄弟が共に座っている。〉&ドストエフスキー『白痴』読了。 〉 [詩編]

 詩編第133篇です。

 詩133:1-3〈見よ、兄弟が共に座っている。〉
 題詞は「都に上る歌。ダビデの詩。」

 単純に、というか純粋に兄弟愛を謳うた作物か、と思うたが、そうでもないらしい。これはやはり、イスラエルという嗣業の民が永久(とこしえ)に栄え、恵まれるように、と祈っているのだろう。
 第2-3節(「かぐわしい油が~滴り落ちる」)が比喩であるのは瞭然だけれど、一体どんなことをいうておるのだろう。つまりここは、深遠な時間の流れが悠久の希望となって実を結ぶ、というてあるわけだ。だからこそ、終いの二行の詩句が、どっしりとした重みを持ってくる。そうしてこの短い詩篇を引き締める。
 文字通り、恵みと喜びを謳い、讃えた作物、といえるだろう。

 「シオンで、主は布告された。/祝福と、とこしえの命を。」(詩133:3)



 簡単に、ご報告だけしておきます。昨日の話題とも関連するのですが、否、直結というべきか、とにかく、ご報告申し上げます。ファイナル・カウント・ダウンを昨夜行ったドストエフスキーの『白痴』ですが、本夕にようやく読了することがかないました。
 昨年春に読んだときは相当イライラしながら読み進め、どうにかこうにか最後のページまでたどり着いてそのまま放ったらかした『白痴』。ぼくはいま、そのときの行いを反省しています。併せて思うのは、昨秋から再び読み直すことにして本当に良かったな、ということです。
 深遠さという点では較べるべくもないだろうけれど、前作の『罪と罰』よりもずっと面白く読みました。これは登場人物の多彩さに起因するのかもしれません。あちらはいってみればラスコーリニコフの心情吐露と振り子のような思考の軌跡であったのに対し、こちらは多種再々の人物がムイシュキン公爵を中心に上へ下への大騒ぎを繰り広げる、喜劇の要素を大いに孕んだ小説であるからです。レーベジェフの存在は絶対に欠かせません! そうして、イポリートやブルドフスキー、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチらが花を添えます。いずれの人物も、彼らが中心となる挿話は、それはもう素晴らしく、これだけでじゅうぶん一編の小説となり得ましょう。これらは長編小説のなかで<挿話>が如何に重要なピースとなり、かつ、物語に深みと奥行きを与えるか、の見事な証明といえましょう。
 むろん、作品自体は歴とした恋愛小説━━ドストエフスキー作品中、最高峰というてよい恋愛小説なのですが、ぼくは読みながら、大好きなP.G.ウッドハウスの小説を想起し、なかなかその思いを拭い去ることが出来ませんでした。……ド氏とウッドハウス! ともあれ、ドストエフスキーのユーモア感覚について『白痴』は格好の材料を提供すると共に、作家活動の初期にはユーモア小説を書いていた経験がこれには活かされているようです。
 ナスターシャとアグラーヤ、ロゴージンと公爵(ここにガヴリーラも加えてよろしいでしょうか?)の4人が織りなす恋愛模様が『白痴』の中心構造なのですが、こちらはもう心理小説の領域に入ってきており、丹念にページを読みこみ、登場人物の内面の推移を追ってゆくことが必要となります。面倒臭いといえばそれまでですが、枝葉末節に捕らわれがちなドストエフスキー作品に於いて、それはどうしても必要な作業です。でも、丹念に読みこんだ分、必ず答えてくれる部分があるのも事実で、それは読書のまさしく恩恵というべきものでありましょう。
 ドストエフスキーというと深刻で重い小説を思わず連想しがちで、チェーホフなんかに較べると近寄り難くなっているようですが(数年前の『カラ兄』ブームがあってさえも!)、実はこんなに愉しくて夢中にさせられる小説もあるのです。それが作者の作品中でも随一の恋愛小説とくれば、これはもう読まずに済ますのは本当に勿体ないとしか言い様がないのです。まぁ、要するに、ぜひ読んでください、ということです。
 いまこんな拙い感想を認める手を一旦休めて上下の文庫をぱらぱら目繰っていたのですが、まさか一旦は部屋の隅に抛った『白痴』が、どこから読んでも思わず引きこまれてつい読み耽ってしまう小説であったとは。つくづく自分の甘さを感じます(そういえば、平井呈一翁もマッケンの『生活の欠片』を読んだとき、同じようにこれを収めた本を放り出していたそうです)。
 読み終わったいまは、いろいろ夢想したりしてそれなりに楽しんでいた片想いが終わってしまったような、そんな淋しさと空虚感を弄んでいます。読書もそれと同じで、過ぎ去った濃密な思い出を胸に仕舞うよりなく、もう二度とあの、初めて読むときのドキドキワクワクは経験できないのです。でも、その代わり、古女房に親しむような安心感と再び巻を開いたときの高揚感を体験できるかもしれません━━事実、今回の再読では似た気分を追体験していたわけですから。
 まだドストエフスキーの小説を全部読んでしまったわけでないので、暫定的な物言いになってしまいますが、おそらく『白痴』はドストエフスキーの小説のなかでいちばんエンターテインメント性に富んだ作品である、というておきます。三読の際は、河出文庫の新訳で読むかもしれません。
 次は『白痴』と『未成年』の間に書かれた『永遠の夫』を読むことにしました。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0834日目 〈詩編第132篇:〈主よ、御心に留めてください。〉&ファイナル・カウント・ダウン;ドストエフスキー『白痴』〉 [詩編]

 詩編第132篇です。

 詩132:1-18〈主よ、御心に留めてください。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 サム上4:21にて神の箱がペリシテ人に奪われた。が、次々と災いに見舞われた彼らは遂にそれを手放し、ベト・シェメシュの地で発見されてレビ人によってキルヤト・エアリム(=ヤアルの野[詩132:6]?)へ運ばれた。サム上5:9-12,6:1-7:1。
 詩132は、長くそこに保管されてきた神の箱をいよいよエルサレムへ移す、という場面で歌われた詩篇であろう。サム下6を併読せよ。おそらく、神の箱へのダビデ王の熱意は20年の間に確固たるものとなり、それを王都へ戻すこと、そうして神殿建設に向けた段取りを整えることが、彼には成さねばならぬ宿願となっていったのであろう。別のいい方をすれば、ダビデが如何に主に対して篤い気持ちを抱いていたか、の証しである。
 イスラエルの願いと誓い、それに対する主の約束が描かれ、非常に胸を打つ詩編となっている。一連の詩群の内でもクライマックスともいうべきで、何度読んでも名詞である、との感想は揺るがない。喜びにあふれた詩である。「神への完全な従順こそ、喜びをうる条件である。喜びの心は、神へ従順であることの偽りない証しで」ある(ヒルティ『眠られぬ夜のために・第一部』P13 岩波文庫)。

 「主よ、立ちあがり/あなたの憩いの地にお進みください/あなたご自身も、そして御力を示す神の箱も。/あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい/あなたの慈しみに生きる人々は/喜びの叫びをあげるでしょう。」(詩132:8-9)

 「主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。/『これは永遠にわたしの憩いの地。/シオンの食糧を豊かに祝福し/乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。/祭司らには、救いを衣としてまとわせる。/わたしの慈しみに生きる人は/喜びの叫びを高くあげるであろう。/ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。/わたしが油を注いだ者のために一つの灯(ともしび)を備える。/彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。/王冠はダビデの上に花開くであろう。』」(詩132:13-18)



 ドストエフスキー『白痴』がようやく最終章に至りました。ゆっくり過ぎる読書でしたが、却ってこの作品にどっぷり浸ることができたようです。なんというか、登場人物たちがまるで知り合いの誰彼に感じられて、ああ、みな相変わらずであるな、と感慨を抱くことがしばしばでした。然るべき日に読み終われるよう、いまは逸(はや)る気持ちをなんとか抑えて、件の文庫を傍らに置いています。
 これを読了後は『悪霊』の再読へ取り組む前にインターヴァルとして、『鰐』(講談社文芸文庫)所収の短編か、『永遠の夫』(新潮文庫)を読もう。「ボボーク」(『ロシア怪談集』河出文庫)は最後の楽しみに取っておきます。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0833日目 〈詩編第131篇:〈主よ、わたしの心は驕ってません。〉&カザルス《無伴奏チェロ組曲》を聴いています。〉 [詩編]

 詩編第131篇です。

 詩131:1-3〈主よ、わたしの心は驕ってません。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 ダビデ詩篇としては特に敬虔な詩である。驕らず、誇らず、昂ぶらず。身の程を知って、過ぎたることは望まない、それは主への背反にもつながるから━━。
 まるで<驕れる者は久しからず>を伝える諫めの詩のようにさえ受け取れる。そういえば、『論語』に「足ることを知って足る者は常に足る」というのがあった(気がする。違ったっけ?)。それさえ連想させまいか。
 或る程度の歳月と経験を蓄えた人生の持ち主には共感してもらえるように思う。

 「わたしは魂を沈黙させます。/わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。」(詩131:2)



 カザルスのチェロは雄弁である。斯くも力と情をこめた、魂の最奥にまで訴えかけてくる演奏もあったのだなぁ。久しぶりに引っ張り出したが、永遠のマスターピースとして大切にしたいですね。失礼、バッハ《無伴奏チェロ組曲》を聴いての独り言であります。
 《フーガ》ト短調BWV.578(org),《マタイ受難曲》BWV.244,ヴァイオリン協奏曲第1番BWV.1041。そこに今回の《無伴奏チェロ組曲》を加えて、わたくしの特に鍾愛するバッハ作品が揃います。
 その《無伴奏チェロ組曲》を初めて聴いたのはチャバ・オンツァイ(NAXOS)のCD。爾来、いろいろなチェロ奏者のCD/LPや演奏会を聴いて、様々なスタイルの演奏を知りました。そんなこんなでだんだん深みにはまっていったのでした。
 では、カザルスを聴いたのはいったいいつ頃だったろう。ヒストリカル録音に興味を持つようになってからだから、21世紀になるかならないか、という時分かな。
 カザルス弾く《無伴奏チェロ組曲》は幾多のレーベルが━━フルトヴェングラーに於けるウラニアの<エロイカ>同様━━復刻盤を出してきたけれど、いま聴いている【オーパス蔵】の音はちょっと高音部がきついかな、という印象がある。その分、チェロの音色がハンパなく生々しく、艶っぽく、圧倒的な存在感を放ちながら迫ってくるわけだ。
 でも、復刻作業はとても丁寧にされているようで、帯にある惹句でないがSPの溝にはどれだけ凄い音が刻みこまれていたか、流石にわたくしでも理解できた。カザルスの本気が迸っている。初めて聴いたときは慄然としましたね。思わず居住まいを正しました。この《無伴奏チェロ組曲》が長きに渡って聴かれてきたのは、演奏にカザルスの情熱がはっきり刻印されているからでもあるのでしょうね、多分。個人的には第6番が好きだ。
 録音が古いからとて闇雲に敬遠なさらず、この《無伴奏チェロ組曲》を聴いてみてください。それからカザルスの他の音盤を聴いてみると、発見があって愉しいと思います。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0832日目 〈詩編第130篇:〈深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。〉&神保町で新しく見出した喫茶店。〉 [詩編]

 詩編第130篇です。

詩130:1-8〈深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 迷い、おののき、不安な気持ちで詣でた人が、主による善き導きを待ち望む詩。
 主に依り頼む思いがにじみ出た、滋味ある作物と思う。訥々とした調子が心の奥をくすぐるのだ。たとえば、━━わたしは主に望みを置き、あなたの御言葉を待つ、見張りが朝を待つにも増して、━━という詩句、表現には、知らず感歎の声をあげてしまいそうになる。唯一神を崇める人々ならではの相互信頼が根本にしっかりあるからこそ、こうした祈りの詩篇が飾らぬ言葉で生まれてくるのだろうな。ちょっぴり嫉妬する。
 これまでも苦悩と混迷の底にあって、主の言葉、主の救いを待つ詩篇はあった。が、いずれも大味で、では日を置いて再び(自らの意志/希望で)読み返したいか、と問われればしばし黙考するものが多い。対してこの詩130は、ちょっともう一度読んでみようかな、という気になる一篇なのだ。異論・反論もあろうけれど、個人的好みの詩というのはそうした感情を基に選ばれ、蓄えられてゆくのではなかろうか。

 「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。/しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(詩130:3-4)



 このエッセイ部分は友だちに手紙を書くのと同じ気持ちで書いています。内容が良くいえば広範囲、悪くいえば行き当たりばったりなのは、そういう理由でしょう。
 今日は大手町の○経本社で所用を済ませた後、三○○産にいるグループ同期の人とお茶して神保町へ出掛けてみた。そこでとってもすてきな喫茶店を見附けました。webでの紹介記事を見て以来、いつか行ってみたいな、と思うていたのですが、ようやく訪れることができました! 特に名は秘すことにしますが、ここはまさしく隠れ家ですね。
 こぢんまりとしていて、知る人ぞ知る、という感じのお店。ビルの2階でちょっと目に付きにくいお店だけど、探してでも訪ねる価値はじゅうぶんにある。ようやく店内に足を踏み入れた喫茶店ラヴァーズを迎え入れてくれるのは、木に囲まれたシックな内装と壁に掛かった少女の絵画、静かに流れるジャズと適度な大きさの客の話し声、そうして、カウンター内でおだやかな表情で一期一会のコーヒーを入れてくれる店主。
 全体的な印象を述べれば<ダンディ>の一言。頼んだブレンド・コーヒーはまろやかで口当たりがいい、お代わりまでした程。ゆっくり流れる時間に身を浸しながら、心ゆくまでコーヒーを味わうなんて、或る意味、至上の愉悦ですよね。買ったばかりのプルースト『消え去ったアルベルチーヌ』(光文社古典新訳文庫)をつまみ読みするには最高の舞台。
 また、来よう。少なくとも、神保町に出て、今日はどの喫茶店に行こうかな、と思案する楽しみが増えた。新宿も横浜もそれが出来ないからなぁ━━。んむ、残念、残念。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0831日目 〈詩編第129篇:〈イスラエルは言うがよい。〉&ターリヒ=チェコ・フィル《わが祖国》を聴きました。〉 [詩編]

 詩編第129篇です。

 詩129:1-8〈イスラエルは言うがよい。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 シオンを憎む敵を殲滅し、誰からも顧みられないようにしてほしい。それを願う詩である。
 しかし、どうも内容が散漫だな、と思えてならぬ。前半(第1-3節)と後半(第4-8節)で分裂しているのだ。正直、何度読んでも印象に乏しく、生彩を欠く、との感想は覆せそうにない。それ以外に感想の、また疑問の言葉もないのだ。でも、下に引いた詩句は問答無用で優れている。これを読むたび、前3節が無駄に思えてくるんですよね……。
 ……もしかするとこれは、新共同訳をテキストとしているためかもしれない。実は新共同訳と(ときどき参考に覗いている)新改訳とでは、前半と後半の区切り方が違うのである。新改訳では第4節までを前半とし、第5節から後半とする。そちらの方が、良い。言い訳めくが、それが本音である。これから新共同訳で読まれる方、第3節と第4節の間にでっかく線引きしてしまいなさい。

 「シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。/抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。/刈り入れても手を満たすことのないように。/穂を束ねてもふところを満たすことはないように。/傍らを通る者が/『主はあなたがたを祝福される。/わたしたちも主の御名によって/あなたがたを祝福する』と言わないように。」(詩129:5-8)



 村上春樹『1Q84』のお陰でヤナーチェク《シンフォニエッタ》が売れたけれど、今年は同じチェコの作曲家、スメタナにスポットがあたればいい、と願っている。
 というのも、オーパス蔵のセール品のリストにあった、ターリヒ=チェコ・フィルによるスメタナの代表曲《わが祖国》全曲(1929年録音)を購入、傾聴したからに他ならない。SP原盤のゆえに針音はするが、これは先達て書いたように馴れれば気にならぬだろう。なにより大事なのは、針音の向こうに広がる力と叙情に満ちた音楽の世界である。
 ターリヒは生涯に3度、《わが祖国》の録音を行ったけれど、この1929年の録音が、瑞々しさと集中力という点では優っているように思う。むろん、様々な点で後年の録音の方が有利になる部分があるのは致し方ない。が、それでもここに聴かれる、思わず耳を傾けさせられる、しなやかさとまろやかさを絶妙にブレンドしたチェコ・フィル伝統の響きが詰まった本盤を、いの一番に取って聴き耽っていたいのだ。
 逸話だが、カラヤンはターリヒの生演奏をもう一度聴けるなら片腕を失ってもいい、と語ったそうな。若き日のカラヤンに感銘を与え、後年に斯くいわしめたターリヒの至芸をこの際に確認してほしい。他にドヴォルザークの交響曲第6-8番(オーパス蔵)、バッハのピアノ協奏曲第1番(独奏;リヒテル)、チャイコフスキーの交響曲第6番(以上2点、スプラフォン)などがある。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0830日目 〈詩編第128篇:〈いかに幸いなことか。〉&J.ラター《結婚の讃美歌》、R.ヘリック「時を惜しめと、乙女たちに告ぐ」〉 [詩編]

 詩編第128篇です。

 詩128:1-6〈いかに幸いなことか。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 詩127からつながる詩編で、結婚を寿ぐ作物である。妻と子を得た男は主の目にかない、主の祝福に与ったのだ、と述べられる。信仰は異にするわたくしだが、この詩編には羨望と諦念の溜め息を吐かざるを得なかった。
 もっとも、わたくしの身に幸せが訪れたら、そのときは必然的に感想も豊かに、また、幸福が横溢したものとなるに違いない。そのときが訪れたなら(相手のアテはないが━━あなたなら良いのに!━━、きっと訪れる、と信じている)、この詩篇のノートも改めることとしよう。読者諸兄、あなた方とわたくしの約束だ。二言はない。
 国家の繁栄、その基盤を成すのはなんというても国民の数が増え、国共々代が続いてゆくことだが、斯様に良き女性に恵まれ、家庭を持ち、子宝に恵まれることを祝う詩に出喰わすと、わたくしの心は乱れに乱れ、暗澹となる。状況と心境ゆえに、ここは鑑賞よりも羨む気持ちの方が先に立つのだ。「あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる」(詩128:2)、か……。
 が、家族/一族の繁栄こそエルサレムの、イスラエルの栄華につながるのだ。どうか、━━
 「シオンから/主があなたを祝福してくださるように。/命のある限りエルサレムの繁栄を見/多くの子や孫を見るように。」(詩128:5-6)



 上記に付け足して述べることがあります。
 イギリスの作曲家、ジョン・ラターという人が詩128を歌詞にすてきな合唱曲を書いていて、幸いなことにCDもある(NAXOS 8.557922)。タイトルを《結婚の讃美歌》といい、結婚式、或いは披露宴、もしくは親しい友どちを招いた新居を舞台に想定してか、伴奏楽器はひょいと持ち運んでこられるギターとフルートのみ。合唱もそれ程人数を必要とはしてないようで、数人の歌い手があればその場で歌えるような作品だ。おだやかな調べが全篇を満たし、とても素朴で温雅な雰囲気を醸している。輸入盤を扱っているちょっと大きなCDショップであれば置いてあると思うので、もしよかったら探して聴いてみてください(タワーレコードとかな)。結婚式のBGM、披露宴のBGMに趣向を凝らしたいと思っていらっしゃるカップルには、是非!
 なお、このCDには《シャドウズ》という歌曲集も収録されています。16-17世紀の英国詩人の作品に曲を付けた歌曲集ですが、文学の上でイギリスは<詩の国>と称されてきた程多くの才能豊かな有名・無名の詩人を排出してきた国ですので、それらをテキストに星の数程の歌曲が、これも有名・無名の作曲家によって書かれてきました。ラターもその例に外れる人ではありません。
 彼が書いたこの《シャドウズ》はギターを伴奏にバリトンが訥々と人生の淡い情景・心境を歌いあげた佳作ですが、第2曲目にわたくしの愛好してやまぬ詩が取り挙げられています。ロバート・ヘリックの「摘めるときにバラのつぼみを摘め Gather ye rosebuds」という詩で、これは過日わたくしの愛好してやまぬ映画として挙げた『いまを生きる』で印象的に使われていた詩であります。岩波文庫の『イギリス名詩選』にも選ばれている作品で、そちらには「時を惜しめと、乙女たちに告ぐ」という邦題で載っています(訳は平井正穂氏)。青春はいまだけだ、盛りを過ぎたらしぼむばかり、という内容で、文庫の註釈には「その主題は典型的な“Carpe Diem”〔今日という日を楽しめ〕というテーマのヴァリエーション」(P64)とありますが、まことその通りだと思います。宜しければ、ラターの音楽と一緒にこの詞華集も是非手に入れて読んでみてください。
 例えば今日の詩128を契機に、イギリス詩とイギリス歌曲に親しまれてみることをお奨めいたします。冬の夜長に静かに詩集をひもといて一編、二編、玩味しつつちょっと豊かな想いを堪能できる時間は格別です。そんな時間と余裕は、きっと人生に必要だと思います。また、そうすることの出来る人が、わたくしは大好きです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0829日目 〈詩編第127篇:〈主ご自身が建ててくださるのでなければ〉&逢えないってつらいよね。〉 [詩編]

 詩編第127篇です。

 詩127:1-5〈主ご自身が建ててくださるのでなければ〉
 題詞は「都に上る歌。ソロモンの詩。」

 何事も主の存在なくしては空しい、という意味合いであろう。詩72と共にソロモン詩篇であるが、内容や表現はむしろ「箴言」に近しいものに思う。
 第一節「家を建てる」はソロモンゆえに神殿造営と落成を示そうが、他に個人宅の建築以外にも国家建設/運営を暗喩するとも考えられまいか。
 後半は国家を支える民の子、専ら男子の繁栄について説く。若くして男児を得、矢筒いっぱいに等しい兄弟を拵えられた親を寿ぐのだ。が、結婚した男女が必ずしも子供を授かり得るわけではない。子宝に恵まれず、隣家から漏れ聞こえてくる子供の声を羨むよりない夫婦を、いったい主はどう恵み、慈しむのか。求めても得られぬ苦しみと哀しみを、現代の読者はゆめ忘れるな。
 詩127の後半は次の詩128につながる。併せての読書を願う次第だ。
 ━━何十回読んでもこの詩はいただけない。本詩をソロモン作とした上での発言だが、どうも彼に詩心というべきはなく、その才は詩篇の作成に向かなかったようである。だからこそ、「箴言」という実人生の支えとなるメッセージを残し得た、と考えるべきなのか……?
 

 「朝早く置き、夜遅く休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(詩127:2)



 逢いたいひとに逢えない、というのはつらいですよね。あきらめよう、と思うても想いは水を得た草木の如くグングンと伸びてゆく。際限なく成長してゆくこれは、一体どこまで行ったら天井を知るのだろう。想いは無限ループの罠にはまって抜け出せそうにない。ねぇ、あなたとぼくの目が合うことはないの? 欲しいのはあなただけなのに。
 今日のブログで取り挙げた詩127は明日の詩篇と併せて、ぼくにとって心に深く突き刺さってきた作です。あなたに一緒にいてほしい、そんなささやかな願いすら叶わぬ身に、斯様な結婚と子孫繁栄を寿ぐ詩篇は、鑑賞する以前に絶望と羨望が先に立つのですね。ゆえにノートもちょっとおかしなテイストを帯びてくる。ご容赦を乞う。
 だけど、あのひとと出逢ってどれぐらいの歳月が経ち、逢えなくなってどれだけの月日が流れたのだろう? ふしぎだ、いまこうしているときでも、想いが沈静する気配なんてないし、いつの日かの再会とそれをきっかけとした発展を強く確信しているのだから。━━いたたまれないね!
 今日はイーグルスのベスト盤と『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』他を借りてきました。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0828日目 〈詩編第126篇:〈主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて〉&寝しなの読書・補遺。須賀敦子;『コルシア書店の仲間たち』〉 [詩編]

 詩編第126篇です。

 詩126:1-6〈主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて〉
 題詞は「都に上る歌。」

 彼等は随喜の涙を流し、感涙にむせび、解放と帰還の報に沸き立っただろう。その瞬間の喜びを忘れぬよう━━主が預言者エレミヤの口を通して預言し、ペルシア王キュロスを動かして成就してくれたことへの感謝を忘れぬよう、詠まれた/作られた作物なのだろう。
 70年という安息の期間を得て回復した大地━━父祖の地を再び踏める。それは主が自分たち、シオンの捕らわれ人をエルサレムへ、イスラエルへ連れ帰るのと同義。それがゆえに、「主よ、わたしたちのために/大いなる業を成し遂げてください。/わたしたちは喜び祝うでしょう。」(詩126:3)と、捕囚の身に甘んじていた嗣業の民はあふれんばかりの喜びを歌うたのだ。これを20世紀風に表現すればそのままレイ・ブラッドベリの短編小説のタイトルとなろう。即ち、<歌おう、感電するほどの喜びを!>である。
 第4節の「ネゲブ」はイスラエル南部の砂漠地帯。西端はシナイ半島の砂漠地帯に接する。モーセがヌンの子ホシュア(ヨシュア)らをカナン偵察に出したときのルートにこのネゲブがあり(民13:17,22)、祭司アロンをホル山に埋葬したイスラエルが北上してくるのをネゲブに住むカナン人の王アラドが知った(民33:40。アラドはベエル・シェバ同様に葦の海/死海の西岸にある町だが、このあたりがネゲブ砂漠の北端となる)、とある。
 ちょっと長くなってしまい恐縮だが、実に良い詩なので全文を読んでみてください。特に下へ引く二節には胸を熱くさせられますよ。

 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩126:5-6)



 これは昨日の補遺でもある。一昨年の初夏の時分か、アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは……』(白水uブックス)を読んだ旨述べたが、その訳者、須賀敦子さんのエッセイが偶々目に付いたのでそれを持って布団に潜りこんだ。
 『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)、須賀さんのエッセイでも特にお奨めな一冊である。これを読むと、失われた<時>と<人>を求めるとき覚えるざらついて乾燥した哀しみと、異国にあって結ばれる細いけれどたしかな<絆>が紡ぐ生活を想う幸福感に包まれる。
 特にわたくしが好きなのは「オリーブ林のなかの家」という、パレスチナ系ユダヤ人アシェルについて書かれた一編だ。ふだんどうやって生活しているのかもわからない、まぁ、ちょっとふしぎ系な彼だが、或る日、同じユダヤ人の女性と結婚するため祖国へ帰り、そこに留まる。やがて離婚し、小説を書いた。一々感想を求められるのに閉口したが、アシェルはそれを書くことで「いちど見えなくなった自分の人生をつかまえようとして、やっきになっていたのだ」(P200)。
 いったい須賀さんの文章は端正で、品がある。これに匹敵する文章の書き手は、存命する著作家のなかにはいないのでないか。この人が書くと、陰影がくっきりとして、どんなに短い作品であろうと非常に奥行きが出て、エッセイを読む愉しみ、文章を味読する愉しみ、そこに描かれた生活の一場面を追体験する愉しみ、が堪能できるのだ。この文章の特質・特徴はそのまま、訳書にも当て嵌められよう。
 現代イタリア文学に開眼させてくれた人として須賀さんはわたくしにとって特別な地位を占める存在だが、その人が多くのエッセイを残してくれたのは幸いな出来事であった。『コルシア書店の仲間たち』を契機に、『トリエステの坂道』(新潮文庫)を読み、『地図のない道』(同)を読んだ。そのたび、非常に心を洗われ、落ち着かされる。心の間隙を埋めて慰撫してくれるような感じだ。
 いまの世に須賀敦子さんという書き手がいないのを本当に淋しく思う。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0827日目 〈詩編第125篇:〈主に依り頼む人は、シオンの山。〉&寝しなの読書について考える。〉 [詩編]

 詩編第125篇です。

 詩125:1-5〈主に依り頼む人は、シオンの山。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 シオンの山、即ちエルサレムを信徒に、それを囲む地勢を神なる主に見立てる。既に幾度か述べたように、エルサレムは周囲の環境に恵まれて<自然の要害>というべき場所であった。それを主と信徒の関係に喩えたのだろう。<信徒>なる表現をここで用いるのも、捕囚解放後は聖書の神を信じるのはもはやイスラエルの民(嗣業の民)に留まらなかったであろう、と判断したゆえである。
 敵の手から守ってくれ、とはもちろんの願いであるが、一方で、主の民であろうとも神に背くような輩があれば、その者も敵同様に共同体から追い払ってほしい、と頼むのは、過去の歴史の一端を思い出させて、なにか深いものを感じさせる。彼らにとって、万人は神の前に平等なのである。

 「主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。」(詩125:4)



 昨日に引き続いて「寝しな」シリーズ第2弾。「寝しなの読書」について書く。
 寝る前に本を読む、とたびたび書いたが、読む本は気分で変わる。ベッド脇に積んである本のなかでページを開く機会がいちばんあるのは、やはりヒルティだ。その次は、そうだな、柴田肖曲『古句を観る』か。
 斯様な枕頭へ侍らせる書物に条件はない。エッセイ・小説・詩歌。それは拘(こだわ)らぬ、心地よい眠りに誘ってくれるならば。短い章節で完結するなら、それに越したことはない。
 聖書を読み始めてからは、それが多くなったかな━━「創世記」と「出エジプト記」は半分ぐらいをベッドのなかで読み耽った記憶がある。「詩編」も翌日ノートする分は同じような格好で読んでいるし、ときには新約聖書まですっ飛ばして読みたいところを読んでいる場合もある。これこそ、キリスト者でないものの気儘な聖書の読み方よ。呵々。
 いままで読んだなかで思い出に残るのはドストエフスキー『死の家の記録』と今野緒雪『マリア様がみてる』シリーズ。後者は、女子高の先生をしている友人から貸されて読み出したのだが、波長の合うものを感じ、続きの巻を借りたり買ったりして、結局<お姉様>の卒業する巻まで読了した。が、もう4冊も続きが出ているんだよな。どうしよう?
 昨日、眠れぬ夜があって、と書いたが、昨年の夏だったか、やはり不眠に悩まされていた日、午前5時頃にゴミ出ししたあと開き直る気分で梶井基次郎の「Kの昇天」を読んだが、最後まで読んだ途端に目蓋が落ちたのはなかなか出来る体験ではない、とあとから苦笑しつつ思うた。爾来、新潮文庫の梶井基次郎集(『檸檬』)は枕頭に積み上げられたる書からは外せぬ一冊となっている。みな様も不眠のときは梶井作品をお薦めします、一緒に一時的昇天を経験しましょう。
 お後が宜しいようで。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0826日目 〈詩編第124篇:〈イスラエルよ、言え。〉&寝しなの音楽について考える。〉 [詩編]

 詩編第124篇です。

 詩124:1-8〈イスラエルよ、言え。〉
 題詞は「都に上る歌。ダビデの詩。」

 主の御業に畏怖し、神の守護に感謝する詩篇である。
 ━━もし神がわれらの味方でなかったら、われらはとうに滅びていたであろう。が、主はわれらの味方、ゆえにわれらは敵の手を逃れてこうして生き延びていられる。
 レトリックやリフレインを用いて、一種忘れがたい読後感をもたらす。短くてもじゅうぶんに楽しめる作品、というてよい。長ければ良い、というわけでもないのだ。

 「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」(詩124:8)



 東野圭吾『幻夜』(WOWOWのドラマ、観ている!?)の文庫を買おうとするたび、いつも他へ手を伸ばしてしまうさんさんかです。『幻夜』は織田作之助『青春の逆接』(旺文社文庫 ブックオフの105円コーナーにて発掘!)を読了したら買おうか、と考えているのでご安心を。んー、でもこれ、誰にいっているんでしょうね?
 今日のエッセイっぽいものの話題は「寝しなの音楽」です。告白すれば不肖さんさんか、未だi-podを持たざる身である。ベッドの宮台へポータブルCDプレーヤーを置いて、ぶるんぶるんと<音の出るパンケーキ>を回転させております。そろそろ2台ぐらい買っちゃおうか、と家電量販店へ行くたび思案に耽るのだが、それはともかく。
 眠られぬ夜がときどき訪れ、明け方まで目が冴えていることがある。そんなときは、イヤフォンをして静かなボリュームで音楽を聴く。20代前半はワーグナーを子守唄代わりにしており、昨夏以来はグレゴリオ聖歌とイージーリスニングが定着しているが、当然、どんな音楽、或いは演奏でもよい、というわけではない。やはり耳にやさしく、感情を昂ぶらせることなく、かつ眠りの訪れを遮らないのがいちばん大切な条件なので、例えグレゴリオ聖歌と雖も選択は慎重にしなければならない。
 あくまでいま時点での結論だが、グレゴリオ聖歌ならシロス修道院合唱団かスコラ・アンティクワの盤がいちばん馴染み、イージーリスニングでは『ジェットストリーム』のCD、もしくはフランク・チャックスフィールド・オーケストラのCDが最良の睡眠をわたくしに与えてくれるようだ。むぅ、と天を仰いで倩考えてみるに、これらはいずれも高校生のときからラジオとLPで親しんだ音楽であった。そんなあたりも作用しているんですかね。
 i-podを買ったら、盤選を秘かな楽しみとしている寝しなの音楽はどう変わるのだろう。2台、とさっきいうたのは、<寝しなの音楽>用に1台別に買う、ということなのだ。1台ですべて賄っていたら大変ですよ。シューベルトの弦楽五重奏曲のあとに椿屋四重奏団(解散残念!)とかあり得ないでしょう? 起きちゃうって、眠れなくなるって。好きだけどさ。
 ちなみにグレゴリオ聖歌のあとは、フィリップ・グラスかジョン・ケージを検討中。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0825日目 〈詩編第123篇:〈目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。〉&『フラッシュフォワード』最終回を観終えたあとで〉 [詩編]

 詩編第123篇です。

 詩123:1-4〈目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 短いながら切々たる訴えに充ちた詩だ、と思う。イスラエルの民は殆どいつも周囲の異民に悩まされてきた。“迫害”という言葉はなるべく使いたくないが、彼らを取り巻く無理解や嘲笑、敵意などに曝され、翻弄されてきたのは事実だ。
 本詩はエルサレムへ到着した巡礼者が自分たちの神に憐れみを求めるもので、奴隷を喩えにして「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます」(詩123:2)と祈るのだ。
 イスラエルが歩んできた歴史を、嗣業の民が経験してきた歴史を、背景に横たわらせた奥行きのある詩篇、といえるだろう。

 「わたしたちを憐れんでください。/主よ、わたしたちを憐れんでください。/わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。」(詩123:3)



 ビートルズのあとにビーチ・ボーイズやイーグルスの話題なんてあまりに出来過ぎだよな、と自粛しつつ、さて、ではなにを書こうかな、と思案に暮れていたさんさんかです。午前2時にいつも通り定期更新中ですが、みな様、いかがお過ごしでやんしょうか(ちょっと投げやり)。
 昨夏、鳴り物入りで日本独占初放送がスタートした『フラッシュフォワード』ですが、複雑な気持ちを抱えたまま、先日の最終回を迎えました。毎週観てきたせいで年末年始の一挙放送は見送ったクチですが、怒濤の如く進行するストーリーには毎回毎回、非常に興奮させられてきました━━ではなぜ、これまでこのドラマの話題が本ブログで出なかったか、というと、それはもちろん『LOST』完結の後遺症に悩まされてきたからです。
 『LOST』のショックを引きずって最初の間は今一つ『フラッシュフォワード』へのめり込めなかったが、それでも毎週木曜日の夜が待ち遠しかった━━この日が休みでよかった、と安堵したのも事実である;同僚たちよ、申し訳ない━━。ロバート・J・ソーヤーの原作(ハヤカワ文庫SF)も直前に読んでみて、テーマとストーリー展開に引きこまれて一気に読了した。ドラマは原作とは異なった展開をする、と仄聞していたので、そんな意味でもずいぶんと心待ちにしていたのです。もっとも、観るたびに嫌いになってゆくキャラクターもいて、こいつら死んじゃえ、とか胸中思ったのは否定しませんが(ゾーイとロイド←事態をごちゃごちゃにする才能に長けた2人)。
 ああ、なんだろうか、最終回を見届けたあとに残る、この、空しさにも似た虚脱感と欲求不満にも等しい憤りは? 良質のドラマだったことは事実ですが、残念ながら、『LOST』を継ぐドラマとしては求心力がなかった。<『LOST』を超える>という惹句が視聴者の前期待を煽りすぎたのだ。個人的にはそれ以上に矢沢永吉の歌が邪魔で仕方なかったな。再放送時、是非ここだけは省いてほしい。斯くも番組の雰囲気を破壊するエンディングが、過去の海外ドラマにあっただろうか。
 包み隠さずいえば、あのラストから繋がる新しい『フラッシュフォワード』を、なんとしてでも観たかった! 打ち切りの件を知らずに観ていたら、「シーズン2はいつ放送?」なんて期待してしまうところです。もうわれらは様々な海外(アメリカ)ドラマで超絶クリフハンガーには馴れてしまっているのだ、期待するなというのが無理な話であろう。
 最終回のラスト、ビルの爆発に巻きこまれたFBI捜査官マーク・ベンフォード(ジョゼフ・ファインズ)はどうなったのか? ようやく出逢えた━━再会できた、というべきか?━━ブライス(ザカリー・ナイトン)とケイコ(竹内結子)はその後どうなるのか? マークが見たフラッシュフォワードのなかで成長したチャーリーが投げかけた意味深な台詞は? 2回目のブラックアウトでマーク以外の人はなにを見たのか? 前回未来視(フラツシユフォワード)しなかったディミトリ・ノウ(ジョン・チョー)は2度目のブラックアウトでなにかを見るのか?
 答えの出ない疑問はたくさんある。それらはシーズン2で描かれなくてはならなかった。だのに、最初のシーズンで打ち切りとはあまりに残念すぎるし、非道すぎる。まったく、好きな女性にふられた気分だぜ。忌憚なくいえば『フラッシュフォワード』は『LOST』同様、シーズンを重ねてこそ真価を発揮するドラマであったはずである。今回放送されたシーズン1は序章に過ぎず、すべては始まったばかりなのだ。このままで終わっていい理由はどこにもない。そう、終わってはいけないのだ!
 というわけで、朗報を一つ。スターズ、というアメリカにある有料チャンネルの一つが『フラッシュフォワード』の権利を獲得できるようABCサイドへ積極的に働きかけている、というのだ。これを福音といわずしてなんといおう。なんとしても実現してほしいが、その願いが叶うかどうかはわからない。しかし、われらはこのドラマ、『フラッシュフォワード』の最後を、行く末を見届けたいのだ(配役は変えないでね)。否、見届ける義務がある。と同時に、未放送(?)の一話があるそうだが、それの放送をAXNにはお願いしたい。
 結局、『フラッシュフォワード』というドラマが後半に至って迷走したのはABC社内の内紛にあるらしい━━番組自体への不評とかいうのでなく(それも少しはあっただろうけれど)。それでも制作陣は能う限りで最高の仕事をしてくれたのだ、彼らに心からの感謝をささげよう。サンキー・サイ。
 今度再放送されたら、ちゃんと全話録画しておこう、っと。
 話変わって、同じAXNにて放送中の『アメージング・レース』。黒人プロ・バスケット・ボウラーのコンビを特にプッシュしているのですが、一方で、さんさんかはポーカー女子も気になっております。特にマリアの方ね、いや、誰かを思い出させてさ……。……こほん。
 WOWOWにて放送された『CSIトリロジー』についての憤懣は後日に。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0824日目 〈詩編第122篇:〈主の家に行こう、と人が言ったとき〉&“IT HIT ME LIKE A HAMMER”━━ビートルズ『赤盤』と『青盤』を聴いての率直な感想(本日現在)。〉 [詩編]

 詩編第122篇です。

 詩122:1-9〈主の家に行こう、と人が言ったとき〉
 題詞は「都に上る歌。ダビデの詩。」

 作者は余程、聖地へ詣でることを願っていたのだろうか。「うれしかった」(詩122:1)という簡素な表現にどれだけの感情がこめられているか、創造するに余りあるぐらいだ。
 巡礼者の一団はようやっと目的地、エルサレムへ到着した。これはそのときの感激を露わにした詩編である。そして、エルサレム━━神なる主の坐す神殿とダビデの家の王座を擁す〈神の都〉エルサレムそれ自体を讃える歌である。
 ダビデ詩篇というが、その視座に囚われた読みは、却ってこの詩の生命力を奪うことになるのではないか、と思う。

 「エルサレム、都として建てられた町。/そこに、すべては結びあい/そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。/主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。」(詩122:3-4)



 ビートルズの『赤盤』をいきなりDISC2から始めてしまい、唐突に「HELP!」が流れてきて椅子から転げ落ちた覚えのあるさんさんかです。<ザ・ビートルズ>にはいろいろ因縁があった。けれど、綺麗さっぱり水に流して虚心に向き合うと、嫌いな彼奴(あいつ)の顔も消え失せて、やっぱり名曲揃いだなぁ、としみじみ感じます。「しみじみ感じる」というのも妙な表現でファンから缶詰を投げられそうだが、おいら的にはそう思うたのだ。ご容赦を。
 お間違えないように頂きたいのだが、昔からビートルズが嫌いだったわけでは、断じてない。ソフトとしてはCDで『1』を、LPで『リボルバー』を持っているだけだが、アナログ・プレーヤー故障中なので聴くのは専らCDになるけれど、正直なところ、ビートルズは『1』一枚で事足りてきた。これ以外のCDなんて必要なかった。借りることはあっても買うなんてことはあり得なかった。が、今回借りた『赤盤』と『青盤』に繰り返し耳を傾けていると、或る時点から<見直し>と<転換>を迫られるようになる。「こりゃ早速CD屋さんに行かなくっちゃ!」と。気分は「IT HIT ME LIKE A HAMMER」なのである。
 ビートルズの歌はすべて名曲だ、という言葉にも、いまなら7:3の割合で首肯しよう。なかでも特に、思わず聴き直したくなるのは、『赤盤』では「アンド・アイ・ラヴ・ハー」と「イエスタデイ」、「恋を抱きしめよう」と「ノルウェイの森」、『青盤』では「ヘイ・ジュード」と「愛こそすべて」、「レット・イット・ビー」と「アクロス・ザ・ユニバース」というあたり(律儀に1枚から2曲ずつ選んでみました。しかし、なんのひねりもないのがまた爽快ですね)。すべての曲を挙げたいのが本音だけれど、まぁ、これもきっとビートルズの、『赤盤』と『青盤』の凄さを立証するささやかなエピソードでしかないのでしょう。おいらも普通にビートルズを聴くようになったか……(溜め息&遠い目)。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0823日目 〈詩編第121篇:〈目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。〉&いつまでも、心に残る映画がありますか?〉 [詩編]

 詩編第121篇です。

 詩121:1-8〈目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 主は自分の民の誰彼にであっても、その陰に共に在り、いつでも「あなた」を見守ってくれている。━━そんな風に神の庇護を謳うのは、それだけ巡礼の旅路が艱難辛苦に満ちていたせいかもしれない。
 第一節「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」は、巡礼者/団の前途に横たわる困難を暗に語るか、それとも、エルサレムを頂く丘陵を眼前にして彼(ら)の胸中に飛来した様々な思いが塗りこめられているのか。おそらくは両方だろう。が、殊更にエルサレム巡礼の型枠にはめこまずともよい。いまの世にあっても、信徒個人個人の人生の局面で歌われ、唱えられても一向構わぬはずだから。むしろ、その方が今日的である。
 ……と、ここで話は横道にそれるのだが、確かこの第一節は太宰治がなにかの小説でエピグラフに引いていたように思う。いま新潮文庫全冊を鋭意調査中だが、見出すことが幸いにして出来たなら再(ま)たここで改めてご報告しよう。
 それはさておき。
 読んでいて詩121は、非常に心根のすなおな詩編である、と感じた。こんな凛とした小さな作物へふとした拍子に触れることが出来るのも、読書の大きな、そうしてささやかな喜び、といえるだろう。

 「どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。/見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(詩121:3-4)

 「主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を救ってくださるように。/あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。/今も、そしてとこしえに。」(詩121:7-8)



 心のなかにいつまでも残り続ける、特別な位置を占める映画がありますか? そんな作品を持つ人は、とてもしあわせです。さんさんかの場合、10代の頃から観ていまに至るもなおフェイヴァリット、といえる映画は、それ程多くありませんが数作あります。
 タイトルなんて恥ずかしくて申せませんが、ちょっとだけいえば、ロビン・ウィリアムス主演の『いまを生きる』とヘンリー・フォンダ主演の『黄昏』。覚えている人、知っている人、いるのかな?
 この2作を初めて観たとき、これ程泣かせる映画があったのか、と思いましたね。いずれもほろ苦くて、地味な作品だけれど、まだ感受性がいま程鈍っていなかった時分にこうした名作に触れられたことは、一生の財産になりました。いつまでも心のなかにあり続け、陰のように添い遂げてくれる、大切な映画。こんな作品があるのは、われながら本当にしあわせだ、と思います。
 たぶん、いまのぼくが睡眠時間を削ってまでも未だに映画館(シネコンか、いまは)に通ったり、レンタル店で映画のDVD(稀にVHSだったり)を借りてくるのは、いつの日か心の底から感動させられ、紅涙を絞らされ、いつまでも記憶に残らされるような、強烈なパンチを持った映画と出会えることを期待しているからだと思います。
 そういえば、最近DVDで観た映画でジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『静かなる男』は雰囲気があってなかなか良かったですよ。といっても、西部劇ではありませんがね。その内、このブログで感想を書きます(あれ、最近このパターン多い? 逃げを打っているわけではないのだが……)。
 チャオ!◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。